少し前ですが、お正月の百人一首のカルタ大会のニュースがありました。それで小倉百人一首に興味を持ったのですが、一番目が天智天皇、二番目が持統天皇となっています。三番目は柿本人麻呂です。天武天皇がありません。
百人一首の選者は藤原定家ですので、天智天皇と藤原鎌足、持統天皇と藤原不比等とつながりがあるので、先祖のことがあり選出されたと考えられます。天智天皇の歌は仮託されたものであって、
「秋の田のかりほの庵(いほ)の苫(とま)をあらみ わが衣手(ころもで)は露にぬれつつ」は無理矢理に作られたもののようです。一番から三番までが、「天・地・人」の語呂合わせでおかれたものではないと思います。万葉集の大伴家持が、祖先で大連に抜擢された大伴連室屋に時代の雄略天皇の歌を持ってきているのに対し、藤原氏の祖の鎌足の時代の天皇を一番に持ってきているのは同じ発想であろうと思います。 天智・天武・持統と続く中で天武を除いたのには政治的な意図があったと思います。奈良期末期に光孝天皇になり、天武系から天智系へ天皇が変わったことと関連しているのではというメモ書きです。
追記:R030118 大伴氏ですが、勘違いしていました。欽明天皇の時に大伴金村大連がいます。大伴家持は、この時代を先祖の時代としてはいません。金村を良く記していないので避けているのかもしれません。それと欽明天皇の名ですが、
『尚書』尭典に「欽明文思」、孔子伝「欽は敬也」とある。 (日本書紀②、新編日本古典文学全集3、小学館)
とあり、良くわかりませんが、敬うのが明らかな天皇ということなのでしょうか、仏教の話や朝鮮の任那の権益の話など、国際関係を唐にアピールしている天皇のようです。
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