2022年2月27日日曜日

安政の大地震

 安政では安政の大獄が浮かびますが、安政の大地震もかなりのものであったようです。
『すごろくで学ぶ安政の大地震』石川寛 (監修), 平井 敬 (著)、風媒社 (2021/11/30)
に双六で解説がありました。 安政の大地震とは、安政元年(1854)に冬の安政東海地震と、翌日の安政南海地震のことです。別の日ですが、一体のものとして考えられています。マグニチュード8.4と推定されているとして、死者数千人の被害で、翌安政2年には江戸に安政江戸地震が起こっています。

相次ぐ災害や討幕運動に加えて外国からの開国圧力にさらされた幕府は疲弊し、やがて時代は明治維新へと向かいます。

とのことです。地震はなまずが起こすとしても外敵に相当するので、当時、攘夷運動が起こっても当然のような気がします。安政地震の復興に幕府はかなりの負担になったことも想像されます。幕府は対応がとれなくなってしまったということです。公武合体、大政奉還、江戸城無血開城など、幕府の軟弱さを感じてましたが、安政の大地震で自滅したと考えることもできそうに思われます。しかし、幕末の歴史では、安政の大地震が重要な歴史とされず、無視されてしまってると感じました。明治政府がすごいのではなく、江戸幕府が弱体化してるだけかもしれません。

地震調査研究推進本部というのがあるようです。そこに以下の図があります。

南海トラフで発生する地震の図、過去の地震の発生状況 

図の下が安政の大地震ですが、一番上の684白鳳(天武)地震の赤線があります。七世紀当時の政治経済に影響を与えた可能性もあるのでメモっておきます(地震で体制崩壊もありうるので)。

ウィキペディアに安政の大地震があります。 

2022年2月25日金曜日

乙巳の変の影響

 藤原不比等の日本書紀 にて、乙巳の変が創作されました。

この内容はかなりの問題を持っています。蘇我入鹿が誤っていたとして問答無用で成敗してることになっています。正しければテロ行為であっても許されるということを認めています。『日本書紀』は養老4年(720年)です。天平元年(729)に、長屋王の変が起こります。これは

長屋王が秘かに左道(邪道。ここでは妖術)を学び国家(天皇)を倒そうとしています」と密告した。(『続日本紀(上) 全現代語訳 (講談社学術文庫)』宇治谷 孟296頁)

これにより、長屋王および関連する人が自殺しています。問答無用で成敗されています。これはきびしいシステムです。自分では正しいと思っていても、正しくないとされれば上位・下位関係なく殺されるということです。 『続日本紀』天平10年(738年)の秋7月に、これは問題であったということがかいてあります。

ウィキペディアの長屋王の変からの引用です

事件から十年ほどたった天平10年(738年)の秋、左兵庫少属従八位下大伴宿禰子虫が、上記の長屋王の誣告者である右兵庫頭外従五位下の中臣宮処東人を刀で斬り殺す、という事件があった。子虫は当初長屋王に仕えていて、すごぶる厚遇を受けていた。この時、たまたま東人と相並ぶ官司(左兵庫と右兵庫)に任命されていた。政事の間にともに囲碁をしていた(当時、官人や僧侶の間で囲碁はよく行われており、正倉院にも東大寺献物帳所載の木画紫檀棊局などが現存している[43])。話が長屋王のことに及んだので、憤って罵り、遂には剣を抜き、斬り殺してしまった。

『続日本紀』は「誣告」という語を用いており(闘訟律40条逸文には、謀反および大逆を誣告したものは斬刑であるとの記述がある[44])、長屋王の事件が『続紀』編纂の時代には冤罪であることが公然のものになっていた、ということである[45]。

律令体制のためにはテロも辞さないという藤原不比等の意思が反映されているように感じました。

天平元年の4月

舎人親王が朝堂に参入する時、諸司の官人は親王のため座席をおりて、敬意を表するに及ばない(理由不明)。(『続日本紀(上) 全現代語訳 (講談社学術文庫)』宇治谷 孟301頁)

が気になります。

2022年2月24日木曜日

藤原不比等の日本書紀

 『続日本紀』によれば、『日本書紀』は、養老4年(720年)5月に完成したと伝わる。同年8月に藤原不比等没とあります。『日本書紀』は不比等の遺言のように思えてきます。不比等は律令体制の整備に携わります。養老律令の編纂作業に取りかかるが養老4年(720年)に施行を前に病死とのことです(このあたりウィキペディアより)。 養老年間は元正天皇の時代で、元明天皇から譲位されています。即位の時の詔ですが、理由が弱いように感じました。イメージとしては、邪馬台国の卑弥呼から壹與(台与、いよ、とよ)の時代を想像させます。律令の時代にそぐわないものと不比等が考えたと妄想します。 霊亀2年(716)2月の出雲臣果安の神賀事《かんよごと》で出雲の貢献を述べていますが強気です。同年4月に和泉監《いずみのげん》の設置ものちに廃止されますが、既得権益の勢力に妥協していて、倭国大乱を避けようとしているように思われます。何とかしなくてはという不比等の考えでは、天武天皇の時代の残存勢力の排除、持統朝の確立が養老年間の課題であったと思われます。最初は、『日本書紀』は『古事記』のようなものが考えていたのが、この養老年間の様子を見て、急遽、大幅改訂されたのが、現在の『日本書紀』ではないかと想像されます。歴史では持統朝の前に天武朝があります。この優位を覆すためには、天武朝の前に持統朝の正統性を示す天智天皇の活躍が必要です。そこで、持統天皇の父と、不比等の父、中臣鎌足を持ってきて、乙巳の変・大化の改新の話を作りだしたということです。この神話によって、持統天皇の優位性が示されます。しかし、まだこれだけでは十分ではないのです。『古事記』を利用するため、『日本書紀』との接続をスムーズにする必要があります。『古事記』に出てくる推古天皇は元々持統天皇でしたが、これを、元正天皇と不比等のイメージで語らせたと思われます。不比等の理想の政治の世界が描かれているとして良いと思います。『日本書紀』の展開は不比等のアイデアで大幅変更されます。実際には分担して編纂され、意見の集約とかなく、異論があれば併記し、完成を急いでいたように感じられます。全体の流れは、不比等しか知らなかったかもしれません。『日本書紀』に対する反発は大きかったはずですが、このあたりはまだわかってません。

