2023年10月24日火曜日

ホモ・サピエンスのアメリカへの経路

 特別展「古代メキシコ ―マヤ、アステカ、テオティワカン」の紹介をテレビで放送されていて見たいなと思い、マヤ文明の本を借りてきましたが、そのままでした。以下、忘れないようにとのメモ書きです。

図説 マヤ文明 (ふくろうの本/世界の歴史) 嘉幡茂、河出書房新社、ISBN 9784309762920

上記の本の16ページから、ホモ・サピエンスのアメリカ大陸入植について書かれています。

ホモ・サピエンスは、今から20万ないし15万年前にアフリカで誕生し、12万年前頃に出立した(出アフリカ)と考えられている。そして、各地域へと拡散を開始したのである。長い旅を経て、4万年ほど前には北シベリアまで到達していた。アメリカ大陸へ至る一歩手前である。しかし従来の説(図19、**本には掲載されてますが、省略**)は、・・・、考古学や古生物・環境学などのデータを基に総合的に解釈されており、実証的であるといえる。しかし、このモデル構築は、入植はすべて徒歩によって行われ、当時はまだいかだなどを開発して海を渡る航海術はなかったとの前提に立っており、人類の想像力や可能性は考慮されていない。・・・しかし、北太平洋沿岸部経由説(図20)は、従来の徒歩ルートに加え、実証性が認められるため、第二のルートとしてここ数年大きく注目されている。これはいかだを利用した沿岸ルートである。・・・図21のルート・・・

図21はは図20で氷床の中を通るルートが追加されたものですが、アジアでは関係ないので図20を以下に示します。 千島列島 → カムチャッカ半島 → アリューシャン列島 のコースですが、日本の列島のところを追加しました。 琉球列島とかを介したルートとかありそうです。

引用図

この本ではここ数年注目されているとのことですが、出所はどこか興味があります。

2023年9月29日金曜日

日本漢字の重層性

 『日本語の発音はどう変わってきたか」「てふてふ」から「ちょうちょう」へ、音声史の旅 (中公新書 2740) ISBN-13 978-4121027405

上記の本に日本語の歴史のことが書かれています。重層性とは、たとえば、「行」という文字は、「ゆき」、「おこなう」、「こう」、「ぎょう」、「あん」など多数の読みがあるということです。この違いは漢字の伝わった時代が異なることによります。

日本漢字の音の主たる層には三つある。最も古い層は、古代の倭国がはじめて体系的に中国文化を知った三世紀から六世紀までの中国江南地域に起こった六朝文明の漢字音である。倭人(日本人)は、はじめてこの地の漢字を系統的に勉強した。この古層の漢字の音読みを呉音という。六朝時代は、中国史上例外的に仏教が盛んであったので、呉音には仏教用語が多い。ーーー例は省略ーーー

ついで系統的に日本人が中国文化を学んだのが六世紀から八世紀の隋唐帝国の律令制度の導入を通じてである。隋唐時代の文化の中心は、洛陽、長安のような黄河流域であり、この地に留学した日本人が持ち帰ったのが新層の漢音である。隋唐音をなぜ、「漢音」と呼ぶのか、詳しくは分からないが、奈良時代末期にはすでに「漢音」と読んでいた。ーー以下省略ーーー、

漢字音の三番目の層が十三世紀、鎌倉時代の日宋交流がもたらした唐音(とういん)である。唐音は、宋代の文物、特に禅宗とともに入った語が多い。

最初の古層の時代についての様子はよくわかってません。多分、ダイレクトに中国江南地域から伝わっているはずです。律令体制の採用で、日本の社会は大きく変化したと思います。残念ながら『日本書紀』から、この変化をとらえられそうにありません。

2023年8月25日金曜日

古代の経済成長

 『世界を動かした日本の銀(祥伝社新書 675)』ISBN-13 978-4396116750

を図書館で借りました。この本の宣伝文句は

リアルな数字で知る「真実」 近世まで最貧国だった日本は、いかにして経済大国になったのか? 磯田道史教授は、そこには石見銀山の銀が大きくかかわっていると言う。さらに、日本の銀は中国の貨幣経済化を促してヨーロッパにも影響を与えた、とも(「世界を動かした日本の銀」)

です。銀に注目することで、世界のつながりがわかります。 その本の36ページに、日本の経済指標の推移のグラフがあります。

730年から1874年の、日本の一人あたりGDPを総人口やGDPとともに示したものです。900年ぐらいまで、GDPは緩やかに上昇し、一人あたりのGDPも上昇しています。おそらく、田など耕作面積が増えたことで経済成長していったのでしょう。渡来人や大陸からの技術導入も寄与したかもしれません。

以下続きます。この部分が重要と思われますが、引用の元図のコピーが以下です。赤矢印のところです。



図の出所は 『経済成長の日本史―古代から近世の超長期GDP推計 730-1874―』高島正憲、。ISBN-978-4815808907

こちらでは、

8世紀から15世紀の古代・中世前半における日本の経済成長は、古代前半に成長の画期を確認することができる。奈良時代に中央集権国家を確立した律令国家は、社会経済における制度を整備し生産力の拡充をはかり、その努力は耕地面積・生産量の上昇にあらわれていたように一定の成果を生んだことは推計結果からも明らかである。ただし、古代の社会経済は、その制度機能の脆弱さにより国家のパーフォーマンスが低下して以降は目立った経済成長はおこることはなかった。一人あたり総生産で見るかぎり、その成長は停滞的なものであり、その状態は14世紀まで続いた。人口と総生産は全体としては成長が加速することはなく、ゆるやかな成長を続けていた。

この赤の部分が、多分、中国からの影響だと妄想されますが、国別比較の図がありますが、見ても中国のデータがないのでわかりません。残念です。 図ので出所は同じ本です。



2023年7月31日月曜日

埼玉県の行田市の稲荷山古墳出土鉄剣

 「ブラタモリ#242」で埼玉県の行田市の特集でした。2023年7月15日の放送で忘れてしまいそうです。 行田市には前玉(さきたま)神社があり、ここが埼玉の地名の発祥ということです。 行田市のHPにマップがあります。ありがたく、このPDFを見ます。 行田まち歩きマップ (PDFファイル: 8.4MB) 

QRの前玉神社の解説動画があります。 

前玉神社は古墳の上にありとのことで、古墳で行われていた祭祀儀礼が神社形式に移行したことを想像させます。古い神社であろうとは思われます。

丸墓山古墳の解説動画が次にあります。QRコードがあります。 

名前からわかりますが、円墳です。105mとされる大型の古墳です。

丸墓山古墳が、全国でもっとも大きい円墳であること、埼玉古墳群でもっとも盛土量が多いことも忘れてはならない。同時期の大王墓、真の継体陵と考えられる大阪府の今城塚古墳が全長190、後円部径100mであるから、円丘部のみを比較した場合、稲荷山古墳、二子山古墳と続いた大型前方後円墳が、丸墓山古墳の段階で円墳となること、丸墓山古墳が二子山古墳の前方に築造されたこと、唯一葺石《ふきいし》をほどこす古墳であることなどの点が疑問とされる。この疑問は、『日本書紀』安閑天皇元(534)年に記された武蔵国造の争乱と関係しそうである。
(埼玉県の歴史散歩、山川出版社 (2005/2/15)200頁より)

