2019年10月31日木曜日

薩摩国正税帳、第71回正倉院展

正倉院古文書正集、第43巻が展示されていました。その中に遣唐使に供給した食料が計上されています。遣唐使の南島路があったのではないかということです。自分でもブログ記事にかいていたのを思い出しました。かなり忘れてますが、気が向いたらまとめようと思います。

薩摩国正税帳とは


遣唐使の南島路については

琉球と日本本土の遷移地域としてのトカラ列島の歴史的位置づけをめぐる総合的研究( 15.資料編 )
↑多分つながりません。検索した時はどういうわけか見れました。
山里純一氏の話でトカラ列島に関しての部分である。242ページ(PDFでは6ページ)
天平4年に任命された遣唐使は、帰る時に恐らく4船で蘇州を出発したと思われますが、
途中悪い風、ヤナカジが吹いて4船ばらばらになってしまうわけですね。第一船と第二船に関しては史料がありまして、『続日本紀」の記事によれば第一船に乗った遣唐使たちが多補島について、そして都に帰ってきています。それから第二船も蘇州を出発して間もなく漂流しますけれども、南海に入って中国に戻った後に、日本に帰るために再度出発しまして、随分遅れますけども無事天平8年に帰ってきたという記事があります。この第二船に関しては、「続日本紀」ではどういうルートで帰ってきたかということは出てまいりません。しかし正倉院文書として残っている天平8年度の薩摩国正税帳の支出項目に遣唐使第二船に対して食糧を支給したことが出てまいりますので、天平8年度には少なくともこの遣唐使船の乗組員が、薩摩国を通過したことがわかります。薩摩国を通過したということは、そのあたり史料はありませんけども、おそらく直接薩摩の国に漂着したのではなくて、第一船同様多禰島、あるいはそれ以南のどこかの島に着き、南島を経由して薩摩国に上陸したのだろうというふうに考えられます。

というようなことが書かれていました。

2019年10月24日木曜日

琵琶湖のネットワーク

以前に滋賀県に川のつく名字が多いような気がすると思っていました。

名字:中川、西川、北川
https://yasudakasetu.blogspot.com/2013/09/blog-post_9.html

湖上のネットワークだけでなく、琵琶湖にそそぐ河川を含めて
近江全体がネットワークになっていたような気がしてきました。

稲部遺跡で大型建造物発見
https://yasudakasetu.blogspot.com/2016/10/blog-post_20.html

琵琶湖周辺に港があり、各地の河川で内陸側まで船でつながっていた話です。

2019年9月2日月曜日

川原寺から思うこと

 川原寺については、川原寺跡が詳しい。
その中で、川原寺の謎が三点あげられています。それについての個人的な妄想です。
(1)何故か、創建について正史「日本書紀」には記述されなかった川原寺
 ・川原寺は創建目的や発願者は誰であるのかなど、日本書紀には記述が無く、全く知ることができない。つまり日本書紀では記述が避けられているということである。日本書紀では天武天皇を排除する方向で編纂されてきたので、川原寺が天武天皇に関わりが強くあったため抹殺されたことが考えられる。
(2)何故か、平城京に移設されなかった川原寺
 ・天武天皇に近かったことが、平城京に移設されなかったことにつながったのではないか。(上記の川原寺の位置だが、板葺宮の真横にある。)
(3)創建時の中金堂は、天井・壁面の全面を塑像の三尊塼仏によって飾られた異色の金堂だった?
 ・塑像の三尊塼仏がこの時代だけで、後の時代には消えてしまった。天武天皇の排斥と関係があるとすれば辻褄は合ってくる。
 私は、「謎の大寺 飛鳥川原寺」(網干善教/NHK取材班)をパラパラと見ましたが、他には本とか無さそうです。この中では、後の方でインドに話が飛ぶが、そこまではついて行けてない。

2019年8月28日水曜日

八咫烏《やたがらす》と金鵄《きんし》

 古事記には八咫烏が神武天皇を先導して吉野川の下流から宇陀にやってくることになる。
日本書紀では、さらに最終的に長髄彦《ながすねひこ》を討つ場面でなかなか勝つことができなかった。その時に金の鵄《とび》がやってきて天皇の弓の先にとまり、光を放ち、長髄彦の軍は戦えなくなった。ということである。
 古事記では飛鳥(鳥葬)のイメージでカラスを持ってきたが、日本書紀ではさらに金鵄が付け加えられ、イメージアップを図ったのではと思えてくる。日本書紀は古事記のバージョンアップ版であるということであろう。
追記:この話の後に、邇芸速日命《にぎはやひのみこと》が出てくる。理解できにくい部分だが、雰囲気としては、長髄彦と神武天皇とが神器の天の羽羽矢《はばや》・歩靫《かちゆき》の見せあいをして、正統性を争っているところで、結局どちらも正統である話になっている。天智天皇派と天武天皇の争った壬申の乱の話かとも想像される。しかしそうでもないようであり、良くわからない。神武天皇の正統性を若干おとしめていると思われるが、神武天皇=天武天皇であれば、持統天皇の正統性を強調するために、このような文脈になっていても理解できる。

2019年8月26日月曜日

春日大社の勧請

 古社記という春日大社の由緒を記したものがあり、内容は
常陸国から三笠山(みかさやま)に来られる時に、神様は鹿に乗り、柿の枝をムチにして出発した。神護景雲元年(767年)6月21日に伊賀国名張郡夏身郷(なつみのさと)についた。この後はあちこち移動し、神護景雲二年に到達されるようです。
 ここで夏身郷ですが、夏見廃寺のところではと思います。この話での勧請想定ルートは、常陸国から海上ルートで伊勢へ、そこから夏見廃寺、山田寺(個人の勝手な想像)を経て三笠山ではないかと考えられます。常陸国風土記には確か孝徳天皇の御代の話があったので、つながってきます。
夏見廃寺
常陸国

2019年8月25日日曜日

せん仏(塼仏)と和歌山県の古代寺院

 和歌山県の古代寺院で、塼仏(土を型取り整形し焼成して作った仏像)が出土したところがあるようです。最上廃寺跡(もがみはいじあと)で、紀の川南岸に展開された飛鳥時代の寺院跡。和歌山県下の古代寺院のなかで、西国分廃寺・北山廃寺とともに紀伊国で最も古い寺院に位置づけられる。・・・出土品としてはほかに飛鳥山田寺と同笵とみられる六尊連立塼仏(型に粘土をはめて作った素焼きの仏像)がある。出土遺物から7世紀後半から8世紀初頭に建立された寺と考えられる。
とWikipediaにあります。
 その山田寺(やまだでら)ですが、同じくWikipediaで
金堂跡と塔跡の周辺からはが多数出土しており、これらは堂塔の壁面を装飾していたものと思われる。
とあります。
 夏見廃寺では障屛のように塼仏が貼り付けられたまま倒れているのが発見され山田寺との関連について(昭和五六年の山田寺展図録)書かれています
 また、奈良県御所市の二光寺廃寺の大型多尊塼仏が、同じ型で製造された名張市の夏見廃寺の出土品との比較検討でほぼ全形が判明。右下には「甲午年五月中」(694年)と銘があり、夏見廃寺と山田寺との関係など、この時代だけのものかもしれない塼仏を見ていけば、紀国から伊勢までつながるルートがあったことが考えられます。
 
 とはいうものの、昭和五六年の山田寺展図録には、日本の塼仏は、中国の塼仏の影響により生まれ、ほぼ天智朝頃から流行し、白鳳時代に最も盛んに作られた。現在、奈良県を中心とする地域だけでなく、北は宮城県から西は大分県まで五十数カ所の寺院跡から塼仏が出土している。一つの笵型から短い時間で多数の塼仏が得られるという利点から、急激に普及していったものと思われる。日本の塼仏の出現は、川原寺と橘寺出土の方形三尊塼仏や火頭形塼仏である。・・・初唐様式の影響を受けたものと考えられる。というようなことが書かれています。
 紀国から伊勢のルートはどうかなという感じにはなりますが、発見具合も違うかもしれないので、もう少し考えたいと思います。多分忘れてしまうのでメモ書きにします。

2019年8月18日日曜日

紀氏

 手っ取り早く紀国のことを知りたいと思い、
姓氏家系歴史伝説大事典、志村有弘編、勉誠出版を見ました。
 紀(き)の項を見ると
【発祥・系譜・分布】主に紀伊・出雲・大和に分布。また記・城・木などに通じ、のちに城井・基肆・紀伊とも書き、さらにノの字もつけて紀野ともなった。紀伊の紀は天道根命の子孫で、紀国造。紀伊国名草郡(和歌山県)が発祥の地。以下略。
【歴史・伝説・人物】紀氏は昔からの大姓にて、その分派の多いこと源平藤に継ぎ、橘と拮抗する。紀伊の紀は、紀ノ川下流には、代々日前国懸神宮の神官を世襲した紀国造がおり、『国造本紀』によると、高皇産霊尊の五世孫の天道根命が神武天皇から国造に任命されたのが始まりという。以下略
 この内容から思うことは、ヤマトとイズモが結びつくためには離れすぎていますが、紀国が接着剤的な役割を果たしたことで説明がつくということです。倭国(キビ・アワ)に対抗してイズモとヤマトが連携するためには倭国の支配する瀬戸内海を通ることが困難であるということです。紀国が木材の産地で大型船の建造に適していたことから、四国の南端を通り、迂回するルートでイズモに向かったと考えられます。紀氏の分布が紀伊・出雲・大和に分布していること。ヤマト勢力の中で国造など初期段階から紀国が取り込まれていたことなど納得できるものです。和歌山県の保田(安田から変化)、高知県の安田を通り、素戔嗚尊の通ったルートでヤマトとイズモが連携したことが考えられます。これらの話はすべて七世紀のことでつじつまが合ってきます。ヤマトの初期段階(天武天皇というか大海人皇子の時代)では、各地域に街道の整備するなどはまだまだで、海上ルートが重要であり、紀氏の貢献が大きかったということです。

2019年8月17日土曜日

雄略天皇と葛城の一言主

 古事記と日本書紀の両方に記述されています。雄略天皇紀の内容では別物のような気もしますが、葛城の一言主についてはどちらにもあります。
 日本書紀では葛城山で葛城の一言主神と出会い、一緒に狩りを楽しみ、終りには天皇を見送ったということです。
 古事記では雄略天皇が葛城山で、天皇の行列にそっくりの集団を見た。天皇は怒って矢をつがえると相手も同じく矢をつがえ、一触即発の状態になった。天皇は、「名を名乗れ」というと、相手は「悪いことでも良いことでも一言で言い放つ神、葛城之一言主之大神である」と言った。天皇は神であることは知らなかったと言い、刀や弓矢、来ていた衣服を拝礼して献上した。神は喜んで、天皇が帰るときには見送りしたとなっていて、古事記の方が詳しいです。
 何を意味した話だろうかということですが、ヤマトと出雲の連合政権が天武天皇の時に成立したものの、後の文武天皇の時代には、葛城地方を地盤とする役小角が伊豆に配流されており(続日本紀の文武天皇三年)、大宝律令の施行を巡って、対立があったことを示しているのではと思います。雄略天皇(文武天皇)と役小角(葛城の一言主)の状況がイメージ化されています。この二ヶ月くらいの間にどうも頭が飛んでいて、説得力がないですが。
参考:スサノオは天武天皇か?
   (現在は、そう考えています。)

古事記は新編日本古典文学全集1、小学館より、
日本書紀は講談社学術文庫、日本書紀(上)前代誤訳

2019年8月14日水曜日

飛鳥の地名のイメージ

 弘安四年(一二八二)三月二日、執権北条時宗から鎌倉入りをはばまれた一遍は、片瀬の館の御堂に参着した。その時の画面離れた所に、非人・乞食の小屋が建ち並んでいる。掘立小屋の一つには倒れた人の上を烏が鳴き騒いでいて、その横に烏を追い払おうとしている人たちが描写されている。この時代の人のイメージであろうと思うが、これが飛鳥の地名につながるのではと感じました。烏は人を狙っているのではなく、乾し飯のようなものを食べようとしているようで、違うとは思います。
参考にネットからの図を示します。


モノクロで見にくいとは思います。
実際には、次の本を見ました。
日本絵巻大成別巻
一遍上人絵伝、一六三頁
小松茂美編、中央公論社

一遍上人と聖徳太子

 一遍聖絵によれば、一遍上人は延応元年(一二三九)に伊予の河野通広の子としてまれた。踊り念仏が有名で、絵巻でも良く描かれている。京都四条京極釈迦堂の踊屋や市屋道場の図では中央に舞台状の建物があり、周りに桟敷があって、何かしらロックとかのライブコンサートのような雰囲気である。また別の図では一遍上人がお札を配っている風景が良く出てくる。
 一遍上人の移動のルートは、厳島神社から伊予に渡ったりしているのでかなり自在に動いていたようであるが、文永八年の善光寺と文永一一年の四天王寺が大きく取りあげられているという。また弘安九年にも四天王寺を訪れ、聖徳太子の追慕の旅に出るとのことである。参考本*には、ハーバード大学にある聖徳太子二歳像の話がある。像内納入品より、正応五年〔一二九二〕頃に製作されたと見られ、叡尊(「西大寺古長老」)関連の物があるなかで、最古級の一遍の念仏札があるとのこと。すでに聖徳太子の伝説が確立していたか、この鎌倉時代にさらに強化されたということのように思われる。聖徳太子信仰の広まりと鎌倉仏教のつながりがあったということかもしれない。
 *一遍聖絵の全貌、監修:遊行寺宝物館、五味文彦編、高志書院発行

2019年8月8日木曜日

古文書読解ツール

手書きで書かれた古文書で、くずし字を読み取るツールが開発されたそうです。
メモ書きです。

AIで日本史研究者やマニアが狂喜乱舞する「くずし字」の翻訳ツールが開発
https://pc.watch.impress.co.jp/docs/news/1195499.html

一か月ほど前の話になってしまいました。

2019年7月12日金曜日

天の岩屋と持統天皇

 日本書紀神代に、天照大神が素戔嗚尊の乱暴に対して、お怒りになり、天の岩屋に入られて、磐戸《いわと》を閉じてこもってしまわれた。それで国中常闇《とこやみ》になって、夜昼の区別もわからなくなってしまった。・・・
一書には天の高市(小高い人の集まる場所)に集まって相談した。・・・
<全現代語訳、日本書紀、宇治谷孟、講談社学術文庫より>とあります。
 天照大神は持統天皇であることから妄想されることは、実際に持統天皇も天の岩屋に入られて、国中が困ったということ(困るのは一部の人かもしれない)があったのではないかということです。
日本書紀巻三十の持統天皇を見ても、もちろん岩屋に入られたことは書いてありません。しかし、異常に吉野行幸が多いように感じます。天の岩屋から吉野行幸を引きこもりのイメージに連想しました。多分実務的なことは高市皇子たちが行っているので吉野行幸も問題ないということだったと思います。何回も天の岩屋に入られていないので違いますが、書記神話の発想としてはありえます。

2019年5月23日木曜日

聖徳太子とサンタクロース

 最近、修験道に興味を持っていて、中世の時代に山伏が全国を移動していたことも重要なのではという気がしています。謡曲入門、伊藤正義著、講談社学術文庫の最初の方の「安宅」からです。
 源義経が奥州に山伏に姿を変え逃れるとき、安宅の関で、弁慶が東大寺復興の勧進の山伏であると偽り、経巻を広げ、勧進の趣旨を即座に読み上げ、通過を許される。しかし義経が見とがめられたため、弁慶は金剛杖で打ちすえ、無事に通過を許される。
という話で、歌舞伎では「勧進帳」に仕立てられています。その勧進帳の一節に、東大寺建立のいわれで、聖武天皇は最愛の夫人をなくし、その悲しみが元で盧舎那仏を建立すると述べられます。この最愛の夫人は光明皇后で、天皇崩御の後も生存されていることで、歴史的事実と相反する。これはどういうことかということで、中世的な理解であろうということが書いてあります。東大寺大仏之縁起の中には聖武天皇を聖徳太子の生まれ変わりとする説もあるとのことです。「聖」の文字つながりで関連するかもと考えられるとは思いますが、聖武天皇のころから聖徳太子の神格化があったかもしれません。こんなことがありうるのか、ちょっと信じられないことですが、中世的な理解の上に現在の聖徳太子もあるということです。今の時代で言えばサンタクロースのような人かと思うようになりました。サンタクロースはいないのだとムキになって言う人はどうかと思われます。クリスマスのプレゼントと言ってる中で、サンタクロースは居ないんだよと冷めた発言はしにくいです。聖徳太子も、日本書紀が出来たときからサンタクロースのような皆が共通認識を持つような人だったかもしれません。法隆寺も古い形式の建物ですが、実際は案外新しく、古い様式を模したものであったかもしれません。その時からの伝説であり、倭国から日本へ変るときに象徴的な人物が必要とされたのかもしれませんが、まだ納得のいくものではありません。

2019年5月18日土曜日

スサノオは天武天皇か?

