2021年11月30日火曜日

蘇我倉山田石川麻呂は実在したのか

 『日本書紀』欽明天皇のところに、百済との交渉に河内とか吉備の名が出てきます。それからの発想です。 天武天皇の後継者として、草壁皇子と大津皇子が出てきます。母は、鸕野讃良皇女(持統天皇)、大田皇女ですが、ともに、父は天智天皇(中大兄皇子)、母は遠智娘といい、姉と妹の関係です。母方の祖父が蘇我倉山田石川麻呂であるのがあやしいところです。

第41代天皇である持統天皇は、四條畷とかかわりの深い天皇でした。天皇は名を鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)といいます。このうち「讃良」は、四條畷市全域と寝屋川市・大東市の各一部を含む古代「讃良(さらら)郡」の地名からとられたものです。また、「鸕野」も、『日本書紀』によれば讃良郡の中にある地名として「鸕鷀野邑(うののさと)」が出てきます。この地名は、市内の清滝にあった古代寺院正法寺にのちにつけられた山号が「小野山(おのさん)」であることなどから、現在の四條畷市域の一部を指すのではないかといわれています。

このように地名を皇族の名に使う場合、その地で生まれ育ったか、領地をもっていたか、その地出身の豪族から乳母が出たためその豪族に養育されたといった理由が考えられると言います。いずれにしても、持統天皇の名には四條畷市域のこととみられる地名が使われており、四條畷とゆかりの深い天皇だったと言えるでしょう。四條畷市のホームページより 

持統天皇には河内との結びつきがあります。一方、大田皇女ですが、大伯皇女も産んでいます。大伯は岡山県です。吉備とのつながりを感じます。天武天皇をモデルとした雄略天皇(私の想像)の後継者の清寧天皇(大津皇子と想像)の時の後継者争いで、吉備が出てきます。天武天皇の後継者問題で地域間の対立があり、これを反映していると考えられます。『日本書紀』は地域間の対立を隠したかったので(おそらく万世一系の天皇にそぐわないので)、鸕野讃良皇女と大田皇女を姉妹としたと妄想します。そこに、架空の蘇我倉山田石川麻呂の娘である遠智娘を持ち出したということに思えます。乙巳の変はまったくの空想物語であったということとつながります。

2021年11月29日月曜日

古代の中国と倭国の往来のルート?

 鑑真の来日ですが、阿児奈波嶋(現在の沖縄本島)、益救嶋(屋久島)経由で大宰府に到着とのことです。 沖縄が日本とつながっていたということです。 「熊本県の古代」で曽畑式土器というのが出てきます。図を再引用します。 曽畑式土器の文化圏 

沖縄から朝鮮半島の南部までの範囲であれば、この土器の文化圏から、中国から到達すれば何とかなったということだと思います。縄文時代でも、中国からの航海は可能に思えてきます。

ウィキペディアの百済の仏教のところに

527年に造営された大通寺は、現在確認できる百済最古の本格的な伽藍を持つ寺院である。この寺は南から塔・金堂・講堂が一直線に並ぶ、日本における四天王寺式伽藍配置と同様の伽藍配置を取る寺院であり[187]、南朝の梁の武帝のために聖王の時代に建立されたと伝えられている[185]。

とあります。百済は、南朝の梁と関係があったということです。つまり中国からのルートで、 行く先不明であっても、到着先が沖縄から九州西部、朝鮮半島南部であれば、縄文時代よりの同一の文化圏であり、到着まではリスクはあるものの、到着すれば何とかなったように思われます。中国からの直接ルートもあり得たという気がしてきます。

2021年11月28日日曜日

仏教公伝

 『日本書紀 欽明天皇、十三年十月に仏教公伝の記事が出てきます。百済などの百済などの朝鮮半島の話が続く中での一つの話として出てきます。百済や任那の正当性を主張するところの中にあります。主張は、誰に対してかといえば唐に対するものになります。日本書紀の記述された時代に、唐では仏教が盛んであったはずで、合理的な主張であることを示すためのエピソードのように思われます。