さて、稲荷山古墳出土鉄剣が有名ですが、銘文の漢字に「杖刀人首」と読めるところがあることから、中央政権に仕えたことがわかるとのことです。

今まで、考えてなかったのですが、この地域が利根川流域にあり、水運により、利根川を下り、鹿島神宮・香取神宮を経由し、熱田神宮、伊勢神宮とルートが出来ていて、中央とのつながりを持っていたのかもと思いました。

関東造盆地運動により、この地域が平坦地ができて、農耕に適した地域として開発されて、古代より発達したのかもとも思えます。

酒巻古墳群(酒巻21号墳)*解説動画 

利根川のそばにあります。

2023年7月17日月曜日

吉野ヶ里遺跡発掘/石棺墓 “×”(バツ)の意味

 7月4日のクローズアップ現代で放送されていました。

吉野ヶ里遺跡では10年ぶりに発掘調査を再開しました。調査している場所は、33年前から「謎のエリア」として注目されていた日吉神社境内地跡地です。今回の調査は、5月3日に開始し、6月3日まで実施しました。調査は、一旦中断し、雨期や猛暑の期間を避け、9月から本格的に再開します。9月からはさらに調査範囲を広げて、「謎のエリア」の解明を進めていきます。https://www.pref.saga.lg.jp/kiji00385779/index.html

石棺墓には、無数の「×(バツ)」が刻まれていて、これは何だろうということで、1つの説として星を表しているのではないかということです。

クローズアップ現代のQRコードのリンクです。 

割れた2枚の石はもともと1枚だったとか、大きい×は明るい星であるとか、ありましたがそうだろうと思います。

古代には天文の知識が重要視されていて、話が飛びますが、天武天皇の天文や遁甲(とんこう)の術につながるように思います。

忘れてしまいそうですが、メモ書きです。

2023年4月26日水曜日

倭国の想像図

 『人類の起源-古代DNAが語るホモ・サピエンスの「大いなる旅」 (中公新書, 2683) 』篠田謙一、中央公論新社 (2022/2/25)の中にある核ゲノムの都道府県別SNP解析(p.198)を見て、以前の図を思い出しました。

ブログは以下の記事。 47都道府県人のゲノムが明かす 日本人の起源 

図は以下。 

ゲノム県別図

参考図 邪馬台国が九州にあり、呉越の人がやってきたとの想像図

魏呉越の図


邪馬台国が九州にあり、呉越の人がやってきたとの想像図です。

ゲノム図が七世紀の時代をあらわしていると考えると、下の想像図が描けます。 渡来人に近い橙色の地域を見ていくと、四国太平洋側、和歌山県、奈良県、滋賀県、京都府、石川県のところになります。青の線で結びました。天武天皇の新勢力と見なします。一方、倭国吉備説で考えているので、赤の楕円が倭国になります。岡山県付近が倭国の中心になります。楕円の大きさは適当で、イメージで、もう少し広いかもしれません。遺伝子的には若干、渡来人さが天武天皇派より2段ほど劣るところです。青の破線は出雲と連携してるかなとのことで書き加えました。天武天皇派が倭国を包囲して、最終的に日本に統一されます。岐阜県や愛知県も倭国であって分断されていたかもしれません。

倭国地図






2023年4月22日土曜日

ウラル・アルタイと相撲?

 近鉄南大阪線当麻寺駅より當麻寺に歩いて行く道中に葛城市相撲館「けはや座」があります。相撲の開祖「當麻蹶速」を顕彰する目的で平成2年の5月にオープンしました、とのことです。

当麻蹴速《たいまのけはや》については、

『日本書紀』によれば、蹴速は大和国の当麻邑(たいまのむら、現奈良県葛城市當麻)に住み、強力を誇って生死を問わない勝負をする者を欲していたため、これを聞いた垂仁天皇が出雲国から勇士であると評判の野見宿禰を召し寄せ、捔力(すまひ)で対戦させたところ、互いに蹴り合った後に、蹴速は宿禰に腰を踏み折られて死んだといい、蹴速の土地は没収されて勝者の野見宿禰の土地となったという[1]。

「蹴速」という名前は、蹴り技の名手であったことを示すために名付けられたと推測されている[2]。また、葛城市當麻には蹴速の塚と伝わる蹴速塚がある。(ウィキペディア「当麻蹴速」より)

相撲の開祖となってますが、「捔力」と表現されていて、相撲とは思えませんので格闘技の開祖的な人だと思います。勝った野見宿禰が出雲の出身だということが問題です。出雲が相撲の本場の地であることをイメージさせています。現在の相撲ではモンゴル出身の力士が活躍していますが、モンゴルには相撲の素地のようなものがあり、力士が飛行機でやってきます。昔であったら、船でやってくることになります。到着地が出雲とかであって、出雲の地が日本での相撲の隆盛地になったのではと想像します。 各地域の相撲の様子です。ウィキペディアです。
モンゴル相撲 

トルコでもヤールギュレシというものがあるそうです。 

これらの地域をみて、相撲がウラル・アルタイ言語の地方にある格闘技かと思いまし。しかし、そうではなく各地域にあるようです。

インドとかはクシュティー 

中国ではシュアイジャオ 

相撲がウラルアルタイの文化にあるとは言えそうにないです。

『日本書紀』の垂仁天皇ですが、もちろん三世紀とか四世紀の話ではありません。七世紀の話を過去に想定して展開したものですが、だれをモデルにしたかは不明です。しかし、先代の崇神天皇の時にも、出雲とつながりのある三輪山の話があります。一連の出雲と関係した話の中で、野見宿禰が出てくるので、話の都合上、出雲出身としただけかもしれません。対戦の日も「垂仁天皇7年7月乙亥」とラッキーセブンになってます。継続した展開の中で相撲の話を入れておこうとしています。

古墳の埴輪での力士像では、裸にふんどし姿に見えますので、北方系ではなく南方系に思えます。捔力の対戦は格闘技であって相撲での対決ではなさそうですので、野見宿禰が南方出身とは考えにくいです。絶対的にそうだとは言えませんが、イメージとしては出雲出身に思えます。

當麻寺金堂の四天王像が頭にあっての偏見かもしれませんが、出雲の地域からの影響があったかもしれないという思いつきの話です。

2023年4月16日日曜日

支石墓、日本人のルーツ

 『縄文のビーナス 遺伝子から辿る日本民族の原像』古村恭三郎、郁朋社 (2018/11/21)を借りてきました。日本への江南からのルートのことがあったのでメモ書きです。

この本では、遺伝子の話があり重要ですが、飛ばします。日本人のルーツとして、先住の縄文人とそこへやってきた渡来人について北方説と南方説があり、その論点が述べられています。その中に支石墓があります。 著者は南方説を取っており、長江流域よりきたとしています。支石墓にはテーブル型と碁盤型があって、朝鮮半島の北はテーブル型で南は碁盤型とのことです。テーブルというのは薄い石板を支石で支える形、碁盤型は碁盤のイメージで大きな塊の上の石を小さな石で支えるような形です。この碁盤型が長江よりやってきたとの考えです。

支石墓について、平成26年度の支石墓の謎というシンポジウムのPDFがありました。写真とかあり、わかりやすいと思います。 

日本の支石墓も朝鮮半島(韓半島となってましたが一般的だろうかなとは疑問に思います。本のタイトルでも朝鮮語ではなく韓国語ばかりで、北朝鮮の方と言葉が違うのかなという気がします。微妙な使い分けがあるようですが、わかりません。)から伝来したようなことのようです。 支石墓の分布図が上記の本にあります。支石墓の謎のPDFにもあったのですが、ネット上でないかと思ったら、支石墓が世界遺産になっているようで、その紹介の「世界遺産 和順支石墓遺跡」のところ、以下に分布図がありました。 海岸と川に沿って分布する支石墓 

