2019年1月31日木曜日

宇佐八幡宮神託事件

 奈良時代の神護景雲三年(七六九)、宇佐八幡宮より称徳天皇に対して「道鏡が皇位につくべし」との託宣を受け、紛糾した事件です。和気清麻呂が派遣され、皇位継承が血統を重視することになったということです。当時、道鏡は法王であり、藤原永手が左大臣、吉備真備が右大臣であり、反発があったものと想像します。経緯については誤解があるかも知れませんが、大事なのは宇佐八幡宮の託宣が重要視されたことに驚きます。宇佐八幡宮は全国にある八幡宮の総本社で、石清水八幡宮・筥崎宮《はこざきぐう》(または鶴岡八幡宮)とともに日本三大八幡宮の一つとされるそうです。問題児の神社であるのか、平安時代前期には、この宇佐神宮から勧請された石清水八幡宮が代わりに崇敬されることになったようです。天平一〇年(七三八)藤原宇合の長男・藤原広嗣は太宰府に左遷され、天平一二年(七四〇)に挙兵することになります。結果、官軍により乱は鎮圧されます。神託事件や広嗣の乱などを考えていると、筑紫に地域王国が少し前まで(少なくとも七世紀)存在し、ヤマトの勢力に多大な貢献したという意識が残っていたように思われます。太宰《だざい・おおみこともち》はその地に駐在する単なる担当者というか、ヤマトとのメッセンジャーの意味のような気もしてきました。地域王国論にだいぶ洗脳されています。

追記:H310204
神社の勧請
宇佐-石清水-鶴岡と繋がる八幡宮の勧請ですが、神託事件の影響が大きいように思われます。朝廷にとって宇佐神宮では遠く、神託事件でこりて石清水八幡宮を勧請したと思われます。鎌倉幕府の時も、万一、宇佐神宮から託宣がおり、困ったことであれば、宇佐神宮はともかく、石清水まで行くのでも大変になります。おかしな神託の影響を受けないように、やはり鎌倉にまで八幡宮を勧請したように見えます。
石清水八幡宮ですが、室町幕府第六代将軍、足利義教はこの石清水八幡宮でのくじ引きにより将軍に選ばれたとのことです。石清水が権威あるものと考えられていたようです。おそらく現代の感覚とはまったく異なっていたのかもしれません。

2019年1月29日火曜日

地域王国・地域国家

「吉備の古代史 王国の盛衰、門脇禎二著、NHKブックス」をチラ見しての感想です。七六頁には、「日本が地域王国の段階では、地域王国同志の交渉や日本列島外の国々との関係も外交で、具体的に言えば、吉備王国が百済と折衝するのも外交、大和王国と折衝するのも外交、筑紫王国が大和王国や新羅と折衝するのも外交、こういう段階を想定すべきだと思う。」、「だから、よく誤解されるのは、外国史料の倭王は地方の地域王国の王とみるのか問われる。しかし、史料的には、高句麗が南下した五世紀以後の倭国のことが記される『宋書』から以後は、大和王国は百済と中国の南朝と交渉した。ただしこの時期、倭人が、かって魏の時代のように北朝側とどう折衝したかという史料は少なく、主に百済を接点にした南朝側との外交関係であったから、当然その関係の上で出てくる倭王は大和王国の王とみて不当ではない。けれども、それはこの段階ではまだ日本の国を代表する確固とした外交関係ではなかったと思う。だからこそ、やがて、地域王国の間のトラブルが起こったときには、外交関係がはっきり錯綜してくるのである。」、「それなら日本列島は、四世紀から五世紀はまだ混沌としていたのかというとそんなことはない。すでに共通の「倭人」社会が形成され、発展しつつあった。古墳文化の意義の重要さは、実は、この点にかかわってのことであり、ただそれは政治的に統一された権力体制を語るものではない。その権力体制を、わたしは地域王国論で理解しようとするのである。」
と書かれています。
私は、歴史の流れはその通りだろうと思います。しかし地域王国がおそらく七世紀にあっても存在し、壬申の乱以降も、錯綜した状態のように感じられます。門脇氏の考えをベースに、時代を後ろに移動するという修正をすれば、すっきりと理解できそうです。白村江の戦いで敗れた時に、日本の中がどういう状況にあったか不明ですが、イズモとキビが提携関係にあり、新羅と結びついていれば、ヤマトにとって重大な脅威になります。そのためにヤマトはイズモにくさびを打ち込んだということかもしれません。神話にイズモがクローズアップされている理由とも思えます。この辺は妄想です。、何を言ってるんだということですが、激動の時代ですのでありえない話ではありません。