天皇は蘇我稲目に仏像を預け、礼拝させてが、疫病などが起こったので、物部尾輿・中臣鎌子の反対で、役人に難波の堀江に流し棄て、また寺に火をつけた。寺は全焼して何も残らなかった。その時、天に風雲もないのに、突然大殿に火災が起こった。(『日本書紀②』、新編日本古典文学全集3,1999年、小学館)

とあります。神仏の争いまで記述されています。これは、大宝律令の神祇官などの役職があるように、神道体制から、聖武天皇の国家仏教に移行する時代に、『日本書紀』が編纂されているので、神仏論争が実際にあって、これを反映していると思います。

また公伝ですが、私的な物でも十分のように思われますが、実際に仏教公伝的なことが、鑑真が来日して行われています。『日本書紀』でも、時代はずれていますが、意識されていて、欽明天皇のところに入れられたのかもしれません。

鑑真の記述です。

天平勝宝5年12月26日大宰府に到着、鑑真は大宰府観世音寺に隣接する戒壇院で初の授戒を行い、天平勝宝6年2月4日に平城京に到着して聖武上皇以下の歓待を受け、孝謙天皇の勅により戒壇の設立と授戒について全面的に一任され、東大寺に住することとなった。4月、鑑真は東大寺大仏殿に戒壇を築き、上皇から僧尼まで400名に菩薩戒を授けた。これが日本の登壇授戒の嚆矢である。(ウィキペディア、鑑真より)

『日本書紀』では、このあたり、百済・任那の記事が多いです。私は、朝鮮半島南部は日本の範囲外の感覚を持っていましたが、書紀では、日本の中に朝鮮半島南部が含まれていたことを執念を持って記述しているように感じます。唐・新羅に敗れたもののあきらめてはいないようで、唐・新羅が対立により、唐と連合することも考えていたかもしれません。書紀の執着具合から、白村江の戦い以前に、実際に倭国が朝鮮半島に何らかの権益を持っていたこともありえたと思えます。

2021年11月24日水曜日

朝鮮半島南部の前方後円形墳と仏教公伝

 仏教伝来ですが、古来から有力な説として552年と538年の2説あります。つまりこの話の前提が朝鮮半島より仏教が伝来したということになっています。はたして、朝鮮半島なのでよいのかと言う気がしています。ちがうことを考えないといけないように思われます。

タイトルのは、朝鮮半島南部の前方後円墳があるようです。前方後円墳も朝鮮半島から伝来し、日本で広まっていったとは考えられておらず、日本の形式が朝鮮半島に伝わったようなウィキペディアの記述です。

話が飛びますが、第2次大戦で日本が米国と戦争したのは無謀な戦いであったと言われます。なぜこんなことが起きたか、日本が人的・経済的な支援をした満州の権益が損なわれることに反発して戦争が起こったという話があります。アメリカからしたら、満州を日本が植民地にしたという認識であったかもしれません。この認識は間違ってるかもしれませんが、古代に当てはめることができるのではと思います。

六世紀から七世紀に、前方後円墳のことから、倭国も朝鮮半島南部に権益を持っていたように思われます(単に思ってるだけの話が続きます)。百済は日本の傀儡政権的なところがあり、それが、唐や新羅から侵害され、反発して無謀とされる白村江の戦い(天智2年8月(663年10月))などが、起こった可能性があります。朝鮮半島への倭国の進出も統一されたものでなく、家政機関的な連合的なものであったかもしれません。統率ある唐や新羅に敗れたということも想像されます。

『日本書紀』に任那の記事、例えば、継体天皇の時に、百済に任那を割譲したことがありますが、これなど、百済に日本の権益があったことを一生懸命、唐にアピールしているように思えてきます。

仏教公伝ですが、仏教のことを述べる風で、実際には百済との関係を強調するための記述の一つかもしれません。

2021年11月22日月曜日

熊本県の古代

『熊本のトリセツ』 昭文社 (2021/10/8)は熊本県のことがいろいろ書かれています。古代に重要な地域であったことがわかります。
関連する部分のメモ書きです。

[熊本発の土器「曽畑式土器」がなぜ沖縄や韓国で発見されるのか?]