世界遺産 和順支石墓遺跡は以下 

朝鮮半島の西南端に突出していて、単純には長江からの伝来を、感じます。 またウィキペディアでは中国には支石墓はないと断言しています。支石墓の謎のPDFでも、

長江流域の石棚が韓半島南部に伝達したという説(陳2003)がある。いわゆる南方ルートを意識したものであるが、実証されていない。

とあります。平成26年なので、2014年の話です。以下の記事もあります。

西南学院大名誉教授・高倉洋彰氏 「支石墓」から見る古代の交流 

の記事で

済州島にも支石墓があるが、ここの支石墓は変わっている。墓は地上に造られていて、板石を楕円形に立て並べた形は卓子形に通じないこともないが、印象はまったく異なる。  中国浙江省温州市は温州ミカンの原産地として知られる。その隣に瑞安というところがある。跳魚(ムツゴロウ)の産地で、有明海と同様の潟スキーもある。「炸煮跳魚」という飴煮状の料理を食べたが、黒い外観と白い肉、そして味はまさにムツゴロウだった。アゲマキや白玉団子もあり、佐賀の雰囲気だ。箕子麺という平たい麺があったが、名古屋のキシメンのルーツは、案外この辺りにあるのかもしれない。

瑞安には、不思議なことに支石墓が集中している。しかも、済州島の支石墓に酷似していた。  瑞安の近くには棋盤山という地名もある。「碁盤」に近いのは偶然だろうか。ともかく、中国・温州から海岸沿いに北上し、寧波から舟山列島を経てさらに北上すれば済州島に行けないこともない。  かつてこうした交流路があったのだろうか-。支石墓分布をみていると、想像が膨らんでくる。

長江・支石墓の検索すると 古代東アジアの墳墓構築における地中水対策と変遷 がありました。 この中の、「はじめに」で

特に土を盛り上げた墳墓は、地中水対策などの観点から地下埋葬 (黄河流域、朝鮮半島北部を含む半島の大部分)と地上埋葬(長江下流域、朝鮮半島南西部、北部九州)に別れることなどである。

とあります。最後の表で、遼東の支石墓半島の支石墓から、碁盤式支石墓(朝鮮半島南部、北部九州)に影響を与えた矢印がしめされています。

表の体裁上、長江流域の江南土墩墓から北部九州の墳丘墓への細い矢印は省いた。

とあります。これが、最終的に長江ルートになっているかもしれません。 ややこしくなってきました。長江ルートはありそうだとのことで打ち切りとします。

2023年4月13日木曜日

朝鮮語と日本語の分岐点

 『ことばは国家を超える ――日本語、ウラル・アルタイ語、ツラン主義 (ちくま新書)新書』田中克彦、筑摩書房 (2021/4/10) の中に、金大中大統領訪日、金大統領の国会演説の一部が載ってました。朝鮮語と日本語は似ている例です。ほかにもあると思いますが、ネットで同文を探し[注1]、グーグル翻訳しました。ハングルがわかりませんので、アルファベットです。以下、文字のズレがありますが、示します。太字で対応がわかると思います。


han-il yang-gug-eun hamkke ulal-altai gyetong-ui
韓日  両国   共に、 ウラル・アルタイ系統 

eon-eoleul sayonghago iss-eumyeo
言語   使用 して お 

bulgyowa yugyomunhwado gong-yuhago issseubnida.
仏教や  儒教 文化  共 有 して い ます


朝鮮語と日本語は、単語・発音・接尾辞などちがいますが、枠組みは同じです。似ていると感じます。どこかの時点で分かれ、別の道を歩んでると考えられます。

共に漢字の文化圏にあるので、単語に漢字からの伝来を感じます。中国の影響がありそうですが、それでも語順の並びが同等であることは大きいです。朝鮮語の発音も中国の発音の有気音・無気音の影響か、日本の有声音・無声音とは違いますが、二次的な問題に思えます。

使用する単語とか、有気音・無気音と有声音・無声音などの違いは時間経過で変化すると思いますが、言語の枠組み的なものは変化が小さいように思われます。金大統領の話の千五百年はどうかはわかりませんが、元々は同じような言語が分離され、発音や単語が別々に変化しても言語のフレームは残ったと考えたいです。著者のタイトルに合わせれば、「国家はことばを変える」ということでしょう。同一のような言語が、朝鮮語と日本語に分かれたのはいつの時代かということになります。

想像の話になりますが、歴史のわかる時代では、白村江の戦いのころではと妄想します。イメージはNATOです。これは軍事的な同盟組織で、第三国(者)による攻撃から互いに防衛するためのものです。当時も百済はゆるやかな倭国連合体の一員であって、唐・新羅からの攻撃に対抗したのですが、倭国側は寄せ集めで大敗しました。倭国は朝鮮半島から除外され、言語的には別れていったように思います。この時には、おそらく統一された日本語のようなものもなかったとは思います。朝鮮語の発展の歴史もしりませんので、妄想段階のお話です。

言語的に証明するものはありませんが、つながりを示す文化的なものはありそうに思われます。以前に 「朝鮮半島の前方後円墳」 

で書いてました。

前方後円墳の時代、朝鮮半島にもあったということは埋葬文化に共通するものがあったということです。朝鮮半島南部と北九州が同一の海洋文化圏として機能していたと想像されます。唐との戦いも。百済という倭国連合への侵略に対する防衛であったと考えられます。

[注1]:以下より取り込みました。 民団新聞 

◆過去を直視し未来志向関係を

尊敬する議員の皆様。

韓国と日本の関係は、実に長くかつ深いと言えましょう。われわれ両国は千五百年以上に及ぶ交流の歴史を持っています。  数多くの人々が韓半島から日本に渡りました。韓日両国は共に、ウラル・アルタイ系統の言語を使用しており、仏教や儒教文化も共有しています。徳川三百年の鎖国の時代にも、日本は韓国と、頻繁に往来しました。  それに比して、歴史的に日本と韓国の関係が不幸だったのは、約四百年前に日本が韓国を侵略した七年間と、今世紀初めの植民地支配三十五年間であります。・・・

2023年4月11日火曜日

アルタイのデニソワ人

 アルタイつながりですが、『人類の起源-古代DNAが語るホモ・サピエンスの「大いなる旅」 (中公新書, 2683)』篠田謙一、中央公論新社 (2022/2/25)を借りてきて読んでます。

41頁にデニソワ人のことが書いてあります。

デニソワ洞窟は、ロシアと中国そしてモンゴルの国境に近いシベリア西部のアルタイ地方にある洞窟です。二〇一〇年に、この洞窟から出土した指の骨(デニソワ三号)と臼歯(デニソワ四号)のDNAが分析され、その結果からネアンデルタール人ともホモ・サピエンスとも異なる未知の人類のものだということが判明しました。デニソワ人と呼ばれるようになったこの未知の人類は、形態的な特徴が不明なまま、DNAの証拠だけで新種とされた最初の人類です。

デニソワ洞窟からはネアンデルタール人だけでなく、ホモ・サピエンスがつくった遺物も見つかっており、少なくとも異なる三種の人類によって利用されたことがわかっています。・・・

