2021年1月31日日曜日

阿蘇、サイエンスZEROを見て

  R030117のNHK、Eテレの番組です。NHK番組案内では

活発な火山活動を続ける熊本県・阿蘇。南北およそ25キロの巨大カルデラ地形に、見渡す限りの大草原が広がる。この雄大な景観が生まれた秘密を最新科学で読み解くと、地下深くから湧き上がり、大地をも動かす巨大なパワーの源を発見。さらに、日本有数の広さを誇る草原には、縄文時代から続く人間の営みが深く関わっていることも見えてきた。阿蘇の一年を記録した映像とともに、この地に根づく“人と自然の絆”を徹底解剖する。

 阿蘇山のことを知らなかったので勉強になりました。

以下は番組メモ
1.阿蘇の噴火で北海道でも15cm積もった。
2.外輪山の内側は噴火による空洞によって落ち込んだ。 3.米塚というところは三千年前の噴火。現在も活動を続ける中岳では火口に湯だまりがあるという2010年映像が出てきました。2019年では湖は干上がっていました。火炎現象が見られることもあるそうです。湖は直径300m深さ35mにもなる大きな湖で、湯だまりの水量と火山活動の関係から活発度が分かり、ここ数年は枯渇している。
4.外輪山の切れ目について健磐龍命(たけいわたつのみこと)が外輪山を蹴破り人が住めるようにしたとの神話の紹介がありました。熊本地震(2016年4月)の阿蘇大橋の崩落から活断層で出来た。
5.阿蘇の地下のマグマの源
6.阿蘇神社の火振り神事
7.水源が多くあり、雨が降りやすい気候がある。筑後川を始め6つの一級河川の源とこの地域がなり、「九州の水がめ」と呼ばれている。
8.人が集まってくる→野焼きをして草原をつくる阿蘇名物の赤牛とか、半自然草原、放牧の歴史が『延喜式』にあり→表面の黒ボク土の中のプラントオパールが縄文時代の1万3000年前の層にさかのぼることが出来る。人の営みがあった。このススキのプラントオパールの図では三回ほどピークがあり、これも興味を持ちます。
9.草原は狩猟と採集のため。野焼きにより狩猟がしやすくなり、植物を食糧や薬草に利用したことも考えられる。野焼き→農耕文化につながる。
10.阿蘇は日本の原風景

 これから考えられることは、阿蘇には地域国家の中心となる勢力があった。それがどうして、この地域の古代の過小評価になったのか? 想像ですが、吉備や阿蘇の地域がヤマトの勢力と対立したことが、書紀などの歴史から除外されたことがあるように思います。高地の山の中でどうして生活したのかという疑問も、野焼きなどで木などを焼き払い、生活しやすい環境を作っていたとすれば、十分成立すると考えられます。草原というのは古代の原風景になります。

2021年1月29日金曜日

仮説の可能性

  ベイズ統計の入門書を見ていて、最初の方の例から発想を得ました。だいたい以下のような話です。

通販のサイトで会員登録で「男性」の登録をした人が、
1回目:赤いパラソル
2回目:赤いヒールの靴
3回目:ブランド化粧品
との購入履歴があれば「女性」会員の可能性が高まり、ベイズ型のリコメンド機能のあるサイトでは次からは男性化粧品とかは出てこないというような話です。だんだん真の状態に近づいていくということです。

 コインテストで、裏か表かを調べるとして 1回目:表、2回目:表、3回目:表、4回目:表、・・・
と表が続いた場合に、このコインが両面とも表の文様だと思うのは何回目からかと考えると、早とちりや慎重派の人、いろいろですが、4回ぐらい試さないと納得してもらえないような気がします。
1回目:50%、2回目:25%、3回目:12.5%、4回目:6.25%、5回目:3.125%、・・・・
可能性から言えば、5回目くらいかなとは思います。
 「雄略天皇=天武天皇」という話も証拠の事例をある程度集めないといけないようには思います。個人的にはもう証明するまでもないと思っていますが、これでは駄目なので、どう数値化するかはわかりませんが、何%の確率で正しいとか言えればと思います。しかし、雄略天皇は、「孝徳天皇・天智天皇・天武天皇・持統天皇」の内の誰かという問題であれば、かなり簡単になりますが、そもそも雄略天皇がだれかのモデルであるという前提がなければ話になりません。誰か歴史の問題でベイズ統計を適用して欲しいなと思います。

2021年1月26日火曜日

後醍醐天皇と天武天皇

  天武天皇のことがよくわかりませんが、後醍醐天皇から考えることができるのではと思いました。 後醍醐天皇についてはウィキペディアに丁寧な説明があります。

大覚寺統の天皇。元弘の乱で鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏との戦い建武の乱に敗れたため、大和吉野へ入り[2]、南朝政権(吉野朝廷)を樹立し、尊氏の室町幕府が擁立した北朝との間で、南北朝の内乱が勃発した。

