2020年12月31日木曜日

楯築墳丘墓

 『岡山県の歴史』の「古墳時代の吉備」を見ています。楯築墳丘墓について書かれています。

倉敷市矢部と西山にまたがる低い丘陵宇rにまたがる楯築弥生墳丘墓は、弥生時代の後期後半の吉備における最大の墳丘墓である。あえて絶対年代で示すと、二世紀後半から三世紀前半の時期にあたり、『魏志』倭人伝が「倭国大いに乱れる」とした時期から、卑弥呼が邪馬台国に君臨したときである。・・・岡山大学の発掘調査で全容が明らかになっった。・・・
 楯築墳丘墓は径45メートル高さ5メートルの円丘部を中心に、北東と南西に台形の突出部を設けていて、それをあわせると墳丘の推定全長は80メートルを超えるものになる。規模からいうとのちの前方後円墳とくらべ遜色がない。・・・

長くなりますが、

多くの研究社は、墳丘墓のなかでも群を抜いて大きい楯築墳丘墓に葬られた人は、吉備全体にかかわる朱鳥と見る。

とありましたが、卑弥呼の墓としたそうに感じます。私もそうかもしれないという気がしてきました。 この本では、「造山・作山古墳はだれの墓か」とありまあすが、吉備の巨大古墳が、造山・作山・両宮山の三つあるのも、卑弥呼の時代から引き継いだ歴史があったと考えてもおかしくありません。

 ブラタモリで以前に岡山県の特集で「楯築遺跡」が取上げられていました。あまり記憶にないのですが、youtubeに関連の動画がありました。それと古墳の映像もあったのでリンク先を示しておきます。吉備の国は七世紀の段階でも勢力を保っていたと考えられるので、内容に全面的に納得したものではないです。あちこち出歩けないのでありがたい映像です。

倉敷市 日本最大の弥生墳丘墓「楯築遺跡」 - 高梁川流域デジタルアーカイブ

吉備王国の繁栄 

2020年12月29日火曜日

吉備国の歴史

 山川出版の県史33『岡山県の歴史』の最初のところを見ています。3頁10行目からの引用です。

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『記・紀』に見える吉備国は政治的にも文化的にも大和朝廷に対峙する勢力圏を一時的には形成していたようである。崇神朝における四道将軍大吉備津彦命と若日子建命ら兄弟の派遣、仁徳天皇と吉備の黒比売との相愛の神話も名高い。歌枕で有名な吉備の中山から総社市にかけて、今、観光で有名な吉備路があある。周辺には弥生遺跡、日本で四番目に大きい造山古墳に代表される古墳群、備中国分寺と国分尼寺跡、七世紀後半と推定される吉備の山城・鬼ノ城など、古代吉備王国の繁栄をしのばせる史跡がるいるいと連なっている。・・・ーーーーー

 その後の引用は端折りますが、吉備津彦神社と吉備津神社、桃太郎と地域神話について書かれています。
鬼退治の話では、
 平安時代の『梁塵秘抄』の一節に「一品聖霊吉備津宮、・・・艮みさきはおそろしや」と文献での鬼退治の初見である。一品聖霊吉備津宮とは一品の神階をうけていた備中一宮の吉備津宮をさし、「艮みさき」とは当社本殿の東北(鬼門)を守護する丑寅御前のこと、と神話の説明があります。吉備津神社の東北の方向に吉備津彦神社が位置していて、対立関係があったのかとかの意味を持つようにも思われてきます。

 先の引用に戻って、崇神朝の「崇神」ですが、この意味は神を崇拝するというイメージではないかと思われます。天皇で神と結びつくのは神武天皇ですが、結局は天武天皇です。天武天皇の時代に神道が形成されたと思っているので、崇神天皇にも天武天皇の時代が盛り込まれている可能性があり、吉備と大和の対立は天武天皇の時代であると思われてきます。崇神天皇は、「はつくにしらすすめらみこと」ともあります。神武天皇と同一と考えてもよいとも思えます。

 また仁徳天皇ですが、孝徳天皇の母は吉備姫王で、吉備の黒比売の話とつながります。吉備との関係からも、仁徳天皇=孝徳天皇を示しています。七世紀の出来事を古い時代にいろいろ移しているのではということです。これは古い時代に何かしらの事実があって、話を具体的にするために七世紀の物語で表したのではなくて、七世紀の話をそのまま古い時代の話としたと考える方が良いように思われます。

 

2020年12月25日金曜日

蘇我馬子と入鹿

 日本書紀の編纂者はどのような気持ちで書紀を作成していったのでしょうか。このような空想物語のようなものに馬鹿馬鹿しく思っていたのでしょうか。「馬鹿」が「馬子」と「入鹿」に分散されていたとの俗説があります。「馬鹿」の語源について、安直ですがウィキペディアに

1)サンスクリット(梵語)説
 主要な国語辞典に採用されている説とのこと。

2)史記の「指鹿為馬(しかをさしてうまとなす)」の故事を語源とする説
 これが私にはしっくりきます。以下引用。

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秦の2代皇帝・胡亥の時代、権力をふるった宦官の趙高は謀反を企み、廷臣のうち自分の味方と敵を判別するため一策を案じた。彼は宮中に鹿を曳いてこさせ『珍しい馬が手に入りました』と皇帝に献じた。皇帝は『これは鹿ではないのか』と尋ねたが、趙高が左右の廷臣に『これは馬に相違あるまい?』と聞くと、彼を恐れる者は馬と言い、彼を恐れぬ気骨のある者は鹿と答えた。趙高は後で、鹿と答えた者をすべて殺したという。
ーーーー

 日本書紀編纂者は『史記』(しき)を知っていたということになります。
『史記』(しき)は、中国前漢の武帝の時代に司馬遷によって編纂された中国の歴史書です。空想物語の名前でも「蘇我馬鹿子」というようなものはちょっと使えませんが、「馬」と「鹿」を分割し、「馬子」と「入鹿」として、わかる人にはわかるし、わからない人にはわからないとしたのだという気がします。大化改新を含めて、日本書紀の虚構性を示していて、これがわからない者は大馬鹿者だとのメッセージだった。「蘇我蝦夷」もちょっと変な名前だなとかで追求せず、わかってなかった私は(ほかの人もそうだとは思いますが)大馬鹿者だったということになってしまいます。

 追記:R021226
馬子と入鹿ですが、「馬の子に鹿の字を入れた」と読めるような気がしてきました。

追記:R021229
「馬子入鹿」として「子」は親子関係の子で、「続く」ような意味になるのではと思います。すると「馬の字に続いて鹿の字を入れろ」となり、額に字を書くときにこの指令に従えば「馬鹿」となります。こちらの方がすっきりします。


2020年12月24日木曜日

清寧天皇

  雄略天皇の子とされます。雄略天皇=天武天皇として、雄略天皇の第三皇子=清寧天皇、天武天皇の第三皇子=大津皇子と見立てることができます。「清寧」ですが、世の中がやすらかに治まること。 また、そのさま。とのことです。清らか丁寧なイメージを持ちます。清寧天皇には大津皇子のイメージが投影されています。この「清寧」という名を付けたのが淡海三船です。和風諡号は白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)、白髪大倭根子命(古事記)です(ウィキペディアより)。日本書紀の長い名前では分かりませんが、清寧天皇とすることで関係がわかりやすくなります。淡海三船の撰とされる懐風藻に大津皇子に仮託された漢詩があるようです。淡海三船の大津皇子に対する思いが日本書紀の清寧紀にあらわれているように思われます。雄略天皇の「雄略」からは英雄と戦略のイメージを淡海三船は持たそうとしています。これは天武天皇のイメージで、大津皇子も清寧天皇にイメージとして投影されていて、淡海三船に近い人がこの部分を担当したような気がしてきました。

 逆に言えば、書紀の記述では、淡海三船のような人がいて、それぞれの天皇の部分をその天皇の名前を決定し、それからみんなで分担して記述したのではと思われます。天武天皇→雄略天皇、大津皇子→清寧天皇ということです。まだよくわかりませんが、天武天皇も、別名の神武天皇や雄略天皇にして天武天皇の事績を基に天皇の名に合わせて記述されたということです。このような記述をすると、現実との辻褄あわせが出来にくくなります。つまり雄略天皇の話、清寧天皇の話と続ければ、どこかで打ち切らないといけません。つなぐための工夫がいります。これが例えば継体天皇とかになります。「継体」も体制を継ぐ天皇の意味になります。以前に、孝徳天皇=仁徳天皇としましたが、孝徳天皇の事績を見るときに(難波宮の話など)、仁徳天皇を参照することがありましたが、「徳」で共通化して見るように淡海三船はいろいろ考えてくれていたと思って来ました。

2020年12月22日火曜日

感染症 古文書に知恵絞る

  日経2020年12月20日(日曜朝刊)の記事です。

 江戸時代に疫病の予防法や病気中の心得などの出版物が多数刊行されっていて、過去の実態を解明しようとのプロジェクトの紹介が書かれています。21年に公開されるようですが、「みんなで翻刻」という京大古地震研究会開発のシステムが使われるようです。このシステムのことも説明がありました。東北大学で疫病退散プロジェクトを始めたとあり、「ひかり拓本」という技術を使うとありました。当方には理解できてないですが、メモ書きにしときます。「荼毘室(やきば)混雑の図」というのがありましたが、国文学研究資料館所蔵とあります。

日本古典と感染症で紹介されています。

2020年12月20日日曜日

紀国造と紀州徳川家

  紀国造は天武天皇の時代の話です。紀州徳川家は徳川御三家の一つです。どちらも紀州を重要視していますが、共通項があると思います。

 御三家は尾張、水戸と紀州ですが、将軍家が断絶した時に、養子を出すとのことです。尾張や水戸は江戸の防衛に対して有効ですが、紀州は西日本から江戸に向かう場合に大坂を通るコースであまり意味が無いように思えます。豊臣のあった大阪城を監視するためということでしょうが、理由としては弱い気がします。家康には信長の時代の石山本願寺攻めの記憶が元になったことが想定されます。元亀元年(1570)に信長と三好三人衆が戦っているときに、打倒信長で決起したことから石山合戦が始まり、天正八年(1580)に和議が成立し、本願寺明け渡しまで十年かかっています。信長は本願寺周りに付城を造り兵糧攻めに出るが、海上封鎖が完璧で無く、毛利などの援助があり、本願寺との争いに時間がかったようです。本願寺の方の信長包囲網を構築するのに対し、信長は、四国の長宗我部、九州の大友宗麟と結びつくのも太平洋側の航路によって連絡を取れたのだと思われます。紀州は西日本の太平洋側の重要拠点であったと家康は認識しており、土佐藩に家康の功臣とされる山内一豊が配されるのも紀州徳川家と連動しているように思われます。

 妄想になりますが、石山本願寺=難波宮とします。おそらく石山本願寺と同様に孝徳天皇の時代も瀬戸内海の制海権を持っていたはずで、倭国が吉備であって河内との連合政権的な意味で都を難波宮にした。対抗する大和の天武天皇は倭国(吉備)に対して瀬戸内海を避けて他の西国との連携を図るために太平洋ルート確保で紀国を重視したということです。信長も海軍的なものが必要で、伊勢の九鬼水軍に頼ったとされます(村上水軍に頼れなかったので)。天武天皇の時代にも伊勢神宮とかあるので、東方ルート確保のために伊勢との結びつきが強かったことが想像されます。


2020年12月13日日曜日

日本書紀、国生み神話

  日本書紀神代に大八洲国の誕生の話があります。順番は、淡路州、大日本豊秋津州(大和)、伊予の二名の州(四国)、筑紫州(九州)、越州(北陸道)生んだ。次に大州(周防の大島か)を生んだ。次に吉備子州(備前の児島半島)生んだ。これによって始めて大八洲の国の名ができた。・・・とあります。

 一書とかで少し違ってきていますが、大体似たようなものです。これらの地域は今までは気にしていなかったのですが、今の人間から見ると違和感があります。つまりイメージとして西日本に重心が偏っています。淡路島に意味があると下記の本に指摘がありましたが、忘れていました。これは、倭国=吉備と考えるとすっきりとします。吉備周辺の重要な地域が取り入れられているように思えてきます。淡路島がトップで、終りの方に吉備の児島が出てくることなど、書紀の創られた当時、吉備の勢力が復活し、倭国=吉備であるとの意識が現れてきたのかということではなくて、書紀編纂者の誰もが無意識に倭国=大和であるという設定を忘れていたのではと思われてきました。児島半島が加えられたのは八が聖数であって、数あわせとも考えられますが、神話の世界の話なのでチェックがあまくて、採用されてしまったのかもしれません。少なくとも書紀編纂にいろんな人が関与し、この部分は吉備=倭国のイメージを持つ人が担当したと想像されます。

 これは、『日本神話の迷宮、続 幾千年の時空の彼方へ』、藤井勝彦著、天夢人発行、二〇二〇年八月に記述の、「なぜ淡路島が筆頭にきたのか」ということからの発想です。海人族の話が出てき、四世紀や五世紀の時代の影響があったように述べられていますが、「倭国=吉備と阿波含む」とすれば海洋国家ですので、昔に遡るのではなく、この時代の話です。


2020年12月6日日曜日

乙巳の変と韓人

  乙巳の変は、645年に中大兄皇子・中臣鎌足らが蘇我入鹿を宮中にて暗殺して蘇我氏(蘇我宗家)を滅ぼした政変で、その後、中大兄皇子は体制を刷新して大化の改新と呼ばれる改革を断行した。となっています。私は、日本書紀の創作物語と考えています。

1.歴史の繋がりを良くするために考えられた。

 聖徳太子はフィクションですが、その後継である山背大兄王が滅亡したものの、蘇我氏というフィクションが終わっていないので、乙巳の変で、入鹿や蝦夷など蘇我氏一族の滅亡させたと考えます。蘇我氏の専横を理由としています。蝦夷は舘に火を放ち『天皇記』、『国記』、その他の珍宝を焼いて自殺した、として証拠隠滅をはかっています。聖徳太子や蘇我氏の話のつながりを考えずに次の展開に進ことができます。

2.孝徳天皇の評価

 大化改新を作り出すことにより、孝徳天皇はそれほど評価されないような歴史観になっています。急に出てきたのではなく、おそらく遣隋使を派遣した流れの中で孝徳天皇もあるはずです。日本書紀の時代の文武天皇の正統性を考え、そこにつながる天智天皇を入れたと考えることができます。大化改新での郡評の違いも含めておかしな話になってると思います(まだ単に思ってるだけです)。

3.「韓人が鞍作(入鹿)を殺した」問題

 乙巳の変で私宮へ逃げ帰った古人大兄皇子が、韓人が入鹿を殺したと述べたと言うことです。韓人は朝鮮の人間のことで、この変で誰かが関与したということです。最終的には乙巳の変の実施した中大兄皇子になると思います。私は天武天皇は韓人の可能性大になってますが、天智天皇も韓人であろうかいうことになります。書紀は唐向けのものであって、天智天皇は戦争犯罪人の扱いとしています。従って責任転嫁で、天智天皇を韓人として、当時に唐と対立した韓に押しつけようとしたかもしれません。乙巳の変は、三韓の調をたてまつる日で、これにかこつけて殺された(日本書紀③、小学館、日本古典文学全集3の注)とあります。わかってないので間違って理解してるかもしれません。ただ、乙巳の変は天武天皇のイメージで語られていて、韓人ということを、天智天皇に押しつけた可能性はあります。


2020年12月3日木曜日

日本書紀は外交文書か?

