2018年9月30日日曜日

犬上御田鍬

 遣隋使では犬上御田鍬という人がいます。御田鍬は田を鋤くということで、牛馬を使ったハイテクなイメージを持ちますが、こちらは置いといて、犬上の方です。犬上氏は古代豪族で、本拠は近江国犬上郡です。現在の滋賀県東北部の地名です。犬上氏は八世紀以降は衰えた。とのことです。日本海側からやってきた渡来系の人に思われます。遣隋使は瀬戸内海を航行するので、どうしてこの地域の人が選ばれたのか不思議です。小野妹子との繋がりを考えました。小野氏は琵琶湖の南、犬上氏は琵琶湖の北です。おそらく琵琶湖岸を陸路でつながっていたのでは無く、湖上を船で行き来していたと思います。ある程度はなれた地域の運航で、造船や操船の技術に長けていたはずです。遣隋使も海外ですので船の技術が必要で、それに犬上氏や小野氏などの古代豪族が対応できたのではと思いました。つまり遣隋使の主となる人は、通訳的な人ではなく、船の技術を持っていた人達ではないかと思いました。犬上氏などは中国に行くとしたら日本海側からの方が便利のはずで、船の問題が無ければ選ばれなかったような気がしてきました。

2018年9月29日土曜日

小野神社

 小野神社は、各地にありますが、ここでは滋賀県大津市小野にある神社です。境内社 として小野篁神社がありますが、一見こちらがメインに思われます。向かって左手に本社というか本殿があります。祭神の米餅搗大使主命は日本の餅作りの祖と言われていることから、例祭のシトギ祭には、全国の菓子業界からの参拝を受けているそうです。社殿前には狛犬の代わりに石の鏡餅が左右に飾られていて、そうかと思います。この地は昔の小野一族の本拠地で、地名や名字などの小野の発生地と案内板に書かれていました(注1)。近くに古墳群があり、少し離れたところにある小野妹子神社には唐臼山(カラウスヤマ)と称する古墳があったとされ、全然でたらめの話には思われません(注2)。現在の社殿は新しそうですが、建物の外に柱が据えられ、これが棟持ち柱に見えるので、神明造でした。私は伊勢神宮だけ神明造があるものと思い込んでいたのでびっくりしましたがそれほど珍しいことはなさそうです。ウィキペディアでは、明治時代になり伊勢神宮をまねたものがあるそうです。伊勢神宮の独占ではなさそうですが、この辺は私には良くわかりません(注3)。小野神社は目立ちたくないのかひっそりとある感じです。一方、小野篁が神社の社格をあげるなど貢献があったことで、篁神社が中心になったのかなとは思います。この小野篁神社の本殿は、古い趣があります。南北朝前期とされ、重要文化財になっています。横から見ると流れ造りで正面三間(柱の間隔が三個)すが、お参りする向拝の部分が一間になっているのはこの地方の特徴だそうです。この地域の大工が主となって建てるので、ほかの地方から応援を頼んだとしても、地方性が出てくるのだと思います。小野道風神社も同じ形式のようです。カエルと柳の木がありました。この話もすっかり忘れていました。案内板とか良く読まないと意味わからない人が多いとは思います。遣隋使の小野妹子が実際にどこの人かは不明ですが、それらしき人がこの地に関係していたかもしれません。大津の地が琵琶湖の西と東をつなぐ結束点にあったことは確かで、日本海側からやってきた渡来人が住み着いた場所にはなると思います。小野妹子がこの地で無くても大問題にはならないとは思います。