昔のブログ記事です。 現時点でのまとめ 

2022年2月21日月曜日

続日本紀と乙巳の変

 続日本紀の中に「乙巳の変」の痕跡が感じません。
『続日本紀(上) 全現代語訳 (講談社学術文庫)』、宇治谷 孟、講談社 (1992/6/10)を見ています。

続日本紀の天皇即位の詔でも、天智天皇のことは出てきますが、「乙巳の変」とか述べていないようです。一番単純な考えは乙巳の変がなかったとすることです。文武天皇、元明天皇、元正天皇の時代は、『日本書紀』の編纂過程で、まだ反映されていなかったと思えます。大伴旅人が九州遠征に出かけ、これを神武東征に結びつけたのと同様に、藤原不比等も祖先を大化の改新に結びつけた、これが715-720年ころの状況を示しているということです。もちろん、天智天皇も乙巳の変がなく、白村江の敗戦の時代からはじまれば、単なる戦争犯罪人になってしまいます。天智天皇が親である持統天皇のにとってもよくないでしょう。『日本書紀』に乙巳の変を入れることは大きな意味があります。養老四年(720)の不比等の薨去記事には

大臣は近江朝廷《おうみのみかど》の内大臣・大織冠(天智三年に定めた二十六階の最高位)であった鎌足の第二子である。

さらっと記述されていて、『続日本紀』の編纂者にも乙巳の変は頭にないように思われます。


2022年2月20日日曜日

続日本紀の天皇即位の詔

 詔の中で、どのような天皇が引用されるのかメモです。 文武天皇元年(697)  持統天皇から受け継いだとあります。 元明天皇(707)  持統天皇から文武天皇に、譲位されたことが述べられ、天智天皇の不改常典の話が出て、文武から 譲られて元明天皇になったということです。 元正天皇(715)  先帝の命により受け継ぐとあります。  他の天皇は出てこないです。 聖武天皇(724)  高天の原から始まり、『日本書紀』をふまえたものになっています。ということで、この時点で、持統天皇(アマテラス)が優位、天武天皇(スサノオ)の下位が確定しています。また天智天皇が出てきます。持統天皇の前は天武天皇であったという反論に対し、その前の天智天皇を強調することで、持統天皇と関係の無い天武天皇の皇孫を除外しています。

全体を通して、天皇の詔に天武天皇が出てこず、外しています。理由は不明ですが、聖武天皇の時代に持統系以外の天武系の排除(長屋王か?)が示されているように思われます。 こうして見ると、元正天皇の時が一番微妙です。持統天皇のことも述べていません。反持統天皇派を刺激しないようにしているように見えます。元正天皇の時の年号の養老も美濃国の行幸からできています。壬申の乱の天武天皇が滞在した場所です。何かしらの意味があるように思えます。 その後、長屋王の変、舎人親王に敬意を表するに及ばない(729)などあり、天平に年号が変わり、持統朝が確定するようです。『日本書紀』(720)は聖武天皇即位のためのものであった気もしてきます。

『続日本紀(上) 全現代語訳 (講談社学術文庫)』、宇治谷 孟、講談社 (1992/6/10)を見ています。

2022年2月19日土曜日

続日本紀の斉明天皇

 『続日本紀』(しょくにほんぎ)は、平安時代初期に編纂された勅撰史書。『日本書紀』に続く六国史の第二にあたる。文武天皇元年(697年)から桓武天皇の延暦10年(791年)まで95年間の歴史を扱っています(ウィキペディアなど)。位階の記事が多く、誰がどうなったかとか注目する人にとっては有益ですが、そうでなければつまらないです。一部の人物の死亡記事に簡単な略伝がついているものがあります。どのような人だったか傾向がわかります。

『続日本紀(上) 全現代語訳 (講談社学術文庫)』、宇治谷 孟、講談社 (1992/6/10)を見ていて、注目は天皇との関係を記した薨去の記事です。孝徳天皇、天智天皇、天武天皇の名などが出てきます。しかし、斉明天皇の関係者は出てきていないようです。さっと見ただけで自信はないですが、ほぼないと言えると思います。厳密に見てなくて、斉明天皇の墓の記事を見落とすところでしたが、文武天皇3年10月条に、