曽畑式土器(そばたしき)の説明があります。 

曽畑式土器の文化圏を見ると、韓国や沖縄まで分布しています。中心は鹿児島県や熊本県にあるように見えます。 

『熊本のトリセツ』では熊本愛の本なので、

曽畑貝塚を残した人々は、曽畑式土器の文化を創り上げると同時に、航海術を発展させて、はるか南方の沖縄まで到達するようになっていたのだろう。曽畑人は朝鮮半島から沖縄に至る長大なルートを自由に往来して、曽畑式土器の技術を伝えていたのである。

とあります。ギリシャ文明の発展は地中海に意味があったということで、倭国=吉備説では瀬戸内海が重要であったと考えてますが、有明海・八代海はやはり内海で、熊本県の地域に文明が発達していてもおかしくないと言う気がしてきます。海上交通が古代には重要であったということです。

[弥生時代の熊本は、鉄器製造の一大産地だった?]

『熊本のトリセツ』の70ページの図がわかりやすいです。『弥生時代鉄器総覧』ベースで作成されていますが、1位の熊本県が1607点、2位の福岡県が1445点で、他の地域よりはるかに多いとのことです。中国大陸から鉄器がもたらされたようですが、

弥生時代の熊本県はかなり早い時期から、日本有数の鉄器の生産地であり、最先端技術を誇る職人集団がいたのではないかとされている。
この地で鉄器の生産が発達したのは、周囲の阿蘇黄土から、鉄の原料となる褐鉄鉱(リモナイト)が産出したためと考えられている。人々はこれを元に赤色顔料であるベンガラを生成、他の地域と交易したこともわかっており、それらの地域では、褐鉄鉱を原料として鉄精錬が行われていた可能性も高いと指摘されている。

吉備の地域に、岡山県総社市西阿曽で、古代たたら製鉄の話があります。この地名の「アソ」が関係ありそうで、熊本→岡山と伝わってきたように思えます。

[熊本を中心に、装飾古墳群をつくったのはだれだったのか?]

装飾古墳とは、内部の壁や石棺に浮き彫りや線刻、彩色などの装飾ある古墳のことで、4世紀末頃から7世紀ころまで造られており、全国に約700基、熊本県内では約200基がある。・・・
山陰地方や関東地方にも部分的に分布しているが、それらは九州から伝播していったと考えられている。しかしなぜか、古墳が集中している奈良を中心とした近畿地方では極端に数が少なくなる。古墳時代後期に、熊本を中心とした地域に、いわゆるヤマト政権の文化とは異なる独自の文化圏が存在し、一定の勢力を有していたと考えられるのはそのためだ。・・・

火の国が倭国である吉備と連携して、ヤマトと対抗していたことにつながってきます。そのため、律令体制になり、肥前肥後の国は冷遇されていたように個人的に思えます。 いれずみ(黥面)のことがあるかもしれません。 

[丘陵に建つ山城・菊智城は何のために築かれたのか?]

大野城(福岡県)や基肄城(佐賀県)に武器・食料を補給するための支援基地だったとされる。

白村江の戦いの時にはまだ日本は統一されてはおらず、地域連合的な集合体であって、菊智城はあくまでも、肥国を防衛するための城のように思えます。

[阿蘇神社と浜の館に見る阿蘇氏の栄枯盛衰の歴史とは]

阿蘇市にある阿蘇神社は、全国に約500社ある阿蘇神社の総本社であり、肥後国一の宮として人々の心の支えとなっている。その歴史は、健磐龍命の子である速瓶玉命が、紀元前282(孝霊天皇9)年に、両親を祀ったのに始まるとされる。つまりヤマト政権の全国統一以前にまで遡るのだ。・・・

古代から中世まで続いているようです。 

2021年11月20日土曜日

八代海南部の海丘群

 『熊本のトリセツ』 昭文社 (2021/10/8)、を図書館から借りてきました。熊本県のことがマニアックに書いてあります。その中に、Part1に八代海で見つかった謎の地形が取り上げられています。