注1:国史大辞典で「小野」の項を見ると
1.兵庫県の中西部に位置する市。加古川の中流で明石・西沿いに通じる街道沿いの要地。青野原鶴池で旧石器時代の石片が発見されたほか、粟生・新部のなどの弥生遺跡、王塚・大塚などの古墳や焼山ほかの郡集積など、考古的遺跡・遺物が多い・・・・
2.京都府の古地名。「和名類衆抄」によると、山城国には愛宕郡小野郷(京都府左京区修学院北方の地域)、宇治郡小野郷(京都市山科区小野)の2ヵ所があって、丹後国には竹野郡小野郷(現在地は不明)がある。・・・
3.滋賀県滋賀郡志賀町の地名(現大津市)。西近江路沿いで琵琶湖西端に位置し、近淡海国造の根拠地、古代の小野氏の出身地と推定される。小野妹子墓と伝承を有する唐臼山古墳をはじめ、小野神社古墳群、石釜古墳群、道風神社古墳群・大塚山古墳群などが集中しているが、それらの築造年代は不詳である。弘仁ごろには小野氏宗族は小野を離れ、京師に止住したものと思われる。・・・
とあります。
注2:小野妹子は不明ですが、その子の小野毛人《おののえみし》の墓誌が山城国愛宕郡の墓から出てきたそうです。小野毛人墓誌(国宝?のちの奈良時代に作られたらしいです)。
小野小町の出生地や墓は全国に多数あり、国史大辞典では、小野氏は、神職として全国に広がっている家柄で、社寺の縁起とも関わり深い。小町伝説の展開にも、小野氏が大きな役割を演じていたのではないかと考えられる。と書いてあります。
また、「滋賀県の歴史散歩(下)」唐臼山古墳について1734年(享保19)の「近江輿地史略、滋賀郡小野村」の項には「妹子の旧跡知る者なし」とあり、1882年(明治15)の「近江国滋賀郡小野村誌」にも、唐臼山古墳に関する所伝は見えない。大正時代になってから、小野妹子の墓との見解が生まれたとのことです。この古墳から七世紀前半の頃の須恵器が発見されたことから、小野妹子神社が創祀されたと書いてました。
注3:「復元思想の社会史」、鈴木博之編、建築史料研究社という本に、熱田神宮のことが書かれています。元々尾張造だったのが、明治になり神明造に変更しようとして、明治22年に伊勢神宮のコピーを考えていたようです。伊勢神宮の知るところとなり、反発があったようで、明治24年には改造一部変更案で双方受け入れ、明治26年、熱田神宮は伊勢神宮を模した改造を行ったとのことです。この本に伊勢神宮と熱田神宮の図面があり、小さいですが同じように見えました。現在の熱田神宮は戦災で焼失し、式年造替後の古い内宮正殿を移築した物であると書いています(この本は2006年発行)。伊勢神宮は「唯一神明造」とされますが、伊勢神宮の差別化を図るために皇国史観の時代、建築史家の伊藤忠太の唱えたもののように書いています。

2018年9月25日火曜日

和紙の里

和紙文化辞典、久米康生著、株式会社わがみ堂発行、この本に
全国の紙郷分布に簡潔にまとめられています。

 全国各地での製紙は、奈良時代に中央政府の図書寮《ずしょりょう》で養成された造紙丁《ぞうしてい》によって国衙細工所ではじまり、律令体制の衰退にともなって荘園での造紙が優勢となり、中世末期には商品経済の展開にとともに特産地が形成された。古代・中世の紙の消費者は公家・僧侶・武士などの上層階級だけであったが、近世には町人まで紙の消費層がひろがり、記録文化財から生活文化財としての需要も高まり、上方市場の重要商品に成長するのを背景として、さきの特産地を中核として広く紙郷が形成された。特に西日本の諸藩では紙を専売制に組み入れて増産を奨励したところが多く、有力な紙郷を育てた。

と書いています。
同じ本に、和紙史略年表があります。
西暦296年、西本願寺蔵の「諸物要集経」は西晋元康六年三月一八日付で現存する日本最古の写経
とあり、途中省略しますが、
西暦652年、白雉三年、最初の班田収受終り、毎年計帳、六年ごとに里別の戸籍を作ることとし、その紙・筆・墨を郷戸の負担とする
とあります。紙の生産はある程度、一般化していた可能性があります。
和紙文化関係の主要文献で最初の方に
1.正倉院文書(大日本古文書)、東京大学史料編纂所
2.古語拾遺、忌部広成
3.令義解、清原夏野ら
4.延喜式、藤原時平ら
以下略
載っていました。

和紙については、
「和紙の里 探訪記 ー全国三百ヵ所を歩くー」菊地正浩著、草思社
この本を見ました。和紙の里について書かれています。全国に多数あるそうで、消滅するような所を含めて、各地を巡って調査されています。手漉き和紙についても詳細に書かれています。和紙について知らなかったので興味深く読みました(最初の方だけですが)。読んだ部分のメモ書きです。

 和紙の三大原料は、楮《こうぞ》、三椏《みつまた》、雁皮《がんぴ》である。それに紙の繊維をつなぐネリが必要になる。楮は当初、榖と書いてカジとも呼んでいた。榖(かじ)は梶、構、楮の木のことで、厳密には異種だが識別し難いので同種として扱うことが多い。近年の学説ではヒメコウゾとカジノキの雑種を楮と呼んでいる。聖徳太子が楮の栽培を奨励したとされる頃は、カジと呼んでいたようだ。今でも梶、楮、榖、構の字がつく地名は多く残る。

