2022年12月25日日曜日

水の語源

 「ミヅ」と読むようです。 『日本語の起源 ――ヤマトコトバをめぐる語源学』、近藤健二、筑摩新書(2022/1/10)を借りてきました。

日本語の起源は古代中国語にあった。古代中国語音と古代日本語(ヤマトコトバ)の音の対応を数多くの実例に基づき検証。日本語の古層をめぐる新説を提唱する。

とのことです。最初の方に水のことが書いてあります。『日本国語大辞典』に12説あるとのことで、簡単に紹介されています。どれも苦し紛れの説に思えますが、 漢字起源説をとる著者も付け加えるとのことです。

ミヅ(水)
ミ 碧(ヒャク)「あおみどり」
ヅ 水(スイ)「みず」
◆碧水(ヘキスイ)青い水

と示されています。ここでは発音記号はうまく表記できないので省略しています。ヘキスイを中国語の読みでミズと発音したとのようです。説得力が感じられませんが、水を「スイ」と読んでたのは確かそうには思います。私も説を付け加えます。 元々「スイ」と発音していたのを丁寧に言うため、{御「スイ」}と言い始めます。「ミスイ」です。これが「ミズ」に変化しました。今は「ミズ」では丁寧さがなくなり、普通になってしまい、さらに「オミズ(御水)」になっていると考えられます。漬け物が「オミオツケ」になっていったようなものです。将来、「ミオミズ」になれば、証明されたことになりそうです。

しかし、漢字起源説は古い時代まで遡れるかはわかりませんが有力な説です。訓読みと思っていても実は音読みだったということも充分ありえます。

追記:R05.01.01
初詣で、おみくじを見ました。これも「くじ」に「み」がついて、さらに「お」が追加されたものです。水も、もともと神事では神聖なものであったはずなので「ミスイ」のような気が、ますますしてきます。

追記(R050218)

水の読みですが、「みづ」とありました。ローマ字では「midu」で、「mizu」ではありません。

みづでは
(平安時代)みどぅ
(南北朝時代)みどぅ
(室町時代)みず
(江戸時代)みず
とあります。dからzに変化したということになります。

『知らなかった! 日本語の歴史』浅川哲也、東京書籍 (2011/8/12)

「じ・ぢ・ず・づ」の仮名は「四つ仮名」といいます。室町時代の中頃から「じ」と「ぢ」、「ず」と「づ」を発音上で区別することが難しくなり、そのため四つ仮名の混乱が生じます。江戸時代の元禄年間(一六八八〜一七〇三)までには「じ」と「ぢ」、「ず」と「づ」を発音上で区別することが一部の方言を除いてできなくなっていました。

発音の違いに基づく仮名の書き分けが不可能になると、四つ仮名は「仮名遣い」の問題になります。仮名遣いとは正書法としての知識の問題です。四つ仮名の仮名遣いを取り上げた早い例としては『仮名遣近道抄《かなづかいちかみちしょう》』(寛永二年・一六二五)があります。

この中に「ず」と「づ」の例がありました。
「見ず(みず)」と「水(みづ)」です。

「現代仮名遣い」では、原則「づ」を使わないので「みず」で良いのですが、その前の時代は「みづ」で、平安時代以前に「みず」と発音していたことがあったのかということになります。



2022年12月22日木曜日

光明皇后の経済力

 前回に関連して、長屋王家や藤原氏に与えられた「功封・功田」の経営とかの話で思ったことです。 『藤原仲麻呂-古代王権を動かした異能の政治家』仁藤敦史、中央公論新社 (2021/6/21)で、

「功臣伝の創出」は、単なる名誉ではなく実利的な側面を含めて評価する必要がある。

ということです。光明皇后の皇后宮、どこかで読んだのですが、出所がはっきりとはしませんが、ネットで以下にありました。

旧長屋王邸が740年の恭仁遷都までの一時期に皇后宮になったこと 

長屋王の変のあと、高市皇子から長屋王に引き継がれた「功封・功田」はどうなったか疑問に思いますが、光明皇后が長屋邸あとに入ったようです。これと、以前に正倉院展 で見た 相模国封戸租交易帳 

がつながります。舎人親王とかに混じって、光明皇后の名前がありました。関連していると思います。長屋王の変のあと、光明皇后に「功封・功田」の引き継がれたことが想像されます。長屋王の変のあとの処分もほとんどありません。つまり、長屋王の家政機関がそっくり引き継がれているかもしれません。問題は、光明皇后と長屋王の関係では、血統では長屋王が優位にあります。簡単には引き継げないと思われます。そのために、光明皇后の権威付けが必要になって、皇太后に立后されたと想像します。しかも藤原不比等からも功田が光明皇后に引き継がれたはずです。光明皇后のいろんな事業も功封・功田があったから成立しており、藤原氏も名目、光明皇后に移転された権益を失いたくないと考えているはずです。その後の藤原仲麻呂も光明皇后の経済力をバックにしています。奈良時代の政争も、国家的な相続問題が争族問題になってたのかもしれません。