天下の有罪の人々を赦免する。ただし十悪と強盗・窃盗の者は赦免に入れない。越智山陵《おちのみささぎ》(斉明天皇陵、大和国高市郡)と山科《やましな》山稜(天智天皇陵、山城国宇治郡)とを造営しようとするからである。(25頁)

天平14年5月

越智山陵《おちのみささぎ》(斉明天皇陵、大和国高市郡)が長さ十一丈・広さ五丈二尺にわたって崩壊した。・・・修理させた。・・・(420頁)

墓が実在しても、斉明天皇の存在感は『続日本紀』にはありません。中大兄皇子の称制は、書紀の作り事だと考えているので、当たり前のことですが、『続日本紀』もそう言ってるように思えます。

2022年2月17日木曜日

ヤマトタケルの東国遠征

 『蝦夷の古代史(読みなおす日本史) 』工藤 雅樹 、吉川弘文館 (2019/6/1) の31頁に 古墳文化が東北に及んだが、抵抗もあったという文脈で書かれています。

朝廷の軍勢は出陣した雰囲気は、ヤマトタケル(『日本書紀』では日本武尊、『古事記』では倭建命と記す)の物語からも想像できる。ヤマトタケルの物語ではヤマトタケルは先に九州の熊襲《くまそ》を討ち、その後で東国遠征を行ったことになっている。そして、東国遠征の物語も『日本書紀』と『古事記』で内容に差があり、『古事記』では遠征の対象は東方十二道(東国のこと)の「荒ぶる神」「まつろはぬ人ども」、すなわち東日本方面の朝廷にしたがわない人たちになっているのに対し、『日本書紀』では、東夷、とりわけ蝦夷を遠征の主たる対象とする物語になっている。

『古事記』と『日本書紀』の違いは何かというと、作成されたのが712年と720年で時代差があります。この8年で東国から東北に勢力範囲が拡大したことでの違いが、それぞれに反映されているのではと想像されます。『日本書紀』は中国の唐に日本をアピールするためのものです。版図が大きいことを示す必要があったのでしょう。そうして考えると、神武東征で九州を出発点にしたのも、目一杯に西方の版図を示そうとしていたことになります。

2022年2月16日水曜日

草薙剣

 『蝦夷の古代史(読みなおす日本史) 』工藤 雅樹 、吉川弘文館 (2019/6/1) の32頁に景行天皇の皇子ヤマトタケルの東国遠征の話があります。草薙剣は草那芸剣です。

ヤマトタケルは始めに伊勢神宮(三重県)に行き、姨《おば》の倭比売命《やまとひめのみこと》から草那芸剣《くさなぎのつるぎ》などを与えられて東国に向かった。草那芸剣とは神話でスサノオノミコトがヤマトノオロチを退治したときに、オロチの尾から出てきたもので、スサノオがそれをアマテラスに献上し、それがいわゆる三種の神器の一つとして皇室に伝来したという由来が語られる。朝廷にとっては由緒のある剣である。

その後、ヤマトタケルは尾張国造の祖、美夜受比売《みやずひめ》の家に到り、帰りにまた立ち寄って結婚することを約して東国に向かい、相武(相模)国に到った。・・・

スサノオを天武天皇、アマテラスを持統天皇とすると草那芸剣の移動が実体にあってきます。

天武天皇の時代に、出雲で草那芸剣を得て、これが持統天皇に伝わり、この持統天皇の時代に混乱があり、伊勢神宮に移されたということで、刀とともに政権の移譲を示しているのだと思いました。ヤマトタケルが草那芸剣を美夜受比売のもとに戻すのも節刀のイメージです。神話もかなり八世紀前半の時代の歴史認識を表しているように思います。

2022年2月15日火曜日

大伴旅人の帰京と軍防令

 養老四年(720)、隼人の乱に対して、大伴旅人らを派遣、藤原不比等の薨去で旅人も呼び戻すなど対応が速い印象を持ちます。

和銅五年(712)正月二十三日、河内国高安の烽≪とぶひ≫(のろし台)を廃止し、初めて高見烽と大倭国春日烽を設け、平城≪なら≫に連絡を通じさせた。『続日本紀(上)全現代語訳 (講談社学術文庫) 』、宇治谷 孟 、講談社 (1992/6/10)

のろしによって九州まで知らされたとおもいます。実態がよくわかりませんでしたが、軍防令について、以下にありました。のろしの規定がきちんと決まっています。これで詳細が想像されます。ネットの有り難さです。

第十七 軍防令 全76条中52〜76条 

66 置烽条
67 烽昼夜条
68 有賊入境条
69 烽長条
70 配烽子条
71 置烽処条
72 火炬条
73 (放烟貯備条)
74 応火筒条
75 白日放烟条
76 放烽条

以下は抜き書きのメモです。

○66 置烽条
間隔は距離40里(約21km)を原則、見やすいように。・・・

○67 烽昼夜条
昼夜で、昼は烟〔えん〕(煙)を放ち、夜は火を放つ。応答がない場合は脚力で連絡

○68 有賊入境条
賊があって境に侵入したときに烽を放つ場合、賊衆の多少、烽の数の節級(1〜4炬)はいずれも別式に依ること。

○69 烽長条
烽には長を2人置くこと。・・・

○70 配烽子条
烽には、それぞれ烽子を4人配置すること。もし丁がないところでは、いずれも次丁を取ること。近いところから順に遠いところへと(烽子候補を)及ばせること。均分して(2人1組で)当番に配置すること。順番に勤務・非番すること。