と書いてあります。名字で梶のつくものは舟の梶のように思っていましたがそうでも無さそうです。また

 三椏は三股、三又とも書き、紙幣に使われることで知られる。ジンチョウゲ科の落葉低木で、三本の枝分かれが吉兆とされる。ちなみに、三枝《さえぐさ》姓は幸草《さきぐさ》がサエグサになったものという。
と書いています。
 雁皮はジンチョウゲ科の落葉低木で、カニヒ、紙斐《かみひ》とも呼ばれ、枕草子には「かにひの花」とある。・・・・以上三種以外にもクワ、杉、松、竹などいろいろな植物の繊維が原料となる。北海道は大きな蕗《ふき》や千島笹、沖縄はバナナの葉のような芭蕉(ばしょう)が紙材となる。
と書いています。各地域で土地にあった紙が種々作られたようです。
 通称ネリと呼ぶ糊は、日本独特の流し漉きで使用する。中国の溜め漉きではネリは使用しないと書いています。
 流し漉きですが、平安時代の大同年間(806~10)、京の紙屋川の畔に公用紙の調達や製造を職務とする官営造紙所「紙屋院《しおくいん》」が設置された。そこで確立したという。これは叩いてほぐした繊維を水に入れ、ノリウツギやトロロアオイの粘液である「ネリ」を溶かしてよく攪拌し、これを漉き簀《す》にすくって揺する。残った水を前方に捨て、簀の上に残った繊維の集まりを積み重ねる。そして水分を抜き、板に貼って干すという技法である。
と書いています。知らない人にはわかりくい説明かもしれません。溜め漉きでは繊維が積み重なるのに対し、流し漉きでは、繊維がからまって薄い厚さの紙が作りやすいということだと思います。
 和紙の利用についても詳しく書いてあります。かっては紙の着物が常用されており、地方によっては今も着ているところがある。紙衣《かみこ》(紙子)は主に冬物の着衣で、厚手の和紙を蒟蒻糊《こんにゃくのり》で貼り合わせたものである。とあります。ほかにも利用例があげられています。そういえばエンジンの部品の接合部に油紙のパッキンみたいな物が使われていました。紙は文字を書くためだけのものではないようにも改めて思われました。
 この本には、第三章で紙祖神たちの里が取り上げられていて、最初に越前和紙が出てきます。岡太《おかもと》神社と大瀧神社には、約1500年前、越前出身の継体天王(在位507~531)の時代、南部の五箇村を流れる岡太川の上流より美しい姫が現れて、貧しい村人たちに紙漉きを教えたという伝説が残る。村人は姫を「川上御前」と呼び、岡太神社を建てて祀った。日本には大陸から紙が伝えられた四~五世紀頃には、越前にすでに製紙技術があったという伝説である。現在、「五箇地区」と呼ばれ、和紙業者が軒を並べて昔ながらのたたずまいを見せている。
と書いてあります。この越前和紙がトップですが、次に阿波和紙について書かれています。
阿波和紙の発祥は、旧川田村(山川町川田)である。和紙と凍《しみ》豆腐が特産の集落であり、はあ古くから行われていた。忌部氏《いんべし》の一族、忌部広成《いんべのひろなり》が残した「古語拾遺」(807)には、「天富命《あめとみのみこと》が天日鷲命《あめの ひ わしのみこと》の子孫である阿波忌部一族を率い、阿波国に来て、麻、楮を植えて紙や布の製造を盛んにした。その地を麻植《おえ》郡といい、今もその子孫が住んでいる」と記録されている。天日鷲命は神話上に登場する神で、天照大神が天岩戸に入ったとき、弦楽器を奏でると、弦の先に鷲が止まり、仲間の神々は吉祥の鳥として喜んだと伝えられている。山川町の高越《こうつ》神社には、天日鷲命が祭神として祀られている。
と書かれています。話は紙祖神になり、この地から阿波から関東に伝播したという。
 鷲ノ子《とりのこ》紙(栃木県珂川町馬頭《ばとう》・茨城県常陸大宮市(さいたま市?)美和)鷲子山上《とりのこさんじょう》神社、タイトルは「名門鷲ノ子紙を広めた紙祖神」となっています。
この鷲子山上神社の石段が県境になっている珍しいところだそうです。右が茨城県、左が栃木県とのこと。この本によれば
神社の創建は大蔵坊宝珠《ほうしゅ》上人、社歴によると、大同2年(807)、馬頭の僧であった宝珠上人は諸国遍歴中、四国阿波国で紙漉きの神に出会っている。鷲子牁山神社の守護神は天日鷲命。四国の阿波忌部の祖、紙の紙祖神である。
と書いてあります。
つまり和紙製造は中央から順番に地方に拡散したのではないように思われてきます。
美濃和紙についても書いてありました。
美濃和紙(岐阜県美濃市)
 現存する最古の美濃和紙は、大宝2年(702)の正倉院蔵の戸籍「御野国戸籍断簡」である。この用紙は他の国の戸籍に較べ、きわめて優れた紙質であったとされている。御野国《みののくに》は、現在の岐阜県西濃域、揖斐川流域のこと、また文献に現れたのは、天平9年(737)の正倉院文書「写経勘紙解《しゃきょうかんしげ》」が最初とされる。これらのことから、美濃地方に製紙技法が伝播されたのは七世紀後半と考えられる。美濃が紙里の中核となったのは平安時代以降。
と書いてあります。
土佐和紙についても述べられています。
遠島の阿波和紙が、四国での阿波和紙の発祥とされている。その次に出てくるのが土佐和紙とのことで、九二〇年頃(平安時代)の記録「延喜式」には「紙を作る国」としての名がある。とのこと。個人的な想像ではもっと早い時期になってほしいがそうではありません。どのようなルートで和紙製造が伝わったか興味があるところです。