 日本書紀が天武天皇の意向のもとに編纂されたということになっています。このブログでは、持統天皇が天照大神だったということを言ってます。天武天皇はどうなっているのだということをあまり考えていませんでした。うっすらとはスサノオがそうではなかろうかと思ってましたが、だんだん確信してくるようになってきました。
 天智天皇と天武天皇の対立があり、天武天皇の系列の天皇は排除されていったということです。実際は天武天皇と持統天皇の間の争いであったと思われます。スサノオを貶めているようなところもあり、神話ではアマテラスにより、スサノオは出雲に追いやられます。これはヤマトの勢力が出雲を侵略していったことに対応していると思いました。以前の記事で

スサノオが出雲に降ったところ

がありますが、図の①にスサノオが降り立ったということです。つまりこの時は安田の地名が残っている地域(広島県)から出雲へ進出していったので、時期としては7世紀後半、ヤマトの勢力(天武天皇)が進出した事実が神話化されたといえます。

2019年5月14日火曜日

縄文人の起源のニュース

縄文人の起源、2~4万年前か 国立科学博物館がゲノム解析

が日経新聞に出ていました。ほかの新聞でも載っていると思います。
礼文島で発見された縄文人女性のDNAを解析の話です。
現代の日本人で縄文人のゲノムを受けついでいる比率がちがうとのことです。
本州の人で約10パーセント、北海道のアイヌの人約7割、沖縄県の人約3割
ということが書いてあります。
古い時代ではなく、7世紀の日本の状況が反映しているのではと思いました。

2019年5月11日土曜日

後七日御修法

4月28日、9:00-9:45,日曜美術館で「京都の大宇宙 東寺」で放送されていました。京都・五重塔で有名な東寺。1200年続く神秘の祈り!日本で生きる全ての人と関わる“秘儀”を8Kで初めて撮影。さらに空海×生命科学で見えてくる壮大な仏の宇宙とは?との宣伝文句です。
 放送を見て、後七日御修法は、天皇の身体安穏と国家の安泰・繁栄を祈って行われる重要な儀式に納得します。仏教の儀式というより、神仏習合の時代の儀式に思えます。荘厳な儀式が今も行われていることに驚きます。NHKでは1200年続いたと言っていて、連続したかのように感じてしまいましたが、途中に中断があり、また最初は宮中において行われていたものが、東寺に移されたということのようです。東寺への移行が明治維新後ということは、神仏分離で宮中では問題となり、廃絶させるのはどうかということで存続したと思います。明治の廃仏毀釈運動があった中でよく残されたなと思いました。
 少なくとも空海の時代以降、神仏習合の時代であり、この時代が明治維新まで続くことを理解していませんでした。おそらく今まで、明治維新後の皇国史観にとらわれた偏見で、江戸時代以前を見ていたと思います。なかなか皇国史観から抜けられないでしょうが、意識したいものです。

ネットで調べると
「後七日御修法(ごしちにちみほ)」とありましたが、
・平凡社/世界大百科事典 第2版の解説
  ごしちにちみしゅほう【後七日御修法】
・日本大百科全書(ニッポニカ)
  後七日御修法、ごしちにちのみしほ
で読みが少し違います。
 また、最初の年も少し違うようです。
・世界大百科では、
834年(承和1)空海が勅命により大内裏中務省において始行し,同年空海が上奏,唐の例にならって宮中に真言院が造立された。翌年から恒例として宮中御斎会と並んで行われるようになり,東寺一の長者が導師を勤めた。
・日本大百科では
835年(承和2)空海の奏請(そうせい)で中国唐の風習に模して設けられた。金胎(こんたい)(金剛界(こんごうかい)、胎蔵界(たいぞうかい))両部の法を隔年交互に勤修(ごんしゅう)した。室町末期に一度中止されたが、江戸初期に復興した。明治維新後は東寺(教王護国寺)に移行され、現在も真言宗十八本山が集まって東寺灌頂院(かんじょういん)で営まれる。
とあります。

 

2019年5月7日火曜日

服部の名前の地域分布

 地名として残っているところが前の記事でした。
   服部の名前

 昔に調べていたのを思い出しました。県別の分布が以下のものです。
話が少し違っています。考えられることは、
服部の元は岡山県にあって、奈良時代に東方向に人が移動したと
妄想できます。断定はできませんが。

2019年4月30日火曜日

服部の名前

 服部半蔵の名前から思い出しました。伊賀流忍者の頭領です。忍者ハットリ君とかで、なぜ忍者に服部の名前か疑問に思っていました。ウィキペディアで服部を見ると、元は機織部 - はたおりべで、部という文字は残っているが発音のべが無くなり、「はたおりべ→はっとり」ということです。どうして機織りと忍者が結びつくのかということでしたが、聖武天皇のころ伊賀の近くの甲賀に紫香楽宮を考えたので、その時に機織部が関係していたかもしれないということで、全然無関係ではないように思われてきました。甲賀の地域が山岳地帯で修験道とか盛んなところで、行者が忍者になったとの妄想です。あまりに大雑把で、どうだかなという話です。
しかし、服部の地名の場所を見ると、岡山県や広島県が多く、これは吉備の国の地域に重なり、七世紀の影響が出ているように感じました。もちろん、この地域外のところも何か関係がありそうです。
地方公共団体
・服部村 (岡山県)(はっとりそん) - 岡山県吉備郡。現在の岡山県総社市服部地区
・服部村 (広島県)(はっとりそん) - 広島県芦品郡。現在の広島県福山市駅家町服部地区。

2019年4月27日土曜日

四天王寺に7世紀の亀形石

日経新聞に出ていました。

四天王寺に7世紀の亀形石 奈良・酒船石遺跡と同構造

竜山石とのことです。この石は天智天皇との関係があると思っていましたが、
孝徳天皇との関係が述べられています。天智天皇と孝徳天皇は対立したはずなので、時代的には厳密に考えていかないといけないようには思います。
メモ書きです。
参考:竜山石

2019年4月5日金曜日

舒明天皇のいきさつ

日本書紀、巻第二十三 息長足日広額天皇《おきながたらしひひろぬかのすめらみこと》 舒明天皇
(日本書紀➂、新編日本古典文学全集4,小学館)を見ました(今まで見てませんでした)。
 後継が決まらぬままに推古天皇が崩御し、、そのあとに舒明天皇に決定したいきさつについて書紀は記しています。この部分は以上に詳細な記述で、おそらく書紀は重要と考えているのだと思います。田村皇子(舒明天皇)と山背大兄王と対立があり、群臣の協議により決定したようです。ここで推古天皇を持統天皇と考えると、孫の代の天皇の皇位継承について話が展開しています。つまり、持統天皇から文武天皇に皇位継承されることを正統化している内容のように思えてきます。天皇が一代飛ばしになったのは、推古天皇と持統天皇の時だけのように思いました。この舒明天皇の即位の部分は、後の持統天皇から文武天皇への引き継がれることの伏線になっているように改めて感じました。当時の人たちにとって、一代飛ばしの皇位継承は不自然に思われ、その弁解のために異常と思えるほどに詳しく記したこの部分があるのではという気がします。持統天皇と文武天皇の関係をそのまま推古天皇と舒明天皇の関係に持ってきてはいないようですが、潤色が強い部分と思われます。
 上記の本に舒明天皇の系図があったので、まねして作ってみました。
継体天皇からの系図.png

2019年4月2日火曜日

大嘗祭(ダイジョウサイ、オオニエノマツリ)の悠紀国・主基国

事典 古代の祭祀と年中行事、岡田荘司編、吉川弘文館発行からの説明をほぼ引用しています。
 天皇代替わりの即位儀に続いて斎行された天皇一代一度の祭儀。斎田の稲穂の確保のために、即位時期により七月以前はその年の十一月、八月以降は翌年の十一月になるという。祭儀は大嘗宮の正殿(悠紀殿《ゆきでん》・主基殿《すきでん》)において、皇祖天照大神に新穀の神前を捧げ、神と天皇が共食し、国家の安寧を祈念する国家最高の「饗《あえ》の事」と言える。
とあります。この本では大嘗祭の成立について、天武二年説と持統五年説があり、
天武二年には「大嘗」の文字が見え、国郡卜定が播磨と丹波にあったと推定されるようです。天武五年に、悠紀・主基の国郡卜定(これは新嘗のため)が初見されるようです。この卜定は、祭儀に備える新穀を用意する国郡を決めることのようで、毎年の新嘗祭は畿内ですが、大嘗祭は畿内ではなく、この悠紀国・主基国は東西に広がるようです。
これから、その時代の勢力範囲を想像できるかもしれません(もちろん違うかもしれません)。
 持統天皇では悠紀国・主基国は播磨と因幡、文武天皇は尾張と美濃ということです。これで見ると持統天皇の時には因幡も勢力範囲に入っていたことがうかがえます。
 年表を見ると、持統四年(690)には、持統天皇の即位があり、庚寅年籍、高市皇子の藤原京の地の視察など行なわれていて持統体制が固まりつつある時に気がつきました。朱鳥元年(686)一月に難波宮火災、九月に天武天皇崩御とあります。持統天皇の即位後の様子が不明ですが、キビ・ヤマトの勢力の争いの決着が難波宮火災でついたと考えることが出来ます。まだまだ半信半疑ですが。

2019年3月29日金曜日

16世紀のポルトガルの日本地図

 放送大学付属図書館、デジタル貴重資料室に
西洋古版日本地図があります。その中に
No.13 日本の最初の近代的な地図 1595年 日本島図 ルトビゴ・テイセラ作

がありました。
 日本の地名が表示されていますが、パッと見てわからないところとかあります。
ポルトガルの人のヒアリングなので違って当然ですが、それでも今の日本語とはかなり異なっているようには思えます。F音は現在のH音ですが、Hが初めに来るものは今は無くなっています。興味があるところですが、それはおいといて、目立つのに、日本の地図は詳しくあらわされているのに対し、朝鮮半島はかなり位置がいい加減です。ポルトガル船が、北九州周りではなく、南海路をメインとしていたように感じます。全然北九州経由がなかったと思えます。実際に日本に来た人間と地図を作る人間での意思疎通が悪かったとしてもここまではないような気がします。
 地図を見たのは歴史街道4月号です。どこにあるか探したら上記のところにありました。ネットのおかげでいろいろなところに資料があり見ることができ、ありがたいことです。

2019年3月28日木曜日

古代祭祀

 今年は新天皇が即位されるとのことなのか、「古代の祭祀と年中行事」という本が出版され図書館にあり、借りてきました。岡田荘司編、吉川弘文館発行です。口絵の写真では天皇陛下が神事の装束を召され、神殿に向かわれる写真などがあり、律令の時代より受け継がれていることに驚きを感じます。
この本の見ているのは、最初の総論で、古墳時代の話を飛ばして、律令国家と祭祀制度のところです。
七世紀、「倭国」から「日本」になる中で連動して、これまでの祭祀が再編成されたとのことです。
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 その一つが神郡(郡)の設置で、神宮の度会・多気郡(伊勢国)、鹿島(香島)神宮の香島郡(常陸国)は、七世紀中頃の孝徳朝に設置され、同時に神宮では祭祀組織を統轄する大宮司が置かれている。その他、安房郡(安房国)、名草郡(紀伊国)、意宇郡(出雲国)、宗像郡(筑前国)も、七世紀後半から八世紀初頭までには、国家的に重要な神々の祭祀を支えるため神郡として設置された。
 神宮の中枢「大宮院」が発掘された孝徳天皇の前期難波宮の中枢部の建築配置と共通することから、宮殿に合わせて神宮が整備されたことが考えられ、この直後、六五〇年代から六六〇年代には、出雲(杵築大社)と香島(鹿島)の祭祀の場は神宮として整備されている。
 また延喜式の祝詞で「前白」とあるのが、「前白」木棺での上申文書の形式と一致しており、祭祀と行政的儀礼(宮廷儀礼)と対応関係がうかがえる。
 七世紀後半、祭祀の場と祭祀は、律令制度に対応した宮殿と儀礼の形に合わせて整備され「神宮・神社」が成立、神郡が設置された。この後、七世紀後半に始まる記紀編集では、神郡に祀る神々は記紀神話の中心的な神格として位置づけられた。そして、列島内各地の主要な祭祀の場も、律令制度に裏付けられた「神社」となっていったと考えられる。
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東アジアの情勢が緊迫し、唐が成立した後、百済や高句麗を滅ぼし、新羅を影響下においたとしても、それだけで、日本の中の各地に存在した地域王国のようなものが簡単にはまとまるとは思われません。やはり、何らかの祭祀儀礼により、ヤマトの勢力が統一していったということだと思います。天武天皇がそのような祭祀儀礼に長けていたことから日本が統一されていったのかもしれません。

2019年3月23日土曜日

神武東征について(H31.03.22時点)

 第一代の天皇・神武天皇ですが、この名前は淡海三船がつけたものとされています。本当はカムヤマトイワレヒコ。神武天皇は日向(宮崎県)を出発してから大和を平定するまでの東征物語があり、何らかの史実を示していると思っていました。しかし案外そうでもないかも知れないという気がしてきました。各地域の王国が統一されていく中にあって、その由緒を記述することが目的であって、実際に移動したことは話として成立させるための背景に過ぎないということです。神武東征の移動して行く地域がヤマトの勢力によって統合されていくことを示しているように思われます。この話の時には対立していたキビも含まれています。従って七世紀後半の話になってきます。神武天皇は、畝傍のかしはら宮にて天下を治めた。ということ(*参考)ですが、これは藤原京をイメージしていると思われます。つまり神武天皇には天武天皇のイメージで記されています。そして対立した長髄《ながすね》彦が天智天皇のように思われます。また三炊屋媛《みかしきやひめ》が出てきますが、かしきやひめに似た名前です。どうして出てくるのかと言うことですが、この方は推古天皇です。私は推古天皇は持統天皇と思っているので、神武天皇の大和平定の話は壬申の乱をイメージして作られたものという気がしてきました。この東征軍の有力な武将に大伴氏の祖の道臣がいる(*参考)とのことで、日本書紀成立の時点では大伴氏もまだ有力であったということだと思います。
 神武東征から古い時代(三世紀~五世紀とか)を類推するのは問題であったということです。これまでの神武東征に関する投稿記事もおかしな事を言ってました。はずかしいですが、そのままにしておきます。(以前の神武東征
 言っていることが変わるのでそのうち見直ししないといけないとは思います。
*参考:直木孝次郎 古代を語る3
    神話と古事記・日本書紀、吉川弘文館発行
    二〇〇八年(平成二十)十二月十日 第一刷発行