 南北朝の時代ですが、後醍醐天皇、南北朝時代の項に

廃帝後醍醐は幽閉されていた花山院を脱出し、尊氏に渡した神器は贋物であるとして、吉野(現奈良県吉野郡吉野町)に自ら主宰する朝廷を開き、京都朝廷(北朝)と吉野朝廷(南朝)が並立する南北朝時代が始まる。後醍醐天皇は、尊良親王や恒良親王らを新田義貞に奉じさせて北陸へ向かわせ、懐良親王を征西将軍に任じて九州へ、宗良親王を東国へ、義良親王を奥州へと、各地に自分の皇子を送って北朝方に対抗させようとした。しかし、劣勢を覆すことができないまま病に倒れ、延元4年 / 暦応2年(1339年)8月15日、奥州に至らず、吉野へ戻っていた義良親王(後村上天皇)に譲位し、翌日、崩御した。宝算52(満50歳没)。

とあります。吉野は山の中ですが、東西に移動できる交通の要衝であり、五十年以上存続しています。吉野朝廷といいますが、スケール的には朝廷といえるのかと思います。コンパクトな政権に感じます。各地域に自分の皇子を派遣しますが、地方分権的なもので、中央の吉野は簡素な行宮であっても成立したように思われます。

懐良親王(かねよししんのう[注釈 1])は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての皇族。後醍醐天皇の皇子。官位は一品・式部卿。征西将軍宮(せいせいしょうぐんのみや)と呼ばれる。外交上は明の日本国王として良懐(りょうかい)を名乗った。(ウィキペディアより)

 独立した地方の国家のおもむきがあります。九州は薩摩から始まりますが、これもおそらく太平洋航路で吉野とつながっていたと思います。 これからの類推ですが、天武天皇も吉野に宮をおいたのも同様で、各地域に使者を送って同盟関係を各地に求めていたことが考えられます。天武八年に吉備の石川王が吉備で薨じたとの記述があります。それまでは吉備のことが出ていないように見えます。それまでに筑紫は出てきますが、太平洋側からの航路を使っていた可能性があります。国内の記事があまり出てきません。書紀では国内統一された様相ですが、天武天皇はこの時代、国内統一過程にあったように見えます。天武天皇十二年、天武天皇は

「およそ都城・宮殿は一ヵ所でなく、必ず2・3ヵ所造るものである。そのためまず難波に都を造ろうと思う。そこで百官のものは、それぞれ難波に行って、宅地をもらい受けよ」と仰せられた。(『日本書紀➂』、新編日本古典文学全集4,小学館)

 この時期には統一の目処がたった時期として書紀は描いています。天武天皇は壬申の乱にて新時代が始まったように思われますが、吉野にある程度の期間(南北朝の五十年ほどではないですが)いて、統一に邁進していた時期ではなかろうかということです。飛鳥浄御原宮が前期難波宮に較べて劣っているように見えるのも納得できます。

2021年1月23日土曜日

五十音図

 五十音図についても、『百人一首の図像学』、岡林みどり著、批評社に書かれています。62頁あたり。

契沖の著作「万葉代匠記」には水戸光圀の後ろ盾があるとされて影響力が強かった。そして契沖にはもう一つの著作がある。これは5代将軍徳川綱吉と柳沢吉保も帰依を受けて湯島に広大な寺領を拝領した浄厳という真言僧の『悉曇三密抄』を下敷きにして『和字正濫鈔』によってかな文字の50音図を公刊してしまったのである。これにより平安時代に貴族が創出したと信じられてきた「かな文字」が悉曇文字とその理論を下敷きにした体系であることを宣言してしまったわけである。具体的には各行の頭に「加、左、太、奈、波、末、也、良、和」という字をおき、その下に「人、宇、工、袁」を母音の代わりに加えた合成字で50音図を作った。これを英文字の子音と母音に置き換えればそのまま「オ・ヲ」を除いて現在の「訓令ローマ字」へ一括変換できる画期的なものだった。

五十音図の表がこの本に載ってますが、活字化されています。引用は『五十音図の話:馬淵和夫』よりとあります。表をコピーするのはどうかと思いますので、

和字正濫鈔』巻一の19頁にあります。これをスラスラ読めるようになりたいものです。

『五十音図の話』ですが、五十音図の起源を「悉曇起源説」と「漢字音韻学起源説」の両説を立てるとよいとあります。後者の説を理解できてないのですが、岡林みどり氏のように言い切って良いのではと思います。 『五十音図の話』に浄厳と契沖のことが書いてます。

契沖は十三歳より十年間高野山で修学しているからその学問は高野山の仏教学であった。中でも言語については仏教言語学である悉曇学を学んでおり、ことに当時、真言宗第一の学者であった浄厳と深い交流があったという。契沖と浄厳とは出生に一年の差しかなく(浄厳が前)、没年も一年の差しかない(浄厳が後)し、浄厳は十歳より三十三歳まで高野山で修行し、契沖は十三歳より二十三歳まで高野山で修行しているから、大体同時代に高野山に居たことになるが、供に年若く、学問上師資の関係にあったとは思われない。・・・