  日本書紀は何ための文書だろうかということです。今まで歴史を記述していると考えていました。多分違うであろうと思います。書紀にはかなりの潤色問題があります。これは当時の日本の人たちは、歴史書と考えてないことで、正確ではない記述でも納得していたということではないかという気がしてきました。

 書紀、推古天皇十五年、秋七月三日、大礼小野妹子を大唐に使わされたとあります。実際は隋です。「唐」の客との表記を出てきています。どうしてこのような国の表し方になるのか考えました。例えば日本とアメリカで条約が結ばれる時に、実質は日本の政権とアメリカの政権の交渉であって、ちょっと古くなりますが、安倍首相とトランプ大統領との間で何かしら結ばれたとしても、安倍・トランプ条約とはなりません。日本書紀は隋ではなくて一般化した中国としての「唐」を用いているように思われます。中国の隋は、日本にとって政権であって国ではないとの認識ではと思います。日本書紀は中国の唐に日本をアピールするための文書であって、当時の日本側の人間はこれを歴史だとは考えておらず、中国側への説明文書としたように思います。潤色は当然であろうと言うことです。

 もちろん、推古天皇十六年秋八月の唐の皇帝の書簡に「皇帝、倭皇への挨拶を述べる」とあり、「倭皇」はありえず、「倭王」を改作したものとあり、さらに「皇帝問某王」は藩臣である藩王にあてたものかとあります。(新編日本古典文学全集3日本書紀②、小学館、258頁の注)。藩臣は格下を表すようです。従って書紀は、完全に唐に示したものでなく、微妙に直せるところは変更しているように思われます。小幅な修正にとどまり、大幅な修正はあきらめているような雰囲気を感じさせます。


2020年12月1日火曜日

神武天皇=天武天皇?

  素戔嗚尊=天武天皇、雄略天皇=天武天皇とすれば、神武天皇も天武天皇ではないかと思われます。今は、小学館の新編日本古典文学全集2の日本書紀①を見ています。ここでの神武天皇という漢風諡号は淡海三船の撰(釈紀・述義五)とあります。神と天の違いなので同一と考えろよと言われている気がします。神武紀には橿原宮の造営の記事があり、畝傍山の東南の橿原の地に都を造ろうあります。藤原京は畝傍山の東側で少し方向が違いますが、橿原宮のイメージとしているように思われます。橿原宮=藤原京です。詳しく記述されますが、次の綏靖天皇は葛城に宮を定めたとあるが軽く述べただけです。次の安寧天皇は都を片塩に遷され浮孔宮というとあります。神武天皇とは扱いを変えています。

 神武東征についてですが、日本書紀の編纂に百済滅亡の時に日本に逃れてきた人たちがいることが考えられます。その人たちの逃亡ルートが瀬戸内海であろうと思われます。従って神武東征にこのコースが含められることはあり得ますが、天武天皇が渡来人でなかったらこのような話が受け入れられたとは思えません。つまり天武天皇が渡来人であることによって生まれた神話と考えられます。そうすれば出発の地は百済にすべきであろうということになり、日向からのスタートはおかしいことになります。しかし日本書紀は日本を唐にアピールするためのものです。自己完結するためには、百済出発はありえません。神武東征のスタートとゴールも迷走する感じですが、天武天皇の時代の勢力範囲になったところと想像されます。コース中に吉備に三年間滞在します。おそらく軍事行動を起こす場合これぐらいの時間が必要との認識があったと思いますが、吉備を意識していることも吉備との対立があってと想像します。

神武東征について以前に同じようなことを言っています。反復学習なのかもしれません。
神武東征について(H31.03.22時点)


2020年11月30日月曜日

雄略天皇のエピソード

  新編日本古典文学全集3,日本書紀②、一九九九年三月発行、小学館の雄略天皇のところをパラパラとみています。

 雄略天皇は、すぐ人を処刑しようとする話が出てきます。雄略二年十月、吉野宮行幸の時、狩猟をし、その料理のことで群臣に尋ねるが答えられないのを怒り、馬飼を斬られた。その後皇后との話で宍人部をおくということになります。雄略天王は誤って人を殺すことが多かった。と日本書紀にあります。

 雄略六年三月に、養蚕を勧めようとして、蚕《こ》を集め指すのですが、間違って嬰児《わかご》を集めて天皇に献上されたので、雄略はたいそう笑った。とあります。

 これらのエピソードから、雄略天皇とまわりの部下の間のコミュニケーションがうまくいってないのではと思います。皇后とかの通訳がなければ、意思疎通がおぼつかなかったということでしょう。つまり、当時の日本語がどんなものか想像できませんが、不自由したということは、雄略天皇(=天武天皇)が渡来系の人物であることにつながります。雄略紀は天武天皇の様子を具体的事実のようにみせて、天武天皇の雰囲気を表しているように思えてきます。



2020年11月29日日曜日

吉備の反乱伝承と天武天皇

 図書館でたまたま手にとりました。『日本の歴史②倭人争乱』、田中琢著、集英社、1991年7月です。前の記事(雄略天皇=天武天皇?)の続きです。

305頁に著者が衝撃を受けたという、1964年刊行の『日本考古学の諸問題に掲載された「吉備政権の性格」。筆者、西川宏氏は、吉備政権と倭政権との対立があり、吉備側は鎮圧されたという。ここで、『日本書紀』の三つの「吉備の反乱伝承」を取上げている。

1,雄略七年八月、反抗の意志ありとて吉備下道臣前津屋とその一族七〇人を誅殺した。

2.同じ年に、吉備上道臣田狭の妻の稚媛を奪った。田狭を殺したという話もある。

最後は雄略の死の時である。次の清寧天皇に話が続く。

3.吉備稚媛の生んだ雄略の子の星川皇子がクーデターを起こすが失敗、敗死する。吉備上道臣らは星川皇子を救おうと軍船四十艘を引いて応援に行くが、星川皇子の敗死を知って引き返した。清寧天皇は吉備上道臣らの責任を追及、所領を奪った。

吉備とヤマトの間で武力抗争があったということで、雄略天皇を天武天皇と考えた場合に、以前のブログ記事(出雲について:出雲と連携して吉備と対立の話)につながります。


2020年11月28日土曜日

雄略天皇=天武天皇?

 辛国神社の由緒で、雄略天皇の創建とありました。どうも雄略天皇=天武天皇ではないかという気がしてきました。

 万葉集に雄略天皇の歌があります。これは万葉集編纂の時代に昔と言えば雄略天皇の時代であったので、最初に置かれたと言われます。そうかもしれませんが、万葉集は大伴家持の編纂と考えれば、大伴氏が名前の通りであれば、伴臣のトップの氏族で、従ったのは天武天皇であったということです。雄略天皇がいろいろな天皇の複合したものとしても、主に天武天皇だと考えていたことで、敬意を表して、最初に雄略天皇の歌が置かれたのではないかと思われます。
 日本書紀には、雄略天皇即位の時に、大伴連室屋・物部連目を大連にされたとあります。大伴氏が抜擢されたということです。雄略紀を天武天皇と思って見れば、そうかもしれないと思ってきます。
 書紀では、元年春3月、草香幡梭姫皇女を立てて皇后とされた。この月に三人の妃を立てられた。元妃《はじめのひめ》は清寧天皇と稚足姫皇女とを生んだ。この皇女は伊勢大神の祠に仕えた。とあります。大来皇女は天武天皇2年(673年)4月14日に父の天武天皇によって斎王制度確立後の初代斎王(斎宮)とされますが、雄略天皇=天武天皇、稚足姫皇女=大来皇女に対応しているように思われます。元妃は韓媛《からひめ》というというのもひっかかります。
 清寧天皇=大津皇子であろうかというところが違うように見えます。しかし、清寧天皇のところの記述で、雄略天皇の後に後継争いが起こり、大津皇子とは異なり、天皇になりますが、早世してしまいます。日本書紀の願望で、大津皇子を天皇にしたかったのかもしれません。天武天皇亡き後の争い、葬儀の様子などはある程度示しているように感じます。

 雄略紀はボリュームが多くて、細かい逸話的な話が多く水増しの感がありますが、古い時代の話ではなく、天武天皇の時代の話をアレンジして、盛り込まれているような気がします。天武天皇の時代として読んでも違和感はありません。

 葛城山での一事主神に会うとの話も天智天皇と天武天皇の話に思えてきました。
  雄略天皇と葛城の一言主

新編日本古典文学全集3、日本書紀②雄略天皇、清寧天皇のところを見てます。

2020年11月22日日曜日

辛國《カラクニノ》神社

御野国味蜂間郡春部里戸籍の続きの話です。

 人名の辛国ですが(辛國だったかもしれない)、神社に辛國神社というのがあるのを見つけました。藤井寺市藤井寺一丁目一九ー一四にあり、旧表示は堺県河内国丹南郡岡村春日山となっています。この話は『式内社調査報告第四巻 京・畿内4』を見てのもので、出来るだけ旧漢字にあわすつもりですが、読みの間違いの可能性もあります。春日山は、古市郡の高屋城主畠山氏が大和の春日明神を勧請してからと伝えられているそうです。さて辛国の由来ですが、この本では

 この辛國とは、四世紀ごろの大和朝廷の初め、朝鮮半島南部にあった加羅(加耶・加那とも書く)と國交があり、一般的に外國を「韓國《カラクニ》」と呼んだ。「辛國」とは呼び名の当て字であり、主に朝鮮半島の国をこのやうに表示した。その後の飛鳥時代には、中国の隋や唐を「唐國《カラクニ》」と書いて同音であっても、表示では一応の区別をしてゐたやうである。
 従ってこの「辛國」の表示は韓神の祭祀された社であると思はれるが、諸書の祭祀する神は、所論が混乱してゐる。所在する場所が村の南の春日山にあったため、「春日さん」とも呼ばれてゐる。とあります。
 戸籍に出てきた名前も、唐ではなく、朝鮮に関係する人物の名前として良さそうです。

 この本での祭神については『大阪府神社名鑑』(昭和四十六年刊)では、「饒速日命・天児屋根命、素戔嗚尊」となっている。とあります。読みは「にぎはやひのみこと、あめのこやねのみこと」のようです。いろいろと書いてあり、理解できるレベルではないですが、韓國の祖神を祀るのだろうということのようです。この神社の過去については良くわかりませんが、私は「素戔嗚尊」を天武天皇と考えているので、祭神は天武以降に整えられ、「素戔嗚尊」が加わったように思えます。
 この本には、新羅國神の言葉も見えます。天武天皇は百済の人と思ってましたが、新羅系の人であったかもしれません。また近くに野中寺があり、百済系渡来氏族の船史《フナノフヒト》の氏寺であったと書いてあります。新羅・百済が入り乱れていて、今のところは天武天皇は渡来人?ということにします。

追記:H201126

祭神ですが、辛國神社のHPに
ご祭神は主殿
饒速日命(ニギハヤヒノミコト)
天児屋根命(アメノコヤネノミコト)
素盞鳴命(スサノオノミコト)

室町時代に河内守護職の畠山基国が現在地に神社を造営し、して春日大社から春日神、天児屋根命を勧請し、合祀したとのこと。以後春日社と呼ばれるようになったようです。明治四十一年に式内社「長野神社」を合祀しています。長野神社は葛井寺の境内の南西に鎮座していました。辛国神社の祭神の内、素盞鳴命は長野神社の祭神です。

天武天皇の時代といえるのかということです。しかし、雄略天皇の御代に開かれたとのことです。





2020年11月21日土曜日

美濃国の戸籍と天武天皇(渡来人?)

 正倉院展の展示の御野国味蜂間郡春部里戸籍についての続きです。

1の文献九七頁に、「安八磨(安八・味蜂間)」郡名の由来があります。

大海人皇子は、壬申の乱の時に、安八磨郡の湯沐令に軍兵を起こせと指示したということです。これが不破の道の封鎖につながります。この湯沐令は湯沐の管理する者のことで、湯沐とはこの場合、大海人皇子の直轄地のようで、大海人皇子の軍事的・経済的拠点であったようです。さて郡名の「安八磨」ですが、「アンパチ」・「アハチマ」・「アハチ」・「アハツマ」などと読まれるが、2には「アハツマ」と傍訓が振られているという(未確認)。「アズマ」(東・東国)が「アガツマ」となり、訛って「アハツマ」となったとする。つまり「安八磨」は「アズマ」(東・東国)と呼ばれたことに由来するのではということです。

日本書紀天智四年春には近江国神前郡に百済の百姓男女四百人余りを住まわせ、天智四年冬に百済の男女二千人余りを東国(あづまのくに)に住まわせたとあります。唐・新羅との戦いを主導した天智天皇は自己の領域の近江国に難民を引き取ったのですが、人数が多いので、東国に配置したということです。この東国は単に美濃国と私は思っていましたが、もう少し具体化すると安八磨郡ではないかという気がしてきました。正倉院展で展示された味蜂間郡の戸籍にあった辛国という人物ですが、百済からの難民の子であるとして、一人だけで無く、この地域が百済難民の置かれた地域であったことが考えられます。特権的にこの地域を与えられた大海人皇子は百済難民グループと近い関係にあったことになります。もう少し言えば、百済難民の代表者であったと考えておく必要があります。壬申の乱は天智天皇に対する戦後処理の不満により引き起こされたものですが、この地域の軍事的組織が保たれた百済難民の支持により成功したクーデターのように思えます。天武天皇は天智天皇とはまったく異質な人で、兄弟なんかではなく渡来人だったと思った方が理解しやすいと思います。最初はそれほどの支持は得られず、小規模な飛鳥浄御原宮から始まりますが、その後、各地域国家の支持を得て(強権的なものとは思いますが)、勢力拡大し、藤原京に遷都したのではと想像します。

1.『地図と歴史空間』ー足利健亮先生追悼論文集ー

大明堂発行、平成12年8月10日

2.新訂増補国史大系本『日本書紀』後編310頁


2020年11月17日火曜日

正三角形

 正三角形は各辺の長さが等しい三角形です。中心線から三角形を作図するときには

1:2:√3 の比率を考えないといけないので、無理数を電卓たたいてださないと

いけないので難しいと思っていました。しかし、大体で良ければ簡単に描けます。


中心線が7で直角に4の長さの底辺を出し、図では赤の線ですが結べば斜辺が

およそ8ですので、ほぼ正三角形になります。1パーセント弱の誤差はありますが、

見た目わかりません。難しそうに見えますが、予想外に簡単なこともありそうです。

当たり前かもしれませんが、わかってませんでした。





2020年11月16日月曜日

能の起源「翁」

  能に「翁」という演目があります。『能を読む①』(a)によれば、天下太平の祈念、年頭の法会を源流とする、厳粛な祝禱の芸能とあります。古来、能役者によって演じられてきたが、能とはまったく形態を異にする特殊な演目。成立は遅くとも鎌倉初期頃と考えられ、能が生まれる以前から能役者の前身である猿楽によって演じられていた芸能である。・・・また「翁」がどのようにして生まれたか、翁とはそもそも何者か、といった基本的なことはほとんど明かにされていないが「翁」を生んだ場としては、平安時代以降、天台寺院や法相寺院で営まれていた、年頭の天下太平祈念の法会である修正会、修二会であることが確実である。とあります。しかしながら本当でしょうかということです。

 そもそも能とは何かということですが、猿楽のことで、『能 650年続いた仕掛けとは』(b)では、世阿弥は『風姿花伝』で「猿楽はもとは神楽なのだが、末代のもろもろの人々のために、神の示偏を除いて申楽《さるがく》にした」と書いていますとのことです。この説の当否はともかくとのことですが、私は確度の高い話と思います。感覚的にはゴスペルシンガーのマヘリアジャクソンが歌うことに対して教会から避難を受けたということがあったとの記憶があります。元々ゴスペルは宗教音楽であって教会の中での宗教儀式としてあったのが、教会から離れたところで歌うことは許さないとした人たちがいたということです。おそらく「翁」の演目も神事として行なわれていて、芸能的な扱いを許されなかったと考えられます。これは神事ではないということのため、「示」がとられて申となったとして私は納得しています。この「申」を「さる」と読みます。

 「翁」は国の太平を願うものですが、誰が国の繁栄を願っているのかということが問題です。(b)では、芸能の起源は『古事記』の、天岩戸と海幸彦の二つにあるとしていて、私は後者の話に注目します。以下は32頁、

 漁と猟の道具を交換した海幸彦と山幸彦の兄弟、弟の山幸彦は兄に借りた釣り針をなくし、兄がそれを許さず、弟が釣り針を探しに海中へ行き、そこで出会った豊玉姫の海神一族を味方につけた山幸彦が海幸彦に勝利します。その戦いの最後に「自分が負けたさまを永遠にあなたの前で演じましょう」と海幸彦が山幸彦(神武天皇の祖父とされます)に約束する文章が『日本書紀』にあります。とのこと。