2019年3月22日金曜日

神武天皇と八咫烏

八咫烏についてウィキペディアでは
「日本神話において、神武天皇を大和の橿原まで案内したとされており、導きの神として信仰されている。」
「咫(あた)は長さの単位で、親指と中指を広げた長さ(約18センチメートル)のことであり、八咫は144cmとなるが[5]、ここでいう八咫は単に「大きい」という意味である」
とあります。八咫の方は良しとして、カラスがなぜ神の使いのイメージなのか昔は変だなと思っていました。
同じくウィキペディアのカラスの項で、イメージとして
「また、古代には鳥葬の風習がかつてあった地域も世界には存在し、猛禽類やカラスなど肉食性の鳥類が天国へ魂を運ぶ、死の穢(けが)れを祓(はら)ってくれる、あるいは神の御使いであるなどの理由で神聖視されたという説もある。 」
とあります。私はこの説を採りたいと思います。昔は鳥葬が普通であり、それが土葬などに変化していき、カラスの神聖さが薄れていったと思います。墓の遺跡では、鳥葬の場合、その痕跡は残りにくいように思います。かなりの大雑把な感じでの話になりますが、平安時代の末法思想の頃、仏教が一般化し、埋葬の考え方が変わったかもしれないと思います。供養塔・墓として五輪塔が多く現れるのが平安時代末期からです。葬礼の形式ですが、古い時代の鳥葬を軽視しすぎであるかもしれません。
ウィキペディアの八咫烏に
「なお、八咫烏は『日本書紀』や『古事記』に登場するが、『日本書紀』では、同じ神武東征の場面で、金鵄(金色のトビ)が長髄彦との戦いで神武天皇を助けたともされるため、八咫烏と金鵄がしばしば同一視ないし混同される。」
とあります。すでにカラスのイメージが悪くなっていたのかもしれません。

追記:日本書紀と古事記の確認をしました。
・古事記中巻
高木大神より八咫烏の先導により吉野川に至る記事があります。
・日本書紀巻第三 神日本磐余彦天皇
天照大神が頭八咫烏《やたからす》を道案内にせよとのことです。
(これらは新編日本古典文学全集1,2より)
日本書紀では、後で、長髄彦との決戦で金色の鵄が飛んで来、この鳥の光で相手は戦意を喪失したということです。

2019年3月20日水曜日

埋葬地、鳥辺野

 図書館でブラタモリという本を見つけ借りてきました。NHKで放送されたものをまとめたもののようで、No.13です。今まで見たことがないので人気になっているのだと思います。初めて見ました。この本では2017年4月8日放送の「人はなぜ清水を目指す?」というタイトルのものが含まれています。放送を見ていたはずですが、記憶が抜け落ちています。この本のルート3で死後の世界との境界、松原橋~六道六道珍皇寺《ろくどうちんのうじ》~清水寺隣の墓地の説明があります。この前、近くを通りました。しかし残念ながら清水寺とか、その近くの墓地の方には行ってません。この墓地は古くからの埋葬地・鳥辺野の流れをくむ地とのことです。京都では平安時代から、東の鳥辺野《とりべの》、西の化野《あだしの》、北の蓮台野《れんだいの》の三大埋葬地が設けられていました。地名に鳥がついていることで、鳥葬のイメージを感じます。飛鳥との関連です。
参考:飛鳥の石造物とペルシャ

追記:H31.03.25
日経新聞の記事に「拝火教徒の「鳥葬」に変化 インド、ハゲワシ減少で」が
ありました。火を神聖視するので火葬は教えに反するとのことです。

2019年3月19日火曜日

空海と高野山

 なぜ空海は、高野山の地を選んだのかということです。ブラタモリ、本年三月十六日の徳島特集で、「鳴門が四国の玄関口になるとは?」というお題で放送されていました。この番組を見ていての思いつきです。番組では鳴門の渦潮があるのにどうして四国に来たかということで、子鳴門海峡という鳴門海峡の内側の波が静かなところを通ったとの話です。鳴門市に撫養町というところがあり、この名のついた撫養街道をお遍路さんは行くそうです。この街道は中央構造線断層の上にあるとのことでした。地図で見るとすぐ南側に吉野川が流れています。吉野と言えば奈良県の吉野を思います。奈良県にも吉野川があり、こう呼ばれるのは奈良県だけのようで水系名として紀ノ川のようです。こちらも日本構造線に沿って流れているように見えてきます。お互いに関係あるのかということですがわかりません。吉野川という名は各地にあります。山の名前で○○富士というのが各地にあるように、奈良を中心にした時に、この地の吉野川が各地に広がったこともあるかもしれないと感じました。それだけの話ですが、交通路の本題に戻ります。
 現在も徳島と和歌山がフェリーで結ばれていますが、古代にもこのルートがあったと思います。そこを空海も通ったことが考えられます。地図であればわかりやすいのでopenstreeetmapを切り取りました。和歌山県と徳島県、間に淡路島があり、黄色のラインは四国から奈良へ向かう道筋を想像したものです。図を見てもらえればわかりますが、赤丸の高野山の位置がそれほどの変な場所ではないと思われます。最澄も地元の比叡山に延暦寺を開きますが、山岳地帯に開くことがこの時代の考えであれば、空海の高野山も地元の四国ではないですが、まあまあ地元に近い山岳地域と考えられます。


徳島と和歌山とかの関係(古代ではありませんが)
 四国紀ノ川沿いの撫養街道《むやかいどう》がありますが、地図を見ていて、勝瑞城館跡を見つけました。ここは室町時代に阿波守護細川氏によって守護所が置かれたところです。その後、三好氏も引き継ぎ本拠とします。もともと三好市は紀ノ川の上流にあり、地名から見て、この地に進出してきたものと思われます。三好政権と言われた三好長慶の年譜(三好長慶四百五十年遠忌紀年論文集、三好長慶、今谷明・天野忠幸編、宮帯出版社)を見ると、享禄四年(一五三一)、父の三好元長が阿波より堺に出陣する。六月四日、元長が摂津天王寺で細川高国を破る。とかあり、堺の南宗寺は三好氏の菩提寺とか、城も飯盛山城(四條畷市南野・大東市北条)とか、紀伊水道といわれる地域で海上で離れていますが、往来はかなりあったように思われます。

2019年3月17日日曜日

漢風諡号

 釈日本紀に引用された「私記」に、「師説」として初代神武天皇から41代持統天皇まで、淡海三船の撰とある。とのことで、本当かなと思い、探してみましたが、なかなかわからず、
釈日本紀巻第九の述義五(自第三至第五)第三に
神武天皇。
  私記曰。師説。神武等諡名者。淡海御船奉勅撰也。
とありました。「」はレ点のつもりです。他の天皇については残念ながらどう探して良いかわかりません。
 ウィキペディアでは淡海三船について、抜粋すると

天平宝字9月に発生した恵美押勝の乱の際に、孝謙上皇側に加勢。乱後、三船は功労によって三階昇進して正五位上へ昇叙と勲三等の叙勲を受け、近江介に任ぜられた。
称徳朝では、兵部大輔・侍従を歴任し、天平神護2年(766年)には東山道巡察使に任じられる。しかし、巡察使として名誉や栄達を気にして地方官に対する検察が厳格に過ぎ、特に下野国の国司らの不正行為(正税の未納・官有物の横領)に関して、下野介・弓削薩摩のみに対して外出を禁じて職務に就かせず、さらに薩摩が恩赦を受けたのちにさらに弁舌を振るって罪に問おうとしたことが問題とされ、翌神護景雲元年(767年)6月に巡察使を解任され、8月には大宰少弐に転じている。

とあります。この記述がはっきりしませんが、弓削薩摩が弓削道鏡の一族で、当時は道鏡の後ろ盾があったことが考えられ、神護景雲3年(769年)には、「道鏡に皇位を」という宇佐八幡宮神託事件が起こっています。この部分は割り引いて考える必要があると思われます。
ともかく、光仁朝に入ると、宝亀2年(771年)の刑部大輔と京官に服し、のち大学頭・文章博士などを歴任して、宝亀11年(780年)従四位下に叙せられている。
とあり、復活します。恵美押勝(藤原仲麻呂)の時代に唐風ということで、天皇名も漢風諡号になったと思われますが、おかげで私にはわかりやすくなりました。
図書館から、続日本紀(中)全現代語訳、宇治谷孟著、講談社学術文庫ののところ、
神護景雲元年(七六七)六月五日に解任の理由がウィキペディアにあるように述べられています。
 下野国の国司らの不正の責任をひとり弓削薩摩に押しつけ公平の原理に背いている。今後はこのようなことがあれば、法に従って処分する。ということが13行もあります。それほどの記事かと思いますが、淡海三船が「続日本紀」編纂の関係者を思わせるようなボリュームになっています。しかし、ウィキペディアを追跡するのは難しいです。

2019年3月15日金曜日

新沢千塚古墳群で発掘されたガラス器

 松本清張氏の「火の路」に出てきました。ゾロアスター教との関連するかもしれないペルシャのガラス器が発掘されたとあります。実際にどうなのだろうかと思い、図書館で関係ありそうな本を探しました。一番新しい物では、橿原考古学研究所編、橿原考古学研究所論集第十七に「新沢千塚を考える」がありました。新沢千塚古墳群の報告書はまとめが、なぜかまとめがない。とのことです。あまりにも数が多くてまとめきれなかったようようです。埋葬施設は、大多数が木棺直葬という、墓穴に木棺を直接埋めるという方法のようです。横穴式石室はわずか四例しかないとのことです。副葬品については、鏡・甲冑・馬具。刀剣・須恵器など。倭系と帰化系にわけると、百二十六号墳ではペルシャのガラス器などがあり、帰化人系と推定されてきたがそうではないのでは無いかと言うことです。理由として古墳群内に前方後円墳があること、埴輪を持つ古墳が多いことなどあげられています。千塚は、在地倭人と帰化人が混在しているといえる。とのことです。古墳群全体の話で、特殊であるとは思いますが、百二十六号墳のことをもっと知りたいと思いました。
 日経新聞の電子版2014年7月25日付に奈良・古墳出土のガラス椀、ペルシャの高級品の可能性について書かれています。ガラス器がササン朝ペルシャ製であろうとのことです。新沢千塚古墳は五世紀のものとのことで、残念ながら七世紀のものではないようで、ササン朝滅亡の時ではありません。先の論文で、もう少し詳しく何か述べてもらいたかったと思います。

 マップ(© OpenStreetMap contributors)は和歌山から畝傍山への自転車ルートです。
図を見ると、紀ノ川沿いに沿って奈良の都に通ずるルート上にあるように見えてきます。だいたいの雰囲気はわかると思います。中国から朝鮮経由で伝わってきたことが暗黙の了解のようになっていて全然考えられていないようですが、南海ルートで和歌山に来るルートの方が自然に思います。この地の古代氏族で、東漢《やまとのあや》氏がいて、祖先は中国から帯方郡を経由してやってきて、漢王朝との関係を創作したと言われています。しかし、中国の江南などから直接に南海路をやってきたとすれば、それほど不自然ではありません。東漢氏が奈良の南西側に勢力圏があったのを何かで見ましたが、これに対応しています。すべて渡来経由が朝鮮からと考えられているのは問題かもしれません。ウィキペディアでは、シルクロード「草原の道「、「オアシスの道」、「海の道」とあるようです。残念ながら海の方は中国の起点は福建省泉州市がスタートとなっています。これも日本の方につながっても良いと思われてきました。




2019年3月13日水曜日

日本書紀の年代の考え方

 昔に私と同じように考えている人がいました。聖徳太子、岩波ジュニア新書850、東野治之著の一八六頁からの引用です。
 法隆寺の非再建論の中に、『日本書紀』の記事を認めず、『日本書紀』では天智九年(六七〇)に火災が起きたとあるが、実際に火事があったのは、そこから六〇年遡った聖徳太子の存命中の推古一八年なのだ、と解釈していました。そして、その時の火災は小規模なもので、現在の法隆寺は創建当時のものだと考えていました。
 というのは、古代には干支を使って年代を表記する方法が用いられていましたが、十干十二支《じっかんじゅうにし》と言って、干には甲乙丙など十種類、支には子丑寅など十二種類がありますから、それらを「甲子」「乙牛」「丙寅」とひとつずつずらしながら組み合わせることで六〇年を表すことができます。六〇年経てば、また同じ干支に戻ります。非再建論では推古一八年の干支が庚午《こうご・かのえうま》だったので、『日本書紀』編者は、そのもう一廻り後の庚午年、すなわち天智九年に火災があったと勘違いしたのだと説明していたのです。・・・
 今日では火災のあったことは発掘で確定されていて、法隆寺の火災は実際に天智九年のようです。しかし、この発想はすばらしいと思います。日本書紀の実質的なスタートは推古朝になります。この年代を扱うのに、干支の分だけ古くすれば、簡単に記事を創作することが可能になります。これは干支を一廻りしていますが、二廻りとかしていけば、どんどん過去に遡ることができます。もちろん実際はどうだかはわかりませんが、可能性は考えておかないといけないような気がしてきました。
参考:現時点のまとめ

一九五頁からですが、
 再建後に釈迦三尊が本尊とされ理由は単純ではないかもしれませんが、決して偶然とは考えられず、再建後に寺の性格が変わったことを示していると思われます。 やはり太子を記念する意味で、ことさら古い飛鳥時代のスタイルの寺が建立され、太子に関係する古い仏像が集められたと見なければ、理解できないでしょう。規模はよく似ていても、創建当初の伽藍配置とは堂塔の配置が異なるわけですから、これは新しい寺の誕生だったとも言えます。薬師如来がもとの本尊だったとして、その復古作が作られ、釈迦三尊の隣に安置されたことで、寺の由緒がかろうじてつながっているのです。
とあります。少なくとも八世紀から太子伝説が生まれていて、おそらく多くの人は賛同していたと思います(反対の人は消滅させられたかもしれません)。伊勢神宮もアマテラスの体制が整えられ、神社の形態も整えられるなど、今までの倭国から新しい日本へ、急激に変化していった時代ではあろうと想像されますが、具体的なイメージは出てきません。