吉宗 象

 NHKの[ネーミングバラエティー 日本人のおなまえっ! 【いきものおなまえ夏SP】
という番組で一ヶ月ほど前ですが放送されていました。日本人の名前の番組で動物とは脱線気味ですが、ひょっとしてと思いました。内容は
象という漢字をゾウと呼んだのが始まり、奈良時代にはすでに使われていた。江戸時代後半にはなぜかほとんどの人がゾウの姿をおなまえを知っていたという。その証拠にゾウのグッズまで売られていた。8代将軍徳川吉宗が関わった象ブームが起きるきっかけ、それは長崎から江戸まで象を歩いて持ってきたこと。到着までにかかった日数は64日。この長いあいだに多くの人が象を目撃、象の名前とその姿が刻み込まれたそう。
とありますが、ネットでも説明の記事があります。

八代将軍吉宗が江戸に呼び寄せた象 享保の象 長崎から江戸へ

個人的な疑問でしたが、神社などで社殿、お寺の建物で木鼻(きばな)というところがあります。木鼻について

どうして、最初は簡素な物からリアルな象のような形の物が造られたのか疑問に思っていました。
番組では象がブームになったとのことですが、これだという気がします。昔は馬を奉納するのが代用で絵馬になったように、象を奉納したいが出来ずに木鼻の象になった可能性があります。最初の頃はおじいさんかおばあさんが孫に昔はこの近くの街道を象が通ったんだよと木鼻の象を使って説明したのが、その後、象は動物図鑑や動物園でもみられるし、廃れていき、現在では何のことかわからず残っているのかもしれません。この説はちょっと怪しいところがあります。東照宮はもう少し古そうで、時代的には合っていません。象ほどの鼻の長さが無いようにも見えないこともないので可能性はあります。



2018年9月19日水曜日

和泉

「イズミ」と読みます。大阪府泉北地域に和泉市があります。
地名の和泉ですが、和泉国があった所です。もともとは泉であったが、好字令により国名を2字にする必要から「和」をつけ、「和」は読まないということです。
ここで問題は、
1.なぜ、この地が泉と呼ばれたのか
2.なぜ、好字令で「和」が選ばれたのか
ということがあると思われます。
歴史の中の石造物 ー人間・死者・神仏を」つなぐー、山川 均著、吉川弘文館発行
をみての単なる思いつきです。
この石造物の本ですが、第1章の慶政《けいせい》と石塔のところに注目です。20頁に