 「わざおざ=俳優」の起源と書いています。恭順を示す行為としての芸能とのことです。この説話からの妄想ですが、敗者が勝者に臣従を誓う儀式が神楽ではないかという気がします。ヤマトの勢力に敗れた勢力が儀式として国の繁栄(つまりヤマトの勢力の繁栄)を願うということで、神事として固定化されたということです。これは一つの地域だけでなく多くの地域に対しても行なわれていて、ヤマトの支配下に入った地域の首長達をヤマトに住まわせ(江戸時代の参勤交代ではなく永住させ)、神楽を行なわせたと考えれば、大和国に能の流派が多く残っていたのもこの歴史を引きずっているためと考えられます。時代を考えると、神楽の起源は、神道の格式化をはかった天武天皇の時代のような気がします。(a)で梅原猛氏が奈良阪の奈良豆比古《ならつひこ》神社で、天智系の光仁天皇即位するときに、后の天武天皇系の井上内親王が皇太子他戸親王とともに幽閉され死んだ。その恨みで光仁天皇の弟の春日王が白癩《びゃくらい》になった。奈良阪の産土神に「翁」を奉納したところ治ったとの伝承があると述べています。私の理解の仕方が違うかもしれないが、支配・被支配の関係があるように思われます。

a)能を読む①翁と観阿弥、能の誕生、角川学芸出版、平成25年1月25日発行

b)能 650年続いた仕掛けとは、安田登著、新潮新書732,2017年9月20日発行


2020年11月6日金曜日

第72回正倉院展、古文書正集より

  今回もまた正倉院展に出かけてきました。初めての日時指定券ということでどうなるかと思いましたが、人数制限のおかげでゆっくりと見ることができました。古文書では、長門国正税帳には疫病が流行った様子が記されていて、今の新型コロナみたいに大変な時代であったようです。大仏もこういう時代だからこそ建立されたのに、どうして天平時代が繁栄を謳歌してような楽観的な時代と考えてしまったのかと思います。

 戸籍に注目していますが、今年は美濃国の戸籍が展示されていました。残念ながら安田の名字の痕跡は皆無でした。戸籍と安田という名字はつながらないということで、あきらめるしかないのかもしれません。今後の課題です。

 今回見ていて、春日辛国の戸籍に、母らしき人物がいて、吉島賣母春部飯手賣年86老女(細かいところ間違いあるかもしれません)とあって、長老的な人のように思われました。戸籍が大宝二年(七〇二)ですので、数えとかで違うかもしれませんが、616年生まれになります。白村江の戦いが663年ですので、この時は47歳で、昔を伝える生き字引になっとぃたのではと思われます。辛国は戸籍の年齢が36歳で、666年生まれです。白村江の戦いの後世代の人です。辛国は朝鮮、具体的には百済難民の子であって、出自を明確に示すために辛国を名乗ったのではと思われます。いざとなればまた朝鮮に戻ろうという親の意思が示されていると想像されます。他の人をみると戸主で六人部加利の年が80です。白村江の戦いの時には40過ぎです。百済難民として考えても矛盾はありません。戸籍には子供が多いので戦後の第2次のベビーブームになっているのかもしれません。戸主の年齢ですが40代が目立たないような気がします。白村江の戦いの時の年代が断絶していて、百済難民の人たちが戸籍に現れている可能性はあると思います。

追記:R021113
美濃国の戸籍について
 戸籍について、イメージとして、現在の戸籍と変わらないと思っていましたが、違うような気がしてきます。美濃国の戸籍が百済難民のものと仮定しての話です。百済から日本へ逃れてきて、2000人以上のレベルの人たちです。想像ですが、現在の水害とか台風とかで避難所に入る人に対し、食料の支給とかおそらく家族単位ではなくもう少し大きいグループに対しまとめて行なわれるはずです。家族単位に食料が分配されるのではなくもっと大きい50人とかの単位になると思われます。グループ長に中の分配をまかせた方が効率よくなります。百済難民が美濃国に配置されたとして、その間はグループ単位で行動があったと思います。陸路を経て、美濃国に着いたのではなく、瀬戸内海や琵琶湖の湖上を介して移動したと想像されます。道を荷車で移動したのでは無いだろうということです。全員が一度に移動したのではなくて、舟を何度も往復させたと思います。舟の定員が決まっているので、グループ化すれば効率よく移送できます。
 ある程度の集団にまとまることが必要とされたということで、美濃国でも家族単位ではなく、一定のグループとしての活動が食糧生産のための新田開発になったはずで、戸籍も家族単位ではなくて、大家族に擬制したものとして残ったと考えられます。いざという時のためを考えた名簿リストであったとすれば(白村江の戦いの後も反攻することも考えた)、戦時体制的なシステムと考えられます。
 つまり律令制というのは戦時体制が意識にあったとすれば、この戸籍は不自然なシステムであって、戦争の脅威がなくなれば、成立しにくくなります。それぞれの戸としての名称は、結局は律令制の崩壊とともに消え去る運命にあった。こう考えれば、戸籍に出てくる名前に安田が無くても良いんじゃないかと思えます。戸籍の原点が、百済難民の名簿リストにあった可能性を頭に入れておきたいと思います。

追記:R021120
聞き慣れない名字であっても消え去るばかりではないということなので、結局は律令制の崩壊とともに消え去ったとまではわかりません。『地図と歴史空間』という足利先生追悼論文集の田島公氏の考察中に美濃国安八郡からわかれた池田郡に伊福部(五百木部)の部民の存在があると書いてます。
正倉院展の展示の戸籍では六人部(むとべ)とあって、今はこんな名前はないと思ってましたが、五百木部(いおきべ)は今もあります。防衛大学校の元校長で、五百旗頭姓の人がいて、木が旗に変わっていますが、現在に名前が残っています。日経新聞、私の履歴書2019.2.4に名前の由来について述べられています。抜粋すると
徳川時代には姫路藩士だった。本家に残る「永代過去帳」には18世紀初めの三代目以降の家系図が記されている。「藩の度量衡の検査監督を一家にて司り」と父が書き残したように、藩の技術官僚であった。・・・「五百旗頭」を初めから読める人は稀(まれ)である。京大生だった私は司馬遼太郎さん宅を初めて訪ねた時、紙切れに姓名を書いて渡した。苦もなく読み下したので、誰かこの姓の人を知ってたのか尋ねた。「そうやない。昔、尾張あたりに五百木部一族がいた。戦国時代に一旗あげようと、字を強そうな五百旗頭に変えて暴れたんやないかと思った」という。図書館へ行って、太田亮「姓氏家系大辞典」を開くと、なるほど「尾張家の一分家に五百木部があり、一時期隆盛を誇り、仲哀天皇に娘を出してその子を産んだ。が、その後の乱で負け側について四散した」とあった。もともと、イオキ(ベ)の音には、五百木、五百旗だけでなく、伊福、伊吹など多くの漢字が当てられ、もとは同じだったという。鉄を溶かすため高温を得るには吹く必要があり、鉄文明導入に関わった一族との説もあるが、よく分からない。とあります。
伊吹山も、鉄砲の国友村も近くにあり、美濃国と尾張国も近いので、「五百旗頭」という名字も、律令体制の時代から読みとして続くものであろうかと考えられます。よって美濃国戸籍の名字が消えてしまうと断定まではできません。数のつく名前がリーダーとしての名前で、これが戸籍用の名前であり、対して安田は戸籍に出てきそうにない名前で、見つけるのは難しいと思っています。

2020年10月23日金曜日

高砂と阿蘇

 謡曲の「高砂」の中に阿蘇が出てくる。

内容は、相生の松によって夫婦の和合と長寿を祝福し、またその常磐の松を象徴として、和歌の道の繁栄、すなわち国の平安の永遠をことほぐ(日本古典文学全集58、小学館)とのこと。阿蘇神社の神主が播州高砂の浦にやってきて、老夫婦(高砂と住吉の松の精)と出会うことから始まる。住吉は古今集、高砂は万葉集をあらわすとのことである。ここで阿蘇神社の神官がなぜ出てくるかと言うことが不思議に思われる。神社は古墳時代から律令制の時代に変わるときに生まれたものであり、ヤマトの勢力に対し、火の国(阿蘇)から国の繁栄を祝う使者がやってきた言い伝えを世阿弥が取り込んだものかと最初は思われた。しかしあまりに妄想的な考えで、実際には、世阿弥の時代に阿蘇神社が古式ある神社と認識されていて阿蘇神社が取り込まれたことは十分あり得ると思われる。

式内社調査報告書第二十四巻西海編に肥後国の神社が取上げられている。阿蘇神社はないが、その元となった三社が記されている。この阿蘇三神は健磐龍命神社《タケイハタツノ》、阿蘇比咩神社《アソヒメと読むらしい》、國造神社《クニツクリまたはクツクリ》である。前の二社は今は無いらしい。健磐龍命神社であるが、神階の記録では、承和七年(840)四月、従四位下勲五等が従四位上、同年七月に従三位、嘉祥三年(850)十月に正三位、仁寿元年(851)従二位、そして最後には貞観元年(859)正月二十七日で正二位を奉授してゐる。・・・

古今集成立が延喜五年(905)と言われることから、健磐龍命神社の進階と時代的には合っている。鎌倉時代には健磐龍命神社や阿蘇比咩神社も阿蘇社として合祀された絵図があると書いてある。阿蘇社としても問題無さそうである。高砂に阿蘇神社が出てくるのも、でたらめな話ではなくなる。また國造神社は北宮と呼ばれ阿蘇社の北にあるとのことである。神社説明では、この地域には数多くの古墳群があると書いてあり、長目塚古墳は全長百二十九米で県下最大とのことである。この地域でも、古墳時代から律令制の時代へかわり、神社が造られ、祭祀が神道的なものに連続的に移行していったことが考えられる。高砂は室町の時代のものではあるが、祭政一致の時代のイメージを再現しようと世阿弥が考えていて、古今集の時代を想定したものであるが、都に地方から言祝ぎに出向く話は、もっと古い時代のものが残っているかもしれない。

追記:R021210
奈良時代~平安時代にかけて有力な神社の神職が笏(束帯着用の際、右手に持つ細長い板)が認められたという。承和年間に認められた健磐龍命神社(阿蘇神社)は、同時期の阿蘇山の火山活動が影響していたと見られる。その山上に神霊池があり、その枯渇に対応しているからである(『続日本紀後』)。とありました。『古代の神社と神職、神をまつる人びと』、加瀬直弥著、吉川弘文館、平成三十年六月一日発行。
阿蘇山の噴火が恐れられていたことで、古い時代の噴火の記憶が残っていたのかもしれません。

2020年10月12日月曜日

能と万葉集

 歴史は繰り返すという話です。万葉集は大伴家家持という軍事貴族が編者と考えられていますが、戦と和歌の関係が、ヤマト政権の軍事拡大により、征服した地域の日本語教育が必要であり、地域の同化政策の担当もあったためなのではと考えていました。しかし違うかもしれないと思うようになってきました。それは古典芸能の能楽からの発想です。能が形式的に整えられたのは、徳川将軍が「式楽」的な正式なものとしたことが大きいと思います。武士として必須のものとされたのは、戦に必要な資質を磨くためのものであったことが考えられます。戦場で軍隊を率いて行くには、命令をきちんと部下に示す必要があります。文書で命令したりしていては埒があかないので、声により指示する必要があります。鎧甲に身を固め、顔にも防御用の面をつけます。発声が悪ければ、戦に負けることもあり得ます。面をつけてもはっきりとした遠くまで届く声でなければなりません。つまり能面をつけて唸るような遠くまで届く声を出せなければ戦のリーダー失格ということだと思います。能は武士の必須教養ということです。秀吉も信長も同様であったはずです。信長は桶狭間の戦いの前の幸若舞で、能とは違うかもしれませんが、発声については似たようなものに思います(知識がないので違うかもしれません)。これは大伴家持の時代に戻ることができます。戦には指揮命令のために、戦のリーダーにきちんとした発声がいつの時代でも求められ、それがこの時代では和歌のようなものにつながっていた気がします。どうしても和歌と言えば、現在の感覚では読むものにしてしまいますが、当時はあくまで発声するものであって、五七五七七なども意志の伝達手段としてわかりやすくするための決まりのようなものと考えられます。今は文字重視ですが、万葉集や能などの時代は音声重視であって、つながっているかもしれません。


2020年9月28日月曜日

歴史は繰り返す、憲法

  日本国憲法には基本的人権の尊重・国民主権(民主主義)・平和主義の三つの基本原理があるとされる。最後の平和主義は、ポツダム宣言を受け入れた日本の敗戦により生まれていると思われます。敗戦がなければ、このような戦争放棄の文面を持った憲法はなかったはずです。この憲法の平和主義を具体化するものとして、聖徳太子のお札が使われるようになったと思います。

 ネタ元は日本のお札に最も多く登場した人物は? 本のお札に最も多く登場した人物は?

 この中に

一萬田日銀総裁はGHQに対し、「聖徳太子は『和を以って貴しとなす』と述べるなど、軍国主義者どころか平和主義者の代表である」と主張して、・・・

とあり、戦前二回、戦後五回の発行で、敗戦後増えているので平和主義の理想化された人物の扱いだったと思います。

 日本書紀に、聖徳太子が推古天皇の時代に一七条憲法を作ったということが根拠になっています。もちろん私は創作説をとりますが、要は、書紀の編纂者がこの部分がいらないと考えたら実際にあったとしてもボツになってしまい、歴史から消え去ることになります。必要と考えて記載されているので、日本書紀の強い意図が組み込まれています。なぜ必要とされたかを推測すると、日本国憲法からの類推ですが、八世紀に敗戦の記憶があったのではないかということです。現在も敗戦の影響は続いているように感じます(対米追従外交の傾向が残っている)。当時を考えれば白村江の戦いなどで唐・新羅の連合軍に大敗したことが避けられない事実としてあります。日本書紀が誰に対して記述されているかと言えば、(日本国憲法が、戦勝国のアメリカを意識したように)、唐に対してであろうということにつながります。戦後の聖徳太子のお札のような平和憲法を具体化するものが、日本書紀の時代にあったと思われます。それが法隆寺です。法隆寺については再建・非再建論争がありますが、その元になったのが日本書紀に記された法隆寺の火災の記事(670年?)です。普通のお寺であれば、火災の記事が書かれるとは思われません。日本書紀が重要と認めたお寺なのでこの記事が存在するのだということです。聖徳太子の実在の証拠となる法隆寺を火災により証拠隠滅をはかった可能性もありえます(聖徳太子一族の滅亡も含めてですが)。白村江の戦い(663年)のあとの復興のシンボル的な意味を持たしたことも想像されます。法隆寺が斑鳩という政治的に重要ではないところに建てられているぐらいの根拠しかなく、今後の課題です。


2020年9月27日日曜日

歴史は繰り返す

  戦争など何度も繰り返しの歴史があります。最近、サバクトビバッタが集団発生したニュースを聞きます。ほとんどバッタがいない状態から、何らかの条件により突発的に大発生し、各地に広まり、また人間の駆除とかの要因で消滅する歴史を繰り返しているようです。

 バッタの集団移動は、世界征服の野望とかなく単に生物としての本能的な行動だと思われます。このバッタの歴史は、発生→滅亡の繰り返しで、バッタに歴史家がいたら、大量発生が少数のバッタから始まったので、前の集団発生→滅亡の歴史を知らないか、知っていても多分認めないと思うので、最初のバッタを人間のようにアダムとイブのバッタから始まったという話になると思います。
 これは人類にも当てはまるような気がします。アフリカから世界に広がり、その中でバイカル湖付近に進出した人類は、寒冷な気候で絶滅の危機に陥り、鼻が低く平面的な顔・手足が短く胴長が、体温の低下しにくい性質のモンゴロイドが生まれ、最初のアダムとイブとなり各地にひろがったと考えられます。アダムとイブの話も馬鹿馬鹿しいなと思ってましたが案外そうではないのではということです。人類も「集団発生→絶滅→新人類の集団発生」の歴史になると思われて来ました。新型コロナウイルスも人類滅亡につながるまでの強烈さはないものの同じになる可能性があったかもしれません。地球に存在する生物は、環境変化などで絶滅の危機にあって一見絶滅したように見えても、異常な繁殖力により復活する可能性がなければ存続しないことになります。戦争などの対外的な膨張政策も、理由はいろいろ付けられますが、生物としての本能的な行動になり、過去の歴史を理解しなければ、バッタと同じで、何度も繰り返すのも仕方がないことになります。