2019年3月11日月曜日

飛鳥の石造物とペルシャ

 奈良県飛鳥地方に残る石で作られた遺物・遺構で花崗岩製のものが多い。特異なものであって謎とされているとのことです。ペルシャ人のことを考えていて、松本清張氏の「火の路」が小説の中でゾロアスター教との関連を述べているとのことで、一度は借りたものの、500ページほどあり、返却したものをまた借りてきてようやく読みました。細かく取材されていて、飛ばしたところもありますが、なかなか面白かったです。いろいろと考えさせられます。最初のほうで、野沢さんという名前が出てきて実際は野村で、小説では、名前をきちんと出せないのかなと思いました。しかし史料的なことはきちんと書かれているようです。これらの石造物はペルシャのゾロアスター教が日本に入ってきてできたとの説のようです。石造物がペルシャの影響かどうかははっきりしませんがあったと考えるとすっきりします。
 石造物は数があり、それも短期間のものですので、ペルシャから人が来たとしてグループであろうと思います。飛鳥地方は日本の中心であろうと書かれていますが、私は辺境の地であったろうと想像します。なぜ、ペルシャから飛鳥に集団でやってこなくてはならないか、切実な理由があったのかということです。「西教の火」の一部記述しますが、
 紀元二二六年、波斯(ペルシャのこと)にササン王朝が興って火祆を国教と定めたため、一時この教えは中央アジアに盛行した。中国では南梁・北魏の間にはじめてこの名が聞こえ、北朝帝后の中には信奉する者もあり、これを胡天といった。六五一年、大食国(アラビア)が波斯を滅ぼし、中央アジアの祆教徒で東方に移住するものが多くなった。唐初には祆教徒をすこぶる優遇したので両京(長安・洛陽)および諸州にはみな祆祠があった。祆の文字の由来したのは、この時である。・・・
とあります。ウィキペディアの「ササン朝」では、六五一年より前から混乱があったようです。さらに「国の東方に遠征駐屯していた王子ペーローズとその軍はその地に留まり反撃の機会を窺い、さらに東方の唐の助勢を求め、自らが首都の長安まで赴いたりもしたが、上手く行かずに終息した。 」ともあります。難民となったペルシャの人たちは東方へ逃れ、海路を伝って、中国の江南そして、紀州や日本の泉州地域にやってきたかもしれません。そして陸路を通り、当時の辺境の地の飛鳥に住まいを当てられたようにも想像されます。そこで石造物を作ったりしたが次の代までつながらなかったということです。
 ついでですが、主人公がイランに調査に出かけます。その中に鳥葬が書かれていました。区画が設けられていてカラスが空を飛ぶようです。ひょっとして飛鳥も辺境の地で鳥葬が行なわれて、空をカラスが飛び回っていたのかもしれないと思いました。普通に鳥が飛んでいても呼ばれることはないので、強烈な印象があって飛鳥となったかもしれません。イランではカラスをカラーグというようです。日本語と似ています。
 松本清張作品をぱっと読んでの思いつきです。

飛鳥の石

2019年3月9日土曜日

日本書紀での森博達著の「日本書紀の謎を解く」の学説について

 正直、α群、β群の話も良くわかりません。「偽りの日本古代史、井上亘著、同成社発行」に解説がありましたが、これでもまだわかりません。沼本克昭氏の上代漢字音の成立過程のまとめが引用されています。同書一〇八頁から、
楽浪文化が栄えた頃、中国上古音が三韓に移植され、四世紀に倭が百済と関係を持つと、渡来人が「古韓音」を伝えた。五世紀に中国が南北に分裂すると、百済は南朝の文化を受容し、倭に「呉音」を伝えた。以後、六世紀を経て推古朝に到るまで倭の文字文化は渡来人が担当し、また百済滅亡に至るまで呉音は主流であり続けた。これを反映して、『古事記』、『万葉集』の仮名は呉音系といわれる。しかし七世紀に入って遣隋使・遣唐使を派遣し、長安の文化を直接受容するようになると、唐代北方音に基づく「漢音」が正音と見なされるようになった。これを反映して、『日本書紀』の仮名は漢音系といわれている。
とのことです。
中国人にも読める正史を作るために漢音が意識されたということのようです。
 理解できるところだけの引用ですが、日本書紀の編纂過程は
①『古事記』序
②『日本書紀』天武十年(六八一)三月
➂『日本書紀』持統五年(六九一)八月
④『続日本紀』和銅七年(七一四)二月
⑤『続日本紀』養老四年(七二〇)五月
 これら確実な史料から一般に『書紀』の編纂は天武朝にはじまり、持統朝でも継続されたが、元明朝の和銅七年になってあらためて国史の編纂が命じられ、元正朝の養老四年に完成したと考えられている。「この引用は坂本太郎『六国史』(吉川弘文館、一九七〇年)より」とのこと。
長屋王の乱(七二九)があり、これで良いかは問題ではあります。
 最終的には、井上氏は、書紀は連綿と続いたものではなく、これとは断絶して、④からはじまり、原史料を大急ぎで切り貼りして巻子本に仕立てた後、全体に渡って添削を加えた。その添削担当者のクセがα群とβ群という形で出たと考えるわけで、巻単位に特徴が出るあり方も、このように考えれば容易に理解できるだろう。
とのことです。
 結論的には、理解できてないので現時点では音韻論は考えないということです。

2019年3月7日木曜日

法隆寺の火災と壬申の乱

 東大寺が何度も焼けたことを考えると、寺の火災と戦乱との関係が強い気がします。法隆寺ですが斑鳩寺として、日本書紀天智八年冬に火災があったと記され、天智九年夏四月の癸卯朔《きぼうのさく》の壬申(三十日)に、夜明けに法隆寺に火災が起こった。一屋も残らず焼失した。大雨が降って雷が鳴った。五月に童謡《わざうた》があり、ー内容は省略ー。六月に、村の中で亀を捕らえた。背に申の文字が書かれ、上は黄色で下は黒色で、長さは六寸ばかりであった。と日本書紀➂新編日本古典文学全集4,小学館発行にあります。明らかに法隆寺の火災は壬申の乱のために記述されています。火災の時期は正確にこの時期なのか、わからないと思っていましたが、東野治之氏の説があり確定しているようです。
 氏の「聖徳太子、本当の姿を求めて」の中に、「上宮聖徳太子伝補補闕記」の中で法隆寺火災後の混乱があり、法隆寺の賤民たちが自分たちの身分について異論を唱えたので、寺の事務をあずかる人物が、その裁定をしなければならなくなった。寺が焼けていたために、裁定は妙教寺というよその寺で行なわれたという。なぜ裁定が必要となったかというと、天智九年に庚午年籍の作成が求められ、寺院も対応しなくてはならなかった。ということです。安田仮説の元々も庚午年籍などの戸籍の記述は正しいというところから始まっていますので、くつがえることはありません。
 焼失前の伽藍は若草伽藍で、四天王寺と同様な一直線上の配置です。再建後は法隆寺式という金堂・塔が左右に並んだ配置に変わっています。しかし、同時代の薬師寺と比較すると法隆寺西院伽藍は古い時代の建築様式に見えるそうです。想像ですが、キビの勢力のものであれば、後の時代の復興運動の中で、元の状態に戻そうとこだわった部分があったのかもしれません。難波宮跡と法隆寺の直線距離が21.6kmです。伝飛鳥飛鳥板蓋宮と法隆寺の間は16.2kmで、法隆寺の位置はほぼ中間といえます。キビの勢力(この辺は、キビ+ナニワの勢力のイメージになってます。まだまだ変なところああります。)とヤマトの勢力の距離を考えるとこの地が中立的な立場にあったのか、つまり法隆寺の位置が聖太子神話の設定に意味あるのか(「和をもって尊しとなす」とか両者が歩み寄るイメージ)、ただただ妄想するしかありません。
 日本書紀は、火災も壬申の乱の文脈の中での記述なので、何かしらの武力衝突で焼失したとかあったかもしれません。疑ってくると何を信じて良いのかわかりませんが、庚午年籍は確かであろうということからは、外れていません。
注:斑鳩寺は法隆寺のことで、日本書紀では天智天皇のところに重複記事が多く出てくると前述「聖徳太子」に書いてあります。それに従っています。

2019年3月6日水曜日

旧唐書《くとうじょ》について

 最近手抜きになっていますが、ウィキペディアの旧唐書を見て書いています。
当初の呼び名は単に『唐書』だったが、『新唐書』が編纂されてからは『旧唐書』と呼ばれるようになった。 資料的価値は『新唐書』よりも高いと言われる。とのこと。
『旧唐書』東夷伝の中には、日本列島について「倭国伝」と「日本国伝」の2つが並立しており、「巻199上 列傳第149上 東夷[3]」には「日本國者 倭國之別種也 以其國在日邊 故以日本爲名 或曰 倭國自惡其名不雅 改爲日本 或云 日本舊小國 併倭國之地[4]」とあり、倭国が国号を日本に改めたか、もともと小国であった日本が倭国の地を併合したと記述されている。
とあります。旧唐書が出てきたのは、「偽りの日本古代史、井上亘著、同成社」を図書館から借りてきて見たからです。第一章の十七条憲法と聖徳太子ところはどうかなと読み続けて、第二章も良くわからないまま第三章になったところで、六五九年遣唐使が帰ることを中国で止められ拘束されたことから始まります。六六三年に白村江の戦いがあり、先の本では新唐書にも同様のことが記述されているようです。旧唐書に戻り、「日本國者 倭國之別種也」では日本と倭国は別のものであると読め、「日本舊小國 併倭國之地」は日本はもともと小国であって倭国を併合したと読めるとあります。あえて日本の使者は唐との戦いを倭国に押しつけ、日本とは異なるとしたからであろうということで、日本と倭が同一だと知っているのにおかしいということです。しかしこれは事実のように思われます。遣隋使の倭国(キビの勢力)が日本(ヤマトの勢力)との対立に敗れたことを言っているのだと思われます。倭国と日本が対立関係にあった中で白村江の戦いやその後の戦後処理など時間関係がシビアになってきます。これは豊臣秀吉が朝鮮出兵を行ったときも悠長にはしてなくてすばやく準備されていて月単位で考えないといけないのと同じと思われます。この本もそうですが、倭国と日本は同一であるという認識の人が多いと思われます(昔の私もそうでしたが)。別物であるとする人は少数派ですが、これは皇国史観が成り立たないということが、そのまま顧みられること無く現在に到ったということかも知れません。

2019年3月3日日曜日

泉州:中国と日本の位置関係

グーグルマップで見ています。中国の泉州と日本の泉州(図では大阪付近になります)の移動経路です。
直通のルートであれば、島伝いになると思います。
なかなか大変な旅路になるとは思います。しかし、朝鮮半島経由に較べて途中ややこしくなくて黒潮の流れに乗れば早く到達出来そうな気がします。
参考:泉州
   須恵器のルーツ

2019年3月1日金曜日

須恵器のルーツ

ウィキペディアを見ての感想です。
和泉の地域に南海ルートを通じて直接に中国江南地域から高温土器生産の技術が伝えられたと考えても良いように思いました。朝鮮半島経由にこだわらなくても良いのではということです。

以下はウィキペディアの須恵器のところからコピペしてます。
・須恵器(すえき)は、日本で古墳時代から平安時代まで生産された陶質土器(炻器)である。
・須恵器の起源は朝鮮半島(特に南部の伽耶)とされ、初期の須恵器は半島のものと区別をつけにくいほど似ているが、用語としては日本で製作された還元焔(かんげんえん)焼成の硬質の焼物だけを須恵器という。朝鮮半島のものは、普通名詞的に陶質土器と呼ばれるか、伽耶土器・新羅土器・百済土器などもう少し細分した名で呼ばれている。
・高温土器生産の技術は、中国江南地域に始まり、朝鮮半島に伝えられた。
・考古学的には、大阪府堺市・和泉市・大阪狭山市・岸和田市にまたがる泉北丘陵に分布する陶邑窯跡群の発掘調査と、森浩一、田辺昭三、中村浩らの一連の編年的研究[4][5][6]により、須恵器の出現は古墳時代中期の5世紀中頃とされていたが[7]、近年では、陶邑窯跡群内に含まれる堺市大庭寺遺跡の「TG232号窯」・「TG231号窯」や、野々井西遺跡の「ON231号窯」において、より古い段階に位置づけられる須恵器が発見され、少なくとも5世紀前半段階には、朝鮮半島から陶質土器が持ち込まれるのとほぼ同時に生産技術が招来され、陶邑地域で須恵器生産が開始されたことが明らかとなっている[8]。

泉州

 ウィキペディアで泉州を調べれば、中国と日本の両方に出てきます。白鳳文化のことを考えていて、南大阪に残る白鳳仏が気になりました。野中寺の銅造弥勒菩薩半跏思惟像などが残っています。日本オリジナルのものとは思えません。どこから伝来したのかということですが、中国の泉州から海を渡って来たものが、今の和泉の地域を経由してこれらの寺にもたらされ、泉がこの地の地名に移り、現在の和泉となったと考えることも可能と思います。中国の泉州ですが、「589年に隋朝が陳朝を平定すると泉州と改称、606年(大業2年)に閩州と改称された。」とあります。時代が異なり、大雑把すぎますが、瀬戸内海を通らずに、南海路を通り、直接的に交易していたその痕跡で和泉があるのかもしれません。泉の地名のついたのが、そこに泉があったというのは弱々しい気がします。あくまで中央の意識のもとで地方の名前が考えられるということで、泉があったとして当時の中央政権にその泉が貢献したとは思われません。
参考:ブログの和泉

2019年2月25日月曜日

吉備国の包囲網の修正

 マンガ見たいな包囲網の図を作りました。概略わかると思います。ヤマトとキビの勢力の対立があった場合に大陸に向かうルートで瀬戸内海は通りづらくなります。特にキビが倭国で、キビとアワが一体と考えれば、不可能になります。以前に遣唐使の南海航路を考えていましたが、四国の南側を通り周防とかに向かうことも可能になります。こちらが重要だったかもしれません。また日本海側から出雲を経由して、青の点線の陸路を通れば、一応の包囲ルートが完成します。周防の拠点を確保すれば、ツクシへのルートも問題無くなります。最初は北と南のルート、続いて赤のルートを考え、最終的に黒のルートになったのではと妄想します。周防国がキビに対する基地ということだけでなく、新羅・唐に対する海軍基地のようなものになっていったということです。



2019年2月24日日曜日

地域王国と日本語の形成

 七世紀に日本が地域王国であったということは、いろんなところに影響があります。日本語の問題にもつながってきます。以前、良くわからないままに、日本語がどうして出来たのかとか考えていましたが、ヤマトの勢力が各地域にあった王国を併合していき、その出先機関を大和周辺配置し、そこでの言語衝突により日本語が作られたと考えれば、突然変異的に日本語が生まれたことも納得できます。以前にも述べたと思いますが、枕詞などの繰り返しに近い用法もコミュニケーションを確実にするためのものであったということです。言向けということも、相手にヤマトの意図を伝えるということで大事になり、軍事貴族であった大伴氏も歌の世界に優れているのも必要にせまられたもので当然であろうということです。最近は浮かれた文章になってますが、七世紀の日本は日本の原点であったと思ってきています。
日本語はクレオール語だったのか?