○71 置烽処条
烽を置くところの火炬〔かこ〕(発火材)は、それぞれの距離25歩(約44.5m)。もし山が険しく土地が狭いことがあって、25歩を満たすことができないところでは、照応するに明確であるようにすること。必ずしも距離の遠近を限定してはならない。

○72 火炬条
火炬は、乾燥した葦を芯にすること。・・・

○73 (放烟貯備条)
烟を放つために準備しておくものとして、艾〔よもぎ〕、藁、生柴(生木)等を採収し、それらを混ぜ合わせて烟を放つこと。・・・

○74 応火筒条
(後方からの)火に応答する火筒は、もし(通報が)東に向かっているならば、応じる烽の筒口は西に開くこと。もし西に向かっているならば、応じる筒口は東に開くこと。南北もこれに準じること。

○75 白日放烟条
昼に烟を放ち、夜に火を放つときには、まず筒の裏を見ること。到着した報せを確実に錯覚してないと確認してから、然る後に応答すること。もし昼に天が曇り、霧が起こって、烟を眺めても見えないような場合は、すぐに脚力を走らせて、互いに前方の烽に通告すること。霧が開けたところでは、式に依って烟を放つこと。烽を置いてあるところでは、烽の周囲2里(約1km)にわたって、みだりに烟火を放ってはならない。

○76 放烽条
烽を放つにあたって、違漏(烽の数を間違える、野焼きを見間違えて烽を放つ等の類)があったなら、元に放ったところ、伝報を失ってしまった状況を、速やかに所在の国司に報告すること。検察して事実がわかったならば、駅(やく)を発して奏聞すること。

非常に厳密です。本当であれば、信頼性が高い通信手段です。都の情勢などもすぐに伝わったと思います。

2022年2月14日月曜日

神武東征の道臣命

 道臣命ですが、ウィキペディアでは

道臣命(みちのおみのみこと)は、記紀に登場する古代日本の人物。初名は日臣命(ひのおみのみこと)。天忍日命(あまのおしひのみこと)の後裔で大伴氏の祖。神武天皇の東征の先鋒を務め、神武天皇即位の際には宮門の警衛を務めた。

とあります。書紀では、よく地名とかの由来が述べられますが、元々の名前があって、無理矢理に後付けしているように思われます。ということで、大伴氏の道臣命も、書紀編纂の時代に「道」関係であったと想像されます。

大伴旅人ですが、養老四年、隼人の反乱で、征隼人持節大将軍になりますが、藤原不比等の薨去により都へ召喚されます。この時点で戦いはまだ続いているので、直接には戦闘に関わっていない役割であったように思われます。万葉集に養老年間に常陸国に現れる大伴卿を大伴旅人とする説があります(『大伴旅人(309) (人物叢書 新装版)』鉄野 昌弘 、吉川弘文館 (2021/3/10)の10-13頁に紹介されています)。これは陸奥に対する後方支援の任務のように思われます。

兵站路の確保が大伴旅人の役割とすれば、これが神武東征での道臣命につながります。実績が反映されていることになります。神武東征についてますます大伴氏の関与を感じてきます。

2022年2月13日日曜日

蘇我蝦夷の名前

 『蝦夷の古代史』、工藤 雅樹、 吉川弘文館 (2019/6/1)

の中に、エミシの名前について

三 強く、恐ろしく、かつ畏敬すべき「エミシ」
「エミシ」という語のもともとの厳密な意味はもはや知りえない。だが、神武紀の歌謡の内容から推し量ると、「エミシ」という語には「強く、恐ろしく、かつ畏敬すべき人たち」というニュアンスがあったと考えられる。「エミシ」を毛人と記すようになった飛鳥時代や奈良時代の中央の有力者のなかにも、蘇我毛人(そがのえみし)(蘇我馬子の子、大化の改新で倒された蘇我入鹿の父で、舒明・皇極朝の大臣(おおおみ))、小野毛人(遣隋使であった小野妹子の子)、佐伯今毛人(東大寺の造営に活躍)など、多くの「エミシ」という名前の人物が存在することからも、もともとは「エミシ」という語は蔑称ではなく、中央貴族の名前としてもふさわしい語義だったことが推測できる。

とあります。書紀の神武紀ですが、大伴旅人の関与が疑われます。時代的に書紀の成立の七二〇年は蝦夷の反乱の時期と重なります。この時には、時節征夷将軍などを朝廷は任命しています。畏敬すべき意味があったとは思えません。毛人であれば、「エミシ」と読んでもニュアンスは違うはずです。藤原宇合という人物ですが、馬養から宇合に改名しています。馬飼とかでも良いと考える人もいたかもしれませんが、嫌う人もいたはずです。毛人も同様で蝦夷とでは全然違うと思います。蝦夷は蔑称であろうと考えると、馬子と入鹿で馬鹿、蘇我倉山田石川麻呂のようなありえない長い名前とかで、乙巳の変は、空想物語であることを示そうと『日本書紀』はしていると考えることが可能になります。

神武紀の歌謡の「エミシ」も、久米歌の後に出てきます。つまり、書紀編纂の時代、蝦夷・隼人の反乱があり、畏敬すべき存在ではなく打倒すべき存在であったはずです。乙巳の変の蘇我蝦夷もそのような人物設定です。実際に、乙巳の変があったと考えれば、この話は成立しないので、何を言ってるのだということになりますが。