 慶政は日本で最初に石造宝篋印塔を創出した人物である。宝篋印塔とは、基礎・塔身・屋根・相輪からなる中国起源の塔形で、屋根の四隅につく耳状の隅飾りと呼ばれる突起が外見上の特徴である。石塔以外にも、金属塔や木製塔がある。「宝篋印塔」という名称は、塔身に宝篋印陀羅尼という経文を納めたことに由来する。・・途中省略・・
 前記したように、石造宝篋印塔は中国起源である。しかし、その宋代における分布範囲は、福建省泉州から厦門《アモイ》にかけての沿海部で、中国大陸全体から見ると非常に狭い範囲にすぎない。一方、当時我が国から中国に渡った僧侶の活動範囲は、その大半が浙江省《せっこうしょう》寧波《ニンポー》を中心としており、福建省まで足を延ばす者はいなかった。この時代の日中交易の正式ルートは博多ー寧波間であり、また、同地には阿育王寺《あいくおうじ》や天童寺《てんどうじ》などの著名な寺院が存在したため、わざわざ福建省まで行く必要がなかったからだ。
 こうした状況下で、慶政は福建省泉州に滞在したことが文献から明らかになる唯一の僧侶である(「波斯文文書」)。当時の泉州は、マルコポーロが「東方見聞録」中でアレキサンドリアと並び称したように、東南アジアや西アジア、さらにヨーロッパの人や物が行き交う、アジア最大級の貿易港であった。慶政は僧侶としての立場だけでなく、九条家の一員としても、この地に興味を抱いていたのだろう。

と書いてあります。慶政は九条道家(鎌倉幕府第4代将軍頼経の父)の兄とされます。
 時代が違いますが、古代に、中国泉州と和泉が何らかの交易関係にあり、泉に対して中国の泉州が頭にあり、日本の泉州であることから和泉となったのかと妄想します。問題1・2の答えに繋がります。これは遣唐使の南海ルートに和泉が関連していた可能性があることを示しているので、まだまだ証拠不十分ですが、これから考えていきたいと思います。
宝篋印塔

追記:2018.10.02
「大阪春秋」和泉市特集号、今年度の夏号ですが、和泉の地名由来が書かれていました。
JR和泉府中駅から東へ5分のところに泉井上神社が鎮座している。この神社は平安時代にまとめられた「延喜式神名帳」に見える古社の一つで、本殿北側に大阪府指定史跡の和泉清水(いずみしみず)があったという。和泉の名のもととなったという。
とありました。実際に泉があったとのことです。そうだろうなとは思いました。もう少し考えてみたいと思っています。

2018年9月18日火曜日

日本列島 人々の起源探る 新たなプロジェクト開始へ

NHKのニュースで放送されていました。

リンク

旧石器時代から現代までの人々の遺伝情報を解析することで、日本列島に暮らしてきた人々の起源を探ろうという新たなプロジェクトを、国内の複数の研究機関と大学が共同で始めることになりました。
チームでは、旧石器時代や弥生時代などの古代人の人骨からDNAを取り出して遺伝情報を解析し、日本各地に住む現代人500人と比較するほか、海外のデータとも比べることにしています。

とのこと。
5年後が楽しみです。

2018年9月12日水曜日

奈良の墨


 奈良では古くから墨作りが行われ、国内のシェア9割だそうです。律令時代から引き継いでいるにかと思いました。しかしそうではないようです。奈良で古い店で創業1577年とのことで、奈良時代ではありません。菜種油を燃やして煤をとり、にかわで練ります。型をとって乾燥させるそうです。これが油煙墨(ゆえんぼく)。もともとは松を燃やして「すす」を採り、これを松煙墨と言い、古来の墨を作り方で、油煙墨の方が黒く品質が優れていたようです。律令制で文字の保存が必要になり、その結果から、和紙や墨で古代を追っていけるかと思いましたが、難しいようです。興福寺とかで仏教のお経とかの需要が多く、奈良の産地が残ったようです。
墨ー奈良市

2018年9月10日月曜日

越前和紙

美濃和紙から越前和紙を思い出しました。
日経新聞で、ぐねぐね屋根の謎の神社の記事があったところです。
次ページ
記事読めなければすみません。
岡太(おかもと)神社・大瀧神社というところで、
紙祖神(紙すきの神)をまつり、近くに和紙の里公園とかあるようです。どこまで信じられるか不明ですが、古いようです。岡本でないところが興味あります。近くの川も岡本川だったと思います。太いで「もと」と呼んでいますが、なぜかはわかりません。
写真などは
越前和紙 1500年の伝統 にあります。

2018年9月9日日曜日

美濃和紙

 美濃和紙は中世に濃紙《のうし》。薄白《うすしろ》とよばれ、障子紙・扇の下紙・草子紙として重宝され、現在は文化財の補修などにはかかせないものとなっている。地域の特産品だろうと思います。地域の特産は、その時代に需要と供給がマッチして生まれるもので、古い時代に紙が重要になった時、つまり律令制の時代になり、文字で管理する必要が生じ、いろんな多量の文字データの保存が考えられたはずです。最初は木簡だろうと思いますが、扱いにくくて、代わりに和紙が求められたものの、都の付近では生産が出来ず周辺地域で渡来人の指導のもと和紙の生産が考えられ、これが美濃和紙のもとになった可能性はあるのではと思いつきました。
 