2019年2月23日土曜日

前期難波宮と藤原京

 この二つの都の関係が今まではっきりとしてはいませんでした。しかし、後の南北朝のように二つに分かれていたと考えれば、問題ありません。藤原京の構成が唐の都の長安と合っていないのも、おそらく前期難波宮が唐風スタイルを目指したのに対抗した可能性があります。天武天皇の時代にヤマトの勢力がキビの勢力と対立していたことと整合性があります(これぐらいの時から)。平城京に遷都して、唐の都の長安をモデルにしたのも、キビの勢力を併合していったからだと思って矛盾はありません。東アジアの緊張が高まる中、外交政策の対立(唐との関係)が国内の対立をもたらしたと考えられます。皇国史観で単一の王朝のように考えれば、前期難波宮がなにやらわからないものになりますが、まだこの時点で地域王国が残っていたとすればすっきりとしてきます。これは前期難波宮のグループとキビの勢力が同一か同盟関係にあったことが前提となります。現時点ではこの考えで行きたいと思います。もちろん、考え方が極端ですので、たとえば、長岡京に遷都しようとしたときに、造長岡宮使の藤原種継が暗殺されています。このような政権内での対立であって分裂まで至ってないのかもしれません。

2019年2月22日金曜日

白鳳

 白鳳文化とかで使用される「白鳳」です。七世紀半ばより平城京遷都七一〇年までの時代に相当しますが、時代区分では使われないようです。

 日本書紀、孝徳天皇の治世で用いられた「白雉」の別称とのことです。記録上、続日本紀神亀元年十月一日条、「白鳳以来、朱雀以前」とあり、白鳳→白雉、朱雀→朱鳥と考えられるようです。しかし藤氏家伝には白鳳十六年があり、扶桑略記の天武二年三月条に白鳳は十四年続いたということです。(坂本太郎「白鳳朱雀年代考」では信憑性は注意が必要であるとのこと)
(この部分、平成二十七年開催の白鳳展図録より)

 日本書紀にはこのような年号はなく、白鳳があったとすれば、私年号のようなものになるようです。ウィキペディアによれば、
「私年号とは当時の王朝に対する反対勢力や批判勢力によって使用されたものが多く、使用期間は概して短い」
ということで、キビの勢力とヤマトの勢力の対立があれば、二つの年号があってもおかしくありません。南北朝の時代のイメージです。どうだかなというようなことを言っていますが、日本書紀では、
孝徳天皇の時代の「大化」があり、続いて「白雉」になります。
白雉四年に中大兄皇子と孝徳天皇の対立があり、中大兄皇子らは飛鳥に戻ります。
白雉五年に、孝徳天皇崩御、斉明天皇になります。
斉明天皇七年に、百済応援のため九州まで遠征し、朝倉宮で崩御、
    皇太子の中大兄皇子が政務をとります。
天智二年には唐や新羅と戦い、白村江での敗戦を迎えます。
 日本書紀では、大化・白雉が孝徳天皇で、そのあと、元号がなく、天皇名で年が表されています。天武天皇の時、朱鳥となりますが、文武天皇の時代の大宝まで無いようです。元号がこの期間に無いのはどういうことだろうということですが、分裂していた時代(この戦いでは戦うグループ(天智天皇派)と、非戦のグループ(孝徳天皇派)に日本の中が分裂していたように妄想します)を書紀は反映していると感じます。
 寺の伽藍配置がいろいろなタイプがあるのと同じで、図録掲載の白鳳仏を見ても、統一感は感じません。童子のようなお顔は共通するように思えますが、身につけているものなど多様で、これも複数のルートから複数の地域王国のようなところに到来したように思えます。この時代、まだ日本は統一されてはいなかったと考える方が、矛盾はなさそうな気がします。

2019年2月21日木曜日

蘇我倉山田石川麻呂

 山田寺に関してです。大化四年三月、蘇我臣日向の中大兄皇子に讒言し、蘇我倉山田石川麻呂は嫌疑をかけられ、天皇は使いを出したところ、天皇に直接申し述べたいと返事があり、天皇は軍兵で大臣宅を包囲させようとしたところ、山田寺に逃げ、自殺したという。皇太子(中大兄皇子)は間違っていたことで嘆き悲しまれたということである。この後に、日向臣が筑紫大宰帥《つくしのおおみこともちのかみ》に任用した。世の人は語らって、「これは隠流《しのびながし》か」といった。とのことです。(新編日本古典文学全集4、日本書紀➂、小学館)
 かなり物語風で潤色の多そうなところです。この後に、皇太子の妃蘇我造媛《そがのみやつこひめ》、が父の死に悲しみ死んでしまったとあります。ここで、その子に太田皇女、鵜野皇女《うののひめみこ》がいます。後の人が持統天皇になります。従ってこの部分は持統天皇ベースの内容になっていると思われます。この山田寺も持統天皇の時代になり、手を入れられた可能性はあります。ここでの関心事は、このことではなく、天智天皇七年に、蘇我倉山田石川麻呂の娘がああり、遠智娘《おちのいらつめ》という。ある本に、美濃津子娘《みのつこのいらつめ》という)。とあって、御野津子だったのが、御野《みや》→みの→美濃になったかと書いてあります。書紀の編纂者にとって倉山田石川麻呂が美濃地方と繋がりがあって勘違いしたように思われました。私だけそう感じているのかもしれませんが.。
 日向臣が筑紫大宰帥になるというのは、皇太子派が唐との戦いに備えて筑紫を押さえたと考えれば、この時点から孝徳天皇と皇太子の間に、日本の外交政策に対立があったことを示しているのかもしれません。
一応メモ書きです。

2019年2月20日水曜日

山田寺

 奈良県桜井市山田にある古代寺院のことです。蘇我倉山田石川麻呂の発願により7世紀半ばに建て始められ、石川麻呂の自害(649年)の後に完成したとのことです。山田寺は、伽藍配置で山田式伽藍配置とする見方とこれを四天王寺式に含めてしまう考え方があります。
(図は「わが国古代寺院の伽藍配置」より)


似ていると言えば似ていますが、講堂が回廊に含まれるかどうかで別物と考えて、それで違いがなければ含めてよいとは思いますが、まだ含めて考えるまでには到っていないとは思います。
 この寺の発願者ですが、名前は蘇我+倉+山田+石川+麻呂と考えられます。石川については石川県の関係か、大和川に合流するという石川とかが考えられます。それは置いといて、山田の方です。どうして山田寺になったかという疑問があります。蘇我倉山田石川麻呂の名前に関連していると思われます。山田という名字は岐阜県に多く、安田の名字の者にとっては親近感があります。蘇我倉山田石川麻呂の母の名に御野の文字があり、これが宮の意味であるとの事でしたが、私は母方が美濃国の人ではないかと思いました。ウィキペディアには、岐阜県各務原市蘇原寺島町に山田寺(さんでんじ)があるそうです。もちろん結びつくものはないとのことですが、関連あると思われます。
『上宮聖徳法王帝説』という聖徳太子のことが書かれたものがあり、これができたのは、8世紀末から9世紀の始めと考えられていますが、この本文ではなくて、裏書に、山田寺のことが書かれているようです。ヤマトの勢力に併合された地域王国の出先機関があり、そこに仏教が個々に導入されてきている状況があって、複数のルートから導入されたと考えると伽藍配置の多様性があってもおかしくないと思われます。また山田寺の場所ですが、美濃国からやってきて、そこで身繕いを整えてから会見を望む場所として飛鳥の北の方にあり、整合性はあります。
 法隆寺もやはり、飛鳥の北の方にあり。岡本というところで、岡本の名字は岡山県に多いところです(「名字:岡本、岡田」での分布図を再度見ると、そこまで言えるかということはありますが、言ってます)。吉備国と関連がありそうな所です。もちろん位置的にも飛鳥に対して吉備に近い方にあります。これだけでは断定しにくくてもっと他の例が必要ですが、傾向的にはおかしくはありません。くどくど話してますが、ヤマトの勢力が、各地の地域王国を併合していくなかにあって、それぞれの地域王国が出先機関をヤマトの(飛鳥の近く)のどこかに構えていく中で、ランドマーク的な寺院をそれぞれの地域が造っていったと考えています。従って統一的な伽藍配置にはならず、それぞれの地域王国の朝鮮などの関係によって異なった伽藍配置が導入されたものと考えます。もちろん結びつきの強いところは同じようなタイプになることが考えられます。

2019年2月16日土曜日

高市皇子は天皇だったか

 長屋王の変から、日本書紀のことを考えていて、天皇の名前のことを思い出しました。神話で天照大神(実際は持統天皇)を強調するのは、天武天皇の後継としての立場が弱かったことを示しているように思えます。天武天皇亡き後も書き換えられているかもしれません。持統天皇とか当然のように考えていましたが、ひょっとして違うかもしれません。元のつく天皇が本当だとすることで、それ以前の怪しい天皇に持統天皇も含まれるということです。持統天皇が実際に天皇ではないとすれば、高市皇子が天皇になります。長屋王もトップの後継者と考えられていたかもしれません。日本書紀で大幅な書き換えが行われて否定されたということです。厳しい統制が行われたことでしょう。その中で、反発する人(淡海三船?)が、天皇の名前で残したのではと想像します。
天皇の系図については、東大寺のところを見てください。
参考記事:東大寺

追記(H310218):実質的に太政大臣では、天皇のような気もしてきました。
日本書紀からの年表
六七九年(天武八)五月、吉野の盟約
   吉野宮に行幸。天皇、皇后と草壁。大津・高市らの皇子に詔して、誓わせる。
六八一年(天武一〇)二月、天皇・皇后、律令を定め、法式を改めることを詔する。
   草壁皇子を皇太子に立てる。
六八五年(天武一四)一月爵位の号を改める。
   草壁皇子尊に浄広壱位、大津皇子に浄大弐位、高市皇子に浄広弐位、・・・
六八六年(朱鳥一)九月天皇崩御、皇后称制。大津皇子謀反。
六八八年(持統二)十一月天武天皇を大内陵に葬る。
六八九年(持統三)四月、皇太子草壁皇子薨ずる。
六九〇年(持統四)一月、皇后即位する。高市皇子を太政大臣とす。
六九三年(持統七)一月、浄広壱を高市皇子に賜う。
六九五年(持統九)一月、浄広弐を舎人皇子授ける。
六九六年(持統一〇)七月、高市皇子薨ずる。
六九七年(持統一一)八月、天皇、皇太子軽皇子(文武天皇)に譲位する。
七〇二年(大宝二)持統上皇没
(七〇七年(慶雲四)文武天皇没)

2019年2月15日金曜日

地域王国と奈良県に残る地名

 天武天皇の時代に日本の統一が図られてきたということですが、最初の飛鳥浄御原宮から始まり、持統天皇の藤原京へと拡大していく中で、各地の地域王国がヤマトに組み込まれていきます。その中で、それぞれの地域とヤマトを結ぶために五畿七道のようなものが造られます。道中は良いのですが、ヤマトに辿り着いたときに宿泊の設備とかは各地域王国の負担になったのではないかと想像します。各地域がヤマトで食料などを必要なものを自給することが求められたということです。ヤマトの領域内に食料の生産や宿泊の施設となる拠点が求められ、これが奈良県に旧国名の地名が残る理由になるように思います。各地域の出先機関のようなものです。
 天武天皇の時代、まだまだ中央集権体制が確立していなかったということで辻褄があってきます。イメージとしては江戸時代の参勤交代で、江戸に各藩の屋敷があったのと同じではないかということです。徳川家康もこの時代のことを知ってたのかはわかりませんが。
奈良、旧国名地名もご覧ください。

2019年2月14日木曜日

古代寺院の伽藍配置と地域王国

 まず古代寺院の伽藍配置です。古い本を見ていても、新しい発掘成果が反映されて無さそうです。そこで、「わが国古代寺院の伽藍配置、森郁夫」を見て考えます。
伽藍とは、「七世紀代には南門・中門・金堂。塔・講堂の数や位置、回廊のとりつく建物などから七つほどの形が基本的なものとして考えられる。すなわち、それらは飛鳥寺・川原寺・山田寺・四天王寺・法隆寺・法起寺・薬師寺などの寺の標識名とする配置形態である。そして八世紀に入り大安寺式が加わる。」とのことです。この伽藍配置の説明は省きますが、「大きな流れとしては、四天王寺式(山田寺式)→法隆寺式(法起寺式)→薬師寺式そして八世紀の大安寺式という変遷のあっったことが知られる。」ということです。諸説の紹介がされ、関口欣也氏の説で「飛鳥時代の伽藍配置に限っているが、ほとんど外国の影響を受けたことを説く。四天王寺や山田寺のような塔を第一義とする形態は百済扶余・北魏・西域の寺(寺名は省略)などと共通する。そして川原寺や法隆寺のような伽藍配置は「礼仏中心に変貌した初唐伽藍へ移行する間の過渡期の所産とする。さらに回廊によって塔・金堂を講堂や僧坊から区分する形は北魏の寺やホータン王新寺(私には不明)に準ずるといった考え方である。」ということです。仏教公伝と言われますが、統一的に日本に入ってきたものではなく、当時の日本は一体ではなく、地域王国の時代であって、それぞれの地域が勝手に導入したので、多様な伽藍形式が生まれたと考えられます。それぞれの地域王国がヤマトにまとめられていく段階で仏教が日本に入ってきたとして矛盾はないか今後の課題になります。
ここで飛鳥寺の伽藍配置ですが、特殊で他に例がないようです。日本史リブレット17、古代寺院の成立と展開の飛鳥寺のところを見ていてアレッと思いました。書紀によれば、
・五九〇年(崇峻三)、山に入り寺の材をとる。
・五九二年(崇峻五)、仏堂(金堂)と歩廊(回廊)を立てる。
・五九三年(推古元)、仏舎利を刹中《さっちゅう》の礎中《そちゅう》に置き、刹中を建てる。
という流れです。
 さて飛鳥寺の伽藍配置です。前記論文から持ってきました。
図を見ると建設の順番がしっくりきません。塔は最初に建てないと工事がやりにくくなります。同じく前記論文の薬師寺の伽藍配置を示しますが、こちらの方が余裕があります。

 書紀は薬師寺の伽藍の配置のイメージを持ってきているように見えます。書紀の飛鳥寺の記事は信用できるのかと思います(他は信用できるということではありません)。飛鳥寺式は例外とするのが現時点では良いのかもしれません。


2019年2月13日水曜日

長屋王の変と日本書紀

 長屋王は、壬申の乱で活躍した高市皇子の子です。天武天皇の孫にあたります。
長屋王の変は天平元年(七二九)です。たまたま元年になったのではなく、それまでの神亀という年号から変が起こったことにより改元されたものと思われます。これは持統天皇の孫の文武天皇の子、聖武天皇の時世です。長屋王と聖武天皇を較べれば、家柄的なもので言えば、聖武天皇であるかもしれませんが、男系優位の考えでれば、長屋王が皇位をつぐのが良いと考える人がいても不思議ではありません。長屋王家跡から木簡が出土し、その中に「長屋親王宮」があり、この親王はだれでもというもので無く、天皇の兄弟、皇子を親王とし、それ以外は諸王とするということが養老律令?(未確認)にあり、特別対応されていたことを示しているとのことです。続日本紀の日にちを見ると、二日で処分されており、急いで行われていて尋常ではありません。クーデターのようにも思われます。
さて、日本書紀ですが皇祖神は天照大神で、私は持統天皇と考えています。天武天皇は出てきません。不思議に思っていました。壬申の乱がおこり、勝利した天武天皇から時代が始まると普通は考えますが、天武天皇を差し置いて天照大神(持統天皇)から瓊瓊杵尊(文武天皇)というのが日本書紀の神話です。天武天皇→高市皇子→長屋王のラインは無視されています。持統天皇→一世代おいて文武天皇を日本書紀は強調しています。ところが、日本書紀成立は養老四年(七二〇)です。この時点ですでに天武天皇は神話の中で除かれています。長屋王の立場であれば、皇祖神は天武天皇であるべきで、長屋王に関係の無い持統天皇が皇祖神になるのは認められないはずです。しかし、その形跡はないようです(あるかもしれませんが、私は知りません)。長屋王が日本書紀の記述を知らなかったのか疑問です。日本書紀の成立段階ですでに、天武天皇が避けられているのと、長屋王の変が時代的に合っていません。日本書紀成立の時点がどうであったのかということにもなります。皇親政治と良く言われますが、そうではなく天武天皇派と持統天皇派の争いのように思えてきました。天智天皇はこの時点では関係ないということです。天智・天武の勢力争いではなく、天武・持統の争いのように見えてきます。
 長屋王の変は正確には神亀二年二月、長屋王への密告から始まり、舎人親王らが長屋王邸に派遣されています。この人は日本書紀編纂の人物です。持統天皇派でしょう。天平改元の宣命の時、八月ですが、邇邇芸命《ににぎのみこと》が出てきます。天照大神から継承した日本書紀の神話を確認しています。単純には、日本書紀がこの時点で改変されたと考えるべきなのかもしれませんが、その前から規定の事実になってたのかもしれません。なにやらわからなくなってきました。長屋王を支持する勢力があったと思います。一〇年後の天平一〇年に、密告した東人を長屋王恩顧の子虫が殺すと続日本紀にあるのも、複雑な事情があるためと思います。この時代、天武・持統の対立が、皇位継承の不安定な状況を生み出し、聖武天皇の彷徨などの一因になったかもしれません。良くわかっていないので勘違いとかありそうです。断定できるものではありませんが、頭に入れておきたいと思います。