2020年9月11日金曜日

大神神社と出雲

 地図で三輪山を見ていて、近くに「出雲」の地名を見つけました。下図の左下の赤い点が出雲のバス停のようです。ほかの地図では出雲の地名が記されているものもあります。大神神社の関連で出雲からやってきた人が住み着いた場所のように思われます。見にくいですが、中央が三輪山で、左手のJR桜井線の三輪駅から大神神社に向かいます。  
 地名辞典で見ると出雲村として説明があります。 桜井市大字出雲 大和川(初瀬川)上流域に位置し、同川に白河川が注ぐ。垂仁朝に出雲国の土部を招き、人や馬などの形に埴輪を焼かせたという伝承がある。(垂仁期32年7月己卯条、続紀天応元年6月壬子条、延歴16年4月23日符/三代格12・17)。野見宿祢にちなむ出雲伝説があり、出雲人形の製産地であった(桜井市史)。 とあります。 ちなみに野見宿祢は出雲国出身ということになっています。 

「出雲」の地名の意味・・・ 雲が出るということで出雲となったということですが、出雲と奈良県は距離にして300kmほどあります。阿蘇山があるので火の国(好字で肥)はわかりますが、雲とは何だろうと思っていました。つい最近、豪雨とかで雷がなったりして遠くの風景を見ることがありました。遠くの雲が雷で光り、その場所がどこか雨雲レーダーで見ると200kmほど先のところでした。300kmでも雷がわかるという話もあります。遠くの集中豪雨もわかるということになります。奈良の地にあって、出雲の雷の光をキャッチできて、出雲で集中豪雨があったかで大変だっという話題が奈良の地で起こったかもしれません。その辺に雲が出てるのでは大した話でないので、大災害がおこり、雲が雷で光り、それが奈良まで瞬時につたわり、驚異となって出雲の地名が生まれたこともありうると思います。この場所で雲が出てきて、それがありがたい雲であって、出雲となったとは思いにくいです。  

2020年8月24日月曜日

セミの歴史

 又吉直樹のヘウレーカ!「生き残れるのはどんなやつ?」でセミの話がありました。番組ではついて行けてなかったので本を借りてきて見てます。

ちくまプリマー新書177、なぜ男は女より多く生まれるのか、吉村仁著

この本によると、アメリカにいる変なセミの話で17年又は13年周期で大発生するセミがいるとのことです。17や13が素数で、氷河期に獲得したこの性質によって具合良く生存してきたということです。18年や15年は最小公倍数が90年ということで交雑によって滅んでいってこの素数周期だけが残っていったということです。理由の説明は分かっていないですが、ようは素数の周期性を持つことで生きながらえることができたということです。このセミは素数を理解していてこのような戦略をとったということではないです。

人間の歴史もセミと変わらないような気がしてきました。

秀吉の朝鮮出兵ですが

国内の乱立 → 統一 → 余力ができて朝鮮出兵 → 大失敗

という流れです。七世紀の白村江の戦いですが

( )→ ( ) → 朝鮮出兵 → 大失敗

で( )の中には秀吉の時と同様のものが入りそうです。

もっと遡れば、広開土王の碑があります。

これも朝鮮への侵出の話で、歴史は繰り返すということの例で、この時にも国内の統一がなった時期と考えられるのかもしれません。セミのようにきちんとした周期ではありませんが、性懲りもなく何度も朝鮮侵出を繰り返しているようにも見えます。


2020年8月20日木曜日

聖徳太子「法華義疏《ほっけぎしょ》」

 前回の記事で七世紀が戦国時代のようなものではないかという話でした。聖徳太子は存在しなかったという前提があることを思い出しました。それで聖徳太子の話です。『すぐわかる日本の書』東京美術発行、可成屋編の最初に法華義疏がとりあげられています。

『法華義疏』は、現存する日本最古の肉筆である。聖徳太子(五七四-六二二)が著した「三教義疏」の一つで、法華経注釈書の草稿本であると伝えられている。太子の真跡か否か疑問視する声もあるが、第一巻冒頭に「此是大委国上宮王私集非海彼本。(此れは是れ、大委国(やまとのくに)の上宮王(かみつみやのおおきみ)の私の集にして、海の彼(かなた)の本にあらず」という奈良時代に書かれた添え書きがあり、奈良時代以前のものに間違いがない。とかいてあります。長らく法隆寺に所在していたが、明治の初めに皇室へ献納され今日に至っている。

とあります。

ウィキペディアに写真を見ることが出来ます。

法華義疏が聖徳太子と関係あるかもしれないということで、聖徳太子が存在したことを示す確実な証拠にはならないということのようです。「委国」ではなく「大委国」になっていることの方が気になります。


2020年8月19日水曜日

崇神天皇から仁徳天皇にかけての話

 崇神天皇ーー北陸・東海・西道・丹波の四道に「四道将軍」を派遣

景行天皇ーー日本武尊による東国・西国への遠征

成務天皇ーー国内の整備

仲哀天王ーー新羅・高麗・百済の三韓平定

応神天皇ーー三韓の朝貢とともに渡来人の来朝

が語られるという。(『テーマで学ぶ日本古代史 政治・外交編』、最初の四頁くらいにありますが端折ってます)


支配領域の拡大を書紀は述べているわけで、誰にこんなことを言いたいかといえば、朝鮮地域の支配まで述べていることから、これは当時の唐に日本をアピールするためのものでしかないと思われます。

歴史を追って日本の発展を述べていますが、それぞれの天皇に段階ごとに割り振っていて、水増ししているような感じを受けます。日本の統一では、戦国時代から織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三代にわたって統一された事を思えば、国内統一も短期間に出来たのではないかと思います。

秀吉の朝鮮出兵を考えると、その前提として国内の統一、それを可能にした軍事力を持っていたことがあるわけで、戦国時代には朝鮮出兵の余裕はなかったのが、秀吉の統一後に朝鮮に振り向けることができた状況になったことがあり、例えば江戸時代になって平和な時代になれば、軍事力を行使しにくくなります。タイミングがあるということです。古代でも同様で、白村江の戦いなどで、百済の復興運動に日本が加担するのも日本に余裕があったことがあるわけで、ない袖は振れない状態ではなかった。軍事力を用意できた。なぜできたかといえば、この直近まで国内で統一に向けた戦いが行なわれていて、軍事力の利用が容易であったと想像されます。つまるところ各天皇に割り振った国内の統一の話は、万世一系の天皇の話にするためのものであって、実際には、白村江の戦いの前の七世紀前半・中頃の話を述べている可能性大と思われます。遣隋使があった時点は日本の統一過程(漠然としてですが、古墳時代のゆるやかな連合体から物流システムが整備された統一体のようなものに変化してる?)にあり、日本書紀は遣隋使の経緯を正確には記述していないことから、政権主体が変わっているのではということになってきます。


2020年8月11日火曜日

感染症と歴史のつながり、ファクターX

 NHKの日本の芸能という番組を見て、能が能舞台で演じられていた。能の知識がないので勘違いしてるかもしれないことがあるかもしれない。この能の舞台は建物になっていて、室内であるのに屋根付きであった。以前に伏見稲荷大社の神楽殿を思いだしたが、3面が開放空間で正面が本殿に向かっていて、明治15年に寄進された能舞台で、もともとは能は開放空間で演じられていて、この場所で奉納されたように思われる。能舞台が全体一式まとめて能楽堂に納められている。現存する最古の能舞台として、西本願寺には北能舞台が国宝になっている。これらの能舞台を見ると変な形になっている。引用は下記より。

引用は下記より。


能へのいざない

http://www.janis.or.jp/users/shujim/index.htm

本舞台があり、それにつながる形で、橋掛かりという廊下みたいものがあり、出入り口ということでなく舞台の一部になっているが、これを見ると、寝殿造の釣殿のように見えてくる。あまり使われなかった所を転用した形である。寝殿造の感染者の隔離部屋が、お寺の門主とかの隔離部屋とかの隠れた用途があったかもしれない。江戸時代では城の中に能舞台があったところもあり、同様の役割があったかもしれない。能が武士階級の必須のものになったことで能舞台が設置されているが、目的の一つに感染症対策も少しあったことが妄想される。城主とかが感染症になり使われた記録があればよいがないであろうが、少なくとも能などの演劇では換気対策が取られていたことは確かである。

話が飛んでしまうが、建築では茶室を思い出した。国宝の待庵である。千利休作とされる究極の小さい茶室である。窓が3個しかなく開口部の面積も小さく換気が悪そうである。高さ方向はありそうで、躙口《にじりぐち》とか開けておけばよいのかもしれないが、換気の面では失敗作のように思える。

待庵のモデル写真で、引用はhttps://kurumiyama.blogspot.com/2013/09/blog-post_29.htmlより

窓のある面を見ています。同じく国宝の茶室の如庵で,後の時代のものがある。

この茶室は時空を超えるカプセルだ  如庵~『日本遺産巡礼』より 

https://style.nikkei.com/article-image?ad=DSXZZO8309815012022015000000&ng=DGXMZO83098060S5A210C1000000


図は窓を見たいので、上からの視点。待庵より少し広くなり、窓が増えている。しかも天井には突上窓もあり、開放空間になり換気が良くなっていると思う。筋違いという壁が斜めになっているところがあり、動線が良いとの話だが、空気の流れも良くなっているように思える。多分、炉を使い、湯を室内で沸かすので感染症対策ではなくて、一酸化炭素中毒対策かもしれないが、結果として感染症対策になっている。

日本ではコロナウイルスで死者が少ないといわれ、その理由が不明でファクターXということだが、日本人の生活様式がその理由になってる可能性はある。

ついでにファクターXとして日本語も考えられる。スーパーで買い物するときに、支払ではレジ係の人とはビニール状の幕かアクリル板の仕切りを介している。ソーシャルデスタンスを取ろうとしていることに相当する。昔もこのような事をしていた。御簾である。天皇と下々のものが対面するときに仕切りとしてすだれのようなものが用いられる。顔が見えないようにするためとされるが、当時は透明の仕切りがなかったためにすだれを使ったのかもしれない。VIPが飛沫感染しないように防止の意味があったかもしれない。尊敬・謙譲語も何かしら人との間の距離をとる仕切りみたいなものがあるのではと思われてきた。

日本語という言葉は、普通は「にほんご」と思っていて、「にっぽんご」ではない。日本語の歴史ではp→f→hの変化をあるとされるが、これは省エネルギー化の変化で、飛沫感染の防止の方向で日本語が進化しているとも考えられる。英語とかでは子音の連続音があるのに対し(例strongとか)、日本語では母音が入り(sutoronguのような感じ)、子音の連続音はない。発音が弱体化してる気がして、飛沫感染を防ぐのに日本語が有利であると思われる(この辺ちょっと怪しい)。しかしp音とh音の違いは確かそうである。

天然痘により日本統一を目指した律令体制が崩壊したと考えると、その後、戦国時代を経て再度日本が統一されるというまで時間を要したのも、感染症対策の時間が必要で、その中に日本語の変化があったかもしれないということになってくる。現時点では本当だろうかということであるが。


2020年8月2日日曜日

コロナウイルスと日本語の伝播

コロナウイルスからの思い付きです。 図は人口10万人当たりの感染者数です。  

東京都は人口が多いので感染者数が多いのは当然ですが、人口10万人当たりの数でもトップです。検査の数が多いという可能性もありますが、どの都道府県も同じようだと考えての話です。東京ではなぜ多いのかという理由を考えると、人の接触が多くて感染者が多いのではと想像します。東京都と大阪では人の接触頻度が2倍ほど違うかもしれないということです。新型コロナウイルスの感染は、接触確認アプリとかの条件で、1m以内・15分が示されていますが、これは感染者が呼吸していてコロナウイルスを排出し、そばにいた人がこの排出されたコロナウイルスを受けるということが考えられていると思います。つまり、感染症の人とすれ違っても、また数メートル離れていても大丈夫ということです。これは人と人で会話が行われているときと似ています。会話が行われるというのとコロナウイルスが感染するのにはアナロジーが成立してるかもしれません。日本語での新語法とか新単語が生まれ、多くの人との会話の中で拡散してゆくのをコロナウイルスの拡散のイメージで考えることができます。日本語の変化が広まるのも、コロナウイルスでのクラスター発生から想像できます。私は今まで、日本語の変化は波が広がっていくようなイメージを持っていましたが、多分違うと思います。クラスターが発生し、それが連鎖反応を起こして最終的に全体に広がると考えるのが自然です。波であれば同心円状に広がるイメージですが突発的に広がればまだら模様になります。感染者数のグラフでも必ずしも東京の近くが多いということでもありません。

図はhttps://uub.jp/pdr/q/covidji.html#3より

 
 
 
 
 
 
 
 
 

2020年7月28日火曜日

感染症と古建築


最近は、新型コロナウイルスのことが頭にいつもあります。今まで、感染症のことを考えていませんでしたが、昔の人はそうではなく、毎日の生活の中でいつも注意をしていたのではと思うようになりました。日本の建築にも、感染症を恐れて、換気を重視してきたのではないかということが気になってきました。

例ですが、東本願寺の御影堂の配置を示します。
 

江戸時代の様式をもつものです。図の外陣に門徒が入ります。上方が宗教的な対象物があります。この外陣にmax3000人が収容されます(記憶違いで西本願寺でした)。この外陣の換気対策です。外陣には三方が広縁です。わかりにくいので、次の図の柱の配置をみます。


 
小さな黒丸が柱で、屋根などの荷重を支えます。外陣内部は柱がむき出しであり、広縁側には戸があって、広縁側は三面が開放することができます。図の青の3本の直線部分に外陣の開口部があります。換気に対してベストといえます。木造ではなく、レンガではこのような解放空間を作りにくそうに思います。まだ思い込みのレベルですが、日本の住居では、感染症対策の話は聞いておらず、意識してないように見えるのですが、開口部が多かった気がしています。

平等院鳳凰堂で、なぜ建物の両翼が中堂と繋がっていないのかという問題を思い出しました。
以下が平面図です。
単なる飾りとのことですが、そうだろうかと思っていました。両翼は隔離された区間であるということです。
この建築のもとになったのが寝殿造りと思います。
平面図を見ると池に面して東釣殿と西釣殿があります。中央部の建物から離れた位置にあります。これが鳳凰堂の両翼のイメージになります。釣殿は「離れ」的なイメージです。この場所が、感染症の疑いのある人の隔離部屋の気がしました。現在のコロナウイルスに感染した人がホテルに入り隔離されるように釣殿が隔離される部屋です。私は釣りに興味がないので、こんなところで釣りをして何が面白いのかと思いますが、隔離された人が暇つぶしに書物を読んだりしても、いつもいつもではたまりません。気晴らしに釣りをするなどあり、名前になったのではと想像します。このような隔離部屋を持つことは、当時の貴族のステータスシンボルになっていたかもしれません。寝殿造りが形式化し、それが平等院の両翼になったということです。両翼が部屋としての機能を持つ必要はありません。つまり元の寝殿造りに感染症対策の考えが反映されていたことがあったとすれば鳳凰堂もその痕跡を残していることになります。歴史を考えるときに、感染症のことを常に意識する必要があるかもしれません。
(天然痘に罹った藤原四兄弟も釣殿のようなところに常駐していたかもしれません。)

図の引用は下記からです。
東本願寺の図は
https://ameblo.jp/2214612/entry-12004446814.html
平等院は
http://www011.upp.so-net.ne.jp/kentikushi/butudo4.html
寝殿造りは
https://yahoo.jp/o9pz47