遺伝の話が続いたあと、

ネアンデルタール人と私たちが、数十万年間にわたって交雑を繰り返していた可能性があるということです。

ホモ・サピエンスの出アフリカの定説も見直しの可能性があるようです。

45頁には

デニソワ人の正体
デニソワ洞窟からは、二〇一八年にさらに驚くべき発見が報告されています。この洞窟で発見された九万年前のものとされる一センチメートルほどの長幹骨の破片(デニソワ一一号)から抽出されたDNAが分析され、この人物がネアンデルタール人の母親とデニソワ人の父親から生まれた混血であることが判明したのです。骨の厚さから一三歳前後と推定されており、ゲノム分析の結果、女性であることがわかりました。デニソワ洞窟からはネアンデルタール人とデニソン人のゲノムが見つかってますから、両者が交雑したとしても不思議ではないのですが、その直接的な証拠が見つかるのは奇跡的なできごとというべきでしょう。

48頁で、

デニソワ人の分布を証明する直接的な化石証拠は、今のところデニソワ洞窟とチベット高原だけですが、彼らがより広範囲な地域に分布していたことをうかがわせる証拠が、ゲノムの解析結果から得られています。・・・

また、チベット高原の現代人が持つ赤血球を調べることで、その中で働く遺伝子の変異がデニソワ人に由来することも判明しています。この変異は酸素の少ない高地で有利になるもので、ホモ・サピエンスが高地に進出する際に、この変異した遺伝子を交雑によってデニソワ人から受け取ったと考えられます。

ホモ・サピエンスはアフリカ出立して、進化しながら各地域に広まったのではなく、先達の適応した遺伝子を取り込みながら広がったということです。進化は一直線上でなく、からみながらだったということを考えれば、言語の進化も同様に思えてきます。

ウラル・アルタイ言語の元がネアンデルタール人からかと思いそうになりますが、65頁には

ホモ・サピエンスの持つ言語能力に関係するといわれているFOXP2遺伝子を取り囲んでいるゲノム領域では、ネアンデルタール人由来のものがまったく見られないことが判明しており、そこから言語に関する遺伝子領域が、ネアンデルタール人と私たちの違いを生み出している可能性も指摘されています。さらに、遺伝子の発現を制御する調節領域では、ネアンデルタール人由来の遺伝子が排除される傾向が強いことも明らかになっています。

残念ながら『人類の起源』で前半1/4ぐらいのメモ書きです。 もう少し読めればと思います。

2023年4月10日月曜日

ウラル・アルタイ語

 以前に 『ガラスの来た道: 古代ユーラシアをつなぐ輝き (563) (歴史文化ライブラリー 563)』小寺智津子、吉川弘文館 (2022/12/19) で匈奴の話がありました。冒頓単于の時代、強大な版図を持っていて、その時の言語は何だったか疑問でした。 シルクロードがあるので、ウラル・アルタイ語に関係するのかと思ったのでしょう。『ことばは国家を超える ――日本語、ウラル・アルタイ語、ツラン主義 (ちくま新書)新書』田中克彦、筑摩書房 (2021/4/10)を借りてきました。

ウラル・アルタイ語がどうして出てくるのかの疑問にこたえてくれました。ウラルとはウラル山脈でユーラシアとアジアを分ける山脈です。アルタイ山脈は、西シベリア、モンゴル、カザフスタンにまたがる山脈で、その山麓でモンゴル語とトルコ語の諸方言が話されているとのことですが、どうしてこの地域が注目されたかについて書かれていました。 北方戦争でロシアの捕虜となったスウェーデン人のタッベルトがいた。ロシア人の悪口が書いてあって、自分たちは手を汚すことなくシベリア開発をすすめ、

第二次大戦後は60万人もの日本人がシベリアの開発に大きく貢献したのである。

とか書いてます。タッベルトに戻って、シベリアでの言語をまとめ、この人が戻って一族がフォン・ストラーレンベルクの名で爵位を得た。その名を冠して、ストックホルムで著書が出版されたとのこと。

いろんな話が出てきて、「ウラル・アルタイ語」の元は、「トゥラン語族」と言われており、これはフリードリッヒ・マックス・ミューラーによるとして204頁に

形態論的類似 さて、ミュラーの『言語の科学についての講義』では、トゥラン諸語は「アーリア語やセム語」のように、同系の語族(family)というよりは語種(class)もしくは語群(group)と言うべきもので、系譜的類似というよりは形態論的類似を共有すると言っている。この指摘は、言語は類型論的な共通性によってグループをなす私の主張に近い。こうしたトゥラン語群はさらに北方群と南方群に分けられ、北方群は時に「ウラル・アルタイ」もしくは「ウグリア・タタール」とも呼んでいる。南方群に入るのはタミール、ブータン、タイ、マラヨ、ポリネシアであると述べている。

これらトゥラン諸語は、アーリアやセムとは異なり、遊牧民であるから、「かって政治的、社会的文化的核が形成されたことがない」と言っている。

マックス・ミュラーの「トゥラン語群」は、屈折語を原理とする印欧語に対立する、あるときは、そこにはいれなかった、膠着原理にもとづく雑多な諸言語をまとめて呼ぶという便宜的な性格が強い。ミュラーは膠着型の言語が発展して屈折語に移ったとという考えを示している。

蔑称として「トゥラン」で、207頁に

ヨーロッパでは言語の生存競争に勝ち抜き、偉大なヨーロッパ文明の担い手、印欧諸語の共通起源を立証した、印欧語比較言語学が印欧語と印欧文化の優秀性と、それを担ったアーリア民族をたたえるとともに、その影の面として、印欧語のすぐれた特徴を欠いた言語、非アーリア諸族に刺激を与えないではおかなかった。・・・

この後に、ハンガリーに生じたトゥラン主義と続きます。印欧語に対立するものとして生まれたとのようです。ハンガリー語やフィンランド語は非ヨーロッパ言語で起源を探す中でウラル・アルタイ語にたどり着いたようです。

ウラル・アルタイ語の話はここまで。以下、屈折語と膠着語の説明メモです。

ここで屈折語についての解説が前の方にあります。フンボルトによる類型です。99頁。

「屈折」とはラテン語のflexio(曲げる)を漢字で翻訳したことばで、最近は日本語でもとりいれてフレキシブルなどと使う。では何を「曲げる」かと言えば、ある単語の中味である母音を変化させることを言う。日本語の単語には、このような方式はない。日本語では単語はどのような環境の中でも変わらず一定していて、どんな文法要素が後につづこうと、ヤマ、カワ、ウミ、モリのように、一定の変わらぬ形であらわれる。ところが英語ではそうではない。簡単な例を出すと、
   foot - feet
   man - men
がそれで、[fut](足)の語頭と語末の子音をそのままにしておいて、単語の中味そのものである[u]を[i:]に入れ替えると複数になる。ーー日本語では、ヒトビトとかヒチドモとかで後に継ぎ足すなっど例が示されるーー

こうした、単語の中味の母音そのものを変える(曲げる)ことによって名詞を動詞にしたり、形容詞を名詞にしたりすることさえやる。例えば
  food ー feed  食べ物 ー 食べさせる
  hot ー heat  熱い ー 熱さ
のように、はじめのf音、語末の子音はそのままにしておいて、中味の母音を入れ替えれば形容詞が名詞だの動詞になる。