続日本紀(上)全現代語訳、宇治谷孟、講談社、天平元年の項を見ています。

2019年2月9日土曜日

奈良時代の東北地方の開発


 続日本紀の聖武天皇のところを見ていて(もちろん、続日本紀(上)全現代語訳です)、天平9年(七三七)の4月14日のところです。東北地方のことが書かれています。長いので適当に端折っています。

陸奥国に特節(征夷)大使として派遣された藤原朝臣麻呂の報告です。
さる2月19日に陸奥国多賀の柵(宮城県多賀城市にあり、蝦夷経営の拠点)に到着し、鎮守府将軍の大野朝臣東人と協議し、関東の六国の騎兵を召して、山中と海沿いの道を開かせました。その地の農耕に従事している蝦夷をなだめ諭し、鎮撫しました。その後、五つの柵に人員を配置し、2月25日に将軍東人らが多賀の柵を進発し、3月1日には色麻の柵を発し、その日のうちに出羽国大室駅に到着しました。ここで出羽国守の田辺史難波と合流して賊地に入り、道を開拓しながら行軍しました。ただ賊地は雪が深く、秣(まぐさ:馬や牛などの飼料にするほし草・わら。かいば)が得難く、そのため雪が消え草が生えるのを待って、また改めて軍を進めることにしました。同月11日には将軍東人は多賀の柵に帰還しました。東人が自らあたら新たに開通させた道は、全長160里で(ウィキペディアでは古代日本で553.5mと推定されているらしい)、その間、石を砕いたり、樹を切ったり、谷を埋め、峯を超えて進みました。平坦なところもあったようですが、4月4日、わが軍は平羅保許山《ひらぼこやま》に駐屯した時、その先の雄勝村の服従した蝦夷の長ら3人が来て、降伏するといってきた。それに対し、東人は信用できないと言ったのであるが、難波は建議して、「軍勢を進めて賊地に入るのは、蝦夷を教えさとし、城柵を築いて人民を住まわせるためです。もし投降の願いを無視して侵攻すれば上策ではないでしょう。今回は官軍の威力を示し、引き揚げることにし、このあとで難波が帰順の有利なことを諭し懐かせましょう。そうすれば城郭も守り易く、人民も永く安らかになるでしょう」といったので、東人はもっともであると考えました。また東人の本来の計画では、早く賊地にはいって、耕作し、穀物を貯え、兵糧運搬の費用を省こうということでありました。しかし今春は大雪で、早期に耕作できなくなりました。しかし新道はすでに開通し、後年になって東人が自ら攻め入ることもしなくても事は成就できます。東人は今までの実績があるので、ここは徴発した兵士は一旦帰農させることで直截をお伺い致します。
というようなことが書いてあると私は理解しました。
この当時の征夷大将軍の役割は、道を作るということのようです。道を作り、その横に耕作地を作って、食料を確保し、兵站基地を順に作っていくことが大事であるということです。当国兵五千人とかが文中に見えますが、おそらく大規模な土木工事が行われたように思われます。これは条里制が開発されていく様子をしめしています。道を作り、条里制の田んぼを道の横に作っていき、どんどん版図を拡大していくことがヤマト勢力由来の方法であったということです。この開発された地域に条里制の田んぼを意味した安田という地名が名付けられていったことになり、東北地方の数ある安田の地名はその痕跡と考えられます。青森県の三内丸山遺跡の近くにある安田も、奈良時代以降の東北進出の結果であって、本州の北端にあるのも、偶然できたものではないように思われます。

 道を開拓するとの記述は、
国立国会図書館デジタルコレクション
国史大系、第2巻、続日本紀巻第十二に確認できました。下は画面コピーです。
黄色のマーカーから始まります。ブルーのところが(不細工ですみません)、道を開くというところです。私には読解できませんが、現代語訳の場所はわかりました。



テキストベースの、この部分も添付します。
六国史のテキストデータベース、続日本紀からです。

《天平九年(七三七)四月戊午【十四】》○戊午。遣陸奥持節大使従三位藤原朝臣麻呂等言。以去二月十九日、到陸奥多賀柵。与鎮守将軍従四位上大野朝臣東人共平章。且追常陸。上総。下総。武蔵。上野。下野等六国騎兵惣一千人。開、山海両道。夷狄等、咸懐疑懼。仍差田夷遠田郡領外従七位上遠田君雄人。遣海道。差帰服狄和我君計安塁。遣山道。並以使旨慰喩、鎮撫之。仍抽勇健一百九十六人、委将軍東人。四百五十九人分配玉造等五柵。麻呂等、帥所余三百〓五人、鎮多賀柵。遣副使従五位上坂本朝臣宇頭麻佐鎮玉造柵。判官正六位上大伴宿禰美濃麻呂鎮新田柵。国大掾正七位下日下部宿禰大麻呂鎮牡鹿柵。自余諸柵、依旧鎮守。廿五日。将軍東人従多賀柵発。三月一日。帥使下判官従七位上紀朝臣武良士等及所委騎兵一百九十六人。鎮兵四百九十九人。当国兵五千人。帰服狄俘二百〓九人、従部内色麻柵発。即日、到出羽国大室駅。出羽国守正六位下田辺史難破将部内兵五百人。帰服狄一百〓人。在此駅。相待以三日。与将軍東人共入賊地。且開道而行。但賊地雪深、馬芻難得。所以、雪消草生。方始発遣。同月十一日。将軍東人廻至多賀柵。自導新開通道惣一百六十里。或剋石伐樹。或填澗疏峰。従賀美郡至出羽国最上郡玉野八十里。雖惣是山野形勢険阻。而人馬往還無大艱難。従玉野至賊地比羅保許山八十里。地勢平坦、無有危嶮。狄俘等曰。従比羅保許山至雄勝村五十余里。其間亦平。唯有両河。毎至水漲、並用船渡。四月四日。軍屯賊地比羅保許山。先是。田辺難波状称。雄勝村俘長等三人来降。拝首云。承聞、官軍欲入我村。不勝危懼。故来請降者。東人曰。夫狄俘者其多姦謀。其言無恒。不可輙信。而重有帰順之語。仍共平章。難破議曰。発軍入賊地者。為教喩俘狄、築城居民。非必窮兵残害順服。若不許其請。凌圧直進者。俘等懼怨、遁走山野。労多功少。恐非上策。不如、示官軍之威、従此地而返。然後。難破、訓以福順。懐以寛恩。然則、城郭易守。人民永安者也。東人以為然矣。又東人本計。早入賊地。耕種貯穀。省運糧費。而今春大雪、倍於常年。由是、不得早入耕種。天時如此。已違元意。其唯営造城郭一朝可成。而守城以人。存人以食。耕種失候。将何取給。且夫兵者。見利則為。無利則止。所以、引軍而旋。方待後年、始作城郭。但為東人自入賊地。奏請将軍鎮多賀柵。今新道既通。地形親視。至於後年。雖不自入、可以成事者。臣麻呂等愚昧。不明事機。但東人久将辺要。尠謀不中。加以、親臨賊境。察其形勢。深思遠慮。量定如此。謹録事状。伏聴勅裁。但今間無事。時属農作。所発軍士且放且奏。



2019年2月8日金曜日

天平2年3月、大隅・薩摩の訴え

六国史のテキストデータベース、続日本紀にあります。

《天平二年(七三〇)三月辛卯【七】》○辛卯。大宰府言。大隅・薩摩両国百姓。建国以来。未曾班田。其所有田、悉是墾田。相承為佃。不願改動。若従班授。恐多喧訴。於是、随旧不動。各令自佃焉。
 私は「続日本紀(上)全現代語訳、宇治谷孟、講談社版」を見ています。
天平2年3月7日 大宰府が言上した。
大隅・薩摩の人民は建国以来、いまだかって班田を受けたことがありません。かれらの所有地は荒地を開いた墾田で、先祖からうけついで耕作しており、田地を移動して耕作することを願っていません。もし班田収授を行えば、おそらくはさわがしい訴えが多くでるでしょう。そこで旧制のままで移動させず、それぞれ耕作させたいと思います。

とのことです。班田収授を柔軟に適用してくれというようなことだと思われます。実際にどうなったかは不明です。認められなくて、藤原広嗣の乱の起こる伏線かもしれません。上記の続日本紀をパラパラと見ていますが、どこにあったか不明になるのでそのメモです。

2019年2月7日木曜日

聖武天皇と地域王国

 地域王国が残っていたかもしれないということで、宇佐八幡宮が気になっています。
天平12年(740年)の藤原広嗣の乱の際には、官軍の大将軍の大野東人が決戦前に戦勝を祈願した。また、天平15年(743年)の東大寺造営の際に宮司等が託宣を携えて上京し、造営を支援したことから中央との結びつきを強めた。そして神護景雲3年(769年)の宇佐八幡宮神託事件では皇位の継承まで関与するなど、伊勢神宮を凌ぐ程の皇室の宗廟として崇拝の対象となり繁栄し、信仰を集めた。
とのことです。
 九州関連を年表的に見ていきます。日本古代史年表、上、篠山晴生編、東京堂出版です。
729年(天平元年)長屋王の変
737年(天平九年)藤原四兄弟没す。
740年(天平十二年)9月藤原広嗣の乱、九州で挙兵。
          同年10月聖武天皇は伊勢へ行幸
          同年11月広嗣斬首を報告
742年(天平十四年)太宰府を廃す。
743年(天平十五年)筑紫に鎮西府を置く。
745年(天平十七年)太宰府を復置。
          同年11月玄坊(道鏡みたいな人?)を筑紫観世音寺に配す。
749年(天平感宝元年・天平勝宝元年)宇佐八幡、託宣・入京(大仏造立を願う)
752年(天平勝宝三年)大仏開眼
754年(天平勝宝六年)託宣・入京した大神杜女と多麻呂を除名
755年(天平勝宝七年)八幡大神託宣(先に受けた封戸・位田を変換する処理?)
756年(天平勝宝八年)聖武天皇崩御。
細かいところは読める年表[決定版]、自由国民社発行も見ています。偏見のある年表だとは思います。
 一方聖武天皇の彷徨というのが、この決定版にあります。
740年10月伊勢へ行幸、12月に恭仁京に遷都
742年紫香楽へ何度も行幸
743年恭仁京の造営工事の中止
744年定都を問う。難波京への行幸、遷都?
745年9月平城京に遷宮
 聖武天皇の動きが良くわかりにくいですが、藤原広嗣の乱はおそらく筑紫の在地の勢力のツクシ王国の感覚が残っていたのと、当時の新羅に対して、緊張関係を意識していた広嗣が結びついたことにあったからではと思います。八世紀ですが、まだ筑紫が地域王国であるとの意識が残っていて、聖武天皇が藤原広嗣の乱に過敏に反応したのではないように思います。太宰府の廃止や復活、それに続く宇佐八幡の託宣も関連しているように思えます。後の道鏡皇位事件の託宣も、古いツクシ王国からの重要なメッセージと受け取られていたかもしれません。奈良時代も統一が完成されたのではなく、まだまだ不安定な時代で各地に国分寺・国分尼寺を造って統一させようという時代であった気がします。
 長屋王の変も私にはまだ良くわかっていませんが、当時のクーデター的な要素を感じます。イメージとしては乙巳の変を思い浮かべます。これも、一瞬、長屋王の変のモデルかと思ってしまいました。日本書紀のできた時代の後なので、合っていませんが。聖武天皇には長屋王の変が衝撃的であったと想像できるようになりました。
仕込杖のことです。不安定な時代であったろうことは間違いないと思われます。

2019年2月5日火曜日

壬申の乱の時の吉備

 大海人皇子(大皇弟)が東国に入り、それに対し、近江朝廷は各地に使いを派遣します。筑紫と吉備についての対応です。佐伯連男《さえきのむらじおとこ》を筑紫に遣わし、樟使主磐手《くすのおみいわて》を吉備国に遣わし、兵を起こさせようとした。「そもそも筑紫太宰《つくしのおおみこもち》栗隅王《くるくまおう》と吉備国守《きびのくにのかみ》当摩公広島《たぎまのきみひろしま》と二人は、もともと大皇弟に付き従っていた。背くようなことがあるかもしれない。もし背反する表情が見えたら殺せ」と仰せられた。磐手は広島を殺したのに対し、男は海外の防備の必要性を説得され戻っています。筑紫は中立であったということですが、吉備はどうなのだろうかと思います。吉備が天武天皇側について戦ったとはありません。多分、吉備も筑紫も無関係であったと思われます。磐手が広島を殺して、それで終りで済むようには思われません。後の時代ですが、元寇で最初の文永の役の後に、元から来た使を問答無用で鎌倉幕府は斬首に処しています。普通に考えれば、2回目の弘安の役は起こって当然な状況になります。これと同じで、吉備国守が殺されたことが、ヤマトとキビの対立を示しているように思われます。壬申の乱が終わった後、新羅の客金押実らを筑紫で饗応しているようです。その後も、吉備国について日本書紀では書かれていません。筑紫については記述があります。天武天皇八年に、吉備太宰の石川王が病気で薨じたと出てきます。天武天皇十一年年に信濃国と吉備国がそろって不作であったとあります。天武天皇十三年に姓《かばね》を与えて朝臣《あそみ》といったと出てきます。ようやく天武天皇の時代が落ち着いてきた感じがします。それまでは日本書紀に出てくる国名などが偏りがあり、天武天皇の最初の頃は、キビとヤマトの対立があったことが隠されているように思われて、七世紀後半に対立があったとして良さそうに思われます。

2019年2月3日日曜日

平城京の宮廷ではイラン人の役人も勤務していた

 図書館で、「教科書に載っていない最先端の日本史、現代教育調査班編、青春出版社発行」の一〇一頁にありました。木簡で、平成二八年(二〇一六)一〇月、にわかに脚光を浴びたものがあるという。「破斯清道《はしのきよみち》」の名があり、破斯とはペルシャのことで、現在のイランを指しており、この人物がイラン人であることを示している。問題の木簡には天平神護元年(七六五)に破斯清道という特別職の役人が大学寮の宿直勤務をしたという意味のようなことが書いてあります。奈良時代の宮廷ではイラン人も雇っていたとすれば、稗田阿礼のインド人説もありうる話です。
 ネットでは
「破斯清道」は本当にペルシャ人なのか?「はじ」(土師)とも読めることに気付いた…【平城宮式部省木簡】
平城宮式部省木簡の「破斯清道」(はじのきよみち)は、正倉院文書に出てくる「土師浄道」(はじのきよみち)の17年後の姿の可能性が高まってきました。その正体はペルシャ人では無かったようですが、普通の下級官吏のその後の人生が分かる大事な「発見」になりますね。
とかありました。ペルシャ人では無いようです。しかし、ウィキペディアでは、「続日本紀の天平八年(七三六)八月二十三日、遣唐副使・従五位中臣朝臣名代らが唐人三人・ペルシャ人一人を率いて、帰国の挨拶のため、天皇に拝謁した」とあるようです(続日本紀、全現代語訳、宇治谷孟も見ました)。ペルシャ人では無い可能性は大ですが、まだ稗田阿礼のインド人説は捨て去ってはいません。

2019年2月2日土曜日

神社形式から古代を考えることができるか?

