2015年12月20日日曜日

銅鐸の分布

 日本史通覧の分布図を見て、興味を持ちました。
関連して、銅鐸の絵を読み解く―歴博フォーラムを図書館から借りてきました。
その初めにのところ以下のようです。
 銅鐸とは2000年前の祭りのカネです。近畿を中心として西は中・四国、東は中部にいたる範囲では、弥生時代-本格的な水田で稲を作り始めた最初の時代-に銅鐸を使い、しかもそれを山や丘の斜面などに穴を掘って埋めています。古い銅鐸は、たしかに鳴らした証拠をとどめています。しかし新しい銅鐸は、大きくなり紋様で飾り立てており、本来のカネから離れて、目にも立派な姿へと変貌しました。「聞く銅鐸」から「見る銅鐸」に変わったのです。・・・・
 この本は1997年なので、「見る銅鐸」には違和感がありますが、現在も考えられているようです。
銅鐸は当時のハイテク製品と思います。最新の文化・文明が表されていて、それが各地へ伝達されていったはずです。銅鐸に描かれている絵も先端技術を示していると考えて良いと思います。
高床式の倉庫のような家屋、上記の「絵を読み解く」本にもありましたが、鹿は占いに必要な重要な動物のように書いてました。そうであれば本には書いてませんが、スッポンも実は亀で亀甲の占いに通じます。占いもハイテクだったと思います。カタカナの「エ」に似た道具も機織りの道具で、機織りの新技術を示しているのかもしれません。トンボも「田の神」で豊作をもたらす象徴であるという考えがあるそうです。新しい農耕技術のシンボルの生物です。素朴なスケッチではないだろうということでしょう。と思ったのですが、銅鐸に示される他の生物、トカゲやカマキリ、サギなども何かしらの意味があるはずですがわからないので、残念ながら断定できません。銅鐸は謎だらけです。
 さて、日本史通覧の分布図(P.34-35)に戻ります。銅鐸には近畿式銅鐸と三遠式銅鐸と違いがあるようです。三遠式とは三河・遠江のことで、東海地方に政治的・経済的にまとまりのある地域があり、また近畿地方にも四国や和歌山県などでまとまりのある地域、国のようなものがあったと考えられます。この図では、岐阜県には銅鐸の分布があまり及んでいないように見え、まだまだ未開の地であり、安田仮説と整合性はあります。図では近畿式は四国を含んでいて、海辺に近い地域で海上の交易が盛んであったことを伺わせるものです。分布も陸路が限られた地域でつながりがあったようにも見えます。(この図は集英社「日本の歴史②」からとなっています。)
 何を言ってるかわからない文章になってしまいました。完全な個人メモです。

 似たような銅鐸分布図
 こちらの図では陸路とかはわかりません。図によって微妙に違い、思い込みかもしれません。

2015年12月1日火曜日

図説日本史通覧

帝国書院の本です。歴史の知識が無く、年表のようなものが欲しいなと思って、
上記の本を購入しました。925円でした。ボリュームあり、お買い得です。
ビジュアルで見ていて楽しいです。なぜ今まで買わなかったのかと思うほどです。
同様のものに、山川 詳説日本史図録があります。アマゾンで見るとレビューなど多くて
こちらが売れているようです。どちらかですが、後ろの年表で山川の方が詳しく、当方は
シンプルな方が良いかと思い、こちらにしました。