2022年12月21日水曜日

藤原仲麻呂と乙巳の変のつながり

 長屋王家や藤原氏に与えられた「功封・功田」の経営とかの話 『藤原仲麻呂-古代王権を動かした異能の政治家』仁藤敦史、中央公論新社 (2021/6/21)で、第四章の仲麻呂の政策の「2父祖三代の顕彰ー『藤家家伝」と要領律令」のところからの発想です。

功臣としての藤原氏
第四の特色は自らの祖先の顕彰である。それは、単に先祖の奉仕を顕彰するにとどまらず、仲麻呂一族(藤原恵美家)の特別扱いと表裏の関係にあることが重要である。・・・ 729年の長屋王の変までは、高市皇子のような壬申の乱の功績(壬申年功)が最大の国家的な功績として評価されていた。だが、以後は「乙巳年功」(鎌足)、「修律令功」(不比等)が国家に対する「大功」として評価されるようになる(天平宝字元年一二月壬子条)。

鎌足の功績評価は、①孝徳朝での難波朝廷への奉仕(慶雲四年四月壬午条)、②天智朝の近江令編集(天平宝字元年閏八月壬戌条)、③皇極朝の乙巳の変(天平宝字元年一二月壬子条)のように、鎌足の死後に重点が変わり、乙巳の変での評価は、仲麻呂執政期以降に定まった。

これは、大きな国家政策の転換に対応する。つまり、知太政官事任命に象徴される天武系王族の尊重(太政官の総括者として天武天皇の子孫が任命される慣行)や「壬申の功臣」たる大伴氏や東国外五位郡司層の優遇(壬申の乱で活躍した東国豪族には準貴族としての外五位が与えられた)から、忠実な律令官僚で準皇族たる藤原氏への重用に変わり、聖武天皇の王権強化と律令制の充実という方向に転換したのである。

このあと、省略しますが、長屋王家や藤原氏に与えられた「功封・功田」の経営とかの話のあとに、

仲麻呂および『藤氏家伝』に象徴される鎌足・不比等についての情報操作=「功臣伝の創出」は、単なる名誉ではなく実利的な側面(恵美家の藤原氏内部での本宗家扱い、および太政大臣・近江国司・功封などの世襲化)を含めて評価する必要がある。

仲麻呂の課題は、ポスト壬申の乱体制の構築であり、それが藤原氏の地位強化につながることを意識していた。

引用が長くなりますが、以下重要と思われるところ、勝手に太字にしてます。

さらに述べるならば、従来の通説は、基本的に仲麻呂により創出された功臣たる鎌足・不比等像に従ってきた。だが、仲麻呂による祖先顕彰を除いて考える必要がある。必ずしも藤原氏は当初から有力な氏族ではなく、律令を熟知した有能な官僚としての藤原氏の抜擢や藤原氏天皇の擁立など、王権側の選択により権力を獲得してきたことを強調しておきたい。

仲麻呂の鎌足・不比等の祖先顕彰ですが、問題は長屋王の変です。父の藤原武智麻呂が変の首謀者と見なされていることがあります。当時の一般的な理解では長屋王の変について、正当性を主張できにくいような環境であったと思います。藤原氏の汚点となっていて、なんとかしなければと、仲麻呂は考えたと思います。藤原氏には藤氏家伝があり、藤原武智麻呂のことが記されていますが、長屋王の変のことは抜け落ちていて藤原氏側の見解は不明ですので推測になります。

長屋王の変がはじめてではなく、それで類する話は過去にもあったとして、③皇極朝の乙巳の変を創作したのではと想像します。長屋王を皇位をねらう蘇我入鹿に、藤原武智麻呂を防ぐ鎌足に見立てているようです。

また大化の改新で、評の代わって郡にしたのも鎌足以来とすれば、郡の正当性をさかのぼることができ、仲麻呂の曾祖父以来の正当性を主張できるメリットはあります。かなりの改竄が孝徳天皇の時代にありそうですが、文句をいう人がいなかったといいうことかもしれません。そうすると②天智朝の近江令編集とかも本当にあったのかなどと疑問がどんどん出てきます。