膠着型
このように、複数を表すのに「タチ、ラ、ドモ」のような語尾を「くっつける」方法をフンボルトは「膠着」と呼んだのである。「膠着」という訳語は、agglutinierendのラテン語の語根になっているgul(s)を「膠」と訳したところにはじまる。ヒトビトのように、「くっつけること」を「膠でくっつける」と訳したのであるが、この膠はノリであってもかまわないのだから「ノリづけ」と言ったほうがわかりやすい。

モンゴル出身の相撲力士の日本語が流暢との話題が出てきます。モンゴル語はわかりませんが、言語としての枠組みが両者で似ていて、単語を入れ替えるだけで成立しやすいのではと妄想します。そうであれば、単語が似ているとか似ていないということはそれほど問題ではなくなります。

2023年3月31日金曜日

ガラスの知識

 以下の本からのメモ書きです。 『ガラスの来た道: 古代ユーラシアをつなぐ輝き (563) (歴史文化ライブラリー 563)』小寺智津子、吉川弘文館 (2022/12/19)

8頁、「ガラスの原材料と生産」です。

ガラスはシリカ(SiO₂)(二酸化ケイ素)を主成分とし、溶融剤を加えて作られる。溶融剤は、シリカ原料を溶けやすくし、ガラスの粘度を下げるなど作業性を良くする働きがある。シリカに溶融剤とさらに着色剤などをいれて高温で加熱すると、これらの材料からガラスへと変化する。一度ガラスへと変化すると、冷えても、また再溶融しても、ガラスはガラスのままである。

シリカの代表的なものは石英《せきえい》である。石英は岩石や砂、土などの中に広く分布し、ガラス原料として適したものとしては珪石《けいせき》や珪砂《けいさ》がある。溶融剤には、鉛やソーダなど様々な物質がそれに使われる。シリカと溶融剤からガラスを生産するには、おおよそ一二〇〇度以上の温度を必要とする。これはちょうど鉄の製造において必要な温度である。つまり鉄生産技術のない日本では、弥生時代にガラスの原料からの生産技術は無かったことがわかる。

一方、一度作られたガラスを加熱して鋳型などで形を作り直すのは八〇〇度程度から可能である。これは実は青銅器の製造温度と重なるのである。

鉄の製造技術はないが、温度の低い青銅器の製造技術がある、というのは古代において中心的な文明の周辺にある諸文化においてみられる状況である。そのような周辺の社会において、高度な文明から入手したガラスを利用して、独自のスタイルのガラス製品が製作(再加工)されていくのである。まさに我々の弥生時代の文化がそれに当てはまる。

13頁に溶融剤が地域によってさまざまであることが書いてます。

例えば古代ローマやエジプトなど地中海沿岸ではナトロン(天然ソーダ)を溶融剤として使用し、ナトロンガラスが作られた。

一方で中国の戦国時代から漢代には、バリウムを特徴的に含んだ鉛バリウムガラスが作られた。このためガラスの化学分析をすると、その基礎ガラスの化学組成から、このガラス素材がどこで作られたかがわかる、というわけだ。

問題は、「ガラスの生産地=そのガラス製品の製作地」とはならないことがあるとのことです。一次製品とか二次製品とかは考古学の手法によってクリアになるとのことです。

今まで気にしてなかったですが、陶磁器も焼成温度とかで関係ありそうです。釉薬とかにガラス質のものが含まれると一二〇〇度とかの温度が作れないと出来ないことになります。

2023年3月24日金曜日

ガラスの来た道

 『ローマ文化王国ー新羅』の可能性がありますが、

新羅のトンボ玉のことがあり、 『ガラスの来た道: 古代ユーラシアをつなぐ輝き (563) (歴史文化ライブラリー 563)』小寺智津子、吉川弘文館 (2022/12/19) を借りてきました。

後半に新羅のガラス器のことがあります。214頁から

中国大陸全体が動乱の時代であったこの魏晋南北朝と同じ頃、朝鮮半島では三国が鼎立する初期国家時代、三国時代(四世紀頃~六六八年)を迎えていた。この三国時代の古墳から多数の西方製ガラス器が副葬品として出土している(表8)。大半が新羅《しんら》の都である慶尚北道慶州とその周辺の古墳から出土しており、高句麗《こうくり》・百済《くだら》の墓からいまだ出土していない。出土した慶州の古墳は王陵と王族の墓がほとんどで、五世紀後半頃から六世紀前半までに築かれた積石木槨墓《つみいしもっかくぼ》であった。王陵の皇南大塚南墳北墳から出土した一二点をはじめ、約一〇基の古墳から二〇点強のガラス器が出土した(図59)。

図や表は省略してます。少し飛ばします。

新羅の古墳から出土した文様を持つガラス器は、皇南大塚北墳出土の円形切子杯(ササンガラス器)以外は、その器形と類例から後期ローマンガラスであると考えられている。多数の類型品がユーラシア各地から出土しており、特に黒海沿岸、南ロシア、カフカスといった地域に出土が多い(由水一九九二b)。

これまでは東地中海地中海、またはライン川流域などで作られたローマンガラスがこの地まで運ばれたと考えられていた。が近年行われたこれらガラス器の化学分析から、皇南大塚南墳出土ガラス器が中央アジアにおける製作の可能性が浮かび上がってきたのである(谷一・工藤二〇一一)。とはいえ器形は明らかに後期ローマンガラスの形式を継いでいる。このため、ローマンガラスの工房の工人が中央アジアに移住して製作を行ったのか、といった疑問も生じる。中央アジアのガラス製作の詳細は不明であり、謎が深くなるばかりである。

続いて、ガラス器の搬入ルートです。

この新羅の五~六世紀半ばの古墳からは、ガラス器以外にも西方系の遺物が多数出土している。ーーー例については省略ーーー

新羅自体はその馬具や金製装身具などからも北方遊牧騎馬集団との密接なつながりがあると考えられており、これらガラス器や搬入金製品も北方遊牧騎馬集団とのつながりの中でもたらされたと考えられるものである。ーーー省略ーーー

当時ガラス器だけでなく多数の西方の文物が、草原ルートで新羅にもたらされたと考えられている。またオアシスルートで中央アジアに入ってのち、天山山脈近辺で北上し草原ルートに合流するルートも考えられよう。中央アジアで製作されたガラス器ならば、製作地の場所次第でどちらのルートを通ったか明らかだろう。

シルクロードのことは、最初の3頁にあります。 地図があるので見れば良いのですが、 オアシスルートは、中央アジアのオアシス都市を結ぶルートです。海上ルートは船を使うルートです。草原ルートは一応文章を写します。

草原(ステップ)ルートは黒海沿岸を起点とし、南ロシアの草原地帯からカザフ高原、アルタイ山麓、モンゴル高原を経て中国の北方長城地帯に至り、平城《へいじょう》(現在の大同)に達するルートである。ユーラシアの大草原(ステップ)地帯を通るため、この名が付いている。

これらのルートは組み合わせて使われる場合もあるとのことです。

シルクロードの先はどうなってるか、新羅の朝鮮半島にどのように入ってきたか、草原ルートから中国には入らず高句麗をへてもたらされた可能性も十分にあるとのことです。 ただ、金官伽耶の遺物に鮮卑族とのつながりがあり、北朝の鮮卑族を経由した可能性もあるとのことです。