2020年7月26日日曜日

英語の語順から思うこと

なぜSVOの語順なのか?
引用元:なぜ英語はSVOの語順なのか?(前編)(後編)
にあります。
古い時代の英語では、格変化を示す語尾の変化がアクセントの弱い部分にあり、格変化がわかりにくくなり、語順に頼ることで主格と目的格を区別するようになった。その時に、SVOかSOVがあるが、SVOが主流であったとのことです。
私には、格変化がない場合に、SOVの形式が成立しにくい気がします。
今でも英語ではI-my-me-mineとか残っています。「I you love.」のような文章があったとき、「I love you.」のことかもしれないと想像できます。「Me you love」でも「You love me」と理解できそうな気がします。単数の場合は良いのですが、「A B C D love.」といった文章の場合「A B C love D」、「A B love C D」のどちらかというのがわかりません。andを使用すれば良いのですが、「A B love C D.」の方がはるかにわかりやすく表現できます。SとOが連なっていると区別が付きにくくなり、区別するためにはandを入れれば良いのですが、聞き取りにくければ、誤解が生じます。コミュニケーションをきちんとするにはSVOにならざるをえないような気がします。最初はわからなくても、時間をかけて段々と最適化されたのではということです。ドイツ語では文の二番目に動詞が来ます。格変化が弱くなればOVSは考えにくいのでSVOに確定するはずです。
元々の言語はSOVであって、格変化がなくなればSVOになっていくこと法則が考えられます。
英語の格変化の弱体化は、SVOの語順の後半にWhyで説明があります。
英文法の変化がイングランド北部で起こったのはバイキングが8世紀後半以降侵攻し、9世紀後半以降イングランド北部に定住したことがあるということです。ややこしい格変化を捨て、語順を固定化しなければならなかった。古英語話者と古ノルド語話者によって変化し、英語全体に広まったということです。
これは、中国語でも同じことが考えられそうに思います。中国語にも格変化がありません。つまり語順が大事になります。SOVを捨て、SVOになったことが考えられます。
中国の周辺国で、日本語・朝鮮語・モンゴル語など語順が似た国が多いです。つまりもともとアジアではどこもSOVであったのが、中国とその近辺が突然変異的にSVOになったのではと思います。中国語が特別で周辺の地域の言語は古い時代を残していると思います。
人類の歴史では、アフリカで生まれ、中東に渡り、さらに東に向かいモンゴロイドとなり、西に向かったのがコーカソイド。バイカル湖付近に至った北方モンゴロイドは寒冷地の季候に順応して短足胴長鼻ペチャの特等を持つようになったといわれています。1万年以上昔の話です。アジアに北方モンゴロイドの人たちが祖語的な言語と共に広まったと考えれば、大野晋氏の日本語タミル語起源説も、時代をさかのぼればありうる話です。直接日本にやってきたと考えにくいですが、共通祖語から分かれたとすればありえます。
あと、日本語で語順というのはかなり強固な感じがします。単語とかはどんどん輸入されたものが広がります。しかし、昔から中国から漢文が入り、今も英語が入ってきていますが、語順については、受け付けていないような気がします。ほかの中国周辺の地域も同様で、強固なSVOが残っていると思います。
参考:図がこちらにあります。今となってはちょっとあやしいですが。

2020年7月21日火曜日

道切りと感染症

道切りですが、村(地域)の出入り口にあたる道や辻で行われる民俗習慣のひとつ。疫病などの災厄が村に入ることを防ぎための習俗。辻切り(つじぎり)とも称される。とのことです。
最近まで各地にあった習俗のようです。何をしてるのか良くわかりませんでしたが、今思えば、感染症を災いとして危機意識を持っていて、現在の国境か県境かで封鎖するイメージのものであったんだということです。いつからか不明ですが、現在では、感染症の恐れを忘れてしまっていて、長い歴史の中で、人々は常に感染症の恐れを持っていたはずですが、医学の進歩とかを過大評価してしまい、これが抜け落ちた気がしてきました。律令体制の崩壊から戦国時代の後の統一まで感染症の克服が出来なかったことがあったのかもしれません。遣唐使の廃止とか江戸時代の鎖国とか、感染症対策であったという話を聞いたことがなかったのですが、ありうるのではと思ってきました。
今は店に入るときに、入口で手の消毒をします。これも神社とかに手水舎があって浄めるのと同じような気がします。神社とかは奈良時代前後から形式が整えられてきているはずで天然痘とかの対策になっていたことが考えられます。方違え(かたたがえ、かたちがえ)とかも、外出や造作、宮中の政、戦の開始などの際、その方角の吉凶を占い、その方角が悪いといったん別の方向に出かけ、目的地の方角が悪い方角にならないようにした。とのことで、外国から入獄した場合にホテルとかで二週間ほど様子を見るというのと似ています。昔はおかしな事をしているなと思ってましたが、合理性のある行動であったかもしれません。

2020年7月11日土曜日

北国の春 ミャオ語

どうして現れたのかわかりませんが、YouTubeで出てきました。
まったく違和感がありません。古い時代の先祖が日本人と同じような気がしてきます。
感覚的なものですが。
北国の春 ミャオ語
中国の少数民族版とのことです。ミャオ語の歌のようです。歌っている人が上手なのか
歌詞が良いのかわかりませんが、まったく違和感を感じません。
文字化された言葉では通じなくても、実際に話されている言葉では通じそうな気が
あらためてしてきます。
他にもありましたが、ミャオ語が一番しっくりします。

北国の春(チベット語)
<北国の春>のモンゴル語版

2020年7月7日火曜日

賀茂斎院跡(櫟谷七野神社)


「いちいだにななのじんじゃ」と読みます。
葵祭の斎王(代)行列発祥の地で、この地は平安時代から鎌倉時代にかけて賀茂社に奉仕する斎内親王、即ち斎王が身を清めて住まわれた御所(斎院)のあった場所であり、このあたりが紫野と呼ばれていたため、『紫野斎院」とも称された。とホームページにあります。






 
 
都名所図会の七野社では鳥居が木造のようで、現在は石造になっていて場所も図の右手に移動していますが、本社の前の石の階段とかはそのままのようです。
 
都名所図会では、上加茂社・下加茂社ともに天武天皇白鳳5年の造営とあって、時代的には加茂と天武天皇の結びつきを示しているようです。しかも、地図で見ると、賀茂斎院跡と下鴨神社が東西に位置し、京都盆地の中で良い場所にあるように思います。賀茂川に沿っては出雲の地名が残っており、出雲の影響を強く感じます。
賀茂祭(葵祭:あおいまつり、正式には賀茂祭)という賀茂氏と朝廷の行事では、賀茂祭の翌日、斎王 (いつきのみこ) が上社から紫野の斎院に帰ること・またはその行列を【祭の帰さ】というらしく、これも見物の対象であったとあります。地図で位置関係がわかると思います。
 
 



2020年6月18日木曜日

天平の疫病大流行

最近、新型コロナウイルス関連で、感染症についての番組を見ることが多くなりました。
東大寺の大仏も、天平の疫病大流行の後、建立されたとの説があることを知りました。
ウィキペディア「天平の疫病大流行」を見ています。
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735年から737年にかけて奈良時代の日本で発生した天然痘の流行。ある推計によれば、当時の日本の総人口の25–35パーセントにあたる、100万–150万人が感染により死亡したとされている。天然痘は735年に九州で発生したのち全国に広がり、首都である平城京でも大量の感染者を出した。737年6月には疫病の蔓延によって朝廷の政務が停止される事態となり、国政を担っていた藤原四兄弟も全員が感染によって病死した。天然痘の流行は738年1月までにほぼ終息したが、日本の政治と経済、および宗教に及ぼした影響は大きかった。
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とあります。藤原四兄弟が全員死亡したとのことで、致死率が25-35パーセントというのは低いのではないか思いました。エクセルで計算してみました。間違ってはないと思います。合計は100%で、小数点以下が実際はあるのでほぼ100%ということです。

表は下に行くほど致死率の増加によって0-4人死亡の割合をパーセントで示しています。致死率10%では、四兄弟だれも死なない可能性が66%ということです。致死率が20%になればだれも死なない41%、1人死亡が41%になります。致死率30%では1人死亡が41%となります。致死率50%では2人死亡が38%となります。当たり前ですが、4人×致死率50%=2人で、計算しなくてもわかりますが。4人死亡の普通にありえるのは80%ぐらいかなと思います。ウィキの致死率が25-35パーセントですが平均として30%を考えると四兄弟死亡はわずか1%になり、信じがたい低い数値です。致死率50%はありうると思います。天平文化が花開いた時代のように思っていましたが、異常な時代で、この時代のいろいろ説明のつかない事象も天然痘の影響で説明ができそうな気がしてきました。律令体制の崩壊も、天然痘の流行が原因となったのかもしれないです。

2020年6月14日日曜日

祖先たちの遥かな旅路、ヘウレーカ!

元の番組は
又吉直樹のヘウレーカ! 「僕はどこからきたのですか?」
2018年10月31日(水)
午後10:00~午後10:43
篠田謙一先生の解説
父は沖縄、母は奄美大島出身の又吉。では祖父母や曾祖父母はどこの人で、僕のルーツはどこにある?今回、採取した又吉のだ液から“祖先たちの遥かな旅路”が見えてきた!
再放送で見ました。人類起源はアフリカで、又吉さんの遺伝子解析でルーツが示されていました。
母方と父方の遺伝子を調べることができるそうですが、
番組のなかで、アフリカから日本へ至るルートが示されていました。

左の赤丸がアフリカ、東に進みます。下に続く。

インドくらいからで3方向から日本へ到着


一枚目がアフリカからで、二枚目が日本にたどりつく部分です。番組では、地球儀でくるくる回って表示されました。母系のルーツとのことです。注目すべきは赤のラインがほぼ海岸沿いを通っているように見えることです。古代においては海洋ルートが重要であったということを示しているように思われます。メモ書きです。

2020年6月5日金曜日

マヤ遺跡のニュース

日経新聞令和2年6月4日朝刊の記事、最大・最古のマヤ遺跡か
が掲載されていました。樹木に覆われた遺跡を上空からレーザーを照射して測量したといいます。
日経の図のコピーを示します。図では右下が北の方角です。太陽は左から右に移動します。

今回の発見された大基壇は祭事に利用とされていますが記事ではよくわかりません。
英科学誌ネイチャーに発表されたということで、見てみると何となくわかってきました。
中央の細い筋が見えますが、これがプラットホームで、南北方向に位置しています。その右手、西側に四角推のようなものがあり、ここがビューポイントとなり、日の出がプラットホームの端に来た時に冬至や夏至がわかります。古代の人にとっても1年の移り変わりを正確に知ることは重要なことであったと思います。そのために大掛かりな遺跡が生まれたのだと思いました。
下の図はネイチャーより

ネイチャー

マヤ文明は、一つの帝国でなく、都市を拠点に多くの王朝が共存していたと記事の解説にあり、一つの都市国家では、このような施設がむつかしく、連合の象徴的なものとして建設され、決定されたカレンダーのようなものが、それぞれの都市国家に伝達されたと想像されます。
古代ギリシャも都市国家の集まりであったので、初期の国家は、どこでも都市国家の集まりであったということで、日本も7世紀でも都市国家の集まりだったと考えられなくもないので、参考になります。

2020年5月29日金曜日

海上国造《うなかみのくにのみやつこ》他田日奉部直神護解案

正倉院文書、石山紙背文書にあり、以下は
『古代史料を読む 上 律令国家編』、佐藤信・小口雅史編、同成社、2018年を見ています。
この文書は、平城京左京七条の住人である下級官人が、任官のために用意した自薦書で、内容はこの本では、原文のコピーと読み下し文があります。
抜書きすると
上総国海上郡(現在の千葉県香取郡付近)の大領(郡司の長官)の職に就くことを願い出るもので、父祖の履歴を書き連ねている。難波の朝廷(孝徳朝)の祖父、飛鳥の朝廷から藤原朝廷(天武・持統朝)に仕えた父、奈良の朝廷(元明・元正・聖武朝)の兄のことを述べています。
 この文書からの理解では、律令制が整備されるのと官僚制度が確立するのとは対応していると考えられ、大領が継続的に引き継がれていることは、大まかな政治体制(孝徳から聖武まで)は変化していないことになります。しかし遷都と代替わりが合っていること、天智朝の時代が抜けていること、上総国が都から離れているので、中央のトップが変わっても地方は影響を受けにくかったかもしれないので、官僚組織は政治勢力が変わっても維持されたと考えます。

2020年5月27日水曜日

戸籍の歴史と政権

 安土桃山時代の太閤検地という年貢を取り立てるための制度があります。戸籍に相当するものになります。その前の戦国時代とかでも統一されてはなかったと思われますが、あったはずです。次の江戸時代には太閤検地は引き継がれず、宗門人別帳とかになりました。戸籍制度は政治体制が変わることで引き継がれないことが考えられます。逆に言えば、戸籍制度が新しくなれば政治体制が変化したことになると想像できます。孝徳朝の時の大化の改新の詔で、「戸籍・計帳」の作成が命じられたということから、何らかのものがあり、天智朝の時代に庚午年籍、持統朝では庚寅年籍となります。政治体制の刷新とともに新しく戸籍が作られるように思えます。つまり、孝徳朝・天智朝・持統朝は別物と考えるべきであろうということになります。

2020年5月22日金曜日

能勢街道と古墳の位置関係の図

 能勢街道のところですが、今ある道が昔から残っていると思っていましたが、かなり違っていました。戦後とかに新しく道路ができてきて、この能勢街道も寸断されているようです。しかしながら古墳の場所は昔の能勢街道の部分のようです。1920年代の地図ではつながっているようです。


 図は大阪教育大の国土地理院からの地図です。池田市の一部を持ってきました。1923年の地図のようです。Aの鳥居が二子塚古墳です。稲荷社が祀られています。Bが五社神社にある八塚古墳です。ウィキには、墳形は円形と推定され(かつては上円下方墳とされた)、とありました。水色の線が箕面川、茶色の線が能勢街道のつもりです。赤の線は池田市の境界線です。地図で見ると左手の夫婦池など2個ですが、4個ではで池が田んぼの形になるように見えます。昔は池が多くて、田の形に並んだ池があったのかもしれません。妄想が進みますが、地図内では井口堂とあります(茶色と水色の交点付近)。この井口は条里制の入り口という意味で(井は縦と横の二本線で条里制の区画をイメージした文字)、箕面川を基準に条里制が開発されたことを想像させます。とするとこの中にため池を作るとすれば方形になり、池は条里制の遺構と考えられます。
関係ないですが、石橋駅が近くあります。この地名の石橋は箕面川に石の橋がかかっていて地名になったのでではなく、近くの用水路のような川にかかっていた石棺のふたの部分のような大きさの石橋に由来するらしいです。

地図の出所

追記:R020530
池の田ですが、四個並んで田の形は無理かも知れません。池は集中してあるよりも分散して配置された方が効率的に思います。四個からの配水であれば、池の四辺が利用できる方が良いので、夫婦池でも効率が悪そうに思えます。なぜ、この配置になったかも分かりません。田の形のところに四角い池が造られたということで池田の地名が生まれたと考える方が自然に思われて来ました。

2020年5月19日火曜日

能勢街道と古墳

 能勢街道(のせかいどう)は、大阪府大阪市北区中津1丁目から池田市を経て妙見山の能勢妙見堂に至る旧街道。池田や能勢で産する酒や衣類、木材が当街道によって大坂へ運ばれ、更には能勢から奥に続く丹波国の米、栗、炭、銀、銅などの搬出路でもあった。また終着地の能勢妙見をはじめ、沿道には服部天神宮、東光院(萩の寺)、原田神社、多田神社など社寺が並び、街道の途中から入った中山寺、勝尾寺などを含めての参拝路としても賑わいを見せた。
 ところで岡町から池田まで、古くは刀根山(現在の大阪大学豊中キャンパス南方)回りの山道を通っていた。この坂が急で物資運搬に支障をきたすため、明治27年(1894年)に現在の阪急豊中駅付近から石橋にかけ、比較的平坦な新道が開かれた。これを「新能勢街道」といい、現在の国道176号ルートとほぼ同じである。 とウィキペディアにあります。

 写真は能勢街道の折れまがりの場所で、道標に右大坂とあります。「新能勢街道」のつけ替えの場所のような気がします。角の建物が建替えで現在取り壊したため見通しがよくなりました。奥の方に緑の木々が見えますが、古墳です。二子塚古墳の看板があります。古墳がランドマークとして能勢街道の横にあると思いました。ところが、能勢街道を池田市の方に進んでいくと、尊鉢厄神(そんぱちやくじん)と呼ばれるお寺があり、近くに鉢塚古墳(現在、五社神社のところ)があります。
ウィキペディアでは
 この鉢塚古墳は、古墳時代後期-終末期の6世紀末-7世紀初頭頃の築造と推定される。猪名川東岸地域では二子塚古墳(池田市井口堂、6世紀前半)から1世代の空白を経て(ただし二子塚古墳の未調査石室が空白を埋める可能性がある)築造された首長墓と位置づけられ、当該時期の猪名川西岸の首長墓である白鳥塚古墳(中山寺古墳、宝塚市)とともに大和の石室と共通性が認められる点で特色を示す。
とあります。今も古墳時代の石室を見学させてもらえます。入口からのぞき込むぐらいしか出来ませんが、内部には石造の十三重塔?があり、鎌倉時代のものとされ、今もお供えとか見えたので宗教的な儀式が行なわれているようです。ということは、古墳時代も何らかの宗教儀礼が行なわれ、今に至るまで続いているのかもしれません。のぞき込むだけで内部の詳細はわかりませんが、高さは五メートルほどあるようで、単なる石棺を納める空間ではありません。埋葬されたときでも近親者による埋葬儀礼が行なわれていたことが想像されます。高松塚古墳のような壮麗な空間があったかもしれません。横からの写真で見ると、古墳があった場所に、古墳を残しつつ継続して神社として祭祀の施設となったように思われます。古墳宗教から律令時代の神道に変化しても(日本の国の体制は激変しても)、地域の支配体制は変化がなかったと妄想できます。
竹藪のところが鉢塚古墳、その左側が神社の建物