明快になってはいませんが、「神武東征」については、書紀編纂の時代をかなり反映しているようです。

蘇我馬子と入鹿 

蘇我倉山田石川麻呂は実在したのか 

2022年2月12日土曜日

倭国の鉄の増産

 『倭人と鉄の考古学』村上 恭通、青木書店 (1999/5/1)

の中に、鉄の特産地の芽生えとして、参考になりそうな記述があります。

しかし、この時期の中国山地における製鉄はその生産量以上に評価すべき点がいくつもある。一つは沖田奥遺跡(西斜面地区)を含む総社久代製鉄遺跡群にみられるように、7世紀中葉以降、製鉄炉、木炭窯の数を増し、鉄生産の大規模化をはかっていくことである。また一つは中国地方には複数の炉形がありながら、炉の両小口側に溝、土擴をもつタイプに収斂され、後に各地に広がる製鉄炉の基盤を築き上げる点である。これらを踏まえ、また律令期以降、鉄の貢進地となる中国山地は畿内政権側も鉄の生産地として認める段階に入っていたと思われる。鍛冶および製鉄業におい中国山地の担った役割は大きい。

白村江の戦い以降の鉄不足に対応していると思います。

この引用のあとに、朝鮮半島の製鉄技術との関連がよくわからなく、今後に期待されるようなことが書いてあります。この本の出版は20年以上前ですので、新たな発展があるはずですが、現時点ではどうなってるかわかりませんのでメモ書きです。

岡山県域の製鉄炉、すなわち大蔵池南、沖田奥遺跡(西斜面地区)、緑山例は、溝のなかに炉底を設ける長方形の箱形炉であること、複数の炉が近接すること、そして広い作業場を備えるという点で共通している。・・・

とあるので、この地域の遺跡も含まれるかもしれません。出雲の製鉄との関係も気になります。

2022年2月11日金曜日

神武東征の鉄不足

 『鉄の考古学』窪田蔵郎、 雄山閣 (S48/5/25)を図書館から借りてきました。 「古代の文献に見る鉄器」にいろいろかいてあります。 神武天皇が道臣命(大伴氏の先祖)に命じて、八十梟師(やそたける)の残党を、忍坂の大室屋で饗応し、歌を合図に討伐した話があるようです(日本書紀 巻第三 神武天皇紀)。一応、だまし討ちを天皇がさせたということになってます。この時の歌についてですが、

「忍坂の大室屋に・・・みつみつし久米の子等が、頭槌(くぶつつい)、石槌(いしつい)もち 撃ちてし止やまむ」が古墳期ごろの、鉄剣時代とはいえ不足しがちな刀剣事情を的確にとらえている。つまり、頭槌剣は鉄製のもので、従軍中のごく少数の豪族、貴族がもち、一般の兵士つまり久米の子たちは石棒や木刀を使用していたのだろう。そして銅剣が現れていないが、このころにはすでに銅剣は儀器としての形式的なものとなり、実戦用としてはまったく用いられなくなっていたと思われる。

神武天皇を天武天皇と考えた場合、実際に書紀が編纂された時代にも、まだ鉄剣が不足していた事態があったのではという気がします。『続日本紀』元明天皇の霊亀元年(七一五)五月条に

又五兵之用。自古尚矣。服強懷柔。咸因武徳。
今六道諸國。營造器仗。不甚牢固。臨事何用。
自今以後。毎年貢樣。巡察使出日。細為校勘焉。
(http://www.umoregi.com/koten/syokunihongi/pdf/6.pdf )レ点とかはつけれませんでした。

とあります。日本語訳では

また、五兵(弓矢・殳(つえぼこ)・矛・戈・戟)の使用は古くから久しく行われている。強敵を服従させ、従順なものを手なずけるのも、みな武器に因っている。ところが、いま六道(七道のうち西海道を除く)の諸国において、営造する武器は、充分しっかりしたものではない。いざという時どうして役に立とうか。今後は毎年、製造した武器の見本を提出させ、巡察使が出向いた時、詳しく見本とひき比べて調べよ。(『続日本紀(上)全現代語訳』、宇治谷孟、講談社学術文庫、1992/6/10)

ということです。隼人や蝦夷の反乱に対して対応できていなかったように思われます。神武天皇の話も、古墳期ではなく、書紀の時代をかなり反映されているように感じました。ひょっとして、反乱でも石棒とか使われていた可能性もあり得ます。

神武天皇が飴を作るという話があります(神武即位前紀戌午年十月)。飴は「たがね」と読んでいます。意味は「アメ」になっています(『日本書紀①』新編日本古典文学全集2、小学館、1994/4/20)。「アメ」で天下を平定するとなってますが、どうだろうと疑問に思います。「たがね」を金属製品と理解する方が、この場面にあってると感じます。全体として、鉄不足がテーマになっているとすると、『鉄の考古学』の文が気になります。忍坂の久米の子等のあとに、

また、鉄鏃については同書の神武東征の描写、「八月甲子の朔戌辰天皇、かの菟田の高倉山の峰に上りまして、域の中を見下ろしたもう。時に国見岳の上に八十梟師有り。また女坂に女軍を置き、男坂に男軍を置き、墨坂に赫炭を置く。その女坂、男坂、墨坂の名は、これによりて起これり」と記されている。この赫炭は木刀や竹鏃の仕上げ処理に使用される一方、戦闘資材の剣や鏃を補給するための場所であって、鉄鋋(てってい)や折れた刀、徴発した農具などを小炭で焼いて応急的に鍛造していたものと思われる。

