2018年9月25日火曜日

和紙の里

和紙文化辞典、久米康生著、株式会社わがみ堂発行、この本に
全国の紙郷分布に簡潔にまとめられています。

 全国各地での製紙は、奈良時代に中央政府の図書寮《ずしょりょう》で養成された造紙丁《ぞうしてい》によって国衙細工所ではじまり、律令体制の衰退にともなって荘園での造紙が優勢となり、中世末期には商品経済の展開にとともに特産地が形成された。古代・中世の紙の消費者は公家・僧侶・武士などの上層階級だけであったが、近世には町人まで紙の消費層がひろがり、記録文化財から生活文化財としての需要も高まり、上方市場の重要商品に成長するのを背景として、さきの特産地を中核として広く紙郷が形成された。特に西日本の諸藩では紙を専売制に組み入れて増産を奨励したところが多く、有力な紙郷を育てた。

と書いています。
同じ本に、和紙史略年表があります。
西暦296年、西本願寺蔵の「諸物要集経」は西晋元康六年三月一八日付で現存する日本最古の写経
とあり、途中省略しますが、
西暦652年、白雉三年、最初の班田収受終り、毎年計帳、六年ごとに里別の戸籍を作ることとし、その紙・筆・墨を郷戸の負担とする
とあります。紙の生産はある程度、一般化していた可能性があります。
和紙文化関係の主要文献で最初の方に
1.正倉院文書(大日本古文書)、東京大学史料編纂所
2.古語拾遺、忌部広成
3.令義解、清原夏野ら
4.延喜式、藤原時平ら
以下略
載っていました。

和紙については、
「和紙の里 探訪記 ー全国三百ヵ所を歩くー」菊地正浩著、草思社
この本を見ました。和紙の里について書かれています。全国に多数あるそうで、消滅するような所を含めて、各地を巡って調査されています。手漉き和紙についても詳細に書かれています。和紙について知らなかったので興味深く読みました(最初の方だけですが)。読んだ部分のメモ書きです。

 和紙の三大原料は、楮《こうぞ》、三椏《みつまた》、雁皮《がんぴ》である。それに紙の繊維をつなぐネリが必要になる。楮は当初、榖と書いてカジとも呼んでいた。榖(かじ)は梶、構、楮の木のことで、厳密には異種だが識別し難いので同種として扱うことが多い。近年の学説ではヒメコウゾとカジノキの雑種を楮と呼んでいる。聖徳太子が楮の栽培を奨励したとされる頃は、カジと呼んでいたようだ。今でも梶、楮、榖、構の字がつく地名は多く残る。