 仏教が律令体制以降に大きく貢献しているはずなのに、何かしら明治以降に江戸時代や仏教を過小評価している影響が残っているようにも感じます。大雑把な理解ですが、お坊さん達が梵字や漢字の仏典を読むために必死になって「かな」を使い、それが広まっていったと考えても良さそうです。

簡単には分かりそうにはないので、「五十音」も後回しです。

2021年1月21日木曜日

日本書紀の暦

  百人一首に興味を持ち、図書館から『百人一首の図像学』、岡林みどり、批評社を借りてきました。富士山と「富士山麓オウム鳴く」の語呂合わせみたいな話が出てきたときには読む気が失せましたが、161頁に暦の問題が書いてありました。偶然に見たといって良い話です。他にも面白いことが書かれている本です。が、よくは読んでません。以下引用です。

2018年の温故学会での瀬間正之氏の講演によると、「日本書紀」では神武天皇から安康天皇までは儀鳳暦で、雄略天皇からは元嘉暦で計算されているとのことであり、・・・

 この講演会のことはわかりませんが、出所は『日本暦日原典』にあるようです。図書館でメモってきました。アナログで転記ミスがあるかもしれません。

『日本暦日原典』の507〜508ページ

小川清彦氏の「日本書紀の暦日について」について言われているように日本書紀の暦日は、5世紀のなかばまで儀鳳暦を用い、そのあとは元嘉暦で計算されたとすれば、書紀の暦日と計算とはよく一致することが明らかにされた。ただしそのためには書紀は三か所で閏字が脱落していることを認める必要があった。・・・  なお本書掲載の445年より前の書紀には、242個の月朔干支がある。儀鳳(平朔)・元嘉両暦でそれらを計算して見ると、どちらとも合わないものが7ある。これらは書紀の誤りと考えられる。残りの235は儀鳳と完全に一致するが、元嘉暦によると32の不合(干支19、月名13)が見出される。書紀の450年頃までは儀鳳の平朔で計算されたとする小川氏の説の正しさが証明される

 日本書紀の構成の問題を示しているようです。編集方針が二つに分かれていて、最初の儀鳳暦の部分は神話的部分、後の部分は一応歴史的に整合性を持たせようとしたと思われます。書紀の中心的な記述に天武天皇を基準にしようと最初は考えられていたと思います。神話の部分では天武天皇を神武天皇として始まる歴史に、ある程度の正確性を持った歴史を考えて記述する部分に天武天皇を雄略天皇として持ってきていると考えられます。これは、日本書紀の生まれた時代からの共通認識であったとすれば、大伴家持が万葉集に雄略天皇の歌をもってきて不思議ではないです。単に大伴氏が自分の祖先の事だけで入れたのではなく、もっと一般性をもった話で世間に受け入れられたと考えることができます。

 ついでですが、小川清彦氏です。小川清彦著作集『古天文・暦日の研究ー天文学で解く歴史の謎』、斉藤国治編、酷星社に論文が掲載されています。暦の計算は簡単にできるとのことですが、私にはぱっと見、できそうにないのでノーチェックです。  19番目の日本書紀の暦日についてが重要論文です。これをまとめたものが、『日本暦日原典』の引用になります。この論文の解説(斉藤氏のものと思われる)が興味をひきます。

日本古代史で、日本国家成立の根本文献はいつも『日本書紀』である。そこには神武天皇即位前7年から月朔干支のついた日付のある記事が載せてある。・・・干支のついた暦日記事は『日本書紀』の中に総数900ばかりを数える。現代の学問の常識からいって、紀元前七世紀の日本にこんなキチンとした暦日が行なわれていたとは疑わしい。もしおこなわれていたとすれば、それはいかなる歴法によっていたかが、古暦研究上の問題になる。

小川氏はこの問題解決のために、『日本書紀』の暦日干支について天文暦学的な調査を進めていた。それは昭和15年(1940)のころ完成した。その時小川氏は58歳になっていた。 昭和15年といえば、神武天皇即位紀元で数えると、皇紀2600年に当たる(1940+660=2600の勘定)。明治以降高まり続けてきた皇国史観=神国日本の思想はこのころ頂点に達し、日本は神国であり天皇は万世一系の現人神とされ、「紀元は2600年」と歌う声は日本国中に響きわたっていた。・・・・ さて、当時において『日本書紀』は日本最古の官選の正史であり、そこに記された文章は一字一句に至るまで絶対無謬の聖典とされていた。ところが小川氏の研究結果では、『日本書紀』に記載される古代の暦日は、後世(八世紀)の偽作であり、偽作するのに使った暦法もほぼ推定できる、というのである。 こんな学説をこのような時期に公表したら、たちまち「治安維持法」に引っかかって投獄されるにちがいない。・・・