鉄不足の中での戦いを表しています。さらに、『鉄の考古学』では、

韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)を用いて日本統一を完成したという。 このような縁起談があることは、これも当時における鉄製武器の不足状態を端的に示しているものではなかろうか。つまり、鉄器は存在していたが、まだ量的に極めて少なく偏在していたことがわかるのである。

鉄剣の力は大きいという事です。長々と書いてきましたが、天武天皇の時代に、白村江の戦いで、鉄の入手が絶たれて、鉄不足になっていた可能性がでてきます。 節刀というのを思い出しましたが、これも鉄剣が貴重であるからこそ、天皇が自分の護身用としての刀を与えるという重要な儀式になると思われます。

布都御魂(ふつのみたま)ですが、(ウィキペディア(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%83%E9%83%BD%E5%BE%A1%E9%AD%82)

建御雷神(たけみかずちのかみ)はこれを用い、葦原中国(あしはらのなかつくに)を平定した。神武東征の折り、ナガスネヒコ誅伐に失敗し、熊野山中で危機に陥った時、高倉下が神武天皇の下に持参した剣が布都御魂で、その剣の霊力は軍勢を毒気から覚醒させ、活力を得てのちの戦争に勝利し、大和の征服に大いに役立ったとされる。

節刀

節刀(せっとう、せちとう)は、日本の歴史において、天皇が出征する将軍または遣唐使の大使に持たせた、任命の印としての刀。標の太刀(しるしのたち)、標剣(しるしのつるぎ)とも。「節」は符節(割り符)のことで、使臣が印として持つ物の意。任務を終了すると、天皇に返還された。(ウィキペディア(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%80%E5%88%80)

2022年2月8日火曜日

秋田県域の原始~古代の略年表

 『秋田のトリセツ』昭文社 (2021/8/27)にあった略年表です。秋田県が主で他の地域がないのでわかりにくいですが参考になります。(720)年を入れました。

西暦元号できごと
3万年前米ヶ森遺跡(大仙市)などで細石刃が使用される
1万2000年前岩瀬遺跡(横手市)で爪形文土器がつくられる
5500年前県北部で円筒土器、県南部で大木式土器がつくられる
4000年前大湯環状列石(鹿角市)や伊勢堂岱遺跡(北秋田市)などでストーンサークルがつくられる
2200年前星宮遺跡(大仙市)で稲作が始まる
647大化3渟足柵が築かれる
658斉明4阿倍比羅夫、齶田の蝦夷を服属させる
708和銅元出羽郡が建郡
709和銅2出羽柵が築かれる
712和銅5出羽国が建国
(720)養老4(按察使の上毛野広人が蝦夷に殺されたと陸奥国が報告)
721養老5出羽国が陸奥按察使(むつあぜち)の管轄となる
804延暦23秋田城制が停止、秋田郡が設置される(国郡制の施行)
878元慶2元慶の乱
939天慶2天慶の乱
1051永承6前九年合戦(1062年まで)
1063康平6清原武則、鎮守府将軍に任じられる
1083永保3後三年合戦(1087年まで)
1189文治5奥州合戦で藤原氏が滅亡。大川兼任が挙兵

東北地方の歴史をしらなったですが、予想外に反乱があります。近現代史のところ、戊辰戦争が取り上げられてます。明治の新政府との東北諸藩の戦いですが、前の『鹿児島のトリセツ』でも西南戦争のことが、書いてました。新体制に対する反発が戦いになったのだと思います。古代においても律令体制に対する反発が地方の反乱を招いているのではと感じました。

2022年2月7日月曜日

大伴旅人と日本書紀神話

 神武東征の話だけで、大伴旅人が関係してるのかという気がしてきました。

『大伴旅人(309) (人物叢書 新装版)』鉄野 昌弘 、吉川弘文館 (2021/3/10)の中に、養老四年(七二〇)のことがあります。

養老四年二月、隼人が反乱し、大隅国守を殺害する事件が起こった。隼人は、大宝二年にも乱があり、編戸されることに強い抵抗を示していたと思われる。三月、旅人は征隼人持節大将軍となって九州に下った。副将軍が二人(笠御室・巨勢真人)付いているので、軍防令の規定により、一万人以上の兵士が動員されたことがわかる。この任は困難を極めたらしく、同年六月、詔を携えた勅使によって慰問されている。詔は次のように言う。 ・・・省略・・・・ 南九州の暑い夏、何ヶ月も原野を転戦した労苦を「忠勤」としてねぎらわれたのである。なお七月にも再び、将軍旅人以下、船頭に至るまで物を賜うことが行われている。 八月、右大臣藤原不比等が病を得て薨去した。乱はまだ鎮圧されていなかったが、旅人は京に召喚された。不比等薨去にともない、舎人親王(天武天皇皇子)が知太政官事、新田部親王(同)が知五衛及授刀舎人事に就任する。同年十月、旅人は大納言長屋王とともに不比等邸に赴き、太政大臣正一位追贈の勅使となった。