2022年12月18日日曜日

安積親王の急死と藤原仲麻呂

図書館から借りた 『正倉院の謎―激動の歴史に揺れた宝物 (中公文庫)』、由水常雄、1987/10/10 の天平中期の政治状況が書かれています。 長屋王の変のあと、天然痘の蔓延で藤原四兄弟が死没します(737年?)。

そしてその翌年、聖武天皇と橘氏系の県犬養広刀自との間に生まれた皇位継承者にふさわしい安積親王をさしおいて、聖武帝と光明皇后との間に生まれた皇女の阿倍内親王が、突然に皇太子に立てられた。もちろん、光明皇后を頂点とする藤原氏一族の危機感が、気弱な聖武帝を説得して、このような無理な立太子を強行させたのであろう。

そして、天平一四年(七四二)、皇族としてはうるさい存在であった皇位継承権を持つ塩焼王が、仲麻呂が留守官を務めていた平城宮で捕らえられて、突然、四人の女嬬とともに伊豆三島に流配された。・・・

また、同一六年一月には、聖武帝の難波宮行幸に同行した聖武帝唯一の男王であった安積親王が、これまた仲麻呂が留守官を務めていた恭仁宮に身を休めた時に急死するという、謎の事件が起こっている。この事件については、当時も、仲麻呂が暗殺したのではないかという疑惑がもたれていたらしい。

暗殺説でそうかと思いますが、他の本を探してみると、 『藤原仲麻呂と道鏡: ゆらぐ奈良朝の政治体制』鷺森浩幸、吉川弘文館 (2020/8/01)では、暗殺説はとらないとのことです。

『藤原仲麻呂-古代王権を動かした異能の政治家』仁藤敦史、中央公論新社 (2021/6/21)では、安積親王の急死について、

従来、この事件については、仲麻呂による暗殺説が根強い(横田健一説など)。藤原氏の権力確立のために、安部皇太子の強力なライバルであり大きな障害であった安積親王を除いたとする説である。急死であること、橘氏や大伴氏による確立の可能性、親王の誕生が皇太子基王の誕生と同年で、のちに皇太子が早世したため、次の王子誕生で有利な立場を得るため光明立后を焦ったこと、などが理由として挙げられてきた。

だが、暗殺の直接的な証拠はなく、藤原氏が積極的に皇統を断絶させようとすることもあり得ない。ビタミン欠乏症たる脚気は、足のむくみやしびれが特徴で、心臓機能の低下・心不全を併発する場合には最悪死に至る。私見では安積親王の死去に事件性はないと考える。 暗殺説の前提には、阿倍皇太子よりも安積親王が皇位継承では支持されるはずという暗黙の男子優先の考えがあるが、聖武天皇は明らかに光明皇后の娘である阿倍皇太子を次期天皇としており、・・・藤原氏を母とする王系が優先されるという流れは、すでに聖武天皇の母、宮子の時から一貫している。

安積親王が恭仁京に戻ったのは「脚病」(脚気)ということは続日本紀にあります。 続いて、事件性はないというものの

しかし、安積親王急死の影響は大きかった。以後聖武天皇の直系男子が途絶え、阿倍皇太子に対抗する旧氏族の皇嗣《こうし》擁立候補が統一を欠くようになったからだ。

とあります。つまり、事件性はなくても、結局は藤原氏が有利な情勢になっているということだと思います。

安積親王の急死は、聖武天皇にとっては衝撃であったと想像します。一月に起こってますが、二月には駅鈴・内外印(天皇御璽と太政官印)を難波宮に移しています。また仲麻呂の留守官には別人が任ぜられ、仲麻呂の名前は消えていて見当たりません。聖武天皇は不審の念をもったことは確かと思えます。

2014年正倉院展に出陳されされた聖武天皇の仕込み杖を思い出しました。いざという時のため、身につけていたのだろうと思われます。多分こんなんだったというイメージです。 

weblio辞書から 漆塗鞘御杖刀 (うるしぬりのさやのごじょうとう)


2022年12月8日木曜日

『日本書紀』区分論と改竄の可能性

 前の記事で改竄があったならば、その痕跡があるはずだと考えられます。 コタツ記事みたいですが、ウィキペディアの日本書紀の区分論に

『日本書紀』は内容・語句・音韻など様々な観点から各巻をいくつかのグループに分類できることがわかっており、多くの学者が区分論を展開している。以下、主として坂本太郎と森博達の著作を参考にまとめる。・・・

区分論において近年とりわけ注目されたのは森博達による分析である。森は歌謡などを表記する万葉仮名に用いられている漢字音の音韻の分析によって『日本書紀』を2つのグループ(α群とβ群)に大別することができることを論証した(30巻には歌謡がなく、区分していない)。森の学説は近年の区分論における大きな進展であり、区分論に触れる際にはそれをどのように評価する場合でも大抵の場合言及される[72]。