2019年1月25日金曜日

安田の地名と古代道路の根拠

 備後から出雲への安田のあるところを結んだルートの根拠です。
投稿記事:スサノオが出雲に降ったところ
 古代道路と条里制が密接に結びついています。
「古代道路の謎、近江俊秀著、祥伝社」からの引用します。七一頁からです。道路をつなぐ駅路の敷設目的の説明です。
「ここで、注目されるのが、先ほどお話しした、条里制との関係である。条里制とは、耕地を区画するためのものであるため、その施工範囲は当然のことながら、水田を造るのにふさわしい低地である。そして、条里と駅路とが同時に発掘調査で見つかっている静岡平野などでは、条里の地割り方向と駅路がぴっったりと合致している。このことは、条里施工と駅路建設とが強い関連性を持っているだけでなく、駅路は条里制による土地区画の基準線としての役割をはたしていたことがわかるのである。」
とあります。
まず道路を造り、その両側に条里制の田を展開します。条里制を表す名前が安田ですので、出雲への道も安田の地名が連なっていて関連があると思っています。中継ポイントを作ることで、現地での食料調達を可能にし、ある程度の人数の移動を容易にし、軍事的な意味があったと思われます。しかし平安時代の延喜式には山陽道と山陰道が記されのみで、京都が中心の中央集権体制では不要とされたのか、このルートが消えてしまっています。古代道路の原点の地域のようにも思われますが、よくわからない状態になっています。今は都市を考えるときに面的に考えますが、古代では点の感覚であって、結びつけるための線となる道路や海路が重要であったのだと思います。出雲への古代の道を考えるときに、山陰道をイメージするのは間違いの元となります。

2019年1月23日水曜日

天武天皇、種子島、安田

 日本書紀、巻二十九、天武天皇下(新編日本古典文学全集4)を見ています。
壬申の乱が終わってからの話です。天武天皇二年に即位し、関係者の係累の説明があります。三月に「備後国司が白雉を亀石郡で捕らえて貢上した。そこで、その郡の課役をことごとく免除し、天下に大赦した」とあります。ここで亀石郡ですが、注には広島県神石郡とあります。つまり、吉備包囲網の安田の地名がある地域です。天武天皇の時代、吉備の包囲網が残っていた可能性があります。
同年閏六月に、耽羅《たんら》(注では済州島)、都羅《つら》が朝貢、新羅の使いも同月に来ています。高麗(新羅の傀儡政権の注あり)なども見えます。天武三年三月には対馬国司が出ています。天武四年二月には、国名が羅列され、大倭がありますが、吉備はありません。二月には新羅の朝貢があります。三月に土佐大神が神刀一口を進上したとあります。土佐は高知県で安田の地名があるところです。意図的に出てきているように感じます。高麗・新羅の朝貢があります。新羅の皇子が難波に到着した。天武五年、前年の耽羅の客に船を送ったことや、大伴連国麻呂らが新羅から帰国したことが出ています。また新羅に使いを送っています。情報交換していることが書かれています。
 天武六年には多禰島人《たねのしまひと》らを饗応した記事があります。新羅などとの往来の記事が繰り返しあります。天武八年三月には吉備大宰《きびのおおみこともち》、石川王《いしかわのおおきみ》が病気になり吉備で薨じたとあり、十一月には多禰島に使いを遣わすとあります。そして十二年三月に戻っているようです。天武天皇の時代、唐と新羅との戦いの敗戦処理で往来があり、種子島ともおそらく南側の防衛ラインになり、重視したと思われます。
 ここで種子島の人がどのような経路でやってきたかということを想像します。「種子島」は戦国時代に鉄砲の意味があり、これは種子島に鉄砲伝来があり、堺などに伝わったと思います。この経路は四国の南を通る南海路であろうと私は思います。紀伊国には根来衆・雑賀衆などの鉄砲集団がおり、秀吉の紀州征伐では抵抗したようです。この時の鉄砲の火薬などが南海路で持ち込まれたように思われます。これは戦国時代の話ですが、もっと古い古墳時代に鳴滝遺跡(和歌山市善明寺)という倉庫跡の遺跡があります。これは古墳時代に南海路を通して交易が行われていたと思います。天武天皇の時代に南海路を利用していたのかということです。高知県に安田町があります。ここが南海路の中継ポイントになっていて、安田という名前から七世紀後半に整備されたことになります。黒潮の流れに乗って、種子島からやってきたとして問題ないように思われます。キビとヤマトの対立があり、瀬戸内海航路を採れない場合に南海路をヤマトは考えていたとしておかしくはなさそうです。


