2021年1月18日月曜日

白猪屯倉の設置の時代

  雄略天皇の吉備攻略の時代を経てのことになります。

白猪屯倉(しらいのみやけ)は、『日本書紀』欽明天皇十六(五五五)年七月条にはじめて見える。それによると、大臣蘇我稲目と穂積磐弓を現地に派遣して白猪屯倉をおいたとある。翌年にも稲目らは吉備にやってきて、児島郡に屯倉を設置しており、その時には屯倉の経営にあたる田令(たつかい)に、葛城山田値瑞子(かつらぎのやまだのあたいみずこ)なるものを任命している。・・・その後も大臣馬子が稲目同様吉備にやってきて、白猪屯倉と田部をふやしていることなどが注目される内容である。 『岡山県の歴史』県史33、山川出版社

 白猪屯倉の場所ですが、ウィキペディアでは諸説あるとのことで、一番目の美作国大庭郡(おおばぐん)では

この地は岡山平野に注ぐ旭川の上流であり、大和と出雲とを結ぶ、出雲街道が横切る交通上の要衝であった。

と出雲とのつながりを示唆するものです。  先の『岡山県の歴史』には、田令の葛城山田値瑞子の「葛城」からヤマトの葛城国造の一族で、蘇我氏に関わりのある地域だと述べています。 また、白猪について、もう少し後の方で書かれていて

白鶏や白馬とともに仲春の祈年祭に生贄として御年神(みとしがみ)に供献される動物であるとする説は、笹川進二郎氏によりすでに提唱されているが、筆者もこの見方に賛同したい。  さらに注目すべきことに、祈年祭に関する『令集解』令釈ならびに古記の注釈によると、御年神は葛城鴨がなるものとされている。葛城鴨とは葛城の地にまつられる鴨の神であり、・・・

「鴨」から出雲との関わりを感じます。吉備の統治に出雲の関与を強く感じる事が多いです。以前に岡山県の名字で三宅と守屋の結びつきを感じてましたが、この名字の関係が天武天皇の時代のこととすれば、反対勢力の「屯倉」の攻撃に防御する「守屋」ということで、名字の発生した年代と辻褄が合ってきます。

岡山県に多い名字:三宅・難波・守屋

 乙巳の変はまったくの空想物語と思っていましたが、出雲の勢力が排除されていくことと蘇我氏の滅亡が関連しているとすれば、時代が違っていて、そのものでは無いとしても、何かしらあったのかもしれません。しかし出雲は神道派であり、蘇我氏は崇仏派と考えられるので合ってません。どこかおかしいところがあります。  しかし、天武天皇の時代をいろいろな天皇に割り振っていますが、時系列的にはあってそうです。


白猪屯倉との関連で

鉄は吉備の特産である。飛鳥京から平城京までの都城遺跡出土の木簡によると、鉄・鍬を都におさめている国は、美作・備前・備中・備後の4ヶ国に限られる。(『岡山県の歴史』、25頁)

同時期の話になり、鉄をヤマトは求めていたこともあります。

順番が逆ですが、同じく『岡山県の歴史』の17頁に

ここで古墳時代の水田の発掘事例も、近年増えてきている。弥生時代以来の小区画水田はいぜんとして続いているが、他方に一部の地域において、東西・南北に軸線を、もつ長方形の大形水田が出現するようになる(五世紀末~六世紀初、岡山市中溝遺跡など)。水田一筆の面積が一五〇~二〇〇平方メートルとなり、弥生時代後期の水田の二~三倍の規模である。プレ条里地割といって良いものである。

白猪屯倉と鉄生産は、当時の農業生産の革新、条里制の展開に結びついていた可能性大です。

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