小野神社は、各地にありますが、ここでは滋賀県大津市小野にある神社です。境内社 として小野篁神社がありますが、一見こちらがメインに思われます。向かって左手に本社というか本殿があります。祭神の米餅搗大使主命は日本の餅作りの祖と言われていることから、例祭のシトギ祭には、全国の菓子業界からの参拝を受けているそうです。社殿前には狛犬の代わりに石の鏡餅が左右に飾られていて、そうかと思います。この地は昔の小野一族の本拠地で、地名や名字などの小野の発生地と案内板に書かれていました(注1)。近くに古墳群があり、少し離れたところにある小野妹子神社には唐臼山(カラウスヤマ)と称する古墳があったとされ、全然でたらめの話には思われません(注2)。現在の社殿は新しそうですが、建物の外に柱が据えられ、これが棟持ち柱に見えるので、神明造でした。私は伊勢神宮だけ神明造があるものと思い込んでいたのでびっくりしましたがそれほど珍しいことはなさそうです。ウィキペディアでは、明治時代になり伊勢神宮をまねたものがあるそうです。伊勢神宮の独占ではなさそうですが、この辺は私には良くわかりません(注3)。小野神社は目立ちたくないのかひっそりとある感じです。一方、小野篁が神社の社格をあげるなど貢献があったことで、篁神社が中心になったのかなとは思います。この小野篁神社の本殿は、古い趣があります。南北朝前期とされ、重要文化財になっています。横から見ると流れ造りで正面三間(柱の間隔が三個)すが、お参りする向拝の部分が一間になっているのはこの地方の特徴だそうです。この地域の大工が主となって建てるので、ほかの地方から応援を頼んだとしても、地方性が出てくるのだと思います。小野道風神社も同じ形式のようです。カエルと柳の木がありました。この話もすっかり忘れていました。案内板とか良く読まないと意味わからない人が多いとは思います。遣隋使の小野妹子が実際にどこの人かは不明ですが、それらしき人がこの地に関係していたかもしれません。大津の地が琵琶湖の西と東をつなぐ結束点にあったことは確かで、日本海側からやってきた渡来人が住み着いた場所にはなると思います。小野妹子がこの地で無くても大問題にはならないとは思います。
注1:国史大辞典で「小野」の項を見ると
1.兵庫県の中西部に位置する市。加古川の中流で明石・西沿いに通じる街道沿いの要地。青野原鶴池で旧石器時代の石片が発見されたほか、粟生・新部のなどの弥生遺跡、王塚・大塚などの古墳や焼山ほかの郡集積など、考古的遺跡・遺物が多い・・・・
2.京都府の古地名。「和名類衆抄」によると、山城国には愛宕郡小野郷(京都府左京区修学院北方の地域)、宇治郡小野郷(京都市山科区小野)の2ヵ所があって、丹後国には竹野郡小野郷(現在地は不明)がある。・・・
3.滋賀県滋賀郡志賀町の地名(現大津市)。西近江路沿いで琵琶湖西端に位置し、近淡海国造の根拠地、古代の小野氏の出身地と推定される。小野妹子墓と伝承を有する唐臼山古墳をはじめ、小野神社古墳群、石釜古墳群、道風神社古墳群・大塚山古墳群などが集中しているが、それらの築造年代は不詳である。弘仁ごろには小野氏宗族は小野を離れ、京師に止住したものと思われる。・・・
とあります。
注2:小野妹子は不明ですが、その子の小野毛人《おののえみし》の墓誌が山城国愛宕郡の墓から出てきたそうです。小野毛人墓誌(国宝?のちの奈良時代に作られたらしいです)。
小野小町の出生地や墓は全国に多数あり、国史大辞典では、小野氏は、神職として全国に広がっている家柄で、社寺の縁起とも関わり深い。小町伝説の展開にも、小野氏が大きな役割を演じていたのではないかと考えられる。と書いてあります。
また、「滋賀県の歴史散歩(下)」唐臼山古墳について1734年(享保19)の「近江輿地史略、滋賀郡小野村」の項には「妹子の旧跡知る者なし」とあり、1882年(明治15)の「近江国滋賀郡小野村誌」にも、唐臼山古墳に関する所伝は見えない。大正時代になってから、小野妹子の墓との見解が生まれたとのことです。この古墳から七世紀前半の頃の須恵器が発見されたことから、小野妹子神社が創祀されたと書いてました。
注3:「復元思想の社会史」、鈴木博之編、建築史料研究社という本に、熱田神宮のことが書かれています。元々尾張造だったのが、明治になり神明造に変更しようとして、明治22年に伊勢神宮のコピーを考えていたようです。伊勢神宮の知るところとなり、反発があったようで、明治24年には改造一部変更案で双方受け入れ、明治26年、熱田神宮は伊勢神宮を模した改造を行ったとのことです。この本に伊勢神宮と熱田神宮の図面があり、小さいですが同じように見えました。現在の熱田神宮は戦災で焼失し、式年造替後の古い内宮正殿を移築した物であると書いています(この本は2006年発行)。伊勢神宮は「唯一神明造」とされますが、伊勢神宮の差別化を図るために皇国史観の時代、建築史家の伊藤忠太の唱えたもののように書いています。
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