ヤフーマップにポイントしています。
①種子島
②高知県安田町
③大阪府堺市
④鳴滝遺跡(和歌山市善明寺)
です。①→②→④→③のようなイメージです。あくまで概略です。

2019年1月21日月曜日

スサノオが出雲に降ったところ

 須佐之男命は追放され、出雲国の肥の川(斐伊川)の上流、地名は鳥髪というところに降《くだ》ったとのことです。(古事記、新編日本古典文学全集1、小学館より)。わかりにくいのでヤフー地図にマッピングしました。
現在では
島根県 仁多郡奥出雲町大呂でマップでの数字①のところです。
追加しますが、安田の地名があるところで、7世紀に出雲にいたるルートをヤマトの勢力が築いたと考えられる(私だけですが)場所が
広島県庄原市②
広島県三次市③
広島県世羅郡世羅町④
です。④→③→②が出雲へつながるルート(7世紀のもの)とすると、古事記に合わせれば、④→③→②の上空を飛行し、①にランディングしたことになります。古事記のスサノオの神話は7世紀のイメージで表されていると思われます。

広島県神石郡神石高原町⑤を通るルートであったかもしれません。
参考:広島県の安田



 
 

2019年1月20日日曜日

「ヤマト」と「カワチ」はどうして名づけられたか?

 漢字で書けば、「ヤマト」は「山外」で、「カワチ」は「川内」と考えます。山と川、内と外ということです。山と川は地域に合っていてそうであろうと思われます。ヤマトの人が自分から外ということはないので、カワチの人が名づけたと思っていました。しかし、ヤマトの人がこの名づけ方に納得するようには思えません。律令制の時代に国名が、たとえば備前・備中・備後とかになったときに、備後の人が「後」はいやなので備前にしてくれとは言えません。国の中央からの位置関係によって問答無用で決定されます。この時は前後で位置関係を表すのが、古い時代は内と外で表したということです。その時の国の中心がカワチではなく、倭国であった吉備であったということです。
 倭国が吉備とおとしめられ、それと対応して、「わ」国を越えた大いなる「わ」としてヤマトに大和の漢字を当てたことが考えられます。時代として、大和とされたのは七世紀のことになります。倭国から和国にスムーズに移ったものと、今まで錯覚していたように思います。古事記や日本書紀はヤマトの正統性を訴えているものですので、七世紀前半までは完全に怪しいことになります。国名からみると、倭国に律令制の兆しがあったことも考えられます。