 当時の状況はわかりませんが、神社の鳥居などに「皇紀2600年」の文字をよく見ます。多分、熱病のようにブームになっていたのだと思います。  しかし日本書紀の暦日問題のことを今まで知りませんでした。重要なことなのに、どうしてなのだろうと思います。本を読む限りは、通説になっているように書いてますが、そうではないのかもしれません。  暦日問題から『日本書紀』での雄略天皇の位置づけがわかったような気がします。

2021年1月18日月曜日

白猪屯倉の設置の時代

  雄略天皇の吉備攻略の時代を経てのことになります。

白猪屯倉(しらいのみやけ)は、『日本書紀』欽明天皇十六(五五五)年七月条にはじめて見える。それによると、大臣蘇我稲目と穂積磐弓を現地に派遣して白猪屯倉をおいたとある。翌年にも稲目らは吉備にやってきて、児島郡に屯倉を設置しており、その時には屯倉の経営にあたる田令(たつかい)に、葛城山田値瑞子(かつらぎのやまだのあたいみずこ)なるものを任命している。・・・その後も大臣馬子が稲目同様吉備にやってきて、白猪屯倉と田部をふやしていることなどが注目される内容である。 『岡山県の歴史』県史33、山川出版社

 白猪屯倉の場所ですが、ウィキペディアでは諸説あるとのことで、一番目の美作国大庭郡(おおばぐん)では

この地は岡山平野に注ぐ旭川の上流であり、大和と出雲とを結ぶ、出雲街道が横切る交通上の要衝であった。

と出雲とのつながりを示唆するものです。  先の『岡山県の歴史』には、田令の葛城山田値瑞子の「葛城」からヤマトの葛城国造の一族で、蘇我氏に関わりのある地域だと述べています。 また、白猪について、もう少し後の方で書かれていて

白鶏や白馬とともに仲春の祈年祭に生贄として御年神(みとしがみ)に供献される動物であるとする説は、笹川進二郎氏によりすでに提唱されているが、筆者もこの見方に賛同したい。  さらに注目すべきことに、祈年祭に関する『令集解』令釈ならびに古記の注釈によると、御年神は葛城鴨がなるものとされている。葛城鴨とは葛城の地にまつられる鴨の神であり、・・・

「鴨」から出雲との関わりを感じます。吉備の統治に出雲の関与を強く感じる事が多いです。以前に岡山県の名字で三宅と守屋の結びつきを感じてましたが、この名字の関係が天武天皇の時代のこととすれば、反対勢力の「屯倉」の攻撃に防御する「守屋」ということで、名字の発生した年代と辻褄が合ってきます。

岡山県に多い名字:三宅・難波・守屋

 乙巳の変はまったくの空想物語と思っていましたが、出雲の勢力が排除されていくことと蘇我氏の滅亡が関連しているとすれば、時代が違っていて、そのものでは無いとしても、何かしらあったのかもしれません。しかし出雲は神道派であり、蘇我氏は崇仏派と考えられるので合ってません。どこかおかしいところがあります。  しかし、天武天皇の時代をいろいろな天皇に割り振っていますが、時系列的にはあってそうです。


白猪屯倉との関連で

鉄は吉備の特産である。飛鳥京から平城京までの都城遺跡出土の木簡によると、鉄・鍬を都におさめている国は、美作・備前・備中・備後の4ヶ国に限られる。(『岡山県の歴史』、25頁)

同時期の話になり、鉄をヤマトは求めていたこともあります。

順番が逆ですが、同じく『岡山県の歴史』の17頁に

ここで古墳時代の水田の発掘事例も、近年増えてきている。弥生時代以来の小区画水田はいぜんとして続いているが、他方に一部の地域において、東西・南北に軸線を、もつ長方形の大形水田が出現するようになる(五世紀末~六世紀初、岡山市中溝遺跡など)。水田一筆の面積が一五〇~二〇〇平方メートルとなり、弥生時代後期の水田の二~三倍の規模である。プレ条里地割といって良いものである。

白猪屯倉と鉄生産は、当時の農業生産の革新、条里制の展開に結びついていた可能性大です。

2021年1月14日木曜日

養老と雄略天皇

 能に「養老」という演目があります。 演目事典:養老(ようろう) 

 岐阜県に養老町がありますが、町名起源は

親孝行な子供の話を聞き、当地へ行幸した元正天皇が若返りの滝の水(養老の滝またはその近くにある菊水泉とされる[1])を知り、元号を「養老」としたのが町名の由来である。(ウィキペディア養老町より)

養老(ようろう)は、日本の元号。霊亀の後、神亀の前。717年から724年までの期間を指す。この時代の天皇は元正天皇。(ウィキペディアより)

