2022年2月24日木曜日

藤原不比等の日本書紀

 『続日本紀』によれば、『日本書紀』は、養老4年(720年)5月に完成したと伝わる。同年8月に藤原不比等没とあります。『日本書紀』は不比等の遺言のように思えてきます。不比等は律令体制の整備に携わります。養老律令の編纂作業に取りかかるが養老4年(720年)に施行を前に病死とのことです(このあたりウィキペディアより)。 養老年間は元正天皇の時代で、元明天皇から譲位されています。即位の時の詔ですが、理由が弱いように感じました。イメージとしては、邪馬台国の卑弥呼から壹與(台与、いよ、とよ)の時代を想像させます。律令の時代にそぐわないものと不比等が考えたと妄想します。 霊亀2年(716)2月の出雲臣果安の神賀事《かんよごと》で出雲の貢献を述べていますが強気です。同年4月に和泉監《いずみのげん》の設置ものちに廃止されますが、既得権益の勢力に妥協していて、倭国大乱を避けようとしているように思われます。何とかしなくてはという不比等の考えでは、天武天皇の時代の残存勢力の排除、持統朝の確立が養老年間の課題であったと思われます。最初は、『日本書紀』は『古事記』のようなものが考えていたのが、この養老年間の様子を見て、急遽、大幅改訂されたのが、現在の『日本書紀』ではないかと想像されます。歴史では持統朝の前に天武朝があります。この優位を覆すためには、天武朝の前に持統朝の正統性を示す天智天皇の活躍が必要です。そこで、持統天皇の父と、不比等の父、中臣鎌足を持ってきて、乙巳の変・大化の改新の話を作りだしたということです。この神話によって、持統天皇の優位性が示されます。しかし、まだこれだけでは十分ではないのです。『古事記』を利用するため、『日本書紀』との接続をスムーズにする必要があります。『古事記』に出てくる推古天皇は元々持統天皇でしたが、これを、元正天皇と不比等のイメージで語らせたと思われます。不比等の理想の政治の世界が描かれているとして良いと思います。『日本書紀』の展開は不比等のアイデアで大幅変更されます。実際には分担して編纂され、意見の集約とかなく、異論があれば併記し、完成を急いでいたように感じられます。全体の流れは、不比等しか知らなかったかもしれません。『日本書紀』に対する反発は大きかったはずですが、このあたりはまだわかってません。

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