ようやくトンボ玉の話になります。トンボ玉は装飾珠と表記されています。三国時代の装飾珠について、219頁です。

この他、西方製ガラス製品として装飾珠が出土している。その数量は多くない。最も興味深い装飾珠は、慶州の味趨《みすう》王陵地区C地区4号墳(五~六世紀)から出土したものだろう。王とみられる被葬者がつけていた首飾りの珠類の一点として出土した。直径一・八㌢のガラス珠は、紺色ガラス地に白い鳥・人面・花の枝などが文様として象嵌されている。この珠は黒海沿岸や、地中海周辺における製作などが想定されるものである。ガラス器と同様、ローマ文化圏で製作された珠が新羅に伝来したものだろう。アジアではこのような文様を持つモザイク珠は日本の香川県多度津町盛土山古墳(五世紀)や、ジャワ島(六世紀)で出土している。この他、縞文の珠が、百済の忠清南道公州市武寧王陵や南西部の墳墓、慶州の古墳などから一〇点ほど出土している(古代歴史文化協議会編二〇一八)。縞文の中でも雁木文の珠の類例は広くアジア各地でも出土しており、日本の福岡県こうしんのう塚古墳(六世紀)や、ベトナムのオケオ遺跡などから出土している。特に雁木文の珠は西方製だけでなく、南海製の可能性も考えられる。

これらの装飾珠は東南アジアから出土していることから、海上ルートでも伝来も考えられている。しかし人面装飾のあるモザイク珠は、ガラス器などとともに草原ルートを経て新羅へもたらされた可能性が高いのではないだろうか。
ーーー新羅では六世紀半ば以降に出土しなくなった話になりますが、省略ーーー

これからの調査研究になりますが、トンボ玉も海上ルートの可能性もありそうです。

しかし、この本では草原ルートのことが詳しく述べられています。熟読していないので、ミスってるかもしれませんが、80頁には

紀元前三世紀を過ぎると強大な国家が登場する。西方社会の巨大化していく国家がローマであり、東方のそれが漢えある。さらにその頃、中央アジアにおいても遊牧騎馬民族を出自とする巨大国家パルティアが登場、北方草原地帯には遊牧騎馬民族国家匈奴が登場し、ユーラシア全体のつながりとシルクロードの発達の上で重要な役を演じる。

パルティアのところは省略します。

さらにユーラシアの北方草原地帯には強力な騎馬遊牧集団である匈奴がその勢力を広げていた。匈奴はモンゴル高原を本拠地とする遊牧騎馬集団で、中央アジアの草原ステップ地帯を強力な政治力ではじめて統括した。前二〇九年には冒頓単于《ぼくとつぜんう》によって統一され、オアシス諸国家を抑えた匈奴は強大な勢力となった。ユーラシアのハイウェイである草原ルートとオアシスルートの双方を抑え、東西交渉にまさに大きな役割を担ったのである。

匈奴を中華思想の影響で蛮族という偏見を持っていました。ウラル・アルタイ語族とか軽視してましたが、間違ってたと思います。

2023年3月22日水曜日

桃太郎伝説と温羅(うら)伝説

 桃太郎伝説と温羅伝説がコンパクトにまとまっています。 岡山シティミュージアムのところにありました。


桃太郎=吉備津彦、鬼=温羅の戦いと混然一体となった話です。 今までの記事で、桃太郎伝説の影響を受けてしまってるかもしれません。エンタメ的な話になっていて、観光とかでは良いのですが、大和朝廷とか渡来人の扱いなど迎合しているところとか、郷土愛的なものとか混ざっています。ギャップは感じます。思い込みを排していかないといけないとは思います。

以下の本に書いてあったのをメモ書きします。

『民俗学読本―フィールドへのいざない―』髙岡 弘幸 (著, 編集), 島村 恭則 (著, 編集), 川村 清志 (著, 編集), 松村 薫子 (著, 編集)、晃洋書房; A5版 (2019/11/10)

「桃太郎」と伝説の「語り直し」
として、孫 嘉寧 氏が書かれています。

桃太郎伝説は、岡山県だけでなく、香川県にもあり、熊野神社に伝わる鬼退治によって地名が鬼無《きなし》になったという地名説話からとのこと。桃太郎の鬼退治に結びつき、神社も熊野権現桃太郎神社となったなどのことからの展開です。

「初めてこの地域の桃太郎伝説を唱えた人」という2人のキーパーソンが書いてあります。

岡山の温羅伝説桃太郎=吉備津彦説は、岡山の彫塑・鋳金家の難波金之助によって初めて提唱されたのである。難波氏は1930年に『桃太郎の史實』を著し、歴史文献や地元の口伝などの考察から、全国的に有名な桃太郎の鬼退治という説話の原型が岡山の温羅伝説であると提起した。

香川の鬼無ー女木島桃太郎伝説は、香川の小学校校長の橋本仙太郎によって最初に体系立てて提唱されたのである。橋本氏は1930年に新聞『四国民報』(のちの『四国新聞』)に「童話『桃太郎』の発祥地は讃岐の鬼無」という記事を連載し、地名と桃太郎の内容を関連付けて鬼無とその周辺を桃太郎の舞台と説いた。

ともに1930年の意味があるのかということについてですが、
岡山では、この年は、昭和天皇の行幸と陸軍特別大演習が控えており、郷土意識が高まった。岡山の伝説と桃太郎の説話を結びつけるのは、当時の皇国史観に合っていた。1930年代から日本は国際観光局を設立し、瀬戸内海での観光誘致合戦のようなものがあったのではとのことが書いてました。省略します。

2023年3月13日月曜日

うるち米の語源

 サンスクリット語をちょっと知りたいなと思い、借りてきました。 『サンスクリット語・その形と心』、上村勝彦、風間喜代三、三省堂 (2010/2/10)
勉強するのは大変そうですが、「雑学のよろこび」というコラムがおもしろいです。そこしか読んでないです。

57頁からの、「2.米の話」です。

米は日本人の主食だが、インドの人たちもヴェーダの昔から米を知っている。その大切さを示唆するものとして、まず「米、稲」をあらわす語をみてみよう。

われわれは、餅に対する米をあらわすのに「うるしね」(粳稲、シネはイネの古形)、あるいは「うるち」(粳)という言葉をもっている。この「うる」には、「うるおう」とか「うるわしい」などとの関連が予想されるけれども、それは推定の域をでない。

米はうるち米ともち米に分かれるようです。

それよりもおもしろいのは、サンスクリットのvrīhi-「米」からの借用説である。もちろんその借用の経緯はわからないが、東南アジアや台湾の土着の言語にも明らかに同じ借用を思わせる形が指摘されているから、それらの1つが米の文化とともに日本列島にもたらされたと考えることができよう。

文中の「vrīhi-」は「ブリーヒ」で、スペルとか自信ないです。vrīhi-「米」からの借用説は、本当かと思われる人もいるでしょう。さらに続きます。

このサンスクリットの語形は、インドの東ばかりか西の方にも広がっている。というのは、われわれになじみ深い多くのヨーロッパの「米、稲」をあらわす語、たとえば英語rice、ドイツ語Reis、フランス語riz、イタリア語riso、ロシア語risなどの源をたずねていくと、どれもがこのvrīhi-にゆきつく可能性があるからである。これらの近代の諸言語は、いずれもまずラテン語のoryza、さらにはその源となった古典ギリシャ語の同じ形にさかのぼるが、この2つの古典語そのものが、じつはインドからか、あるいは直接でないとすれば、早くから古典世界と接触のあった イラン系の言語の話し手を介して借用されたものにちがいない。