 養老は、霊亀、神亀という亀のついた年号にはさまってこの年号も祥瑞の年号と思われます。この地は、不破の関に近く、天武天皇の時代の温故知新的なイメージで元正天皇の行幸が行なわれ、この養老説話が「天武天皇=雄略天皇」というのに時代的に合致しています。

 『能楽手帳』、天野文夫著、角川ソフィア文庫の「養老」の項に

[素材]養老説話は『日本書紀』『十訓抄』などの諸文献に見えるが、本曲がよったのは養老寺の縁起らしい。製作の背景には、義満が明徳四年(一三九三)の伊勢神宮の帰途に養老の滝を見物したことにあるらしい。
[作意]本曲は人の寿命を延ばす霊泉出現を天下泰平を象徴する奇瑞とし、その発見者ある樵翁(しょうおう)が大君に霊水を献上するという設定を通して、当代の治世を賛美しようとした作品である。この「大君」は設定の上では雄略天皇であるが、実際には当代の将軍義満を念頭においた寓話であると思われる。・・・
[演出その他]・・・本曲がこのような地方の縁起に拠ったのは、近侍していた義満が養老の滝見物のおりに接した縁起を世阿弥が聞き知ったためと考えられる。・・・

 そうであろうかと思います。この曲の最後に山神が出てきて、君の御代を祝福しますが、君は舟で、庶民は水であるとか、水上が澄むときは川下も濁らない(トップが清廉だと世の中が治まるの意味)など述べています。つまり義満に説教していることになります。世阿弥作ですが、世阿弥単独の作ではお節介にすぎる気がします。これには二条良基の近臣のアイデアや史料の提供があったのではと想像します。つまり雄略天皇=天武天皇の理解が朝廷にあった可能性があります。

 『能楽手帳』に養老説話が『日本書紀』に見えるとありました。どこにあるのかと思います。日本書紀データベースで「養老」を検索したら、一ヵ所、朱鳥元年に「丙申、法忍僧・義照僧、爲養老各封卅戸。」とありました。意味は「丙申(二十八日)老後を扶養するために、それぞれ封(へひと)三十戸を与えた(日本書紀③、日本古典文学全集4)」とあるので、この部分の話とは違います。

 能楽に戻りますが、本巣(もとす)の郡(こおり)が出てきます。現在の本巣市です。現在は市域が広がってますが、北に福井県の大野市と接しています。

天正3年(1575年)、織田信長より一向一揆討伐の命を受けて、金森長近が美濃から大野に進攻。一揆平定後、長近は大野盆地が見渡せる亀山に大野城を、その東麓に城下町を造り始めた。これが現在の大野市街地の起こりである。(ウィキペディア大野市より)

 古い時代にさかのぼれませんが、北陸方面と繋がりがあります。 

2021年1月12日火曜日

百人一首と天武天皇

  少し前ですが、お正月の百人一首のカルタ大会のニュースがありました。それで小倉百人一首に興味を持ったのですが、一番目が天智天皇、二番目が持統天皇となっています。三番目は柿本人麻呂です。天武天皇がありません。

 百人一首の選者は藤原定家ですので、天智天皇と藤原鎌足、持統天皇と藤原不比等とつながりがあるので、先祖のことがあり選出されたと考えられます。天智天皇の歌は仮託されたものであって、

「秋の田のかりほの庵(いほ)の苫(とま)をあらみ わが衣手(ころもで)は露にぬれつつ」は無理矢理に作られたもののようです。一番から三番までが、「天・地・人」の語呂合わせでおかれたものではないと思います。万葉集の大伴家持が、祖先で大連に抜擢された大伴連室屋に時代の雄略天皇の歌を持ってきているのに対し、藤原氏の祖の鎌足の時代の天皇を一番に持ってきているのは同じ発想であろうと思います。 天智・天武・持統と続く中で天武を除いたのには政治的な意図があったと思います。奈良期末期に光孝天皇になり、天武系から天智系へ天皇が変わったことと関連しているのではというメモ書きです。

追記:R030118 大伴氏ですが、勘違いしていました。欽明天皇の時に大伴金村大連がいます。大伴家持は、この時代を先祖の時代としてはいません。金村を良く記していないので避けているのかもしれません。それと欽明天皇の名ですが、

『尚書』尭典に「欽明文思」、孔子伝「欽は敬也」とある。 (日本書紀②、新編日本古典文学全集3、小学館)