2019年1月19日土曜日

吉備国の過小評価

 最近、思い違いをしているような気がしてきました。情緒的な話になります。第2次大戦というか太平洋戦争の時に、戦艦大和という軍艦がありました。当時の日本の軍事力の象徴であったと思います。日本の国力をかけて建造した船ではありましたが、戦争が巨艦主義から航空兵力重視の流れの中で時代遅れになってしまったようです。戦力としては誇れるものであったのですが、実質はそれほどでもなく無力化したということだと思います。何の話かと思われますが、前方後円墳のことです。サイズについて大きな古墳を作っている地域が、中心的な地域であるとの認識ですが、それで良いのだろうかと思います。吉備国では大きな古墳が作られましたが、その後さらに大きい古墳が大和の地域で作られたようです。古墳のサイズを基準に考えれば、ヤマトの地域が中心であろうと思われます。しかし前方後円墳が時代遅れのものであるという認識を吉備国が持てば、無駄なことをせずにもっと国力の向上に役立つことに力をそそぐことになると思います。つまり何らかの律令制的なシステムを採用する方向に向かうと思われます。当時、東アジアのキビしい情勢を認識していて、前方後円墳など作っているヒマはなかったということです。吉備が先進的な地域でヤマトは遅れた地域であった可能性があります。当時では、中国から新しい知識をえるようなことが重要課題となります。遣隋使のことですが、日本書紀では記述がおざなりで、当事者としての意識が希薄に思われます。吉備国が倭国であって中国に使いを送ったと考える方が感覚的には無理がないように思われます。倭の五王の話も、どの天皇に対応するのかと考えるのも、こじつけを考えているようで、全くの無意味な作業に思われます。五王も吉備国の王であったかもしれません。吉備が倭国であったと考える人がどの程度存在するのか不明です。現時点では、感覚的な妄想的ですが、以下に「古代を考える 吉備、吉川弘文館二〇〇五年三月第一刷」からのなるほどと思われた部分のメモ書きです。
最初の一,吉備 その風土と起点で、門脇禎二氏が書かれているところが興味深いです。キビ王国とヤマト王国があり、六世紀にヤマト王権にとりこまれてしまった。との説に対して批判があったようです。キビの部民遺制地域分布表が示されていて、キビ王国にすでに実現された統治機構があり、それを元にヤマト朝廷に対応したとのことです。聖徳太子が実在したとの考えがあるので、六世紀と考えられていますが、実在しないと考えれば、七世紀まで下がることになります。各種の品部で鍛冶部が見当たらない。伊福部《いふきべ》が吹くにつながり精錬作業になるのかもしれませんが、まあ無いであろうとのことです。キビは鉄の生産地として有名であるので、キビ国王がヤマト王権の部民の指定を拒否したと考えたいとしています。出雲神話にも刀の話があったようにも思い、古代の鉄生産が重要事項であっったことは確かであろうとは思いました。
白猪屯倉と児島屯倉についてもヤマト王権の戦略的な拠点であったこと。「日本書紀」敏達一二年(583)是年条の百済の日系官人で敏達の懇望によって来朝した日羅《にちら》に関する記事で、「日羅等、吉備児島屯倉に行き到る。朝廷《みかど》、大伴糠手古連《おおとものあらてこのむらじ》を遣《たま》いて、慰《やす》め労《ねぎら》う」と記されているそうです。つまり遣隋使の返使として来た裴世清も同じで吉備にやってきた可能性が高まります。
最後の方に、吉備津神社の神階の問題が挙げられています。承和一四年(847)十月に初めて従四位下を授けられた後、従四位上を経て、仁寿二年(852)二月には四品を授けられ、貞観元年(859)正月には二品となっている。これはきわめて特殊な事例であり、仁和四年(888)の大神宝奉献社では、宇佐神、石清水神両社の一品につぐ品階であり、品階が与えられているのはこの三社のみであり、吉備津彦神に格別の意味が込められているようである。とあります。なにかしら吉備国に復権の動きを感じます。吉備真備や和気清麻呂に影響したように書いてあるように感じました。