「図」


本の図の元のデータは、海上保安庁のもののようです。図は以下のものから持ってきました。その中の図です。

八代海 謎の海丘群 

海上保安庁は、八代海において約80個の海丘が密集する極めて珍しい海底の地形を発見しました。
この海丘群は、第十管区海上保安本部所属の測量船「いそしお」による海底地形調査により、熊本県水俣市から西南西約10キロメートルの海域において発見されました。
周辺は水深約30メートルの平坦な海底で、直径約50メートル、比高約5メートルほぼ円形の海丘約80個が密集して存在しています。それぞれの海丘は、形や大きさがほぼ等しく、北西-南東方向に並ぶように配列しています。このように平坦な海底面に突如として存在している海丘群は、他の海域ではみられない非常に珍しい地形です。
そこで、この海丘の実態を把握するため、鹿児島海上保安部所属の巡視船「さつま」(船長:日高睦男、総トン数:1200トン)と同船所属の潜水班による潜水調査を行 いました。・・・

私には、配置に規則性があるような無いような、直径50m、高さ5mのサイズなどで、古い時代の円形の古墳群のように見えてきます。 謎を究明するため、さらに潜って調べられた報告書がありました。 

八代海南部の海底で発見された海丘群の潜水調査報告 

この中では、 海丘群の成因についていくつかの仮説が紹介されています。しかし、古墳説はありません。問題外のように思えますが、ありうるのではと妄想しました。

一番の問題点は、
水深30mの海底が、古代に地上にあったのかということです。『熊本のトリセツ』では別のところに、健磐龍命蹴裂伝説があって、阿蘇の外輪山を蹴って、阿蘇カルデラ内がかつて湖であったのを排水したとのことです。健磐龍命は尻餅をつき、「立てぬ」と言ったことから「立野」の地名ができたとあります。逆もありうるということで、低地であったところが、一部崩れて海水が入ってきたこともありえます。阿蘇山の大噴火は最近ではなさそうですが、鬼界カルデラ(きかいカルデラ) 

というのがあって、約7300年前の大規模カルデラ噴火で九州南部の縄文人を絶滅させたと推測されたとあります。八代海の海丘群も地上に残っていれば整地されて消滅してしまいます。運良く海底に残った縄文時代の古墳群の可能性もあるように思います。噴火であれば、積もる方向なので地表の低下は考えられません。現時点では無理説ですが。

2021年11月18日木曜日

相模国封戸租交易帳

 第73回正倉院展で展示があったものです。

内容についてですが、東京大学史料編纂所のページから活字化されたものを見ることができました。 史料編纂所が出版した『大日本古文書』(編年文書)全25冊の全文データベースのようです。リンクは以下。東京大学史料編纂所のページから

 中身は理解できていませんが、636ページに皇后宮食封があり、飛んで、舎人親王食封、藤原武智麻呂食封、山形女王食封、鈴鹿王食封、檜前女王食封、三島王食封、高田王食封、大宮寺食封とあります。天平7年(735年)の記録です。天平の前の神亀6年(729年)に長屋王の変がありました。

ウィキペディアでは

山形女王(やまかたじょおう/やまかたのおおきみ、生年不明 - 天平17年8月27日(745年10月5日))は奈良時代の皇族。位階は正三位。父は高市皇子[1]、母は不明。兄弟に 長屋王や鈴鹿王がいる。配偶者や子に関する情報はない。

鈴鹿王(すずかのおおきみ/ すずかおう、生年不詳 - 天平17年9月4日(745年10月3日))は、奈良時代の皇族。太政大臣・高市皇子の次男。官位は従二位・知太政官事。

檜前女王(ひのくまじょおう/ひのくま の おおきみ、生没年不詳)は、奈良時代の皇族。名は檜隈とも記される[1]。後述するように高市皇子の娘という説がある。位階は従四位上。

三島王(みしまおう/みしまのおおきみ、生没年不詳)は、奈良時代の皇族。天武天皇の孫。一品・舎人親王の第4皇子。淳仁天皇の兄[1]。官位は従四位下。

高田王は不明ですが、高市皇子と舎人親王に関係する人に食封が与えられているようです。長屋王の分もあったはずです。

相模国封戸租交易帳の最初の方の皇后宮ですが、図録では「皇后宮職」の解説があり、これは、

皇后宮関係の庶務を処理した令外官司。光明皇后の立后時に新設された皇后宮職は、写経事業や東大寺の経営で活躍した。・・・

とあります。光明皇后の家政機関(かせいきかん)みたいな物でしょう。この時代、家政機関は一般的なものであったような気がしてきました。『日本書紀』は、養老4年(720年)に完成したとされます。この時代のイメージを背景にして『日本書紀』ができています。古代の天皇の代替わりで遷都が行われていますが、記述するにあたって、代替わりで、家政機関が変わることの反映が遷都にあるように思えてきます。


