2020年11月21日土曜日

美濃国の戸籍と天武天皇(渡来人?)

 正倉院展の展示の御野国味蜂間郡春部里戸籍についての続きです。

1の文献九七頁に、「安八磨(安八・味蜂間)」郡名の由来があります。

大海人皇子は、壬申の乱の時に、安八磨郡の湯沐令に軍兵を起こせと指示したということです。これが不破の道の封鎖につながります。この湯沐令は湯沐の管理する者のことで、湯沐とはこの場合、大海人皇子の直轄地のようで、大海人皇子の軍事的・経済的拠点であったようです。さて郡名の「安八磨」ですが、「アンパチ」・「アハチマ」・「アハチ」・「アハツマ」などと読まれるが、2には「アハツマ」と傍訓が振られているという(未確認)。「アズマ」(東・東国)が「アガツマ」となり、訛って「アハツマ」となったとする。つまり「安八磨」は「アズマ」(東・東国)と呼ばれたことに由来するのではということです。

日本書紀天智四年春には近江国神前郡に百済の百姓男女四百人余りを住まわせ、天智四年冬に百済の男女二千人余りを東国(あづまのくに)に住まわせたとあります。唐・新羅との戦いを主導した天智天皇は自己の領域の近江国に難民を引き取ったのですが、人数が多いので、東国に配置したということです。この東国は単に美濃国と私は思っていましたが、もう少し具体化すると安八磨郡ではないかという気がしてきました。正倉院展で展示された味蜂間郡の戸籍にあった辛国という人物ですが、百済からの難民の子であるとして、一人だけで無く、この地域が百済難民の置かれた地域であったことが考えられます。特権的にこの地域を与えられた大海人皇子は百済難民グループと近い関係にあったことになります。もう少し言えば、百済難民の代表者であったと考えておく必要があります。壬申の乱は天智天皇に対する戦後処理の不満により引き起こされたものですが、この地域の軍事的組織が保たれた百済難民の支持により成功したクーデターのように思えます。天武天皇は天智天皇とはまったく異質な人で、兄弟なんかではなく渡来人だったと思った方が理解しやすいと思います。最初はそれほどの支持は得られず、小規模な飛鳥浄御原宮から始まりますが、その後、各地域国家の支持を得て(強権的なものとは思いますが)、勢力拡大し、藤原京に遷都したのではと想像します。

1.『地図と歴史空間』ー足利健亮先生追悼論文集ー

大明堂発行、平成12年8月10日

2.新訂増補国史大系本『日本書紀』後編310頁


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