具体的なイメージが稗田阿礼という名前だけではでてきません。 當麻寺で、ひょっとしてそうかなというイメージを見つけました。広目天立像が稗田阿礼のイメージです。
以前には、以下の投稿記事があります。阿礼は「アリ」の漢字名ではとの 古事記の稗田阿礼はインド人か? があります。
當麻寺の創建ですが、ウィキペディアで
以上のように、史料によって記述の細部には異同があるが、「聖徳太子の異母弟の麻呂子王によって建立された前身寺院があり、それが天武朝に至って現在地に移転された」という点はおおむね一致している。
とあります。聖徳太子は伝説的な話でおいといて、當麻寺講堂解体修理の際に塼仏《せんぶつ》の断片が発見されており(同じ物か不明ですが中ノ坊霊宝館に展示されていました)、これが白鳳時代の痕跡に思われます。天武天皇の時代あたりなのは確かそうです。竹内街道から當麻寺にいたる参道の痕跡は現在ではわかりませんが、当時には河内と大和を結ぶ結節点で、重要視された国を代表する寺院として海外の要人の接待する休憩場所的なところとして、竹内街道とつながっていたはずです。
さて、當麻寺の四天王立像ですが、ウィキペディアで
重要文化財。金堂須弥壇の四隅を護る。持国天立像、増長天立像、広目天立像の3体は日本最古の乾漆像である。日本における四天王像の作例としては、法隆寺金堂像に次いで2番目に古い。また、日本における乾漆造の作例としても最古に属する貴重な作品である。後世の四天王像が一般に激しい動きを表し、威嚇的ポーズを取るのに対し、當麻寺の四天王像は静かな表情で直立しており、その顔貌には異国風が感じられる。各像とも補修や後補部分が多く、多聞天像は全体が鎌倉時代後期頃の木造に代わっている。他の像も後補部分が多く、増長天像は下半身のすべてと両襟、両袖などが木造の後補であり、広目天像は頭部、両襟、両手の前腕部などに当初のものを残すほか、体部の大部分が木造の後補である。比較的当初の乾漆層を残すとされる持国天像も下半身や両袖などには大幅に修理の手が入っている。
何を言ってるのかわかりにくいと思います。 「當麻寺四天王の魅力を探る」に写真があります。
多聞天立像は別物という印象です。全体に後補が多いようですが、顔の容貌は本来のものに思われます。金堂では、弥勒仏の周りを守る側近のイメージで配置されています。家康の側近、徳川四天王のイメージですが、当時では天武天皇の周りを固めた人たちをモデルにした気がします。 とくに、広目天立像は筆と巻物を持っています。稗田阿礼のイメージにピッタシです。
『古事記』では稗田阿礼が表音文字のサンスクリット語で書いていたのを、読み出し、これを太安万侶が表意文字の漢字を使って書き直したのではとの想像です。
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