2021年11月12日金曜日

入れ墨と漢字

 図書館で借りてきました。

『「入れ墨」と漢字―古代中国の思想変貌と書―』松宮貴之、 雄山閣 (2021/8/31)

よく読んでないので、誤解してるかもしれません。 「はじめに」からの引用です。

アジア・ミクロネシアの中で中原を中心にして入れ墨が消えた要因の一つに、東アジアの文字(漢字)が、墨によって書されたことが挙げられる。

元々、記号か紋様のものを、人や物に入れた。
器とかのものに記した方は、陶器に入れた陶文→殷時代の饕餮文【とうてつもん】などの動物文→甲骨文字として発展していったのに対し、入れ墨は大きな変化はなく続いていったということで、文字が言葉を表すことができるようになり(書き直しとかで変化が速いと思われる)、入れ墨は記号・紋様にとどまった。「文字を使う人=入れ墨をしない人」と差が生まれていったということのようです。

正倉院展で経典の展示がありますが、写経などなぜこんなに必死にならないといけないのかと思います。これも、入れ墨に祭祀儀礼などの意味があって、同様に、奈良時代にもまだまだ文字に宗教性を感じていたということなのかということです。入れ墨と文字の分化の過程で、情報伝達の手段以上の意味があったようで、文字に対する感覚は現在とは違うということを忘れてはいけないと思いました。

以前に、近畿地方に入れ墨のある遺物がないという記事がありますが、律令体制が、この地から始まったことつながってくるように思いました。


2021年11月10日水曜日

校倉造りとペルシア

 正倉院展で、白瑠璃高坏を見て、ペルシアのものという話でした。 天平勝宝4年(752)の大仏開眼会(だいぶつかいげんえ)に奉納されたもので、当時から宝物と認識されたと思います。 『ペルシアのガラス(オリエント選書 (12))』深井 晋司、昭和58年10月、東京新聞出版局 を借りてきました。

終わりの方に随筆があります。多数のパルティア・ササン王朝時代の古墳群が発見され、ガラス器などが多数出土したイラン高原北部、カスピ海南岸のギラーン州の様子が書かれています。

カスピ海沿岸というのは米作地帯である。水田の間に穀物倉として、校倉造りの高床の小屋が点在する。直ちに正倉院と結びつけたくなる風景である。この辺までが、テヘランからジープで丸一日かかる。この水田地帯の背後にそそりたつ山に、馬で二日かかって登ると急に視界が開けて高原地帯に出る。この高原から瑠璃碗は出土するのである。

ペルシアから、ガラス器だけでなく、収納方法の校倉造りも伝わってきた気がします。

2021年11月9日火曜日

第73回正倉院展

 先週でしたが、忘れないうちにメモ書きしておきます。 目録のコレクションも8冊目になりました。引用は正倉院展 のページより

北倉23 刻彫尺八 

表面は、竹の表皮を彫り残すことによって、唐装の女性像や樹木・草花・飛鳥などの華麗な文様(もんよう)が表される。

細かい模様です。目が悪くなってきているので見落としてしまいます。穴の間隔とか意味あると思いますがわかりません。

北倉30 螺鈿紫檀阮咸 
会場では楽器の音が流れてました。聞き逃しましたが、案外低音の音のような気がしました。正面には、赤外線写真でしかわかりませんが、4人ほどが阮咸の演奏を楽しんでいる風の絵があります。笛の場合は音が出るのかわかりませんが、弦楽器の場合は音が出るので何とかなりそうな気がします。

中倉76 白瑠璃高坏 

黄色味をおびた透明ガラスの高坏。製作方法は、飴状に溶かしたガラス胎を吹き竿で膨らませて坏部と高台の原型を作り、両者の接合後、加熱しながら口縁を切り、体部を引き延ばして成形したと考えられる。中近東ないし地中海東岸(シリアやエジプトなど)で作られたローマンガラスもしくは初期イスラムガラスで、当初の形と光彩を今に伝える世界的な名器。
 本品は、瑪瑙坏(めのうのつき)(出陳番号11・12)や水精玉(すいしょうのたま)(出陳番号13)などと一緒に漆小櫃(うるしのこびつ)(出陳番号9-1)の中に収められ、天平勝宝4年(752)4月9日の大仏開眼会(だいぶつかいげんえ)に奉納されたことが知られている。