と書いてあります。名字で梶のつくものは舟の梶のように思っていましたがそうでも無さそうです。また

 三椏は三股、三又とも書き、紙幣に使われることで知られる。ジンチョウゲ科の落葉低木で、三本の枝分かれが吉兆とされる。ちなみに、三枝《さえぐさ》姓は幸草《さきぐさ》がサエグサになったものという。
と書いています。
 雁皮はジンチョウゲ科の落葉低木で、カニヒ、紙斐《かみひ》とも呼ばれ、枕草子には「かにひの花」とある。・・・・以上三種以外にもクワ、杉、松、竹などいろいろな植物の繊維が原料となる。北海道は大きな蕗《ふき》や千島笹、沖縄はバナナの葉のような芭蕉(ばしょう)が紙材となる。
と書いています。各地域で土地にあった紙が種々作られたようです。
 通称ネリと呼ぶ糊は、日本独特の流し漉きで使用する。中国の溜め漉きではネリは使用しないと書いています。
 流し漉きですが、平安時代の大同年間(806~10)、京の紙屋川の畔に公用紙の調達や製造を職務とする官営造紙所「紙屋院《しおくいん》」が設置された。そこで確立したという。これは叩いてほぐした繊維を水に入れ、ノリウツギやトロロアオイの粘液である「ネリ」を溶かしてよく攪拌し、これを漉き簀《す》にすくって揺する。残った水を前方に捨て、簀の上に残った繊維の集まりを積み重ねる。そして水分を抜き、板に貼って干すという技法である。
と書いています。知らない人にはわかりくい説明かもしれません。溜め漉きでは繊維が積み重なるのに対し、流し漉きでは、繊維がからまって薄い厚さの紙が作りやすいということだと思います。
 和紙の利用についても詳しく書いてあります。かっては紙の着物が常用されており、地方によっては今も着ているところがある。紙衣《かみこ》(紙子)は主に冬物の着衣で、厚手の和紙を蒟蒻糊《こんにゃくのり》で貼り合わせたものである。とあります。ほかにも利用例があげられています。そういえばエンジンの部品の接合部に油紙のパッキンみたいな物が使われていました。紙は文字を書くためだけのものではないようにも改めて思われました。
 この本には、第三章で紙祖神たちの里が取り上げられていて、最初に越前和紙が出てきます。岡太《おかもと》神社と大瀧神社には、約1500年前、越前出身の継体天王(在位507~531)の時代、南部の五箇村を流れる岡太川の上流より美しい姫が現れて、貧しい村人たちに紙漉きを教えたという伝説が残る。村人は姫を「川上御前」と呼び、岡太神社を建てて祀った。日本には大陸から紙が伝えられた四~五世紀頃には、越前にすでに製紙技術があったという伝説である。現在、「五箇地区」と呼ばれ、和紙業者が軒を並べて昔ながらのたたずまいを見せている。
と書いてあります。この越前和紙がトップですが、次に阿波和紙について書かれています。
阿波和紙の発祥は、旧川田村(山川町川田)である。和紙と凍《しみ》豆腐が特産の集落であり、はあ古くから行われていた。忌部氏《いんべし》の一族、忌部広成《いんべのひろなり》が残した「古語拾遺」(807)には、「天富命《あめとみのみこと》が天日鷲命《あめの ひ わしのみこと》の子孫である阿波忌部一族を率い、阿波国に来て、麻、楮を植えて紙や布の製造を盛んにした。その地を麻植《おえ》郡といい、今もその子孫が住んでいる」と記録されている。天日鷲命は神話上に登場する神で、天照大神が天岩戸に入ったとき、弦楽器を奏でると、弦の先に鷲が止まり、仲間の神々は吉祥の鳥として喜んだと伝えられている。山川町の高越《こうつ》神社には、天日鷲命が祭神として祀られている。
と書かれています。話は紙祖神になり、この地から阿波から関東に伝播したという。
 鷲ノ子《とりのこ》紙(栃木県珂川町馬頭《ばとう》・茨城県常陸大宮市(さいたま市?)美和)鷲子山上《とりのこさんじょう》神社、タイトルは「名門鷲ノ子紙を広めた紙祖神」となっています。
この鷲子山上神社の石段が県境になっている珍しいところだそうです。右が茨城県、左が栃木県とのこと。この本によれば
神社の創建は大蔵坊宝珠《ほうしゅ》上人、社歴によると、大同2年(807)、馬頭の僧であった宝珠上人は諸国遍歴中、四国阿波国で紙漉きの神に出会っている。鷲子牁山神社の守護神は天日鷲命。四国の阿波忌部の祖、紙の紙祖神である。
と書いてあります。
つまり和紙製造は中央から順番に地方に拡散したのではないように思われてきます。
美濃和紙についても書いてありました。
美濃和紙(岐阜県美濃市)
 現存する最古の美濃和紙は、大宝2年(702)の正倉院蔵の戸籍「御野国戸籍断簡」である。この用紙は他の国の戸籍に較べ、きわめて優れた紙質であったとされている。御野国《みののくに》は、現在の岐阜県西濃域、揖斐川流域のこと、また文献に現れたのは、天平9年(737)の正倉院文書「写経勘紙解《しゃきょうかんしげ》」が最初とされる。これらのことから、美濃地方に製紙技法が伝播されたのは七世紀後半と考えられる。美濃が紙里の中核となったのは平安時代以降。
と書いてあります。
土佐和紙についても述べられています。
遠島の阿波和紙が、四国での阿波和紙の発祥とされている。その次に出てくるのが土佐和紙とのことで、九二〇年頃(平安時代)の記録「延喜式」には「紙を作る国」としての名がある。とのこと。個人的な想像ではもっと早い時期になってほしいがそうではありません。どのようなルートで和紙製造が伝わったか興味があるところです。

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