 能勢街道のこの部分に偶然に古墳が連なったのではなく、古墳をつなぐ道としてあったように思われて来ました。古墳は今は遺跡としての認識になっていますが、当時の人にとってはお墓です。つまりこの場所で埋葬儀礼のような祭祀が行なわれていた場所です。有力者の埋葬であって、家族葬のような身内で行なうものでなく、近隣の有力者も参列したはずです。そのため辺鄙な場所では人が集まれず祭祀儀礼が行えないことになります。アクセスできないと話になりません。これらの古墳は猪名川流域・箕面川流域にあり、遠方からは舟で到達出来そうですが、古墳時代にも少なくとも能勢街道のこの部分は遠来からの有力者に恥ずかしいものでないように古墳の直近の道路は整備されていたことが考えられます。二子塚古墳と鉢塚古墳も、時代は違っても同一のルートとして参列者の往来に利用されたことが想像されます。
 古墳と関係では、能勢街道のルートにある原田神社も関係あるかもしれません。原田神社の社伝によると、桜塚古墳群の故地に4世紀中から5世紀末頃創建されたとされ、古代には素戔嗚尊など五神をまつり祇園神社と称した。とウィキにあり神社の前の時代は古墳であって、能勢街道の起源は古墳時代に遡ることが考えられます。
 古墳は海岸沿いや川沿いのよく見えるところにあり、権威の象徴であると聞いていましたが、古代では陸路は整備されておらず、水上交通により往来があったとすれば、大きな古墳ほどアクセスしやすい場所にあったとも考えられます。影響力の大きい有力者であれば葬儀に集まる人も多くなり、前方後円墳で、方形に祭壇が設けられたとすれば、多くの人数を収容するために巨大化していくことになります(鉢塚古墳は上円下方墳とのこと)。

追記:R021111
能勢街道の付け替えられた部分は記述してるところではないようです。
(史跡をたずねて 能勢街道の風景、瀧健三編著、ドニエプル出版より)
元々は阪急宝塚線の豊中駅を北に向かいますが、明治の新能勢街道はここから阪急沿線に沿って北西に進みます。勘違いした稲荷山古墳(二子塚古墳)のところは元々あったようです。西国街道から能勢街道に進むバイパスのような道であったということです。今も171号線のバイパスがあるので昔もあったということでしょう。

2020年5月9日土曜日

古代の宗教について


 

 今まで、頭の中では、狛犬と神社が結びついており、寺と狛犬が関係のないものだという認識でした。寺に狛犬があってもそれは神仏習合の名残だと考えていました。
 しかし、法隆寺金堂の壁画を見ると、その中の第10号壁薬師浄土図などでは下方に左右一対の獅子が描かれています。おそらく狛犬の原点のように思われます。7世紀後半の神道は仏教の影響を受けて、生まれたという気がしてきました。もともと日本には、古墳宗教的なものがあり、その後、仏教が導入され、律令制の整備とともに仏教を取り込んだ神道がうまれたもののうまくいかず、再度、遣唐使などで仏教が取り入れられ、国家仏教となり、その後は神仏習合の体制になったのではとの流れです。前方後円墳の終息時期が各地で異なるのも、古墳は埋葬儀礼であって一つの文化であり、政治体制は急激に変わっても、各地域の文化的な意識は変わらず、旧世代が残った地域では、世代の交代が進むまでは埋葬儀礼の変化などが緩やかであったと考えられます。思い付きですが、神社もそれほど古くないかもしれません。

 




2020年5月8日金曜日

法隆寺金堂壁画

 たまたま録画していた、NHKの日曜美術館4月12日放送の「法隆寺の至宝〜金堂壁画をよみがえらせた人々〜」 を見ました。昭和24年1月27日金堂からの出火で壁画は焼け落ちてしまった。しかし多くの画家が模写しており、また火災前の写真が残されていて復原されたそうです。
 多くの人が壁画の模写に取り組んだのにはなにかしらのものがあったと思います。
 新型コロナウイルスにより、特別展「法隆寺金堂壁画と百済観音」が中止になりました。内容についてはよくわかりませんが、そのブログなどが紹介されています。
 画像データについては
東京大学総合研究博物館にありました。
 法隆寺は建物の方には興味があったのですが、壁画については無知でした。壁画の写真では細かいところはわかりませんが、きわめて精緻であるよに見えます。法隆寺が国家的プロジェクトとしてあり、その迫力が現代までも続いているのだと思います。
 田口 榮一の解説記事の中に、「制作年代は、天智の火災後の伽藍復興の中での 金堂の中心的意義を考えるとき、 火災後あまり降らない7世紀80〜90年代として大過ないのではあるまいか。」とあり、7世紀後半の国家統一の時代のシンボルとして法隆寺があったことが想像されます。

2020年4月29日水曜日

「日本人の起源」探るゲノムの記事

日経新聞2020年4月22日朝刊文化面にあります。
縄文人や弥生人もゲノム(全遺伝情報)の解読を通じて「日本人」の成り立ちを探る研究が進んでいる。そのプロジェクト「ヤポネシアゲノム」が紹介されており、「2重構造モデル」が定説とされると書いてあります。このあたりよくわかっていませんが、プロジェクトの季刊誌「ヤポネシアン」の2020年3月号に「クラウドファンディングによる古代出雲人DNAの解析」が載ったと書いてます。(8ページくらいから)
この中で「三段階渡来モデル」を検証していくとあり、この説は
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斎藤教授は日本列島への渡来の波は大きく三段階あると提唱する。
第1波は縄文人の祖先か、縄文人。第2波の渡来民は『海の民』で日本語の祖語をもたらした人たちではないか。弥生時代が過ぎ、7世紀後半に白村江の戦いで百済が滅亡し、大勢の人たちが日本に移ってきた時期を第3波としている。第2波が徐福船団、第3波が秦氏一族の技術集団が渡来した時期と符合する。
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のようです。7世紀後半が重要な時代であるので、古墳時代の解明が進めば、出雲の存在がどのようなものであったかわかってくると思います。メモ書きです。

2020年4月22日水曜日

遷都と宗教

 大まかに、藤原京→平城京→平安京と遷都されます。藤原京から平城京へは、遣唐使によって、唐の影響が強くなったと思われ、宮城の場所が、北の方に移動します。そして仏教が鎮護国家思想のもとに強化されます。感覚的ですが、藤原京では神道(ちょっと自信がなく道教的なものもあったかもしれない)から平城京の仏教に変化したように見えます。この時代も祭政一致の時代ですが、その元となる宗教が変化していると思われます。天武天皇から持統天皇は神道(道教?このあたり全然理解していません)であり、文武天皇からは仏教になります。称徳天皇(孝謙天皇の重祚)の時には神仏習合が進んでいますが、平安時代になりはっきりとします。天武天皇の時代から持統天皇~称徳天皇へと変質してきた体制に神道的な勢力と考えられる賀茂氏や出雲の勢力が平安京遷都に大きな役割を果たしたという気がします。京都の地名に出雲路がつくところがあります。これは出雲への道を示すものと考えられます。

 わかりにくい図ですが、下鴨神社から西側(図の左方向)に賀茂川を渡る橋が出雲路橋です。この賀茂川に沿った道が、加茂街道で、道沿いに出雲路のつく地名があり、この道が出雲路であったと思われます。ついでですが、賀茂川を上っていくと雲ケ畑と言う地名のところがあります。この「雲」は分かる人には出雲の意味だと分かっていたのではないかと思います(注1)。出雲路は、平安京遷都の時代から出雲へのルートとして存在し、出雲の勢力が遷都に関与していたことの印になると思います(注2)。「畑」は秦氏であるとまでは言えるかはわかりませんが、「出雲のはたけ」的には考えられます。平安京遷都において、奈良仏教を受け入れなかったのも出雲の勢力との結びつきから考えられそうです。
注1
平安時代の「口遊《くちずさみ》」に当時の大きな建物として「雲太、和二、三京」とあり、1位が出雲大社、2位が東大寺大仏、3位が平安京の大極殿ということのようです。大きさについてはわかりませんが、意識として、出雲・奈良・京都を考えていて、出雲をトップにもってきています。出雲の復権がはかられた結果であるように感じます。
注2
『ウィキペディア(Wikipedia)』より
雲ケ畑(くもがはた)は、京都市北区の鴨川(賀茂川)源流域の名称で、同地域にかつて存在した愛宕郡雲ケ畑村(くもがはたむら)があった。
雲ケ畑の名前の由来
岩屋山志明院ゆかりの薬王菩薩が降臨し、疫病退散のためこの付近に薬草を植えた。その草花の咲き誇り、香りたなびく様子が、まるで「紫雲」のようであったとの伝承説がある。他に、出雲氏の作った集落「出雲ケ畑」の「出」が取れたとする説も残る。雲ケ畑の畑は、秦氏と関係があるという説もある。

2020年4月14日火曜日

出雲について

 最近、出雲に興味を持っています。このブログでも今までも書いていますが、
飛んでいるところもあります。一応、出雲についての令和元年九月時点の考えを
下記jpgで示します。現在でもそれほど考えに変化はありません。メモ書きです。
 投稿原稿として作成しましたが、書き直しを求められ、少し手直ししましたが
挫折しました。
 最初は「安田」とアマテラスのことから復習です。長屋王の変はどうかと思われる方もおられるとは思います。天武天皇の時代になり、出雲の国譲りが行なわれ、神社の関係で出雲と天武天皇の勢力が強く結びついたが、持統天皇の時代には弱まったとの認識です。この文章では、仏教について述べていませんが、日本書紀の成立した時代には主となり、神道は従になっていくことになります。



















2020年4月12日日曜日

天皇と仏教

 大宝二年の中国と日本で記述しましたが、遣唐使が朝貢使であり、当時の日本を説明したものが日本書紀であったとすると、中国の仏教的な世界観を意識したものになったと考えられます。天皇の仏教への関わりがどうかを見ておきたいと思いました。
・舒明天皇
 仏教的な記述はほとんどないが、十一年十二月に百済川の傍らに九重塔を建立、十二年五月に設斎(仏事のことらしい)を行い、恵隠僧《えおんほうし》を招請して、無量寿経を説かせた。とあります。十三年十月に崩御されるので、申し訳程度の記述になっています。
・皇極天皇
 皇極元年に、秋七月に、諸社《もろもろのやしろ》を神を祭るが効果なしとて、蘇我大臣が仏教により雨を祈願したが、微雨であったので、読経は中止になり、八月に天皇は南淵に行幸し、祈ったところ大雨になったとあります。これは神道的なものと思われます。ところが天皇は九月には大寺を建立しようとあります。蘇我氏の滅亡に至る過程を記述するため混乱しているように見えます。皇極三年、中臣鎌足は神祇伯《かむつかさのかみ》を固辞して任につかずとあり、潤色とのことです。七月には、大生部多《おほふべのおほ》が村人に常世の神を祭ることを勧め、そのため貧困になったので、秦河勝が討ったとあります。そして、理解しがたい話の後に、蘇我氏滅亡の項になります。天皇は軽皇子に皇位をお譲りになり、中大兄を皇太子とされます。皇極天皇も仏教にそれほど関与していないように描かれています。
 仏法を尊び、神道を軽んじられたとはっきりと記述されます。実際には神道的な部分が含まれているようです。
・斉明天皇
 皇極天皇が皇極天皇は譲位し、また重祚して斉明天皇になられています。斉明元年五月に、竜に乗って空飛ぶ者が西に向かって馳せ去ったとあり、よいイメージではありません。斉明三年には須弥山の像を飛鳥寺の西に作り、また盂蘭盆会を営んだとあります。後半には百済滅亡から百済救援の話になり、天皇の征西で朝倉宮に遷り、崩御されます。この時に朝倉山に鬼が現われ、喪儀を見守ったとあります。仏教にそれほどの関与はなさそうな記述です。
・天智天皇
 皇太子時代で称制と百済救援の話で、仏教はでてきません。白村江の敗戦の後ですが、天智六年に近江に遷都。天智七年に天皇に即位。仏教的な話は出てきませんが、天智十年十月に諸々の珍宝を法興寺の仏に奉納された。とあります。十二月には近江宮で崩御されたとあります。
・天武天皇
 天文・遁甲にすぐれておられたとあります。遁甲とは術数の一種、陰陽の変化に乗じて人目をくらまし身体を隠し、吉を取り凶を避ける術。最初の部分ではあまり仏教とは関係なさそうですが、出家して吉野に入るとあるのでそうでもないように記述されます。天武二年三月に、書生を集めて、初めて一切経を川原寺で写させた。四月には、大来皇女《おおくのひめみこ》を天照大神宮《あまてらすおほみかみのみや》に遣わして仕えさせようとお考えになり、泊瀨斎宮《はつせのいつきのみや》に住まわせた。とあります。十二月には神官の語が見える。これは大宝令制の神祇官の前身宮司とのこと。これ以降、神仏が混ざっているように思われます。最後の方は、やはり神道ではなく仏教的な記述が多くなるように感じます。
・持統天皇
 特に、神仏については述べられていませんが、天武天皇のために、無遮大会《むしゃだいえ》を五寺、大官・飛鳥・川原・小墾田豊浦・坂田で営んだ。とあります。無遮大会は全ての人に布施する仏事で、この後も仏教を前提とする話になっています。持統四年の即位の時には、神祇伯中臣大島朝臣が天神寿詞《あまつかみのよごと》を読んだ。とあり、神事であるようです。しかしながら持統五年二月には天皇は「天武天皇の時代には仏殿・経蔵を造って、毎月六斎を行なった。・・我が世もそのようにしたい。それゆえ誠心誠意仏法を信奉せよ」と仰せられた。とあります(朱鳥元年一二月)。これ以降は見ていませんが、基本的には仏教を取り入れているというアピール感はあります。

パラパラと次の本を見ています。
『日本書紀➂』、新編日本古典文学全集4、一九九九年第一版第二刷発行、小学館
 

2020年4月9日木曜日

舒明天皇

 推古天皇を継いだ天皇です。以前に推古天皇=持統天皇、舒明天皇=文武天皇ではないかと考えていましたが、日本書紀を見ていませんでした。推古天皇の皇太子豊聡耳尊が薨去された。その後、天皇が崩御され、天皇の後継が決まっていなかった中で、舒明天皇になった皇位継承の話が主として述べられています。おそらくこれは、持統天皇から文武天皇への皇位継承がスムーズに行かなかったことを反映していると思われます。業績については簡潔に述べられているようです。舒明天皇八年秋七月に、卯の時(午前五時)に参朝、巳時(午前九時)に退朝させよとあります。 『隋書』倭国伝に「倭王、天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未だ明けざる時に、出でて政を聴き、跏趺して座す。日出づれば便ち停む。・・・を意識してあわしていると思われます。
 重要なのは、皇后の宝皇女が、二男一女をお生みになり、それが天智天皇・間人皇女(孝徳天皇皇后)・天武天皇であるということです。舒明天皇の「舒」の意味は、「のべる。のばす。のびる。ひろげる」で例として「舒巻」「舒展」があるようですが、名前の通りこの天皇から皇統の展開が明らかになると淡海三船は意味づけたことが考えられます。書紀の意図する歴史、壮大なフィクションが始まるとしているように思われてきます。