いつも参考にする「岐阜県の歴史散歩、山川出版」をみました。
美濃市蕨生には美濃和紙会館があり、その北西にあたるところに集落上野《かみの》があり、対岸の御手洗《みたらい》とともにかっては和紙生産の盛んなところで、上野には太田縫殿助信綱《おおたぬいとのすけのぶつな》が1173(承安3)年に牧谷にきて紙を漉きはじめた。また御手洗には、羽場蔵人秀治《はばくろうどひではる》が810(弘仁5)年に牧谷で製紙をを始めたという伝承が残っている。

とのことです。残念ながら律令の時代からは一世紀は遅れているので、この話は成り立たないように思われます。
ですが、それほどトンチンカンな話でないようで、アップしました。

2018年9月5日水曜日

飛鳥時代の仏教と寺院造営

「入門 歴史時代の考古学、近江俊秀著、(株)同成社発行」
を見ています。考古学の研究史を踏まえながら、いかに文字資料と向き合っていくかとのことで、最初の章の話です。
 石田茂作は、仏教が飛鳥や斑鳩から全国に拡散したとして、瓦の文様と寺院の伽藍配置の形式を調べ、クリアにしたが、実際にはその後の発掘調査などで多様な伽藍形式があることがわかったということです。一つの系統から拡散したものではなく、蘇我氏から広まるのに加え、厩戸王一族(上宮王家)ももまた仏教の担い手になったらしく、また地方でも独立した別系統のものもあるようです。
 誤解しているかもしれませんが、この時代のグループが、戦国大名の治める領国のようなものでなく、まだら模様にいろんな地域が結びついていたように思えます。つまり天皇をトップにしてはおらず、それぞれの地域をモザイク状にグループ化されていたのかとも思います。仏教が公伝したとしても、基準化されることなく、それぞれの地域で自由に取り入れられ、多様な伽藍形式・瓦の文様になったということでしょう。公伝の時の年号など何年かとかあまり意味がないように思います。
 現在、七堂伽藍が整えられた最古の寺として飛鳥寺が考えられているとのことです。百済からの工人の指導の下に建てられていて、基壇なども朝鮮半島由来のもののようです。一方、塔の地中深くに埋められた新礎の上から出土した舎利荘厳具は、馬具や短甲が含まれるなど後期古墳の埋葬品と何ら変わらないことがわかった。つまり、日本最初の本格的な寺院である飛鳥寺には、渡来の技術と日本の古墳文化の融合がみられたのである。と書いてあります。
 これは、クレオール的な話になっています。古墳文化と渡来系の文化の融合というか衝突のようなものが、この時期に起こっていますが、文字を取り入れて、古代のアイヌ語と朝鮮語がぶつかり、日本語の基礎が形成されたことと一体の話のように思われてきました。傾向的には合っています。

2018年9月3日月曜日

「DNA追い古代人に迫る」の記事

日経9月2日朝刊の記事にありました。
有料記事でデジタルの新聞では詳しく読めないです。
ほかのところに関連する記事がありました。
縄文人、ルーツは東南アジア? 金沢大など、人骨の全ゲノム解読

約2500年前の縄文人の人骨に含まれる全ゲノム(遺伝情報)を解析した結果、約8千年前の東南アジアの遺跡で出土した古人骨から得られたゲノム配列と似ていることが、金沢大学の覚張(がくはり)隆史特任助教(生命科学)らの研究グループの調査でわかった。縄文人の全ゲノム配列の解読に成功したのは世界で初めて。日本人の祖先が、どこから来たのかを考えるうえで注目されている。

とのことです。
日経記事では、東南アジアについてもう少し詳しいです。

その頃の東南アジアには狩猟採集民が住み「ホアビン文化」と呼ばれる文化圏を作っていたと考えられている。その集団の一部が移動し日本列島にたどり着いた。東南アジア地域から渡来した集団が縄文人の起源とする説が最近唱えられているが、それを裏付ける結果になった。

とのことです。
解析の古人骨のあった伊川津貝塚の場所ですが、渥美半島のところです。日経記事ではラオスから日本へやってくるのに、海洋ルートか朝鮮半島経由か?としていますが、直感的に、黒潮の海洋ルートでやってきた気がしました。
人の移動は海洋ルートが主であったかもというメモです。