西アジアとのつながりを示す物で、今回見ることができてよかったです。ガラス内に細かい気泡があり、古い時代のものの雰囲気を感じます。交易によってもたらされたのではなくて、西アジアの王族が日本にもたらしたと考えたくなるものです(思ってますが)。

相模国封戸租交易帳
後から、もっとよく見ておけばと思いました。重要な文書のように思います。 詳しい動画があります。 <正倉院展講座>中央集権への転換を語る文書 磐下徹・大阪市立大学准教授 

「 正倉院古文書正集 第十九巻」にある「 相模国封戸租交易帳さがみのくにふこそこうえきちょう 」の解説動画です。税の分配を示した物で、今の地方税と国税の区別があるものの元の姿に見えます。国税に相当するのが、高位の貴族や寺社等にわりあてられます。光明皇后、舎人親王、藤原武智麻呂らしき人物が出てきて、天武天皇や藤原氏の縄張りに相模国がなっていたように思えます。今まで意識して無かったのですが、光明皇后とか寺なども経済ユニットとしてあったということです。抜けたところに長屋王の分があったのではといわれています。当時はそれぞれの家が国をなしていた、文字通りの国家であった気がします。

文房具の筆とか、今の物とは違っていて、有芯で硬そうです。光明皇后が書いたとされるもので、男っぽい字であるというのも筆のタッチがあるのかもしれません。 当時の人の仏教に対する思い入れが、正倉院の宝物として残ったんだと思います。

2021年11月5日金曜日

世界最古のパン

 『パンづくりのメカニズムとアルゴリズム』吉野精一、柴田書店 (2021/10/2)
のなかに 世界最古のパンのことが書いてました。150ページです。

コペンハーゲン大学の考古学研究グループが14,400年前の「最古のパン|Oldest bread」を発見した。それまでの9000年前を大きく変えた。

その発見は物議を呼ぶ。 ①小麦の原生種は1万年前頃に中央および西アジアに自然生育していたものがトルコや中近東あたりに伝搬された、 ②農耕のはじまりも小麦や大麦の栽培がはじまった1万年前頃と推察されているからである。
狩猟採取経済から農耕経済へ移行する段階で穀物の栽培に着手したという大前提が崩れるからである。

「パンの誕生→穀物の栽培開始」ということが考えられます。狩猟採取経済であっても携帯用のパンを持っていれば、はるかに優位です。アフリカを出立する人類の大移動にも、野生種から作られたパンのようなものを持っていれば、行き倒れにならずに移動ができます。 パンの場合はそうとして、米の場合でも米作りが伝搬したと言われますが、技術の移転ではなくて、稲とともに人が移住していったことが考えられます。中国から日本へも蓄えのk米を持ってやってきたということです。陸路より海路の方が可能性があります。

以下に、この本の引用元がありました。翻訳でなんとなく理解できます。

https://www.pnas.org/content/115/31/7925
要約 パンの起源は、長い間、南西アジアの新石器時代の農業と穀物の家畜化の出現と関連しています。本研究では、ヨルダン北東部に位置し、14.6–11.6 ka cal BPに位置するナトゥフィアン狩猟採集地Shubayqa 1の合計24の焦げ物残骸を分析します。我々の発見は、パンのような製品の調製と消費が少なくとも4,000年前に農業の出現を前にしたことを実証する経験的なデータを提供する。学際的な分析は、アジア南西部の農業(例えば、トリチカム・ボオチカム、野生のアインコーン)と根食品(例えば、ボルボスコエヌス・グラウカス、クラブラッシュ塊茎)の「創設者作物」の一部を使用して平らなパンのような製品を生産することを示しています。ナトゥフィア時代の利用可能な古植物性の証拠は、この間、穀物の搾取が一般的ではないことを示しており、農業がしっかりと確立されたときにのみ、パンのような穀物ベースの食事が主食になる可能性が最も高い。