2019年1月16日水曜日

備中七城

 備中七城とは、備前と備中の境にある七城で(境目七城)、防衛ラインに城を配置したもののようです。戦国時代、天下統一を目指す織田信長は、豊臣秀吉に毛利輝元の統治する中国攻めを命ずる。備前の宇喜多直家が最終的に秀吉側についたことから、備前と備中の境界ラインが重要となってきた。
[カラー版]地形と立地から読み解く「戦国の城」、萩原さち子著、マイナビ出版p144からの引用です。この本に図がありますが、似たような図がネットにありましたので、参考にしてください。
備中七城
図の上が北で、右が備前側、城が配置されているのが備中側です。秀吉はこれらの城を攻略していくのですが、備中高松城は攻めあぐね、近くを流れる足守川の流れをせき止め、備中高松城に引き入れて、有名な水攻めを行っています。この時には、本能寺の変が起こり、毛利側との講和をすばやく取りまとめ、これまた有名な中国大返しで、明智光秀を山崎の合戦で討っています。戦国時代にこのような防衛ラインが作られているのですが、ネットの図では左上に鬼ノ城があり、古代からつながりがあり、何かしらのつながりがあったのではと思います(妄想ですが)。
この本には、
尼子十旗(あまごじっき)も紹介されており、戦国時代に出雲を支配した尼子氏が本城の月山富田城の防衛ラインとして支城を配置したとのことです。
「本城と支城、支城と支城の間をスムーズに伝達できるよう、街道に宿駅を配備して、使者や物資を運ぶ交通制度を伝馬《てんま》制(駅伝制)という。いざ戦いが始まれば、迅速に軍事物資をリレー式に送るのが目的だ。伝馬制は古代律令制から戦国大名にも採用され、北条、武田、今川、徳川、上杉氏などが主に用いていた。・・」とも書いてあります。
安田に伝馬制と関係する意味があるのだろうかと思います。

広島県の安田

2019年1月14日月曜日

H31.01時点での古事記の考え方

 私の話のベースは
現時点でのまとめ
にあります。古事記も持統天皇の時代の影響を受けていなければならないのに反映されていません。多分これが、古事記の問題で日本書紀が新たに作られたものと思われます。古事記序に天武天皇が「朕聞く、諸々の家の賷《も》てる帝紀と本辭と、既に正実に違ひ、多く虚偽を加へたり。今の時に当りて其の失を改めずは、幾ばくの年を経ずしてその旨滅びなむと欲《す》。斯れ乃《すなは》ち、邦家《みかど》の經緯《たてぬき》にして、王化の鴻基《おほきもとゐ》なり。故惟《かれおもひ》みれば、帝紀を撰錄し、舊辭《ふること》を討覈《たづねきはめ》、僞を削り、實《まことを》定めて、後葉《のちのよ》に流《つた》へむと欲《おも》ふ」と仰せられたということです。
 文字については違うところあるかもしれませんが、この部分を見て感じるのは、天武天皇のいうところの事実と異なる記述が多くあり、天武天皇の正統性が疑われる状況があったということだと思います。天智天皇から天武天皇への移行が世間的に認められておらず、正統性を示す必要性があったのではと思います。個人的には帝紀などは無かったと思います。あわてて作ったために、祖先の歴史を記述することが難しく、神話的な要素が強くなったような気がしてきました。古事記は持統天皇までを記述することを目標としていたと思いますが、当時の重要な問題だった、唐・新羅との軍事的な衝突をどう古事記に含めるか悩んでいたと思われます。天武天皇は天智天皇の対外戦略が失敗した後に交替した勢力であって、天智天皇を引き継いで、唐などに対抗することはまったく考えていなかったはずです。日本の国の敗戦といって良い、白村江の戦いなどを含めて、古事記を再構成したのが日本書紀であったろうと思います。改めて感じることですが、日本の古代史において白村江の戦いなどを軽視しすぎているように思ってきました。つまり明治時代以降の皇国史観にたてば、過小評価せざるを得なかったということかもしれません。しかしこの敗戦が契機となり、異常かもしれない律令制が広まっていった可能性もあり得ます。外圧が無くなり、律令制が消滅していったこととが一見して、対応しているようにも思えます。