この間、九月には、陸奥国で蝦夷の反乱が報告され、征討軍の人事が行われています。大伴旅人の年表では、この後の動静が不明ですが、

『万葉集』巻九、「高橋虫麻呂歌集」所出の歌・・・(一七五三~四)、(一七八〇~一)に

大伴卿が出てきて、これを大伴旅人とする説があります。蝦夷の反乱は収まってはいますが、バックアップで常陸国にいたということです。

これが正しければ、旅人は、養老年間の後半、文字通り東奔西走だったということになろう。

正史での大伴旅人の初出は

『和銅元年元日、朝賀に際し、正五位上左将軍として、朱雀大路で騎兵を陳列し、隼人・蝦夷らを率いて進んだとされるのが初出である。旅人四六歳。左将軍とは、儀式の時に騎兵を率いる時の将軍名である。左副将軍は穂積老、右将軍は佐伯石湯、右副将軍は小野馬養であった。この年は言うまでもなく、平城京への遷都があり、元明天皇が朝賀を受けた大極殿が平城京のそれか藤原京のそれかには議論がある。

この話から妄想すれば、大伴旅人は若きころから、隼人・蝦夷に対する歴戦の強者であったであろう。とすれば、霊亀元年(七一五)五月に中務卿となる。とあります。これが意味を持ってきます。

前の記事と引用がダブりますが、

中務省は、天皇に近侍して詔勅の起草や伝達、国史の監修などを司り、八省の中でも重要視されていて、中務卿は他省の長官より一階高い正四位上相当官とされていた。従四位上では抜擢といって良いだろう。

神武東征だけでなく、書紀神話全体に関わっているのではと思われます。日本武尊の話など空想物語ですが、リアリティがあります。大伴旅人の体験が神話に取り込まれていると感じました。日本書紀は養老四年(七二〇)です。大伴旅人の若き頃は不明ですが、神話の中に大伴旅人を想像できる部分があるかもしれません。

2022年2月6日日曜日

大伴旅人と神武東征の話

 大伴旅人について調べてみました。 鹿児島の古代から神武東征の話の続きです。 

大伴氏について ウィキペディアでは

「大伴」は「大きな伴造」という意味で、名称は朝廷に直属する多数の伴部を率いていたことに因む[2]。また、祖先伝承によると来目部や靫負部等の軍事的部民を率いていたことが想定されることから、物部氏と共に朝廷の軍事を管掌していたと考えられている[3]。なお、両氏族には親衛隊的な大伴氏と、国軍的な物部氏という違いがあり、大伴氏は宮廷を警護する皇宮警察や近衛兵のような役割を負っていた。

一方で、遠祖・道臣命が神武東征での功労により大和国高市郡築坂邑に宅地を与えられたとの『日本書紀』の記述や・・・

大伴氏の先祖が、『日本書紀』の神武東征に関与していたようです。

さて、大伴旅人の経歴ですが、『大伴旅人(309) (人物叢書 新装版)』鉄野 昌弘 、吉川弘文館 (2021/3/10)では、霊亀元年(七一五)五月に中務卿となる。とあります。その中で

中務省は、天皇に近侍して詔勅の起草や伝達、国史の監修などを司り、八省の中でも重要視されていて、中務卿は他省の長官より一階高い正四位上相当官とされていた。従四位上では抜擢といって良いだろう。

大伴旅人が中務卿の時代に、神武東征について書紀編纂の時期と合っていて、関与した可能性があります。 『続日本紀』では、

和銅3年(710年)正月の元明天皇の朝賀に際して、左将軍として副将軍・穂積老と共に騎兵・隼人・蝦夷らを率いて朱雀大路を行進した。(ウィキペディア「大伴旅人」の項)

神武東征のストーリーの旅程のアイデアを出したことが考えられます。

この『大伴旅人(309) 』の四五頁に

旅人の武人としての面を表すものに、正倉院宝物の「東大寺献物帳」(『国家珍宝帳』、天平勝宝八歳<七五六>六月二十一日付)の一節がある。「槻御弓六張」の中に・・・大伴淡等

また「檀御弓八張」の中にも・・・大伴淡等

とある。旅人所有の槻弓(つきゆみ)・檀弓(まゆみ)が、いかなる路をたどってか、光明皇太后によって東大寺に献納されたのである。

ここで、大伴淡等は大伴旅人のことです。これらの弓の中に、他の武人たちの名もあります。旅人については、万葉集の関係で名前が出てきますが、文武に優れた人のよう人のようです。

旅人ですが、多比等との字もあるようです。不比等とペアに思えます。当時のツートップだった気もしてきます。単なる武人というだけでなく、書紀の編纂に関与した優秀な人の可能性大です。

