今回もまた正倉院展に出かけてきました。初めての日時指定券ということでどうなるかと思いましたが、人数制限のおかげでゆっくりと見ることができました。古文書では、長門国正税帳には疫病が流行った様子が記されていて、今の新型コロナみたいに大変な時代であったようです。大仏もこういう時代だからこそ建立されたのに、どうして天平時代が繁栄を謳歌してような楽観的な時代と考えてしまったのかと思います。
戸籍に注目していますが、今年は美濃国の戸籍が展示されていました。残念ながら安田の名字の痕跡は皆無でした。戸籍と安田という名字はつながらないということで、あきらめるしかないのかもしれません。今後の課題です。
今回見ていて、春日辛国の戸籍に、母らしき人物がいて、吉島賣母春部飯手賣年86老女(細かいところ間違いあるかもしれません)とあって、長老的な人のように思われました。戸籍が大宝二年(七〇二)ですので、数えとかで違うかもしれませんが、616年生まれになります。白村江の戦いが663年ですので、この時は47歳で、昔を伝える生き字引になっとぃたのではと思われます。辛国は戸籍の年齢が36歳で、666年生まれです。白村江の戦いの後世代の人です。辛国は朝鮮、具体的には百済難民の子であって、出自を明確に示すために辛国を名乗ったのではと思われます。いざとなればまた朝鮮に戻ろうという親の意思が示されていると想像されます。他の人をみると戸主で六人部加利の年が80です。白村江の戦いの時には40過ぎです。百済難民として考えても矛盾はありません。戸籍には子供が多いので戦後の第2次のベビーブームになっているのかもしれません。戸主の年齢ですが40代が目立たないような気がします。白村江の戦いの時の年代が断絶していて、百済難民の人たちが戸籍に現れている可能性はあると思います。
追記:R021113
美濃国の戸籍について
戸籍について、イメージとして、現在の戸籍と変わらないと思っていましたが、違うような気がしてきます。美濃国の戸籍が百済難民のものと仮定しての話です。百済から日本へ逃れてきて、2000人以上のレベルの人たちです。想像ですが、現在の水害とか台風とかで避難所に入る人に対し、食料の支給とかおそらく家族単位ではなくもう少し大きいグループに対しまとめて行なわれるはずです。家族単位に食料が分配されるのではなくもっと大きい50人とかの単位になると思われます。グループ長に中の分配をまかせた方が効率よくなります。百済難民が美濃国に配置されたとして、その間はグループ単位で行動があったと思います。陸路を経て、美濃国に着いたのではなく、瀬戸内海や琵琶湖の湖上を介して移動したと想像されます。道を荷車で移動したのでは無いだろうということです。全員が一度に移動したのではなくて、舟を何度も往復させたと思います。舟の定員が決まっているので、グループ化すれば効率よく移送できます。
ある程度の集団にまとまることが必要とされたということで、美濃国でも家族単位ではなく、一定のグループとしての活動が食糧生産のための新田開発になったはずで、戸籍も家族単位ではなくて、大家族に擬制したものとして残ったと考えられます。いざという時のためを考えた名簿リストであったとすれば(白村江の戦いの後も反攻することも考えた)、戦時体制的なシステムと考えられます。
つまり律令制というのは戦時体制が意識にあったとすれば、この戸籍は不自然なシステムであって、戦争の脅威がなくなれば、成立しにくくなります。それぞれの戸としての名称は、結局は律令制の崩壊とともに消え去る運命にあった。こう考えれば、戸籍に出てくる名前に安田が無くても良いんじゃないかと思えます。戸籍の原点が、百済難民の名簿リストにあった可能性を頭に入れておきたいと思います。
追記:R021120
聞き慣れない名字であっても消え去るばかりではないということなので、結局は律令制の崩壊とともに消え去ったとまではわかりません。『地図と歴史空間』という足利先生追悼論文集の田島公氏の考察中に美濃国安八郡からわかれた池田郡に伊福部(五百木部)の部民の存在があると書いてます。
正倉院展の展示の戸籍では六人部(むとべ)とあって、今はこんな名前はないと思ってましたが、五百木部(いおきべ)は今もあります。防衛大学校の元校長で、五百旗頭姓の人がいて、木が旗に変わっていますが、現在に名前が残っています。日経新聞、私の履歴書2019.2.4に名前の由来について述べられています。抜粋すると
徳川時代には姫路藩士だった。本家に残る「永代過去帳」には18世紀初めの三代目以降の家系図が記されている。「藩の度量衡の検査監督を一家にて司り」と父が書き残したように、藩の技術官僚であった。・・・「五百旗頭」を初めから読める人は稀(まれ)である。京大生だった私は司馬遼太郎さん宅を初めて訪ねた時、紙切れに姓名を書いて渡した。苦もなく読み下したので、誰かこの姓の人を知ってたのか尋ねた。「そうやない。昔、尾張あたりに五百木部一族がいた。戦国時代に一旗あげようと、字を強そうな五百旗頭に変えて暴れたんやないかと思った」という。図書館へ行って、太田亮「姓氏家系大辞典」を開くと、なるほど「尾張家の一分家に五百木部があり、一時期隆盛を誇り、仲哀天皇に娘を出してその子を産んだ。が、その後の乱で負け側について四散した」とあった。もともと、イオキ(ベ)の音には、五百木、五百旗だけでなく、伊福、伊吹など多くの漢字が当てられ、もとは同じだったという。鉄を溶かすため高温を得るには吹く必要があり、鉄文明導入に関わった一族との説もあるが、よく分からない。とあります。
伊吹山も、鉄砲の国友村も近くにあり、美濃国と尾張国も近いので、「五百旗頭」という名字も、律令体制の時代から読みとして続くものであろうかと考えられます。よって美濃国戸籍の名字が消えてしまうと断定まではできません。数のつく名前がリーダーとしての名前で、これが戸籍用の名前であり、対して安田は戸籍に出てきそうにない名前で、見つけるのは難しいと思っています。
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