 地域王国を考えると、その地域には有名な神社があります。思いつくものとして、伊勢神宮、住吉大社、吉備津神社、出雲大社、宇佐神宮などです。伊勢神宮は神明造りとよばれ、天照大神を祀っています。持統天皇の時代以降に整備されたと考えています。時代の確定は出来ませんが、日本書紀によれば、崇神天皇の時以来、移動し、伊勢の地に落ち着いたとされます。
伊勢神宮伊勢神宮2伊勢神宮3

 住吉大社は、住吉造りとよばれ、四棟の本殿があります。主祭神は、底筒男命、中筒男命、表筒男命、神功皇后です。神功皇を持統天皇のモデルと考えれば、伊勢神宮と同様の時期になると考えられます。
住吉大社

 出雲大社は、大社造りとよばれ、非対称が特徴のようです。これらの神社は古代より古い形式のように思われ、特異な形式であるとのことです。本殿の建立年代を見ると、吉備津神社本殿が室町時代とされ、宇佐神宮も江戸末期の建立とされ、建築物として古代を考えることはできないようです。しかしいつの時代に形成されたかといえば、持統天皇に時代以降のように思われます。この時代まで、地域王国があり、ヤマトの勢力の神道による統一が行われ、ヤマトには神社をおけず(ヤマトに置けば、全体の神社になってしまい、他の地域がこれをきらったと私は考えますが、根拠はありません)、伊勢に落ち着いたように思われます。律令の時代にあって神祇官という役職があるのも、この流れを引き継いでいて、神社形式も初期のものは統一されていた可能性はゼロではありませんが、地域によって異なっていたのを尊重していた可能性の方が大きいと考えます。
 聖武天皇の時代には国分寺・国分尼寺が各地に造られますが(741年に建立の詔)、標準化された形式で、建物などの標準モデルが作成され、配られたようです。また、総本山的な東大寺が奈良に造られ(東大寺盧舎那仏開眼供養は752年)、中央集権体制のシステムとして仏教が重要視されたと思われます。それに対し、七世紀後半の持統天皇の頃と勝手に私は推定していますが(この辺適当なので八世紀前半かもしれません)、神道を主とした国造りでは、神社を造るという基本方針はあるものの、実施の詳細については各地に任されていたように思われます。これは戸籍の見本が正倉院で今まで展示されていて、地域によってかなり異なっていて、戸籍を作るという基本方針はありましたが、実施の詳細はそれぞれの地域に任されていて、地域王国が残っていたように思われてきました。神社の何とか造りというのはいっぱいあって、地域の影響が強く出ていたと思われます。寺についても古い時代には、伽藍配置など多種あったように見えます。七世紀後半は地域王国が残っており、ヤマトの勢力が神道では統一することが出来なくなり、八世紀になり、仏教による鎮護国家に変化していったように考えることが出来そうです。

2019年1月31日木曜日

宇佐八幡宮神託事件

 奈良時代の神護景雲三年(七六九)、宇佐八幡宮より称徳天皇に対して「道鏡が皇位につくべし」との託宣を受け、紛糾した事件です。和気清麻呂が派遣され、皇位継承が血統を重視することになったということです。当時、道鏡は法王であり、藤原永手が左大臣、吉備真備が右大臣であり、反発があったものと想像します。経緯については誤解があるかも知れませんが、大事なのは宇佐八幡宮の託宣が重要視されたことに驚きます。宇佐八幡宮は全国にある八幡宮の総本社で、石清水八幡宮・筥崎宮《はこざきぐう》(または鶴岡八幡宮)とともに日本三大八幡宮の一つとされるそうです。問題児の神社であるのか、平安時代前期には、この宇佐神宮から勧請された石清水八幡宮が代わりに崇敬されることになったようです。天平一〇年(七三八)藤原宇合の長男・藤原広嗣は太宰府に左遷され、天平一二年(七四〇)に挙兵することになります。結果、官軍により乱は鎮圧されます。神託事件や広嗣の乱などを考えていると、筑紫に地域王国が少し前まで(少なくとも七世紀)存在し、ヤマトの勢力に多大な貢献したという意識が残っていたように思われます。太宰《だざい・おおみこともち》はその地に駐在する単なる担当者というか、ヤマトとのメッセンジャーの意味のような気もしてきました。地域王国論にだいぶ洗脳されています。

追記:H310204
神社の勧請
宇佐-石清水-鶴岡と繋がる八幡宮の勧請ですが、神託事件の影響が大きいように思われます。朝廷にとって宇佐神宮では遠く、神託事件でこりて石清水八幡宮を勧請したと思われます。鎌倉幕府の時も、万一、宇佐神宮から託宣がおり、困ったことであれば、宇佐神宮はともかく、石清水まで行くのでも大変になります。おかしな神託の影響を受けないように、やはり鎌倉にまで八幡宮を勧請したように見えます。
石清水八幡宮ですが、室町幕府第六代将軍、足利義教はこの石清水八幡宮でのくじ引きにより将軍に選ばれたとのことです。石清水が権威あるものと考えられていたようです。おそらく現代の感覚とはまったく異なっていたのかもしれません。

2019年1月29日火曜日

地域王国・地域国家

「吉備の古代史 王国の盛衰、門脇禎二著、NHKブックス」をチラ見しての感想です。七六頁には、「日本が地域王国の段階では、地域王国同志の交渉や日本列島外の国々との関係も外交で、具体的に言えば、吉備王国が百済と折衝するのも外交、大和王国と折衝するのも外交、筑紫王国が大和王国や新羅と折衝するのも外交、こういう段階を想定すべきだと思う。」、「だから、よく誤解されるのは、外国史料の倭王は地方の地域王国の王とみるのか問われる。しかし、史料的には、高句麗が南下した五世紀以後の倭国のことが記される『宋書』から以後は、大和王国は百済と中国の南朝と交渉した。ただしこの時期、倭人が、かって魏の時代のように北朝側とどう折衝したかという史料は少なく、主に百済を接点にした南朝側との外交関係であったから、当然その関係の上で出てくる倭王は大和王国の王とみて不当ではない。けれども、それはこの段階ではまだ日本の国を代表する確固とした外交関係ではなかったと思う。だからこそ、やがて、地域王国の間のトラブルが起こったときには、外交関係がはっきり錯綜してくるのである。」、「それなら日本列島は、四世紀から五世紀はまだ混沌としていたのかというとそんなことはない。すでに共通の「倭人」社会が形成され、発展しつつあった。古墳文化の意義の重要さは、実は、この点にかかわってのことであり、ただそれは政治的に統一された権力体制を語るものではない。その権力体制を、わたしは地域王国論で理解しようとするのである。」
と書かれています。
私は、歴史の流れはその通りだろうと思います。しかし地域王国がおそらく七世紀にあっても存在し、壬申の乱以降も、錯綜した状態のように感じられます。門脇氏の考えをベースに、時代を後ろに移動するという修正をすれば、すっきりと理解できそうです。白村江の戦いで敗れた時に、日本の中がどういう状況にあったか不明ですが、イズモとキビが提携関係にあり、新羅と結びついていれば、ヤマトにとって重大な脅威になります。そのためにヤマトはイズモにくさびを打ち込んだということかもしれません。神話にイズモがクローズアップされている理由とも思えます。この辺は妄想です。、何を言ってるんだということですが、激動の時代ですのでありえない話ではありません。

2019年1月25日金曜日

安田の地名と古代道路の根拠

 備後から出雲への安田のあるところを結んだルートの根拠です。
投稿記事:スサノオが出雲に降ったところ
 古代道路と条里制が密接に結びついています。
「古代道路の謎、近江俊秀著、祥伝社」からの引用します。七一頁からです。道路をつなぐ駅路の敷設目的の説明です。
「ここで、注目されるのが、先ほどお話しした、条里制との関係である。条里制とは、耕地を区画するためのものであるため、その施工範囲は当然のことながら、水田を造るのにふさわしい低地である。そして、条里と駅路とが同時に発掘調査で見つかっている静岡平野などでは、条里の地割り方向と駅路がぴっったりと合致している。このことは、条里施工と駅路建設とが強い関連性を持っているだけでなく、駅路は条里制による土地区画の基準線としての役割をはたしていたことがわかるのである。」
とあります。
まず道路を造り、その両側に条里制の田を展開します。条里制を表す名前が安田ですので、出雲への道も安田の地名が連なっていて関連があると思っています。中継ポイントを作ることで、現地での食料調達を可能にし、ある程度の人数の移動を容易にし、軍事的な意味があったと思われます。しかし平安時代の延喜式には山陽道と山陰道が記されのみで、京都が中心の中央集権体制では不要とされたのか、このルートが消えてしまっています。古代道路の原点の地域のようにも思われますが、よくわからない状態になっています。今は都市を考えるときに面的に考えますが、古代では点の感覚であって、結びつけるための線となる道路や海路が重要であったのだと思います。出雲への古代の道を考えるときに、山陰道をイメージするのは間違いの元となります。

2019年1月23日水曜日

天武天皇、種子島、安田

 日本書紀、巻二十九、天武天皇下(新編日本古典文学全集4)を見ています。
壬申の乱が終わってからの話です。天武天皇二年に即位し、関係者の係累の説明があります。三月に「備後国司が白雉を亀石郡で捕らえて貢上した。そこで、その郡の課役をことごとく免除し、天下に大赦した」とあります。ここで亀石郡ですが、注には広島県神石郡とあります。つまり、吉備包囲網の安田の地名がある地域です。天武天皇の時代、吉備の包囲網が残っていた可能性があります。
同年閏六月に、耽羅《たんら》(注では済州島)、都羅《つら》が朝貢、新羅の使いも同月に来ています。高麗(新羅の傀儡政権の注あり)なども見えます。天武三年三月には対馬国司が出ています。天武四年二月には、国名が羅列され、大倭がありますが、吉備はありません。二月には新羅の朝貢があります。三月に土佐大神が神刀一口を進上したとあります。土佐は高知県で安田の地名があるところです。意図的に出てきているように感じます。高麗・新羅の朝貢があります。新羅の皇子が難波に到着した。天武五年、前年の耽羅の客に船を送ったことや、大伴連国麻呂らが新羅から帰国したことが出ています。また新羅に使いを送っています。情報交換していることが書かれています。
 天武六年には多禰島人《たねのしまひと》らを饗応した記事があります。新羅などとの往来の記事が繰り返しあります。天武八年三月には吉備大宰《きびのおおみこともち》、石川王《いしかわのおおきみ》が病気になり吉備で薨じたとあり、十一月には多禰島に使いを遣わすとあります。そして十二年三月に戻っているようです。天武天皇の時代、唐と新羅との戦いの敗戦処理で往来があり、種子島ともおそらく南側の防衛ラインになり、重視したと思われます。
 ここで種子島の人がどのような経路でやってきたかということを想像します。「種子島」は戦国時代に鉄砲の意味があり、これは種子島に鉄砲伝来があり、堺などに伝わったと思います。この経路は四国の南を通る南海路であろうと私は思います。紀伊国には根来衆・雑賀衆などの鉄砲集団がおり、秀吉の紀州征伐では抵抗したようです。この時の鉄砲の火薬などが南海路で持ち込まれたように思われます。これは戦国時代の話ですが、もっと古い古墳時代に鳴滝遺跡(和歌山市善明寺)という倉庫跡の遺跡があります。これは古墳時代に南海路を通して交易が行われていたと思います。天武天皇の時代に南海路を利用していたのかということです。高知県に安田町があります。ここが南海路の中継ポイントになっていて、安田という名前から七世紀後半に整備されたことになります。黒潮の流れに乗って、種子島からやってきたとして問題ないように思われます。キビとヤマトの対立があり、瀬戸内海航路を採れない場合に南海路をヤマトは考えていたとしておかしくはなさそうです。


ヤフーマップにポイントしています。
①種子島
②高知県安田町
③大阪府堺市
④鳴滝遺跡(和歌山市善明寺)
です。①→②→④→③のようなイメージです。あくまで概略です。

2019年1月21日月曜日

スサノオが出雲に降ったところ

 須佐之男命は追放され、出雲国の肥の川(斐伊川)の上流、地名は鳥髪というところに降《くだ》ったとのことです。(古事記、新編日本古典文学全集1、小学館より)。わかりにくいのでヤフー地図にマッピングしました。
現在では
島根県 仁多郡奥出雲町大呂でマップでの数字①のところです。
追加しますが、安田の地名があるところで、7世紀に出雲にいたるルートをヤマトの勢力が築いたと考えられる(私だけですが)場所が
広島県庄原市②
広島県三次市③
広島県世羅郡世羅町④
です。④→③→②が出雲へつながるルート(7世紀のもの)とすると、古事記に合わせれば、④→③→②の上空を飛行し、①にランディングしたことになります。古事記のスサノオの神話は7世紀のイメージで表されていると思われます。

広島県神石郡神石高原町⑤を通るルートであったかもしれません。
参考:広島県の安田



 
 

2019年1月20日日曜日

「ヤマト」と「カワチ」はどうして名づけられたか?