2019年1月12日土曜日

吉備の山城


「古代山城・鬼ノ城を歩く、村上幸雄・葛原克人編、吉備人選書」を見ています。吉備の山城には備中の鬼ノ城と備前の大廻《おおめぐ》り小廻りがあり、この二つは「日本書紀」や「続日本紀」の中にまったく名前が出てこず、謎だらけということです。私は吉備と大の勢力争いがあり、倭国の痕跡を示すこれらの城を隠す意図があったのではないかと思います。今回は備後にある二つの山城です。常城《つねき》と茨城《いばらき》です。こちらはなぜ存在がわかるかといえば、「続日本紀」の養老3年(719)12月の条に「備後の国安那郡の茨城、葦田郡の常城を停む」とあるそうです。しかし詳しいいきさつは不明です。両城の解明を目指した故豊元国さんは、1968年(昭和43)に刊行された「奈良時代山城の研究」のなかで、比定地を挙げていて、
それによると常城は、広島県芦品郡新市町大字常と府中市本山町にまたがる標高500メートルの火呑山にあり、・・とのことである。山がどこにあるのか不明であったが、現在の広島県福山市新市町常(〒 729-3107)付近であろうと考えてマーキングしてみた。こちらは地名に「常」があるので間違いがなかろうと思われます。一方、茨城は広島県福山市蔵王町(〒 721-0971)にあったようです。こちらも郡名から考えれば大幅にずれることはなさそうです。図の赤のポイントで左上が常城で右下が茨城を表しています。これらの山城の成立年代は不明ですが、吉備とヤマトの勢力の対立があり、ヤマトが出雲と7世紀に同盟関係を結び、この山城の西方にある世羅や三次などの出雲に連なる包囲網を築いていった時の吉備側の軍事的に対抗するためのの山城のように思えてきます。

2019年1月9日水曜日

ヤマトタケルは7世紀の人に?の人へ

 古事記が7世紀の日本を反映しているとしています。このブログを最初の方からご覧になればわかってもらえると思いますが、行き当たりばったりで、統一的な考えのもとに進行しているわけではありません。ヤマトタケルが7世紀の人というのは、推古天皇の時代に遣隋使があったということで、実際は景行天皇の時代であったということです。古事記の範囲が基本的には7世紀の後半も含まれているということです。
何を支離滅裂なことを言っているんだと思われる方は下記をご覧ください。
2017年12月7日の現時点のまとめ

 今回、異なるのは、ヤマトの勢力は日本の各地へ軍事同盟を求めてヤマトタケルを派遣したのに対し、倭国(吉備の国)は遣隋使を派遣していたということで、日本の中に二つの勢力があったかもしれないということです。
日本書紀における遣隋使の記述がおかしいのは、実際には隋に使いを送っていなかったヤマトの勢力が、つじつまあわせで、倭国の遣隋使の話を取り込んだためで、男子王と推古天皇の矛盾なども多々ありますが、大した問題でないと考えたと思います。

2019年1月8日火曜日

7世紀の出雲の重要性

図書館で見た逆さまの地図を真似して表示しています。
国名の位置は適当です。大雑把に見てください。

7世紀の情勢の中で考えると、新羅と出雲が近い距離にあることがわかります。
出雲が新羅派になれば、大和にとって脅威になります。吉備を少し薄めのブルーにしましたが
出雲が大和にとって重要な地域になります。古事記で出雲が重要視されているのは時代の影響が大きかったということだと思います。