森による分析でα群に使用されている万葉仮名の漢字音は唐代北方音(漢音)に依拠しており、β群のそれは倭音・複数の字音体系が混在していることが明らかになっている。そして森はさらにそれを発展させ、β群に和習が集中すること、漢文の初歩的な文法・語彙の誤りが頻出することなどから、β群は非中国語話者が主筆担当したと推定している[73]。逆にα群では漢文の誤りが少ない事、和歌の採録時日本語の清音と濁音を区別できていないこと[74]、日本の習俗に精通していないことがわかることなどから、中国系の渡来1世が主たる述作にあたったと結論している[74]。さらにα群・β群内の混在(α群の中に和習の強い文章が混入している)や、特定の表現が頻出する筆癖などから、本文完成後の加筆や潤色等の編纂過程の手掛かりが得られるとしている[75]。

α群とβ群ですが、 ウィキペディアの表では 森の区分で

  • 1-13巻がβ群
  • 14-21巻がα群
  • 22-23巻がβ群
  • 24-27巻がα群
  • 28-29巻がβ群

となってます。巻だけではわかりにくいですが、

  • 卷第三には神武東征があります。
  • 卷第二十二は聖徳太子の時代です。
  • 卷第二十四は皇極天皇の時代で乙巳の変があります。

乙巳の変はα群になります。神武東征や聖徳太子の話はβ群にあり、書紀編纂の初期の状態を残していると考えられます(漢文に厳密ではない部分)。巻第二十四はα群にあたり、この部分が藤原仲麻呂の書き換えた部分と考えられます(漢文の知識があり、和習をきらった?)。長屋王の変の正当性を主張するために書き換えた部分と考えます。確定ではありませんが、可能性は充分あります。

聖徳太子の部分は、β群で古い部分と考えています。藤原仲麻呂は書き換えにくかったところと思います。

神武東征はβ群ですが、古い部分と考えています。大伴旅人が関与したということは、以下のようなところにあります。
大伴旅人と神武東征の話 
鹿児島の古代から神武東征の話 

あと、ウィキペディアのα群の説明で

日本の習俗に精通していないことがわかることなど・・・

とありますが、藤原仲麻呂が意図的に日本の習俗を無視してるのではと思えます。

2022年12月7日水曜日

藤原仲麻呂と『日本書紀』改竄の可能性

 『正倉院の謎』由水常雄、魁星出版 (2007/6/30)を借りたものの読んでませんでした。返却前に読んだだけです。

これまで、正倉院は、光明皇太后が聖武天皇の遺愛の品々を、東大寺の大仏に奉献したことに端を発すると考えられてきた。たしかにうわべの事実はそのとおりであった。しかし、この光明皇太后の奉献という名目が覆い隠している事実をさらけ出してみると、そこには驚くべき剣術棒数の渦巻きが、露呈してきたのであった。聖武天皇の七七忌は、聖武天皇が創建した東大寺において法要されたのではなく、藤原氏の氏寺の興福寺において挙行され、文武百官はすべてこれに隣席した。その当日の六月二十一日、宮中の留守をついて、宮中に厳重に保管されていたーーーいろいろな品々が書いてあるが省略しますーーー、ことごとく宮中から運び出して、大仏に奉献したのであった。・・・これらの行政の重要な荘厳具を宮中から運び出して、東大寺に施入してしまったということは、いったい何を意味するのであろうか。いうまでもなくそれは、藤原仲麻呂が光明皇太后をテコにして実行した藤原氏起死回生のクーデターを示す何ものでもない。正倉院は、藤原仲麻呂と光明皇太后の無血革命を成功させた一大モニュメントであった。

藤原仲麻呂の独断と専横の内容が書かれていますが、天皇御璽印のことが出てきます。 「東大寺封戸処分書勅書」に押印されている天皇御璽印がほかの文書とサイズが違っているとのことです。「東大寺献物帳」では8.7×8.7センチに対し、「押勝東大寺勅書所捺」の方は9.7×9.65センチで、1センチほど大きいとのことです。これが偽印であると主張されています。三文判とかではないので、やはり偽物と思うのが普通と思われます。私に偏見があるかもしれませんが、恵美押勝(藤原仲麻呂)は手段を選ばない人のイメージを持ちます。

ということは、藤原仲麻呂が『日本書紀』の書き換えも行った可能性があります。以前に「乙巳の変」のことで、律令制を重んじるはずが、公然とクーデターのような話が出てきて、その前後とのつながりが不自然なのも納得できます。当時において長屋王の変の正統性を主張するために乙巳の変を創作したと考えられます。

乙巳の変と長屋王の変