2020年3月31日火曜日

祭政一致と仏教

 祭政一致とは、祭祀と政治とが一体化していること。祭政一致の祭は、「まつり」であり宗教を意味する。政は「まつりごと」、政治を意味する。ということです。
古い原始時代のことに思っていましたがそうでもないような気がしてきました。
『古代日中関係史』、河上麻由子、中公新書2533、2019年3月を見ています。
 この本の第2章に梁の武帝(在位五〇二~五四九)が信仰心から菩薩戒を受けていて、捨身(帝位を退く)→涅槃業解説→還御(帝位に戻る)→大赦・改元をして、仏教による国家の結集を図ったという、高度に政治的な行為であったという(p。55)。周辺諸国は、中国に対し、仏教を活かした朝貢を行なうということである(p。57)。というようなことが書かれています。これは、仏教による祭政一致であろうと思われます。ということは、日本での仏教公伝というものも、単なる宗教の伝播ではなく政治体制に直結した仏教による同盟国家生成のものであったことが考えられます。
 六〇〇年の遣隋使の時には日本側には仏教の雰囲気はありません。隋書東夷伝、倭国条には
「倭王は天を以て兄とし、日を以て弟とし、夜明け前に出でて政務をとり、跏趺《かふ》して座し、日が昇ると政務を停め、『我が弟にゆだねよう』と言っております」と説明し、高祖(文帝)は「たいへん義理(道理)のないことである」と言ったとのことである。この本には、日中でやりとりに誤解があったかもしれないが、仏教色は希薄であると書いてあります(p.69)。この時代(七世紀まで)の日本が原始宗教的であるように思われ、仏教公伝が五三八年とか五五二年とかにあったとは考えられません。
 六〇七年の遣隋使には仏教を受容するものになったようです。ここで、鴻臚卿(鴻臚寺の長官。寺だが、外国使節の接待および朝貢などをつかさどった役所のこと)が出てきますが(p.76)、「寺=役所」であれば、これは仏教を取り込んだ祭政一致の社会のような気がします。
 孝謙天皇の時の遣唐使では、鑑真を招き、聖武太上天皇・光明皇大后・孝謙天皇たちは菩薩戒を受けている。3人の受戒は、唐の皇帝たちが、鑑真の師匠筋の僧侶から菩薩戒を受けたことを先例とするとあります(P.162)。日本でも、祭政一致が完全に仏教に変化しています。
 平安時代に、神仏習合というものが現れますが、これは遣唐使を廃止し、唐の影響が小さくなってから段々と広がっていったことに対応していて、「唐の支配=仏教の支配」が神道派の盛り返しで、成立しなくなったと考えられるのかもしれません。

2020年3月27日金曜日

大宝二年の中国と日本

 大宝二年の遣唐使というのは正確ではないとのことです。当時、中国の王朝名が唐から周に変わっており、中国唯一の女性皇帝、則天武后(在位六九〇~七〇五)に使者達は驚愕したという(『続日本紀』慶雲元年七月甲申条)。
『古代日中関係史』、河上麻由子、中公新書2533、2019年3月、一三五頁ぐらいからを見ています。
 遣唐使が則天武后に国号を「日本」と改めたい願い出て、それを許可されたとある。この日本の意味であるが、かっては太陽の昇るところを意味し、唐に対する対等ないしは超越を主張したとの通説があった。それが当時の唐では中国から見た極東を示す言葉にすぎず、この「日本」は、中国の世界観を受け入れることで、唐(大周)の国際秩序に極東から参加する国としての立場を明示する国号であった(東野治之)。これは、多分東野治之「日本国号の研究動向と課題」、(『史料学深訪』岩波書店、二〇一五年、初出二〇一三年にあると思われます。決して唐への対等、優越を示したものではなかった。
ということのようです。
 一四三頁には、天皇一代に一度派遣される傾向が強い。山尾幸久が主張したように、遣唐使には「外交権」を掌握する天皇の一代一度の事業としての側面があったと認められてよいのではあるまいか。使者の任命が、天皇の即位からほどなくして、ないしは皇位継承者が決定した時点であることが多いのも注目に値する。遣唐使が天皇の代替わりと関連して派遣されたとすれば、これはまさしく朝貢国にふさわしい態度である。・・・とあります。
山尾説は、これも多分ですが、
山尾幸久、「遣唐使」(井上光貞ほか編『東アジア世界における日本古代史講座6 日本律令国家と東アジア』学生社、一九八二年)のことだろうと思います。
 則天武后の時代が持統天皇(在位六九〇~六九七)と重なります。『日本書紀』での持統天皇の神格化でアマテラスが生まれたのも、遣唐使の影響を受けたからではという気がします。日本書紀は中国の唐向けということになります。その後も、女性の天皇が多く出てきますが、則天武后の影響が大きく、続いたような気もします。聖武天皇の時代も実際は不安定であって、遣唐使を通じた唐の権威を頼らなければ成立しない時代であったかもしれません。

2020年3月23日月曜日

若宮八幡宮 (京都市山科区) のご祭神

 若宮八幡宮(わかみやはちまんぐう)という名前の神社は日本全国にあり、若宮八幡神社(わかみやはちまんじんじゃ)や若宮八幡社(わかみやはちまんしゃ)、若宮八幡宮社(わかみやはちまんぐうしゃ)と称する神社もある。 社名の通り「八幡宮の若宮」という意味で、多くは宇佐神宮・石清水八幡宮・鶴岡八幡宮などにある若宮を勧請し、八幡神・応神天皇の御子神である仁徳天皇(大鷦鷯尊)を祀るものである。他に、「八幡宮本宮から迎えた新宮」の意味の「若宮」もあり、この場合は応神天皇が祀られている。
 こちらの若宮八幡宮(わかみや-はんちまんぐう)は、音羽森廻り町(おとわ-もりまわりちょう)にある)。祭神は 第16代・仁徳天皇(にんとく-てんのう)、第15代・応神天皇(おうじん てんのう)、神功皇后(じんぐう-こうごう)、須佐之男命(すさのおのみこと)、第40代・天武天皇(てんむ-てんのう)の5神を祀る。
追加して須佐之男命と天武天皇が祀られている。須佐之男命=天武天皇と考えるものにとっては一つの証拠のように思える。境内には宝篋印塔(供養塔)2基が立てられている。右は大津皇子、左は粟津王の墓とされる。写真参照



これらは、後世の鎌倉時代後期(室町時代初期とも)のものという。この宝篋印塔は、粟津家末裔により立てられたという。上図左の粟津王はよく見ると、右の宝篋印塔と比べて基礎の部分にほかの宝篋印塔のパーツを持ってきていてさかさまに据えられ間に合わせ感が強い。粟津王のために制作されたものとはいいがたい。粟津王が大津皇子の子であることも不明であって(コロナウイルスのため図書館で調べ物ができないので確認できない)、もやもやは強い。もちろん宝篋印塔が天武天皇の時代にはなく後世のものであるので、信用度は低いとは思われる。あえて考えれば、出雲神社の須佐之男命が合祀され、そこに出雲に関係した天武天皇の子孫を意識した粟津氏がやってきて若宮八幡宮が生まれたと考えられなくはない。天武天皇と出雲のつながりがあってこの神社の祭神が構成されたかもしれない。神社には粟津姓の提灯があり、まったくのでたらめの話ではないようにも思われる。須佐之男命=天武天皇を示すものはほかにもあるかもしれない。

2020年3月20日金曜日

遣唐使と政治状況

 遣唐使は日本から中国の唐に派遣した使節であるが、中国の先進的な技術や政治・文化、ならびに仏教の経典等の収集が目的とされた。とされます。そうであろうかという気がしてきました。
 大宝二年(七〇二)の遣唐使の時ぐらいから考えますが、大宝元年の大宝律令施行により、倭国ではなく日本として新しい体制をアピールしたと思われます。この時は文武天皇の時代で、父は草壁皇子で、天皇になってはいません。天武天皇からの直系を考えれば、後継者は他にも多くいて、文武天皇で無くても良かったと思われます。持統天皇の力によって文武天皇が皇位についたものの、反対勢力を無視できにくい状況にあったのではと想像します。文武天皇の正統性をアピールするための手段として、唐のお墨付きを求めたのが遣唐使ではないかという気がしてきます。単なる想像ですが、この遣唐使では日本の主張は思うほどには認められなかった。そして日本の主張をきちんと述べるものとして、古事記が和銅五年(七一二)作られ、これでは駄目だと言うことで日本書紀の原型が作られ、次の遣唐使の養老元年(七一七)で示され、養老四年(七二〇)にまとめられた。と考えることが出来ます。
この時には元正天皇から譲位を霊亀元年(七一五)に受けた元明天皇ですが、万人の納得のいくものでなく微妙なものに思われます。首皇子(聖武天皇)がまだ若いためにつなぎ的に思われます。和銅七年(七一四)には首皇子の立太子(跡継ぎ決定)がありました。つまり他に皇位継承者がいるにもかかわらず、聖武天皇の皇位継承を目指し、皇位を他の系統に譲らないということなので、反発する人も出てくるはずです。唐のお墨付きを得て正統性を主張しようとしているように思えます。
 次の天平五年(七三三)の遣唐使は聖武天皇の時になります。聖武天皇の即位は霊亀元年(七一五)でした。初期には長屋王が政権を担当していましたが、神亀六年(七二九)に長屋王の変が起こります。政権が不安定化したかもしれません。聖武天皇の正統性を訴えるために遣唐使を送り、唐のお墨付きを求めたように思われます。唐からの先進知識などの導入が遣唐使の目的にあったと思いますが、そのタイミングは国内政治に影響を受けていたと感じます。

2020年3月18日水曜日

大化改新の「畿内」

 日本書紀では、大化改新は新生日本をイメージするものとしたいと思っています。
日本のもととなった原始日本の地域であると日本書紀が意識しているとすると(倭国ではない)、
「およそ畿内とは、東は名墾(名張)の横河より以来(こちら側)、南は紀伊の兄山より以来、西は赤石(明石)の櫛淵より以来、北は近江の狭狭波(さざなみ)の合坂山(逢坂山)より以来を、畿内国とす」
と記述しています。つまり、近江や吉備などは含まれていません。その後の時代に他の地域を含めていって、日本が成立したことを暗に示しているように思えてきました。白村江の敗戦のあと(その前の隋の高句麗遠征とかを見ていたかもしれませんが)、小国家の分立ではだめだということで、畿外の国を含めて統一され、実際には文武朝の時代にようやく日本が成立した。しかし理想とする大化改新が、現実に引きずられてしまって畿内が作られた可能性があります。畿外は
どうなのかということになりますが、大化改新で律令制度が完備されたことを示したいので、統一の物語は神話の部分に移されてしまったのではということになります。

2020年3月15日日曜日

孝徳天皇系図

孝徳天皇の系図です。



 推古天皇からあとの世代では、押坂彦人大兄皇子の次に舒明天皇で、皇位継承が一世代とんでいます。舒明天皇は重要でこの天皇がいなければこの後どうなったかわかりません。イメージ的には推古天皇と舒明天皇の関係が、持統天皇に対する文武天皇の関係と似ていて一世代あいています。押坂彦人大兄皇子が草壁皇子にあたります。舒明天皇ですが息長足日広額天皇《おきながたらしひろぬかのすめらみこと》で、「息長」は近江国坂田郡の地名で、天智天皇の近江に勢力圏があったことと合致しています。
 日本書紀は文武天皇の正統性を主張したものとしているので、文武天皇の系図を見ると舒明天皇から異常にまとめられているように見えます。ここでは天武天皇は関係ないとして点線でしめしています。系図で見ると孝徳天皇がワンポイント的な扱いになっていますが、孝徳天皇、天智天皇、天武天皇を別系統と考えた方がすっきりとします。

2020年3月12日木曜日

郡評論争とついでに茅渟王

 乙巳の変により孝徳天皇が即位し、大化二年(646)、改新の詔が発せられた。その中に国司・郡司を設置とある。ところが、発見された木簡では郡ではなく、評であった。書紀の述べることと異なっている。これは、郡と評が並列的に存在したとしておかしいというのでは無く、時代的に異なるとのようである。
 以下の本にあったので、抜書きすると、
郡評論争に決着をつけたのは
藤原宮跡(奈良県橿原市)から出土した木簡であった。文武四年(700)以前の木簡にはすべて「評」と記され、大宝元年(701)以降の木簡には「郡」と記されていた。つまり、大宝律令を境に「評」から「郡」に変わったことが明らかになった。
とある。『日本書紀』では、天地開闢以来続くと主張している文武朝の正統性を、中国の唐に示したいとしているので、制度の変更により政権が変わったと誤解させることを嫌ったと考えられる。逆に言えば、孝徳朝は、文武朝とは全く別物であることを隠したいと考えていたことが考えられる。
  『日本史の論点』、第1章古代論点3、「大化改新はあったのか、なかったのか」、
   倉本一宏、中公新書2500、2018年8月
 上記の本では、大化改新の主導者を中大兄皇子や中臣鎌足としている。孝徳天皇は軽王という呼ばれ、名前の「軽い」イメージで、重要ではない人物のように記述している。日本書紀の印象操作のようにも思えてくる。上記の本でも、父も祖父も即位したわけではない三世王にすぎない。と書いてある。しかしこれも『日本書紀』の作為に思えてくる。大化改新の事業は、乙巳の変で突然出てきたものではなく、ある程度の長期的な計画に基づいていたはずで、孝徳天皇が即位するにあたって、例えば前期難波宮のそれまでのものとは隔絶した宮城が出てくることなど、連続性を持った政治権力であると考えるべきであろうと思われる。傀儡政権的なもので改新政治が行なわれることがあるのかという気がする。何が言いたいかというと、孝徳天皇の父の茅渟王がどのような人物か、『日本書紀』では良くわからないが、業績が隠されているのではと思われる。証拠はないが、遣隋使の返使が、男子王にあったとされているのが推古天皇であったことになっている。私は推古天皇は存在しないとしているので、この時の王が茅渟王か又は彼に近い人物であった可能性を考えられると思う。『日本書紀』では孝徳天皇を改革の関係者に持ってきたが、その元となる茅渟王には触れたくなかったと考えても話として成立するように思う。乙巳の変から大化改新への流れが不自然なのが解決出来るようにも思う。「思う」が連続してるが現時点では思いつきなので仕方がないとは思う。

2020年3月2日月曜日

法隆寺献納宝物(ペルシャ)

 法隆寺には古い白檀や沈香の香木が伝わっていた。現在は東京国立博物館に所蔵されているが、この内、白檀の香木にはパフラヴィ文字とソグド文字の焼印が確認された。
古代史料を読む、上、103ページ
この元となる、遣唐使と正倉院には、中期ペルシャ語後期の書体とあった。
ペルシャと日本のつながりを感じさせるものである。
以前にもこんなことを考えていました。稗田阿礼はペルシャ人2世かもしれません。

平城京の宮廷ではイラン人の役人も勤務していた

古事記の稗田阿礼はインド人か?