とあり、良くわかりませんが、敬うのが明らかな天皇ということなのでしょうか、仏教の話や朝鮮の任那の権益の話など、国際関係を唐にアピールしている天皇のようです。

2021年1月9日土曜日

温羅伝説と百済王子

 話が行ったり来たりしていますが、忘れないうちにメモっときます。

『岡山園の歴史』県史33,山川出版社より   

ミコトが吉備を平定するため大和からくだってきたとき、最後まで抵抗したのがウラ(温羅)という鬼神だった。ウラはもと百済の王子、身長は一丈四尺(四.二四メートル)、空中を飛行し、性は凶暴、備中の新山の「鬼ノ城」という館に住み、民衆を苦しめた。ミコトは吉備の中山に布陣し、変幻自在の妖術を使うウラとたたかい、ついに鬼の頭をとった。両軍の軍場(いくさば)となった片岡山・楯筑・生石・矢喰宮・血吸川・鯉喰神社・首村など、観光吉備路の沿道の地名について由来や説話がこれら縁起類のなかで語りつがれている。・・

ここで「百済の王子」が出てきます。昔は気にしませんでしたが、今は、天武天皇が百済からの渡来人かもしれないと考えているので、どういうことだろうと思います。ミコト側が百済人であったのが、反転してしまったのかもしれません。たまたまウィキペディアを見ると百済の以外の説もあるようです。渡来人が関わっていたことが大事だったのかもしれません。天武天皇の渡来人説を暗示しているように思えます。

温羅(うら/おんら) 

伝承によると、温羅は異国から飛来して吉備に至り、製鉄技術を吉備地域へもたらして鬼ノ城を拠点として一帯を支配したという。吉備の人々は都へ出向いて窮状を訴えたが、温羅はヤマト王権が派遣した武将から逃げおおせて倒せなかった[1]。このため崇神天皇(第10代)は孝霊天皇(第7代)の子で四道将軍の1人の五十狭芹彦命を派遣した[1]。

温羅(うら) 「吉備冠者」「鬼神」とも。 鬼ノ城を拠点とした鬼。渡来人で空が飛べた、大男で怪力無双だった、大酒飲みだった等の逸話が伝わる。 出自についても出雲渡来説・九州渡来説・百済渡来説・加耶渡来説・新羅渡来説など複数の伝承がある。

ここでヤマト側ですが、崇神天皇が武将を派遣したとあります。「御肇国天皇 (はつくにしらすすめらみこと) 」と称されている開祖を示す天皇です。つまり神武天皇と同じく天武天皇のイメージの天皇です。吉備攻略の天皇は実際は天武天皇であったことを示しているように思われます。

2021年1月8日金曜日

壬申の乱と三関

 三関ですが、ウィキペディアでは

当初は不破関(美濃国、現在の岐阜県不破郡関ケ原町)、鈴鹿関(伊勢国、現在の三重県亀山市か)、愛発関(越前国、現在の福井県敦賀市内か)の三つを指した。

壬申の乱では、大海人皇子(後の天武天皇)が初動で不破道を塞ぎ、優位に立ったことが知られている

とあります。 場所を見ていると、どうも近江国、つまり近江朝廷を包囲しているように思えます。近江側から各地への援軍要請を遮断しているようです。不破の関は東国への援軍要請を遮断する意味があります。愛発関は今まで考えていませんでしたが、近江から出雲へ援軍を頼むときに、敦賀とかの日本海側に出る必要があります。そのルートを遮断して、大海人皇子が先回りして出雲と同盟関係を築いたということになります。壬申の乱の戦域を近江国付近に限定させたのも大海人皇子の作戦だったかもしれません。突発的に起こったような日本書紀の壬申の乱の記述ですが、周到に準備されていた可能性もあると思います。

不破関とは 

不破の関の役割 三関のうち、現在までにその遺構が検出されているのは、不破の関のみである。一九七四年からの五次にわたって行なわれた調査において、八世紀の不破の関の形状が、ある程度明らかになった。それは、藤古川に面した急峻な斜面を西に控え、東・北・南の三方を土塁で囲み、その中央に、役所かと推定される掘建て柱の建物がいくつか並ぶというい状況である。東山道に対して美濃側に関の中枢施設を設けていたものと思われる。(『名古屋・岐阜と中山道』街道の日本史29、吉川弘文館発行)

これは大海人皇子の当時も同様で、他の関も同じく近江側を向いていたと考えて良さそうです。壬申の乱以後も近江の反乱をおそれて三関が維持されたように思えます。

2021年1月7日木曜日

美濃路と出雲

 「絶対行きたくなる!ニッポン不滅の名城」という番組で一乗谷が取上げられていました。北陸道と美濃路の交通の要衝のようなところに一乗谷が位置するようです。太平洋側の尾張、美濃、一乗谷、三国湊で日本海側につながるとの話から、ひょっとして大海人皇子と出雲のつながりが、壬申の乱の時の美濃に存在したときにあったのかもしれないという気がしてきました。古代にもこのルートが成立していた可能性大です。浜松市に井伊直虎の墓があるという龍潭寺(りょうたんじ)がありますが、その引佐町(いなさちょう)にある渭伊神社の社殿後背の薬師山山頂には磐座祭祀遺跡である天白磐座遺跡(静岡県指定史跡「渭伊神社境内遺跡」)があります。 町名の「いなさ」ですが、出雲の稲佐の浜(いなさのはま)が頭に浮かびます。ここは「八百万の神々をお迎えする、神迎え神事の浜」とのことです。引佐町の磐座にこの地方の神様が集合して、ここから出雲へ旅立つ出発地のイメージです。古代の神様は美濃路を通り、日本海側を海路で進まれたと想像されます。大海人皇子も美濃にいる時、このコースで出雲とつながったのかもしれません。  愛知県津島市に津島神社(つしまじんじゃ)があります。尾張津島天王祭で有名なところです。