 漢字で書けば、「ヤマト」は「山外」で、「カワチ」は「川内」と考えます。山と川、内と外ということです。山と川は地域に合っていてそうであろうと思われます。ヤマトの人が自分から外ということはないので、カワチの人が名づけたと思っていました。しかし、ヤマトの人がこの名づけ方に納得するようには思えません。律令制の時代に国名が、たとえば備前・備中・備後とかになったときに、備後の人が「後」はいやなので備前にしてくれとは言えません。国の中央からの位置関係によって問答無用で決定されます。この時は前後で位置関係を表すのが、古い時代は内と外で表したということです。その時の国の中心がカワチではなく、倭国であった吉備であったということです。
 倭国が吉備とおとしめられ、それと対応して、「わ」国を越えた大いなる「わ」としてヤマトに大和の漢字を当てたことが考えられます。時代として、大和とされたのは七世紀のことになります。倭国から和国にスムーズに移ったものと、今まで錯覚していたように思います。古事記や日本書紀はヤマトの正統性を訴えているものですので、七世紀前半までは完全に怪しいことになります。国名からみると、倭国に律令制の兆しがあったことも考えられます。

2019年1月19日土曜日

吉備国の過小評価

 最近、思い違いをしているような気がしてきました。情緒的な話になります。第2次大戦というか太平洋戦争の時に、戦艦大和という軍艦がありました。当時の日本の軍事力の象徴であったと思います。日本の国力をかけて建造した船ではありましたが、戦争が巨艦主義から航空兵力重視の流れの中で時代遅れになってしまったようです。戦力としては誇れるものであったのですが、実質はそれほどでもなく無力化したということだと思います。何の話かと思われますが、前方後円墳のことです。サイズについて大きな古墳を作っている地域が、中心的な地域であるとの認識ですが、それで良いのだろうかと思います。吉備国では大きな古墳が作られましたが、その後さらに大きい古墳が大和の地域で作られたようです。古墳のサイズを基準に考えれば、ヤマトの地域が中心であろうと思われます。しかし前方後円墳が時代遅れのものであるという認識を吉備国が持てば、無駄なことをせずにもっと国力の向上に役立つことに力をそそぐことになると思います。つまり何らかの律令制的なシステムを採用する方向に向かうと思われます。当時、東アジアのキビしい情勢を認識していて、前方後円墳など作っているヒマはなかったということです。吉備が先進的な地域でヤマトは遅れた地域であった可能性があります。当時では、中国から新しい知識をえるようなことが重要課題となります。遣隋使のことですが、日本書紀では記述がおざなりで、当事者としての意識が希薄に思われます。吉備国が倭国であって中国に使いを送ったと考える方が感覚的には無理がないように思われます。倭の五王の話も、どの天皇に対応するのかと考えるのも、こじつけを考えているようで、全くの無意味な作業に思われます。五王も吉備国の王であったかもしれません。吉備が倭国であったと考える人がどの程度存在するのか不明です。現時点では、感覚的な妄想的ですが、以下に「古代を考える 吉備、吉川弘文館二〇〇五年三月第一刷」からのなるほどと思われた部分のメモ書きです。
最初の一,吉備 その風土と起点で、門脇禎二氏が書かれているところが興味深いです。キビ王国とヤマト王国があり、六世紀にヤマト王権にとりこまれてしまった。との説に対して批判があったようです。キビの部民遺制地域分布表が示されていて、キビ王国にすでに実現された統治機構があり、それを元にヤマト朝廷に対応したとのことです。聖徳太子が実在したとの考えがあるので、六世紀と考えられていますが、実在しないと考えれば、七世紀まで下がることになります。各種の品部で鍛冶部が見当たらない。伊福部《いふきべ》が吹くにつながり精錬作業になるのかもしれませんが、まあ無いであろうとのことです。キビは鉄の生産地として有名であるので、キビ国王がヤマト王権の部民の指定を拒否したと考えたいとしています。出雲神話にも刀の話があったようにも思い、古代の鉄生産が重要事項であっったことは確かであろうとは思いました。
白猪屯倉と児島屯倉についてもヤマト王権の戦略的な拠点であったこと。「日本書紀」敏達一二年(583)是年条の百済の日系官人で敏達の懇望によって来朝した日羅《にちら》に関する記事で、「日羅等、吉備児島屯倉に行き到る。朝廷《みかど》、大伴糠手古連《おおとものあらてこのむらじ》を遣《たま》いて、慰《やす》め労《ねぎら》う」と記されているそうです。つまり遣隋使の返使として来た裴世清も同じで吉備にやってきた可能性が高まります。
最後の方に、吉備津神社の神階の問題が挙げられています。承和一四年(847)十月に初めて従四位下を授けられた後、従四位上を経て、仁寿二年(852)二月には四品を授けられ、貞観元年(859)正月には二品となっている。これはきわめて特殊な事例であり、仁和四年(888)の大神宝奉献社では、宇佐神、石清水神両社の一品につぐ品階であり、品階が与えられているのはこの三社のみであり、吉備津彦神に格別の意味が込められているようである。とあります。なにかしら吉備国に復権の動きを感じます。吉備真備や和気清麻呂に影響したように書いてあるように感じました。

2019年1月16日水曜日

備中七城

 備中七城とは、備前と備中の境にある七城で(境目七城)、防衛ラインに城を配置したもののようです。戦国時代、天下統一を目指す織田信長は、豊臣秀吉に毛利輝元の統治する中国攻めを命ずる。備前の宇喜多直家が最終的に秀吉側についたことから、備前と備中の境界ラインが重要となってきた。
[カラー版]地形と立地から読み解く「戦国の城」、萩原さち子著、マイナビ出版p144からの引用です。この本に図がありますが、似たような図がネットにありましたので、参考にしてください。
備中七城
図の上が北で、右が備前側、城が配置されているのが備中側です。秀吉はこれらの城を攻略していくのですが、備中高松城は攻めあぐね、近くを流れる足守川の流れをせき止め、備中高松城に引き入れて、有名な水攻めを行っています。この時には、本能寺の変が起こり、毛利側との講和をすばやく取りまとめ、これまた有名な中国大返しで、明智光秀を山崎の合戦で討っています。戦国時代にこのような防衛ラインが作られているのですが、ネットの図では左上に鬼ノ城があり、古代からつながりがあり、何かしらのつながりがあったのではと思います(妄想ですが)。
この本には、
尼子十旗(あまごじっき)も紹介されており、戦国時代に出雲を支配した尼子氏が本城の月山富田城の防衛ラインとして支城を配置したとのことです。
「本城と支城、支城と支城の間をスムーズに伝達できるよう、街道に宿駅を配備して、使者や物資を運ぶ交通制度を伝馬《てんま》制(駅伝制)という。いざ戦いが始まれば、迅速に軍事物資をリレー式に送るのが目的だ。伝馬制は古代律令制から戦国大名にも採用され、北条、武田、今川、徳川、上杉氏などが主に用いていた。・・」とも書いてあります。
安田に伝馬制と関係する意味があるのだろうかと思います。

広島県の安田

2019年1月14日月曜日

H31.01時点での古事記の考え方

 私の話のベースは
現時点でのまとめ
にあります。古事記も持統天皇の時代の影響を受けていなければならないのに反映されていません。多分これが、古事記の問題で日本書紀が新たに作られたものと思われます。古事記序に天武天皇が「朕聞く、諸々の家の賷《も》てる帝紀と本辭と、既に正実に違ひ、多く虚偽を加へたり。今の時に当りて其の失を改めずは、幾ばくの年を経ずしてその旨滅びなむと欲《す》。斯れ乃《すなは》ち、邦家《みかど》の經緯《たてぬき》にして、王化の鴻基《おほきもとゐ》なり。故惟《かれおもひ》みれば、帝紀を撰錄し、舊辭《ふること》を討覈《たづねきはめ》、僞を削り、實《まことを》定めて、後葉《のちのよ》に流《つた》へむと欲《おも》ふ」と仰せられたということです。
 文字については違うところあるかもしれませんが、この部分を見て感じるのは、天武天皇のいうところの事実と異なる記述が多くあり、天武天皇の正統性が疑われる状況があったということだと思います。天智天皇から天武天皇への移行が世間的に認められておらず、正統性を示す必要性があったのではと思います。個人的には帝紀などは無かったと思います。あわてて作ったために、祖先の歴史を記述することが難しく、神話的な要素が強くなったような気がしてきました。古事記は持統天皇までを記述することを目標としていたと思いますが、当時の重要な問題だった、唐・新羅との軍事的な衝突をどう古事記に含めるか悩んでいたと思われます。天武天皇は天智天皇の対外戦略が失敗した後に交替した勢力であって、天智天皇を引き継いで、唐などに対抗することはまったく考えていなかったはずです。日本の国の敗戦といって良い、白村江の戦いなどを含めて、古事記を再構成したのが日本書紀であったろうと思います。改めて感じることですが、日本の古代史において白村江の戦いなどを軽視しすぎているように思ってきました。つまり明治時代以降の皇国史観にたてば、過小評価せざるを得なかったということかもしれません。しかしこの敗戦が契機となり、異常かもしれない律令制が広まっていった可能性もあり得ます。外圧が無くなり、律令制が消滅していったこととが一見して、対応しているようにも思えます。

2019年1月12日土曜日

吉備の山城


「古代山城・鬼ノ城を歩く、村上幸雄・葛原克人編、吉備人選書」を見ています。吉備の山城には備中の鬼ノ城と備前の大廻《おおめぐ》り小廻りがあり、この二つは「日本書紀」や「続日本紀」の中にまったく名前が出てこず、謎だらけということです。私は吉備と大の勢力争いがあり、倭国の痕跡を示すこれらの城を隠す意図があったのではないかと思います。今回は備後にある二つの山城です。常城《つねき》と茨城《いばらき》です。こちらはなぜ存在がわかるかといえば、「続日本紀」の養老3年(719)12月の条に「備後の国安那郡の茨城、葦田郡の常城を停む」とあるそうです。しかし詳しいいきさつは不明です。両城の解明を目指した故豊元国さんは、1968年(昭和43)に刊行された「奈良時代山城の研究」のなかで、比定地を挙げていて、
それによると常城は、広島県芦品郡新市町大字常と府中市本山町にまたがる標高500メートルの火呑山にあり、・・とのことである。山がどこにあるのか不明であったが、現在の広島県福山市新市町常(〒 729-3107)付近であろうと考えてマーキングしてみた。こちらは地名に「常」があるので間違いがなかろうと思われます。一方、茨城は広島県福山市蔵王町(〒 721-0971)にあったようです。こちらも郡名から考えれば大幅にずれることはなさそうです。図の赤のポイントで左上が常城で右下が茨城を表しています。これらの山城の成立年代は不明ですが、吉備とヤマトの勢力の対立があり、ヤマトが出雲と7世紀に同盟関係を結び、この山城の西方にある世羅や三次などの出雲に連なる包囲網を築いていった時の吉備側の軍事的に対抗するためのの山城のように思えてきます。

2019年1月9日水曜日

ヤマトタケルは7世紀の人に?の人へ

 古事記が7世紀の日本を反映しているとしています。このブログを最初の方からご覧になればわかってもらえると思いますが、行き当たりばったりで、統一的な考えのもとに進行しているわけではありません。ヤマトタケルが7世紀の人というのは、推古天皇の時代に遣隋使があったということで、実際は景行天皇の時代であったということです。古事記の範囲が基本的には7世紀の後半も含まれているということです。
何を支離滅裂なことを言っているんだと思われる方は下記をご覧ください。
2017年12月7日の現時点のまとめ

 今回、異なるのは、ヤマトの勢力は日本の各地へ軍事同盟を求めてヤマトタケルを派遣したのに対し、倭国(吉備の国)は遣隋使を派遣していたということで、日本の中に二つの勢力があったかもしれないということです。
日本書紀における遣隋使の記述がおかしいのは、実際には隋に使いを送っていなかったヤマトの勢力が、つじつまあわせで、倭国の遣隋使の話を取り込んだためで、男子王と推古天皇の矛盾なども多々ありますが、大した問題でないと考えたと思います。

2019年1月8日火曜日

7世紀の出雲の重要性

図書館で見た逆さまの地図を真似して表示しています。
国名の位置は適当です。大雑把に見てください。

7世紀の情勢の中で考えると、新羅と出雲が近い距離にあることがわかります。
出雲が新羅派になれば、大和にとって脅威になります。吉備を少し薄めのブルーにしましたが
出雲が大和にとって重要な地域になります。古事記で出雲が重要視されているのは時代の影響が大きかったということだと思います。

2019年1月7日月曜日

妄想,7世紀日本

 朝鮮半島では、百済、新羅、高句麗の三国で形成されていたとき、どうして日本が統一された倭であったのか疑問を感じました。多分統一されてなかったと思います。小学生の時に歴史を習い、朝鮮半島の国に分かれているのに対し、日本は統一されていて、子供心に日本はすごいなと思ったことがあります。瞬間、あれどうして日本は統一されていたのかと感じたのですが、すぐに疑問は消えてしまい、年を重ねてきました。
 しかし、今は7世紀に日本は統一されていなくて、朝鮮半島のように、多数の国があったとして当然のように思われます。日本書紀はヤマトの勢力圏が中心としての話になっています。遣隋使の返使として裴世清が来たときには、日本の中でも多くの国があったことがうかがえます。複数の国があったとして、考えられるのが今の残っている国名です。紀国や肥国、吉備・阿波、出雲などです。これらの国名はヤマトの基準でつけられています。偏見で見ていますが、木や火は中立的な名前に、出雲は優遇された名前に、キビ・アワは瑞穂の国からして劣ったイメージの名前に感じます。つまり倭国だった地域がキビ・アワにおとしめられた可能性もあります。出雲は、初期の段階で同盟関係にあり、優遇されたということです。
 ヤマトタケルの遠征物語も同盟関係を求めた7世紀のものであったとして十分に成立するように思われてきました。ヤマトの勢力が唐・新羅と戦うために必死に軍事同盟関係を求めていった話にも思えます。日本書紀は唐に対するものであるので、神話の部分であっても唐に対する軍事同盟が目的だったとは書けません。東アジアの緊迫した情勢が日本神話に入ってきていることも考えないといけないかも知れません。古事記は7世紀の日本を、日本書紀は8世紀前半の日本の状況を反映して見直されたのかもしれないという妄想です。

昔のブログ記事(遣隋使)

2019年1月6日日曜日

古事記と出雲神話

お正月に古事記を読破しようとしましたが、出来ませんでした。この日本古典文学全集1古事記、小学館の中に
解説があり、
即ち、阿礼に勅語して、帝皇日嗣と先代旧辞とを『誦み習はしめたまひき』。のところに
「討竅」を経たものの読みを習うこと。しかし、その資料は阿礼の読みが伴わないと、日本語の表現として受け取ることができないものであった。多くの「古字」(唐以前に行われていた古い字体)を含み、字種が多様で統一されていなかったからである。また、文体的にも、いわゆる漢文体や変体漢文体を中心とするが、不統一なものであり、この点でも読みを伴って初めて表現となるものであった。
とあります。サンスクリットは出てきてませんが、似たような感じの説明です。阿礼は記憶力抜群の人とはいってません。
別の本に、出雲神話のことが出てきていました。古事記と較べて日本書紀には出雲神話の比率が下がりるようです。古事記は、日本書紀との時代の差が現れているように思われてきました。古い時代にはヤマトの勢力と出雲の勢力が結びついていたことを想像させます。以前、安田の地名を調べたときに瀬戸内海側から出雲の方に、吉備国を避けて配置されています。吉備の西側です。安田が生まれた7世紀後半に吉備とヤマトの対立があり、対抗して出雲とヤマトの同盟関係を(ヤマト側の強圧的なものかもしれませんが)求めた結果かもしれません(安田の地名がその時につけられたと考えました)。日本の中でも対外政策に対立があり、新羅・唐に反発する勢力と友好的な勢力があり、吉備国は友好的であって、対抗してヤマトの勢力が吉備国を包囲し、出雲と結びつく必要があったことも妄想されます。古事記の時代には出雲との関係が重要であったのが、天武天皇の時代になり、変化したと思われます。日本書紀の時代には日本の統一が急激に進んでいったのかもしれません。
・出雲神話は7世紀の歴史を反映しているかもしれないこと。
・7世紀の日本は統一された国ではなかったかもしれないこと。
・古事記はあまり古い時代を示していないかもしれないこと。
広島県の安田とか山口県の安田とか、もう一度見直さないといけないような気はします。