このインドとイランの両語派の人々は先史時代に非常に親密な関係にあり、1つの集団をなしていたことは確かだが、それでもこの「米、稲」の語形に関するかぎり、イラン系の言語の形には、中期ペルシア語のbrinj、近代ペルシア語のbirinjにみられるように、-n-が入ってきている点でvrīhi-とは微妙なちがいを示している。ということは、この2つの語派の人たちは、第三者から別々に「米」をその文化とともに借用したのだろう。その意味では、この語彙はいわゆる「文化語」の類で、それまでインド・ヨーロッパ語族としては未知だった食べ物をこの両派の話し手がはじめてこの語彙とともに受け入れ、歴史時代になってそれを西欧世界に教え広めたわけだが、同時にわれわれ日本人も、インドにつながるこの「米」の文化を名実ともに担っているということができる。

「うるおう」とか「うるわしい」とか説得力が全然ないなと思えます。日本の稲作伝来も、現物の米と言葉が同時に伝達されたと考えるべきかもしれません。

また、ご飯のことを「しゃり」といいます。これはśali-という語形があり、通説では「(仏)舎利」(サンスクリットśarīra-「身体」、ふつうは複数形を使用する)の転用とのことのようで、このコラムは続きますが、省略しました。

2023年3月9日木曜日

日本語の助詞「は」とサンスクリット語の名詞の主格?

 『カタカナの正体』山口謠司、河出書房新社 (2016/12/10) にありました。

安然は唐に渡った円仁から教えをうけ、五〇音図の原型の「アイウエオ」の並び方を発明したという流れのあと、144頁からです。

サンスクリット語のみならず、古典ギリシャ語やラテン語を始めて、最初に現れる難関が、名詞の格変化である。
日本語の場合には、主格には「は」、目的格には「を」など助詞がつくことで「格」を判別させるが、サンスクリット語の場合は、名詞が八格に変化する。 主格、呼格(呼びかけ)、対格(~を)、具格(~によって)、為格(~の為に)、奪格(~から)、属格(~の)、処格(~において)八つである。

たとえば、「deva(デーヴァ)」(「神」の意)は、
主格 デーヴァハ
呼格 デーヴァ
対格 デーヴァム
具格 デーヴァーナ
与格 デーヴァーヤ
奪格 デーヴァート
属格 デーヴァースヤ
処格 デーヴェー
のように変化する。

当時、これらの格変化は、「八転声」と呼ばれていた。

ただ、安然は、これを「格」の変化と考えず、動詞の活用のように考えたようである。

なぜかと言えば、当時主格を示す助詞「は」はまだ十分に発達していなかったからである。

サンスクリット語の八格の説明で、為格と与格のどちらなんだということがありますが、与格は違うようです(未確認)。

名詞の変化ということで、面倒だと思い、今まで文法的なことは避けていたので、気づかなかったと思います。主格に「ハ」がついています。実際にはサンスクリット語の名詞の変化は複雑で「ハ」だけではありませんが、日本語の「は」の起源になっても良いのではと思いました。安然の時代には助詞の「は」が未発達ということは、時代的にはあってきます。

八格すべてが、日本語の助詞に影響したとは思えませんが、名詞の格変化が、「名詞+助詞」に変化した可能性は十分あります。


追記:R050317
名詞の格変化ですが、日本語では統一されていないようです。

特に格については、日本語の用語が統一されていないという問題点があり、 たとえば従格は奪格、為格は与格など、さまざまな別名があります。 そこがサンスクリットの先生方の嫌うところとなっているわけです。(https://www.manduuka.net/sanskrit/ogi/index.cgi?doc=e2101)

 1格~7格というのもありました。(『ニューエクスプレスプラス サンスクリット語』、石井裕、白水社 (2021/4/15))

2023年3月7日火曜日

稗田阿礼のイメージ

具体的なイメージが稗田阿礼という名前だけではでてきません。 當麻寺で、ひょっとしてそうかなというイメージを見つけました。広目天立像が稗田阿礼のイメージです。

以前には、以下の投稿記事があります。阿礼は「アリ」の漢字名ではとの 古事記の稗田阿礼はインド人か?  があります。

當麻寺の創建ですが、ウィキペディアで

以上のように、史料によって記述の細部には異同があるが、「聖徳太子の異母弟の麻呂子王によって建立された前身寺院があり、それが天武朝に至って現在地に移転された」という点はおおむね一致している。

とあります。聖徳太子は伝説的な話でおいといて、當麻寺講堂解体修理の際に塼仏《せんぶつ》の断片が発見されており(同じ物か不明ですが中ノ坊霊宝館に展示されていました)、これが白鳳時代の痕跡に思われます。天武天皇の時代あたりなのは確かそうです。竹内街道から當麻寺にいたる参道の痕跡は現在ではわかりませんが、当時には河内と大和を結ぶ結節点で、重要視された国を代表する寺院として海外の要人の接待する休憩場所的なところとして、竹内街道とつながっていたはずです。

さて、當麻寺の四天王立像ですが、ウィキペディアで

重要文化財。金堂須弥壇の四隅を護る。持国天立像、増長天立像、広目天立像の3体は日本最古の乾漆像である。日本における四天王像の作例としては、法隆寺金堂像に次いで2番目に古い。また、日本における乾漆造の作例としても最古に属する貴重な作品である。後世の四天王像が一般に激しい動きを表し、威嚇的ポーズを取るのに対し、當麻寺の四天王像は静かな表情で直立しており、その顔貌には異国風が感じられる。各像とも補修や後補部分が多く、多聞天像は全体が鎌倉時代後期頃の木造に代わっている。他の像も後補部分が多く、増長天像は下半身のすべてと両襟、両袖などが木造の後補であり、広目天像は頭部、両襟、両手の前腕部などに当初のものを残すほか、体部の大部分が木造の後補である。比較的当初の乾漆層を残すとされる持国天像も下半身や両袖などには大幅に修理の手が入っている。

何を言ってるのかわかりにくいと思います。 「當麻寺四天王の魅力を探る」に写真があります。 

多聞天立像は別物という印象です。全体に後補が多いようですが、顔の容貌は本来のものに思われます。金堂では、弥勒仏の周りを守る側近のイメージで配置されています。家康の側近、徳川四天王のイメージですが、当時では天武天皇の周りを固めた人たちをモデルにした気がします。 とくに、広目天立像は筆と巻物を持っています。稗田阿礼のイメージにピッタシです。

『古事記』では稗田阿礼が表音文字のサンスクリット語で書いていたのを、読み出し、これを太安万侶が表意文字の漢字を使って書き直したのではとの想像です。

以下にも関連記事がありました。

天武天皇、ペルシャ人? 

乾豆波斯達阿? 