社伝によれば、建速須佐之男命が朝鮮半島から日本に渡ったときに荒魂は出雲国に鎮まったが、和魂は孝霊天皇45年(紀元前245年)に一旦対馬(旧称 津島)に鎮まった後、欽明天皇元年(540年)旧暦6月1日、現在地近くに移り鎮まったと伝える。(ウィキペディアより)

 対馬→津島とのことで、広域なつながりですが、須佐之男命=天武天皇とすれば、こちらのルートもあり得ます。荒唐無稽な話ではありますが、出雲と大海人皇子のつながりを暗示しています。

東海地方を拠点とした織田氏は勝幡城を近辺に築き、経済拠点の津島の支配を重要視して、関係の深い神社として崇敬し、社殿の造営などに尽力した。織田氏の家紋の木瓜紋は津島神社神紋と同じである。豊臣氏も社領を寄進し社殿を修造するなど、厚く保護した。(津島神社、ウィキペディア)

 織田信長の四国の長宗我部とのつながりも津島神社との関係から発展したのかもしれません。大海人皇子と出雲のつながりも太平洋側の海路により繋がりを持った可能性もないとはいえません。古い時代から海上交通があったはずだとの妄想に近い話ではあります。

2021年1月3日日曜日

聖徳太子=孝徳天皇?

 今年は聖徳太子の一四〇〇年忌にあたるということが、日経新聞元旦第四部の記事にありました。仁徳天皇=孝徳天皇から「徳」つながりでの発想です。以下日経記事から取り込んでいます。

聖徳太子は死後につけられた諡(おくりな)だ。日本書紀などには様々な名前で登場する。厩戸皇子、豊聡耳法大王、上宮太子ーー。

聖徳太子関連年表
574年誕生、厩戸の前で急に産気づいて生まれ、その地に建てられたのが橘寺
585年父、用明天皇が即位
587年用明天皇死去 蘇我馬子らが物部守屋を滅ぼす、太子も従軍
592年馬子が崇峻天皇を暗殺 推古天皇が豊浦宮で即位
593年皇太子となる 四天王寺の建立開始
600年遣隋使を派遣
603年推古天皇、小墾田宮へ遷る(雷丘東方遺跡に「小治田宮」と墨書した木簡が出土したという) 冠位十二階を制定
604年十七条憲法を作る
605年斑鳩に移る 太子道を黒駒にまたがって通ったと伝わる
607年斑鳩寺(法隆寺)を建立、遣隋使に小野妹子らを派遣
622年妃の膳部大郎女と相前後して死去 墓は叡福寺北古墳(宮内庁がの治定)
643年太子の子・山背大兄王を蘇我入鹿が攻め、一族滅亡
670年斑鳩寺全焼

 年表を見て孝徳天皇と結びつくのは四天王寺です。前期難波宮の南に四天王寺が位置し、飛鳥の北西に法隆寺が位置しています。しかも現法隆寺の前の若草伽藍は配置が四天王寺と似ているようです。四天王寺は聖武天皇や光明皇后の時に整備されたので変化してるかもしれませんが、後期難波宮も前期のものを尊重しているようです。寺院配置は創建した人の考えが反映され、この時代もいろんな形式が乱立するようですが、孝徳天皇の関与するものと考えると納得できます。

大阪と奈良を結ぶ道はいくつかのルートあったが、それら諸道のなかでも両地域を最短距離で結ぶ街道が奈良街道と 呼ばれた。この街道には竜田道(竜田越)と暗越の二ルートがあった。竜田道は、古代に平城京と難波宮を結ぶ主要道であった。この道は、天王寺から大和川の旧河道沿いに植松(現八尾市)・柏原(現柏原市)と東行し、大和川亀ノ瀬の北岸の竜田山を抜けて大和に入り、法隆寺(現生駒郡斑鳩町)・大和郡山(現大和郡山市)を通って奈良に至るルートである。

もうひとつのルートである暗越は、竜田道の北側を通るルートである。・・・近世には大和郡山藩主の脇往還として利用された・・・

竹内街道 この街道は、和泉・河内と大和南部を結ぶ幹線道であり、河内と大和の国境の竹内峠を越える道である。古代国家の手によって設定された「丹比道」と呼ばれる難波と飛鳥を結ぶ官道の後身と考えられ、近世以後、「竹内街道」と呼ばれるようになった。 『街道の日本史33 大阪』、今井修平・村田路人編、吉川弘文館、2006年七月 の抜書き

