2019年3月13日水曜日

日本書紀の年代の考え方

 昔に私と同じように考えている人がいました。聖徳太子、岩波ジュニア新書850、東野治之著の一八六頁からの引用です。
 法隆寺の非再建論の中に、『日本書紀』の記事を認めず、『日本書紀』では天智九年(六七〇)に火災が起きたとあるが、実際に火事があったのは、そこから六〇年遡った聖徳太子の存命中の推古一八年なのだ、と解釈していました。そして、その時の火災は小規模なもので、現在の法隆寺は創建当時のものだと考えていました。
 というのは、古代には干支を使って年代を表記する方法が用いられていましたが、十干十二支《じっかんじゅうにし》と言って、干には甲乙丙など十種類、支には子丑寅など十二種類がありますから、それらを「甲子」「乙牛」「丙寅」とひとつずつずらしながら組み合わせることで六〇年を表すことができます。六〇年経てば、また同じ干支に戻ります。非再建論では推古一八年の干支が庚午《こうご・かのえうま》だったので、『日本書紀』編者は、そのもう一廻り後の庚午年、すなわち天智九年に火災があったと勘違いしたのだと説明していたのです。・・・
 今日では火災のあったことは発掘で確定されていて、法隆寺の火災は実際に天智九年のようです。しかし、この発想はすばらしいと思います。日本書紀の実質的なスタートは推古朝になります。この年代を扱うのに、干支の分だけ古くすれば、簡単に記事を創作することが可能になります。これは干支を一廻りしていますが、二廻りとかしていけば、どんどん過去に遡ることができます。もちろん実際はどうだかはわかりませんが、可能性は考えておかないといけないような気がしてきました。
参考:現時点のまとめ

一九五頁からですが、
 再建後に釈迦三尊が本尊とされ理由は単純ではないかもしれませんが、決して偶然とは考えられず、再建後に寺の性格が変わったことを示していると思われます。 やはり太子を記念する意味で、ことさら古い飛鳥時代のスタイルの寺が建立され、太子に関係する古い仏像が集められたと見なければ、理解できないでしょう。規模はよく似ていても、創建当初の伽藍配置とは堂塔の配置が異なるわけですから、これは新しい寺の誕生だったとも言えます。薬師如来がもとの本尊だったとして、その復古作が作られ、釈迦三尊の隣に安置されたことで、寺の由緒がかろうじてつながっているのです。
とあります。少なくとも八世紀から太子伝説が生まれていて、おそらく多くの人は賛同していたと思います(反対の人は消滅させられたかもしれません)。伊勢神宮もアマテラスの体制が整えられ、神社の形態も整えられるなど、今までの倭国から新しい日本へ、急激に変化していった時代ではあろうと想像されますが、具体的なイメージは出てきません。

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