2022年2月3日木曜日

鹿児島の古代から神武東征の話

 『鹿児島のトリセツ』昭文社 (2021/6/18) からの古代年表のメモです。

西暦元号できごと
3万1000年前立切遺跡(熊毛郡中種子町)などに生活の痕跡
2万9000年前姶良カルデラが噴火し、シラス台地ができる
1万3000年前掃除山遺跡(鹿児島市下福元町)や栫ノ原遺跡(南さつま市)などが形成される。
9500年前上野原遺跡(霧島市)などで定住の痕跡
7300年前鬼界カルデラの噴火
前600稲作が始まる
前300高橋貝塚(南さつま市)などで貝輪を加工
2から3世紀松木園遺跡(南さつま市)などで環濠集落がつくられる
5から6世紀板石積石棺墓群がつくられるようになる
682天武11年大隅と阿多の隼人が朝貢を始める
702大宝2年薩摩と多褹の反乱。この頃に日向国から唱更国(のち薩麻国、薩摩国と改称)が分立
713和銅6大隅国が設置される
720養老4隼人、大隅国守を殺害する。大伴旅人を征隼人特節大将軍とする征討軍を派遣(隼人の反乱)
723養老7624人の隼人、朝貢する
730天平2年大隅・薩摩両国での班田制導入を断念
800延暦19大隅・薩摩両国で百姓の墾田を収公し、区分田として班給する
1024万寿元年万寿年間に太宰大艦・平季基、島津荘を開梱し、関白・藤原頼通に寄進
1185文治元年島津忠久、島津荘下司職に補任

続日本紀には、征隼人副将軍の帰還が養老5年7月7日にあります。前年の2月ぐらいからなので、時間がかかっています。養老4年9月には、陸奥国から蝦夷の反乱の報告もあり、混乱の時期にも思えます。 『日本書紀』成立が720年とすれば、反乱鎮圧の影響を受けていることが考えられ、書紀編纂者の意識が九州に向けられたとすれば、日向国が神武東征の出発点になったと考えられます。東征コースを逆にすれば、大伴旅人がヤマトから鎮圧に向かったコースに想定されます。神武天皇が筑紫国に寄り道するとかおかしいなと感じるのも、当時のコースと考えればそうかもしれないという気になります。以前は神武天皇=天武天皇と考えていて、天武天皇が東征のコースを通ったのかと疑問に思っていましたが、今は単なる書記編纂者の空想物語であったであろうということになりました。


図は神武天皇の御東征 : 肇国物語の22頁


表の730年の班田制導入の断念とか、反乱鎮圧の過程で妥協があったように思われます。聖武天皇の即位によってこれが確認された印象です。

2022年2月2日水曜日

祭政一致

 29日放送の『ブラタモリ』(NHK)では、前回の石垣島の訪問に続き、今回は竹富島でした。祭りの多さが驚きで、月に二回ぐらいとのことで、昔はもっと多かったということです。古い時代を残しています。

30日の日経新聞で、たまたま、日曜版で「旅する民俗学者、宮本常一」を目にしました。出雲八束郡片句浦のことが書いてあります。

当地には「四十二浦の潮汲み」という巡礼が今も残る。日本海の浦々の海水を竹の筒に注ぎ、土地の神社に参る習俗である。18世紀初頭にはすでに巡礼者がいた、と古文書は伝える。

伝統の継承を目的とする「島根半島四十二浦巡り再発見研究会」の木幡育夫事務局長によると、眼病治癒の願掛けとして広まったが、戦時中は出征兵士の無事を祈る親族もいたそうだ。・・・

記事で出てきていた『大隅半島民俗採訪録 出雲八束郡片句浦民俗聞書 (宮本常一著作集39)』、宮本 常一、未来社 (1995/3/1)を借りてきました。大隅半島と島根半島の部分二つがまとめられていて後半部分の「信仰その他」です。

〇四二浦の潮汲み 簸川郡東村の一畑薬師は、広く中国地方一帯に信仰せられている薬師さんであるが、特に眼の悪い人の信仰を集めている。その信仰形式はいろいろあるが、このあたりで行われているものに四二浦の潮汲みというのがある。

松江の東の福浦から、島根半島の北岸を大社まで行くと、浦が四二浦ある。その浦々の潮を、竹の筒に一滴か二滴ずつ汲んで集め、かつその土地の社に参り、浦々の家で門付けをなし、最後に一畑へ参るのである。これを四二浦の潮汲みといっている。一まわりで二週間はかかる。それを一〇回もくりかえす人があるそうである。なかなか一人ではできないので、眼の悪い人たちが二,三人くらいで組み、これに目のよいものがついて行くこともある。夜の泊まりはたいてい善根宿であるが、泊める方でも快く泊めてやる。まことに心をうたれる風景である。片句ではたいてい太師堂で泊まっていくそうである。御津から山に上がって尾根伝いに来ると、太師堂はちょうどよい休場になる。

こうして目のみえはじめた人もあるというが、それよりも信仰によって気持ちの救われるのが多いようである。

このあと、付記で、一畑信仰の話が書いてあります。

交易だけでなく、信仰によってこの地域では、人の移動があるのだと思いました。目の悪い人が良くなるようにとの薬師さんですが、『日本書紀』で似た話があります。 垂仁天皇の第一皇子の誉津別命(ほむつわけのみこと)は口がきけないのは、出雲大神の祟りとのことで、天皇は皇子を出雲に遣わして大神を拝させた。ところ帰りに話せるようになったという話です。出雲の霊力で口や目が治るのかなと思います。出雲の宗教的な力が絶大であるとのことになるかもしれません。

話がそれてしまいましたが、宮本常一氏の記録は昭和十四年十一月十七日から二十日までの記録ですが、異常に詳細に記されています。やはりこの地域でも行事が多いです。沖縄と似ていて、行事の合間に仕事をしているといった印象を受けます。二つの例だけですが、すべて生活は祭祀儀礼を中心に回っているのが、古代ではなかったかと思います。つまり、祭政一致どころではなくすべてが祭祀儀礼につながると考えた方が良いという気がします。