 法隆寺は竜田道にあり、難波宮の影響が強く出た場所にあります。古代のルートと考えられる竹内街道ルートに近いところに法隆寺があったはずですがそうではありません。孝徳天皇との結びつきを感じます。643年に山背大兄王一族滅亡の時に法隆寺も焼失すれば良いわけで、理由不明ですが、670年に焼失は孝徳天皇の時代に近く、何らかの意味があるはずです。今はわかりませんが。 聖徳太子に関連して、兵庫県揖保郡太子町に鵤寺があります。 太子町ホームページの斑鳩寺のところに

1,400有余年前の推古天皇の時代、聖徳太子が勝鬘経、法華経などを天皇に講じられ、これに深く感動された天皇より播磨国の水田を賜り、太子はこれを仏法興隆のため法隆寺に寄進されました。( 『日本書紀』によると、寄進の時期は推古14年(606年)7月、水田の規模は100町、『聖徳太子伝記』では同じく、太子44歳御時、360町とある。諸文献に諸表記がある) 後の平安時代に、この地は法隆寺の荘園「法隆寺領播磨国鵤荘(いかるがのしょう)」へと発展し、その中心に荘園経営の中核的存在として、政所とともに斑鳩寺が建立されました。 この創建以後、鵤の地はながく、この地方の太子信仰の中心としても栄え、播磨の国の中における特異な文化興隆地域を形成することになりました。

とあります。播磨国にどうして法隆寺の荘園があるのかですが、孝徳天皇の時代に寄進があったとすれば、難波宮の位置から瀬戸内海の制海権があり、誰かの土地をかってに寄進すれば問題になりますが、播磨地域の新田開発により新たに生まれたところを寄進することが出来たのではと思います。法隆寺と播磨ですが、この往来も海上を利用したはずで、難波宮の存在があって可能になったと考えられます。

2021年1月2日土曜日

吉備国成立

 『岡山県の歴史』山川出版社を見ています。本の最初の方ですが、第二章「古代国家の発展と吉備」の二節「律令国家の成立」という47頁からです。著者は、大化改新詔に畿内国とかあるが、国の体制が出来ていないと考えているように思われます。

吉備地域の「国」制に関する『日本書紀』『続日本紀の記事を抽出すると次のようになる。

年月記事
(1)天武天皇元年六月吉備国守当摩公(たぎまのきみ)広島
(2)天武天皇二年三月備後国司白雉(しろきぎし)献上
(3)天武天皇八年三月吉備大宰(おおみこともち)石川王没
(4)天武天皇十一年七月吉備国言(もうす)、五穀不登(みのらず)
(5)文武天皇元年閏十二月播磨・備前・備中以下五国飢

(2)の記事を見ると、吉備の分国はいかにも進んでいるようにみえるが、(4)にはまだ吉備国とある。(5)以降は吉備国のような表現はみられらくなるから問題はない。・・・

非常にわかりやすいように表になっています。吉備が国として組み込まれるのは(4)から(5)にかけてかなと思えてきます。(3)に「吉備大宰」についても詳細にあります。引用では端折りますが、

大宰がおかれたのは吉備と筑紫に限られ、・・この地域は天智朝に古代山城がきずかれた場所であることも想起したい。

 鬼ノ城のことだと思いますが、ヤマトの戦略拠点としての城とは考えにくいと思います。現代で言えば、東京の防衛拠点を北海道とかに作ることは考えにくいです。重要拠点の近くに防衛拠点が作られるはずです。つまり鬼ノ城の近くに重要拠点があり、さらに防衛拠点を作るだけの経済力をその地域が持ってないたことになります。何をいいたいかというと、吉備国が自己防衛のため(ヤマトとかを考えず)に長期戦を覚悟して、鬼ノ城を作ったと考えることができるのではということです。それぞれの地域の自立性があって(統一された日本はまだ無くて)、それが文武天皇の時代までなにかしら続いていた、と考えられます。 この本では

吉備において分国が完成をみるのは、天武天皇十二年(六八三)十二月から同十四年十月にかけて、全国的に実施された国境の確定作業を待ってであろう。そして最終的に分国が実現するのは、持統天皇三年の浄御原令の施行後であったと見られる。

と書いてます。

奈良県明日香村の飛鳥池遺跡から出土した木簡に、「吉備道中国加夜評/葦守里俵□」、読みは「きびのみちのなかつくにかやのこおり/あしもりのさと」で備中国を「吉備道中国」と表記している。七世紀末にある時期に行政区画の「ーー道」があった。・・『日本書紀』ではこのことをうかがわせる記事は一切無い。・・天智・天武朝の短い期間であったとみられる。・・・

とのことです。以上、個人的なメモ書きですが、この時代、天武天皇は何をしていたのかは隠されていて、妄想力に頼るしかないかもしれません。