2019年1月7日月曜日

妄想,7世紀日本

 朝鮮半島では、百済、新羅、高句麗の三国で形成されていたとき、どうして日本が統一された倭であったのか疑問を感じました。多分統一されてなかったと思います。小学生の時に歴史を習い、朝鮮半島の国に分かれているのに対し、日本は統一されていて、子供心に日本はすごいなと思ったことがあります。瞬間、あれどうして日本は統一されていたのかと感じたのですが、すぐに疑問は消えてしまい、年を重ねてきました。
 しかし、今は7世紀に日本は統一されていなくて、朝鮮半島のように、多数の国があったとして当然のように思われます。日本書紀はヤマトの勢力圏が中心としての話になっています。遣隋使の返使として裴世清が来たときには、日本の中でも多くの国があったことがうかがえます。複数の国があったとして、考えられるのが今の残っている国名です。紀国や肥国、吉備・阿波、出雲などです。これらの国名はヤマトの基準でつけられています。偏見で見ていますが、木や火は中立的な名前に、出雲は優遇された名前に、キビ・アワは瑞穂の国からして劣ったイメージの名前に感じます。つまり倭国だった地域がキビ・アワにおとしめられた可能性もあります。出雲は、初期の段階で同盟関係にあり、優遇されたということです。
 ヤマトタケルの遠征物語も同盟関係を求めた7世紀のものであったとして十分に成立するように思われてきました。ヤマトの勢力が唐・新羅と戦うために必死に軍事同盟関係を求めていった話にも思えます。日本書紀は唐に対するものであるので、神話の部分であっても唐に対する軍事同盟が目的だったとは書けません。東アジアの緊迫した情勢が日本神話に入ってきていることも考えないといけないかも知れません。古事記は7世紀の日本を、日本書紀は8世紀前半の日本の状況を反映して見直されたのかもしれないという妄想です。

昔のブログ記事(遣隋使)

2019年1月6日日曜日

古事記と出雲神話

お正月に古事記を読破しようとしましたが、出来ませんでした。この日本古典文学全集1古事記、小学館の中に
解説があり、
即ち、阿礼に勅語して、帝皇日嗣と先代旧辞とを『誦み習はしめたまひき』。のところに
「討竅」を経たものの読みを習うこと。しかし、その資料は阿礼の読みが伴わないと、日本語の表現として受け取ることができないものであった。多くの「古字」(唐以前に行われていた古い字体)を含み、字種が多様で統一されていなかったからである。また、文体的にも、いわゆる漢文体や変体漢文体を中心とするが、不統一なものであり、この点でも読みを伴って初めて表現となるものであった。
とあります。サンスクリットは出てきてませんが、似たような感じの説明です。阿礼は記憶力抜群の人とはいってません。
別の本に、出雲神話のことが出てきていました。古事記と較べて日本書紀には出雲神話の比率が下がりるようです。古事記は、日本書紀との時代の差が現れているように思われてきました。古い時代にはヤマトの勢力と出雲の勢力が結びついていたことを想像させます。以前、安田の地名を調べたときに瀬戸内海側から出雲の方に、吉備国を避けて配置されています。吉備の西側です。安田が生まれた7世紀後半に吉備とヤマトの対立があり、対抗して出雲とヤマトの同盟関係を(ヤマト側の強圧的なものかもしれませんが)求めた結果かもしれません(安田の地名がその時につけられたと考えました)。日本の中でも対外政策に対立があり、新羅・唐に反発する勢力と友好的な勢力があり、吉備国は友好的であって、対抗してヤマトの勢力が吉備国を包囲し、出雲と結びつく必要があったことも妄想されます。古事記の時代には出雲との関係が重要であったのが、天武天皇の時代になり、変化したと思われます。日本書紀の時代には日本の統一が急激に進んでいったのかもしれません。
・出雲神話は7世紀の歴史を反映しているかもしれないこと。
・7世紀の日本は統一された国ではなかったかもしれないこと。
・古事記はあまり古い時代を示していないかもしれないこと。
広島県の安田とか山口県の安田とか、もう一度見直さないといけないような気はします。