2020年10月23日金曜日

高砂と阿蘇

 謡曲の「高砂」の中に阿蘇が出てくる。

内容は、相生の松によって夫婦の和合と長寿を祝福し、またその常磐の松を象徴として、和歌の道の繁栄、すなわち国の平安の永遠をことほぐ(日本古典文学全集58、小学館)とのこと。阿蘇神社の神主が播州高砂の浦にやってきて、老夫婦(高砂と住吉の松の精)と出会うことから始まる。住吉は古今集、高砂は万葉集をあらわすとのことである。ここで阿蘇神社の神官がなぜ出てくるかと言うことが不思議に思われる。神社は古墳時代から律令制の時代に変わるときに生まれたものであり、ヤマトの勢力に対し、火の国(阿蘇)から国の繁栄を祝う使者がやってきた言い伝えを世阿弥が取り込んだものかと最初は思われた。しかしあまりに妄想的な考えで、実際には、世阿弥の時代に阿蘇神社が古式ある神社と認識されていて阿蘇神社が取り込まれたことは十分あり得ると思われる。

式内社調査報告書第二十四巻西海編に肥後国の神社が取上げられている。阿蘇神社はないが、その元となった三社が記されている。この阿蘇三神は健磐龍命神社《タケイハタツノ》、阿蘇比咩神社《アソヒメと読むらしい》、國造神社《クニツクリまたはクツクリ》である。前の二社は今は無いらしい。健磐龍命神社であるが、神階の記録では、承和七年(840)四月、従四位下勲五等が従四位上、同年七月に従三位、嘉祥三年(850)十月に正三位、仁寿元年(851)従二位、そして最後には貞観元年(859)正月二十七日で正二位を奉授してゐる。・・・

古今集成立が延喜五年(905)と言われることから、健磐龍命神社の進階と時代的には合っている。鎌倉時代には健磐龍命神社や阿蘇比咩神社も阿蘇社として合祀された絵図があると書いてある。阿蘇社としても問題無さそうである。高砂に阿蘇神社が出てくるのも、でたらめな話ではなくなる。また國造神社は北宮と呼ばれ阿蘇社の北にあるとのことである。神社説明では、この地域には数多くの古墳群があると書いてあり、長目塚古墳は全長百二十九米で県下最大とのことである。この地域でも、古墳時代から律令制の時代へかわり、神社が造られ、祭祀が神道的なものに連続的に移行していったことが考えられる。高砂は室町の時代のものではあるが、祭政一致の時代のイメージを再現しようと世阿弥が考えていて、古今集の時代を想定したものであるが、都に地方から言祝ぎに出向く話は、もっと古い時代のものが残っているかもしれない。

追記:R021210
奈良時代~平安時代にかけて有力な神社の神職が笏(束帯着用の際、右手に持つ細長い板)が認められたという。承和年間に認められた健磐龍命神社(阿蘇神社)は、同時期の阿蘇山の火山活動が影響していたと見られる。その山上に神霊池があり、その枯渇に対応しているからである(『続日本紀後』)。とありました。『古代の神社と神職、神をまつる人びと』、加瀬直弥著、吉川弘文館、平成三十年六月一日発行。
阿蘇山の噴火が恐れられていたことで、古い時代の噴火の記憶が残っていたのかもしれません。

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