2020年2月29日土曜日

天智天皇の実在

 天智天皇の近江大津宮があります。大津市の錦織遺跡が大津宮の遺構と考えられていますが、狭小な地域にあって、発掘された部分も小さく、都とは考えられません。孝徳天皇の前期難波宮跡に較べて見劣りしています。孝徳天皇は実際に実在したと私は考えています。大津宮の規模では、本当に天智天皇がいたのかと疑われますが、そうでは無いであろうと今は思っています。
『古代寺院史の研究』を見てです。その根拠は白鳳寺院の遺跡数です。本の中の表1を抜粋しますが、
白鳳寺院の遺跡数が近江で圧倒的に多くあります。赤字の66のところ。寺院が多いということはその地域が経済的に発展していることを示し、近江大津宮がお粗末だったとしても、白鳳時代に天智天皇が近江にいたとして整合性は取れています。奈良時代になり寺院の数は減っていますが、天智朝が滅んだことと対応していると思います。

2020年2月27日木曜日

大宝という年号

 下記の本に面白いことが書いてあります。木簡では干支年で表記されていたのが、年号の「大宝」が使用されるようになるとのことです。発見された木簡では648年が最古で、干支は60年周期なので、大宝元年(701)にうまく収まっているので年代の特定に楽であると書いてあります。701-60=641。つまり偶然で楽になったように書いてましたが、そうだろうかという気もします。最近では2000年問題で、コンピュータの中の年代が下2桁で表したのが問題であったようですが、この時代も60年問題がおこっていたのかもしれません。
『古代地方木簡の世紀』(財)滋賀県文化財保護協会編、サンライズ出版、2008年12月、37ページ

 人生60年以下の時代では、それ以上の期間の歴史に興味がなかったのか、国の歴史とか考える人がいなかったのか。大宝律令ができるまで、必要とされなかったとすれば、古い時代の歴史はあやふやなものになります。

2020年2月25日火曜日

古代の都

戦国時代からのアナロジーです。
織田信長→豊臣秀吉→徳川家康に対応して
安土城→大阪城→江戸城
のイメージだと思います。徳川家康に注目して
安土城→大阪城→岡崎城→江戸城のように考えてはおかしくなると思います。
城から古代の都を想像しますが、孝徳天皇→天智天皇→天武天皇→持統天皇に対して
難波宮→近江大津宮→飛鳥浄御原宮→藤原京となります。
どう考えても飛鳥浄御原宮は無理があると思われます。
これが成立するためには、孝徳天皇・天智天皇・天武天皇が、織田・豊臣・徳川のように時代が少しずつずれた別の政権グループだと考えるしかないと思います。
難波宮と飛鳥浄御原宮に宮都がスケールダウンしたのは、初期の段階では、元々天武政権の初期段階であったということで、白村江の敗戦のあと、『日本書紀』は正確には記述していないと疑われます。難波宮と天武天皇の関係を隠しているように思われます。
難波宮→近江大津宮への変化は、これから考えていくつもりです。

2020年2月19日水曜日

『日本書紀』の考え方の追加

下記の本からの理解である。
3ページに『日本書紀』の史料的性格について述べられている。
『日本書紀』はこの世の始まりから持統朝までを記述する。全三〇巻。系図一巻が附属していたが失われた。舎人親王の下で編集が行なわれ、元正朝の養老四年(七二〇)に完成、奏上された。とある。また
記述が持統朝までで終わっていることの意味は何か。持統朝の次は文武朝で、文武朝の大宝元年(七〇一)に大宝律令が編纂・施行され、律令国家が名実ともにスタートした。つまり、『日本書紀』はこの世の始まりから律令国家の成立直前までの歴史を総括する、律令国家成立前史なのである。とある。
途中省略するが、
以上のように、『日本書紀』は各部分によって史料的な性格を大きく異にする。したがって、それぞれの扱い方、注意点も異なる。考えようによっては扱いが非常に厄介な史料である。神話は神話として扱わなければならないし、五世紀・六世紀の部分は歴史的事実を慎重に見極めなければならない。また、七世紀の部分は基本線はほぼ歴史的事実にもとづくとはいうものの、それらは国家側の主張。見解であり、中国の古典にもとづく粉飾も認められ、史料批判を厳密に行なう必要がある。
とある。
つまるところ、日本書紀の正統性を主張するのは文武朝であり、それ以前の、孝徳・天智・天武の時代であっても文武朝にとって都合が悪い部分が潤色されるということだと思う。逆に言えば、『日本書紀』と不一致であるところは、遺跡や史料を含めて徹底的に追求しなければいけない。天地開闢以来の歴史を主張する『日本書紀』は、七世紀の部分であっても、基本線は正しいということは言い切れない。
下記の本には、日本霊異記のところで七五ページに長屋王のことが述べられている。
例えば、中巻一縁は長屋王を主人公とする話であるが、そこには「太政大臣正二位長屋親王」と記されている。長屋王は天武天皇の孫であり、天皇の子ではないのでそもそも「親王」は誤りであり、神亀二年(七二四)に正二位左大臣となっているので「太政大臣」も誤りであるとされ、『日本霊異記』のこの説話の事実関係は疑問視されてきた。しかしその後平城京左京三条二坊の長屋王邸から「長屋親王宮鮑大贄十編」と記された木簡が出土したことから、令の規定とは異なり、当時の古代社会では長屋王は「親王」と認識されていたことが判明し、『日本霊異記』の記述が必ずしも誤りではなかったことを証明した。
と書いてある。高市皇子が天皇であれば子である長屋王が親王であることは全然問題ではなく、自然な流れである。『日本書紀』の目的に、持統天皇から文武天皇への正統性を強調することがあるためと思われるが、疑いを持っておかなければならない。

『古代資料を読む 上 律令国家編』
佐藤 信、小口雅史編、(株)同成社、2018年3月発行

2020年2月15日土曜日

白村江の戦いと天智天皇

『日本書紀』は、中国の唐に対して日本の由緒を示すために書かれたものであると考えている。従って、天智2年に朝鮮半島の白村江での戦いで、日本・百済復興軍が唐・新羅の連合軍に負けており、如何に記述するかが重要となってくる。つまり無視することは出来ないし、また日本側に都合良く記述することも許されない。当たり障りの無い扱いで、後の壬申の乱とは扱いが全く異なっている。この戦いの記述は少なく、戦争責任について述べていないように感じるところである。後の時代に、朝鮮での戦いとして、文禄・慶長の役がある。これは秀吉の朝鮮出兵であったが、大失敗であった。秀吉の死後、すぐに撤退が始まっている。結局、戦争責任の追及問題から、五大老・五奉行体制が崩れ、関ヶ原の合戦が起こり、それだけで終わらず、秀吉の子の秀頼の時代に豊臣家が滅亡することで決着がついている。これと同様で、天智天皇にも戦争責任があり、壬申の乱がおこり、最終的に天智天皇の子の大友皇子の近江朝廷が滅亡することで決着がついたとのアナロジーが考えられる。『日本書紀』では、天皇と戦争の関係であるが、斉明天皇が筑紫の朝倉宮で崩御され、この時は天智天皇は、皇太子で称制して、そのままの状態が続き、ようやく天智7年に即位され、形式的には戦争時には天皇はいないことになっていて責任者不在になっている。実質的には白村江の戦いの指揮を天智天皇がとっていると考えられるので、壬申の乱で子の時代に責任をとった形である。天智天皇の時代は多くが隠されて過小評価されているように感じ、実質的にはそうではないように思えてきた。以前のこのブログ記事では、単に皇太子で、戦争担当者にすぎないと考えていた。これは、近江朝廷の都の規模が小さく見え、それほどの勢力ではなく、仮の都のイメージを持ってしまったための間違いである。そうではないであろう。孝徳天皇→天智天皇→天武天皇と続く中で、革新性を引き続いて持っていたはずである。

2020年2月11日火曜日

原始日本語

日本語は、いつ発生したのであろうか。現代の日本語の元になった原始日本語のようなものであろうが。今の日本語についての解説が以下の本に書いてある。
『ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る』、梅森直之編、2007年5月、光文社新書からの発想である。特に第2部は梅森氏が理解しやすいように書かれていてありがたい。
出版資本主義(一四〇頁から)
日本語とは何であろう。日本人が話す言葉が日本語であると信じているが、人によって異なっている。アンダーソンは、雑多な日常の言葉を「俗語」としている。正式な言葉が「標準語」であり、「出版後」であるというのがアンダーソンの考えで、出版が産業として成立するためには市場が必要でそのために作られたものが「国語」であるとのこと。日本人が日本語を話すのではなく、日本語を使うことで日本人になると主張している。毎日、新聞を見る行為は、見知らぬ多くの人との間の繋がりを作り出す儀式だと言っているとのことが書いてあると思う。
これに対して、そうであろうかという気がする(違うかもしれないという気がする)が、この考えは古代の日本において適用できるように思われる。出版というものが古代にあったかは不明であるが、文字の導入が日本語に大きく影響を与えたことは確実と思われる。七世紀ぐらいからの日本をイメージしている。文字を利用しない場合には、コミュニケーションの範囲は小さく、日帰りできるぐらいの領域が国の限界であったような気がする。中央の意思が地方に伝わるためには文字がなければ、人の移動で意思を伝えなければならず、制限されてしまう。古墳時代に国があったとして、文字がなければ、日本全体をまとめるような大きさになるとは考えられない。漢字は表意文字であるが、表音的に利用する万葉仮名のようなものが取り入れられて初めて、国としての管理システムの体裁が整ったと考えられる。それまでは共通化された日本語はなく、七世紀ぐらいから漢字を借りてきた表音文字が使える人が日本人となった(日本の指導者層か?)ということである。従って原始的な日本語でコミュニケーションがうまくとれない状況の中で、冗長性を持たせるために枕詞などが出来たのではないかと想像している。日本語の起源をこの時代に求めたい気持ちがある。
先の著の一四四頁から引用する。
アンダーソンは「クレオール」から国民へということで、一八世紀後半から一九世紀初頭に誕生した新興アメリカ諸国家が、もとはといえばヨーロッパの宗主国によって線引きされた行政上の単位に過ぎなかったことに注意を促す。これらの植民地に生まれ育った人々は、クレオールと呼ばれ、本国出身の人々に対し一段低い立場におかれていた。・・・彼らは本国の役人になるまで出世することはできなかった。・・・
多分、違うとは思われるが、似ているところがあると思われる。本国と植民地の間の接着剤の役目をクレオールが担い、言語も両方が混ざったものになるが、これが万葉仮名などの文字の導入により文字化された日本語がうまれたことに相当したと考えていた。実はこの時代には、上代特殊仮名遣いの問題がある。これは『古事記』、『日本書紀』、『万葉集』などには仮名の使い分けがあり、同じ仮名に例えばキにはキ甲類、キ乙類と二通りのかき分けがある。この時代の大きな変化があり、生じた可能性がある。白村江の戦いのあと、百済人が大量に日本に亡命してきており、大混乱によって日本語が生まれたことを考えていたが、違うかもしれない。「上代特殊仮名遣い(記紀万葉)朝鮮帰化人記述説」があり、単に書き手が理解した風に、百済人のヒアリングで記述しただけで、日本語そのものは変わらず、世代が進めば、渡来人の子も日本化していき、結局上代特殊仮名遣いは消え去ってしまったと言う説がある(下記の本)。同時に述べている「倭王朝渡来王朝説」はどうかと思われるが、百済人が日本に文化大革命を起こしたという部分はそうかと思われる。従って上代特殊仮名遣いの問題は、理解不足で誤解があるだろうが、単なる記述上の問題と当面は考えることとする。
藤井游惟、『白村江敗戦と上代特殊仮名遣い』、2007年10月、株式会社リフレ出版

2020年2月7日金曜日

歴史認識

今までいろいろと書きなぐってきましたが、初心に戻って、考え直してみたいと思います。
前提となる歴史とは何かということについて共通の理解が必要と思われます。例としてファミリーヒストリーを考えてみます。先祖に強盗殺人犯がいたと仮定します。どのように記述されるかといえば、傍系の人であれば、記述されないということがあり得ます。また直系の人であればやむを得ずに強盗殺人犯になったという記述になる可能性があります。先祖に対して美化する方向に記述される可能性を否定できないということです。国の歴史ではどうかといえば、愛国主義的な意図があれば、同様に美化される可能性があります。2020年1月1日、NHKの100分でナショナリズムという番組が放送されました。気付かずに再放送5日にあり、それを見ての発想になります。4人の論客が出てきましたが、その中で大澤真幸氏の話に興味を持ちました。名著としてベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』が示されました。訳本があるので筆者は見ましたが、正直わかりにくい本です。解説本で『ベネディクト・アンダーソン グローバリぜーションを語る』が理解しやすく、筆者はこちらの影響を受けています。番組では、インドネシアが出来たのはオランダの植民地であったという話が出ていました。ベネディクトの本では確かに、インドネシアは多民族・多言語・他宗教であったと記されていて、普通は統一される可能性の低い国です。オランダからの独立運動によってインドネシアが生まれたということで、オランダという外的要因によって国が成立したことになります。さて日本はどうであろうかということです。ここで筆者の考えている日本とは『日本書紀』(以下は書紀)の出来た八世紀の日本をイメージしています。縄文時代の人に「あなたは日本人ですか?」と尋ねることができたとして、「違います。」と答えると思います。インドネシアのオランダに相当するのが、日本では中国の唐になります。唐に対する反発で日本が生まれたと考えます。書紀も、唐に対して、八世紀の日本の正統性を主張するものと理解できます。天地開闢以来の歴史も中国に負けない伝統のある日本を表したものです。しかし唐は日本の話を信じたとは思われません。旧唐書(日本国条)には疑問を持っている状況が記されています。
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日本国は倭国の別種である。その国は日の出るところに近いので、故に日本を以て名としている。あるいはいう、倭国みずからその名の雅(みやび)やかでないのをにくみ、改めて日本としたのである、と。あるいはいう、日本はもと小国だったが、倭国の地を併せたのだ、と。その国の人で入朝(にゅうちょう)する者は、多くみずから矜(きょう)大(だい)(ほこる)で、実を以て対(こた)えない。故に中国はこれを疑っている。
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上の点線部分は、旧唐書(日本国条)
石原道博、『旧唐書倭国日本伝、宋史日本伝・元史日本伝』岩波文庫、一九八六年、九四頁よりの引用
この文書は荒唐無稽のものではなく、意味のあるものとすれば、「日本は新興国家である」と唐は考えていたということです。日本はこれを否定しなければなりません。唐の考えを払拭することが書紀の目標になり、壮大な天地開闢から始まる歴史展開につながります。
一例ですが、日本書紀での大化の改新の時の「郡・評」のおかしな問題がありました。書紀では郡であるのに、木簡では評のものが発見され、食い違いはなぜ生じたのかということです。書紀の編纂者は当然、このことは分かっていても郡にせざるを得なかったということです。違いを記述すれば、評→郡から政権グループが変化したことを示すことになり、天地開闢以来の連続した歴史を持つ日本という書紀の構造が崩れてしまうことを恐れたと思います。逆に言えば、実際の歴史は連続していないことを示しています。
アナロジーになりますが、戦国時代を考えます。織田信長→豊臣秀吉→徳川家康と変化しました。これを織田大王→豊臣大王→徳川大王の3兄弟の政権委譲、関ヶ原の合戦を壬申の乱のようなものだと強引に記述することも可能です。逆に考えると、孝徳天皇、天智天皇、天武天皇、持統天皇、これらは別の政権グループとできます。日本書紀の連続した万世一系の天皇の歴史観を一度離れることが必要と思われます。以前に天智天皇と天武天皇の年齢問題とかありましたが、この議論など時間の無駄であったことになります。
書紀のでたらめに近い歴史観が許されたのも、強大な唐に対抗する手段としてやむなく認められたものと考えます。書紀の講義が日本紀講筵《にほんぎこうえん》として養老5年(721)に行なわれていますが、各個人の対唐との交渉で歴史認識がばらつかないように統一見解を学ぶもののように思われます。くどくなりますが、書紀の七世紀の部分は信頼できるのだろうかと言う問題です。筆者は疑問に思っています。書紀の歴史認識とは異なり、群雄割拠した時代をイメージしています。書紀の七世紀は腐っています。腐った食品の場合はすべて廃棄となりますが、書紀の七世紀を廃棄すれば日本の歴史を記述することができません。腐った部分を取り除いて、利用できる部分を探す作業が必要で、完全に出来るとは思えませんが、おいおい考えていこうということです。
参考
定本想像の共同体、ベネディクト・アンダーソン/白石隆、書籍工房早山、2009年11月
ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る、ベネディクト・アンダーソン/梅森直之、光文社、2007年05月20日

2020年2月4日火曜日

酒の強さの遺伝子から日本の起源がわかる?

NHKスペシャル、食の起源 第4集「酒」を見ました。
その中で、人類は酒に強くなる遺伝子を獲得したのだが、
その後、突然変異で、モンゴロイド人種の中で酒に弱い人が現れ、
それが中国人、朝鮮人、日本人に多いということでした。
番組では、酒に弱い人の比率が
中国:52%、日本:44%、韓国:30%
となっていたが、資料の出所がわかりません。ネットで見ると
酒の強さは遺伝子で決まる」 に図がありました。

アジアの一部の地域に酒に弱い人がいるのがわかります。
日本の中でも図がありましたが、わかりにくかったので、ちがう表を示します。地域の差は
それぞれの地域が成立した状況を示していると思います。
酒に弱い県の表では、7世紀に百済などから渡来人がやってきた地域に多いように感じます。
縄文人・弥生人の違いにまでさかのぼらなくてよいのではと思います。


この表の出所は「飲酒と健康-アルコール体質検査と飲酒の功罪-
です。この中には国別の比率の表があります。

地域の取り方によって変わってくるとは
思いますが、中国→朝鮮→日本の前提があるようですが、中国→日本の可能性もあります。