「14.6–11.6 ka cal BP」とは
【Ka】[kilo annum]. 《 kilo annum 》1000年前、calibrated years before the present
のようで、14.6千年から11.6千年前の意味。

ネイティブ・アメリカンからの印象

黥面からの発想です。昔、テレビの西部劇でインディアンが顔に縞模様があったような気がして、ひょっとして古代からの風習として残っていたのかと思いました。 ウィキペディアとかで見ると、 インディアンはコロンブスがアメリカ大陸を発見したときに、間違ってインドと思ったことから呼ばれるようになったようです。しかし、当時の感覚なのか、先住民を人間とは見なしていなかったような振る舞いにも見え、コロンブスは極悪非道の人物的な評価のように記述されていて、極端な評価になっていて、どうなのだろうと思います。

『ネイティブ・アメリカン―先住民社会の現在 (岩波新書)』 新書 – 2009/1/20、鎌田 遵 (著)

図書館から借りてきましたが、黥面とかの話は無いようです。

インディアンの悲惨な歴史の話がいろいろ出てきます。頭に入れておかないといけない問題だと思います。 西部劇の戻って、この本の引用です(124ページ)。

白人がつくった「インディアン」 苦難の歴史を歩んできた先住民は、アメリカ社会でどう描かれてきたのだろうか。本章では、 先住民のイメージの変遷に着目し、その時代背景を見ていきたい。 ハリウッドに代表される映画産業による先住民の描写の変化は、アメリカ史における先住民の位置づけと深く重なっている。たとえば、先住民が白人を攻撃する野蛮人として描かれるこ との多い西部劇映画は、米ソ冷戦を背景に政治がとくに保守化した、一九五〇年代にもっとも大量に制作された。観客は、開拓者の不遇の死に涙し、野蛮な先住民の末路に拍手喝采した。時代を超えて西部劇は、白人がフロンティア精神の栄光に酔いしれる娯楽として愛されてきた。
一九三九年から一九六四年のハリウッドは、ジョン・フォードの時代だった。彼の作品は、それまでのアクション主体で、単純なストーリー展開の西部劇とはちがい、人間ドラマに溢れ、現実性と説得力に富んでいた。フォードは史実を脚色して、映画化する手法を得意とし、「インディアン」の存在を勇敢な開拓者への脅威の象徴と描き、アメリカ人が懐かしむ、「古き良き時代」を髣髴とさせる内容で観客を惹きつけた。

ハリウッド映画は巨大な売り上げをヨーロッパでも更新し、国内外を問わず、白人が創造した先住民像は、スクリーンを通して実社会に定着していった。なかでも一九三九年に封切られ、大ヒットした『駅馬車』は、フォード監督の代表作で、有名なクライマックスは、白人たちの乗る馬車が、極悪非道で執拗な「インディアン」の攻撃をかわしながら逃げるシーンである。白人を追いたてるジェロニモに率いられたアパッチ族の戦士たちは、スクリーンでは獰猛だ (図5-1)。『駅馬車』にかぎらず、ハリウッドが量産したジェロニモとアパッチ族のイメージは、恐ろしい虐殺者だった。

ハリウッド映画が取り上げているのは、一様に馬をあや つる平原部族(おもに狩猟部族)の戦士ばかりで、先住民を 敵もしくは味方の二種類に分けて単純に描いている。先住 民の部族固有の文化や言語、部族社会、そして個々の先住 民の人間性は、ストーリーの展開には関係がない。
ごく最近まで、ハリウッド映画のインディアンは、実際の部族や地域性や性別といったものとは無縁の虚像でしかなかった。さらに言えば、西部劇に登場する先住民はたいがい男性の戦士で、女性が描かれることはほとんどなかった。・・・・

駅馬車の映画は、80数年前の時代のもので、その当時の考え方が反映されているということだと(見てないのですが、勝手に)思います。白人の正当性をアピールしていて、これはコロンブスの時からと考えれば400年ほどの期間になります。特殊な歴史ではないと思います。日本においても、これから想像できるような気がします。風土記や記紀の神話的な部分の記述に表れていて、それほど古くはなく、奈良時代から平安時代にかけての東北侵略などにもあったような気がします。かなり大雑把ですが。