2023年3月1日水曜日

論語と千字文の伝来

 『カタカナの正体』山口謠司、河出書房新社 (2016/12/10)の感想です。

65頁に「百済から伝わった『論語』」が書かれています。

仮名が漢字の影響を受けて創られたと同様、我が国の文化は中国の文化を大きく受けて形成された。

なかでも中国の南北朝時代に南方にあった梁という国は、ようやく国としての統一ができて国家の基盤を創り上げようとしていた日本に大きな影響を与えたのではないかと考えられる。

伝説的な話として、『古事記』と『日本書紀』には、応神天皇の十五(二八五)年、百済の王仁が我が国に『論語』と『千字文』を伝えたと記されている。

『千字文』が梁の周興嗣(470年~521年)によって作られたところからしても、伝来の年号が日本の歴史を古く遡らせてあることは明らかであろう。

『日本書紀』などの記述はおかしいわけで、年代だけでなく、百済というのもおかしいと思われます。つまり、梁から直接に伝来したのではなく、朝鮮半島経由とした理由があるはずです。おそらく唐に慮ることがあるのか、朝鮮半島との結びつきを強調したいのかだと想像します。

またここに記される『論語』も同じく梁の学者、皇侃が著した『論語義疏』を指すものと考えられる。

また、67頁の「『玉篇』という字書」にも梁のことが書かれています。読みは(ぎょくへん、ごくへん)とのことです。

梁の時代には、顧野王《こやおう》(五一九~五八一)によって画期的な『玉篇』という字書が作られた。「玉」は「霊」を意味する。つまり、漢字を「霊」として、「存在」と一対一対応するものという考えで、漢字を並べ字書としたものである。

そして、『玉篇』という名称は、これ以来、「字書」の代名詞として、我が国では明治時代まで、朝鮮半島では今日まで使われている。 ーーー 途中省略 ーーー はたして、『玉篇』は、我が国で八三三年に編纂された『令義解』や八六八年頃に編纂された養老令の注釈書である『令集解』など「令」の解釈に使われている他、永観二(九八四)年に朝廷に献上された平安時代の医学書である『医心方』、その他の仏教の経典などに夥しい引用がされている。

つまり、奈良時代から平安時代の人々は、我々が『広辞苑』などの辞書を使うと同じように『玉篇』を使っていたのである。

少し、飛んで、69頁には、「文は『文選』」とあります。

さて、梁の時代に作られた『玉篇』『千字文』の両書が我が国に漢字を教える重要な書物であるとしたら、『論語』は、孔子という聖人が人のあり方を教えるものとして我が国に伝わった。 そして『千字文』や『玉篇』が言葉を教え、『論語』が人倫の理想を伝えるとするなら、それを利用して思いを伝える文学の書物も、梁には作られた。 梁の武帝の長子であった昭明太子、名を蕭統《しょうとう》(五〇一~五三一)が編纂した『文選《もんぜん》』である。

ーーー 途中省略 ーーー

そして、我が国では平城宮跡、秋田市秋田城跡などから『文選』を写した八世紀頃の木簡が発見されている。また、『日本書紀』や『万葉集』には『文選』を利用して書かれた部分が相当あり、平安時代には『枕草子』に「文は『文選』」と訳され、文学の教養を身につけるための書物として重要な役割を果たしていたことが知られるのである。

梁の影響の大きいことが述べられています。いろんな文物を朝鮮半島経由と考えて良いのかと感じます。

また、このあとの70頁には、「皇帝菩薩」と呼ばれた武帝として

以上のように後世に大きな影響を与えた書物を作った梁は、中国の南方(現在の上海から南京)の肥沃な大地を背景に発達した国であった。 『三国志』で知られる中国三国時代に、孫権が長江流域に建てた国は「呉(二二二~二八〇)」と称され、都は現在の南京に当たる建業であったが、梁は、ほぼこの「呉」の国をそのまま版図にした国である。 中国西北の長安を中心とした「漢」に対して、この地方は「呉」と呼ばれ、方言も、それぞれ「漢音」「呉音」と異なっていた。ーーー 以下省略 ーーー

仏教の発展に寄与したのが武帝とのことです。

梁の武帝は、仏教を信仰して中央集権化による国家体制を確立することに努めた聖徳太子にも大きな影響を与えているのである。

と書いてます。理想の人物として『日本書紀』にモデルとして取り入れられたということだと思います。

武帝の時代は、ウィキペディアでは(502年5月1日 - 549年6月12日)となっていて、時代的にもあってきます。

2023年2月28日火曜日

七五調の起源

 七五調の起源

短歌の形式では、五七五七七と句を連ね、三十一字でつづります。 七音と五音が、どうして出来たかが謎でした。和歌というのが「やまとうた」と言われ、古来よりあったとされますが本当だろうかと思います。 音楽では二拍子は行進曲にあり、左右の足の動きと連動しています。三拍子はダンスで三角形のステップのようなイメージです。四拍子は四角形の移動のイメージです。多分、違うと思いますが、踊りに合わせた拍子は間違いないと思います。五と七ですが、3+2とか3+4とかの変拍子的なイメージになり、直感的ではありません。
謡曲では、一区切りを一六分割して、四拍の四倍にします。16分割の中で、7+5=12として使用し、残り4個は音を伸ばしたり、休止符的な使い方をするようです。仕方なくしてるようで変則的です。

五と七に結びつくものは何だろうと疑問に思っていました。

漢詩に五言絶句とか七言絶句とかあります。この数字と関係あるのかなと少し気になってましたが、そのことを書いている本を見つけました。 『カタカナの正体』山口謠司、河出書房新社 (2016/12/10)です。

52頁に、「漢詩はかっこいい!」として、

我が国で『古事記』や』『日本書紀』が書かれていた時代、東アジア世界の中心は中国であった。
国家としての独立性や威厳を誇示するには、中国に対してその力を見せつけねばならない。しかし、それを見せようとする時、まず必要なのは言語の力であった。当時すでに二千年以上の歴史を有して、非常に高度な文学理論などさえ生み出していた中国に対して、漢字を借りてようやく歴史や文字の表記方法を芽生えさせていた日本は、いまだ中国からの影響を逃れることができなかった。
奈良時代から「国風暗黒時代」と呼ばれる平安時代初期まで、我が国のエリートたちは、漢詩や漢文の素養を身につけ、そして中国人に評価される作品を書くことに熱中した。
そうすることが、日本の国力を中国に見せつけることになるからである。 ーーー以下、阿倍仲麻呂の例とか省略

和歌を書く伝統とは別に、漢詩を書くことは、当時、最も重要な才能であったのである。

続いて、「漢詩に見せかける技」として

さて、漢詩には、漢魏六朝の時代までに作られた古体詩と呼ばれるものと、唐代初期に完成された近体詩と呼ばれるものがある。
古体詩は、「四言古詩」「五言古詩」「七言古詩」に分類され、それぞれ一句の字数が四,五、七で書かれているというだけで、平仄《ひょうそく》や韻律に規則がない。
これに対して、近体詩は「五言絶句」「五言律詩」「五言排律」「七言絶句」「七言律詩」「七言排律」とあって、それぞれ一句を五字にするものと七字にするもの、また絶句は四句、律詩は八句、排律は十句以上の偶数句で構成され、句法や平仄、韻律には厳格なルールがある。
ーーー阿倍仲麻呂の漢詩については省略。

南朝宋の鮑照の古体詩の例があり、五七五七五七七七の形であって、これを速須佐之男命の歌と比較しています。こちらは五七五七七です。

このように並べてみると、一見、まるで漢詩のように見えるのではないだろうか。<ひらがな>も<カタカナ>もなかった奈良時代、日本語は漢字で書くより他に方法はなかった。しかし、五七の調べで書かれた和歌の音を一つずつ漢字で当てて書く万葉仮名の歌は、実は、まるで漢詩を書いているように見せかける技でもあったのだ。

中国語は、単音節のイメージです。漢詩とは親和性が高かったので漢詩に、日本語の音を当てはめ、取り込まれて和歌が成立したように思えます。