2015年11月12日木曜日

歴史認識

 安田仮説での考えを追求していけば、
聖徳太子と推古天皇は存在しない、蘇我・物部の神仏争いは次世紀の話など、日本史の教科書との違いは大きいです。これについて考えてみました。
 今の歴史がいかに成立したかというと
江戸時代に御三家のひとつである水戸徳川家当主徳川光圀によって開始された大日本史の影響が強いように思います。神仏分離が江戸時代に水戸藩などでは進められ、排仏棄釈が明治維新後、全国に拡大してます。明治維新により日本の歴史を天皇中心にまとめ、皇国史観の考え方が採用された気がします。大戦後はこの皇国史観は、否定されましたが徹底はされませんでした。現日本国憲法には、戦後の日本の進む道として、平和主義が取り入れられ、戦争放棄がうたわれています。これは聖徳太子の十七条憲法、「和を以て貴しと為す」がベースにあり、戦後の高度成長の時代を担ってきました。直感的な例ですが、聖徳太子の肖像がお札に使用されていて、具体的なシンボルとなっていたと思います。戦後の皇国史観の検証が徹底しなかったのは、聖徳太子を残すためではなかったのかと思います。20世紀後半の日本には現憲法が果たした役割は大きく、聖徳太子を否定するより肯定する方がはるかに有意義であったと思います。歴史は一つではないので、当然といえば当然のことです。しかしながら、いろいろな思惑がある中で、あれこれ考えていくことは無意味ではなかろうと思います。

2015年11月9日月曜日

NHKスペシャル アジア巨大遺跡 第3集「中国 始皇帝陵と兵馬俑」を見て

 日本も中国の影響を受けていることを感じました。
1.番組では日本の前方後円墳とは始皇帝陵が異質なものであるとの説明でしたが、日本のものもスケールが小さいですが、埴輪とか墓の周りに配置するなど影響を受けているように思いました。

2.中国の統一にあたって、文字の統一政策の話がありましたが、日本での万葉集(防人の歌など)に結びつくものがあるかも。

3.始皇帝は銅車馬というもので統一後に全国を巡ったそうです。この巡行を5回行っているそうですが、行く先には、少し前まで敵の地であったところがあり、命を狙われることもあったそうです。斉があった山東省成山の海にのぞむ小高い丘で祈りをささげる玉壁と玉圭が発見され、これが秦などの西の方の風習だと考えられ、斉の人が東から昇る太陽をあがめてきた場所で始皇帝も同じく祈りをささげる行為を行った、との話でした。映像では、何か伊勢神宮を思い出しました。
日本での天皇巡幸も同じく、中国のやり方をまねて、その当時の国境の地域を巡ったと十分に考えられます。東限を表している可能性は大です。忘れるかもしれませんが、覚えておきたいことです。

2015年11月7日土曜日

鹿島神宮

鹿島神宮が重要なポイントであるとは思っていて、今
「常陸国一宮 鹿島神宮の研究、森下松壽著 茨城新聞社」
を読んでいます。参考文献や註など詳しくて、多分この本がベースになると思います。
常陸風土記のところまでは何とか読んでいきたいのですが、なかなか進みません。
途中ですが、興味ある記述があったのでメモしておきます。

65ページのところですが、義江彰夫氏のものを引用して、「律令の条文も租庸調の制度も知らない一般庶民から、律令国家が租税を収取出来たのは、呪術的な神祇官班幣制度を持てたからである」とのことである。祈年祭(豊年祈願)、月次祭(季節の順調な運行祈願)、新嘗祭(収穫祭)などにより霊力の宿る稲穂などを与え、豊かな収穫から、神々への感謝の気持ちを引き出し、租税を取り立てることが出来たという話である。しかしながら、この制度は8世紀後半には成立しなくなってしまっているとのことです。
 これから正倉院展で感じた聖武天皇の話になります。聖武天皇は、天変地異などに対して、対応できない神道による統治の限界を感じていて、仏教に方針転換を聖武天皇は目指したのではとの推測です。天武天皇の時代には各地に神社を配置したのに対して(まだ個人的なイメージです)、各地に国分寺・国分尼寺を建てます。仏教には仏像の具体的なイメージがあり、お経もあり、当時のハイテク技術と一体化しています。政治的な支配は国衙、精神的には仏教というシステムを採用したのだと考えられます。
 つまるところ天武天皇の時代は神社によったが、聖武天皇はお寺に変わったということです。これは大きな変化でこの時に崇仏派と排仏派の対立が起こったはずです。ということは、蘇我氏と物部氏の神仏に関する争いとはフィクションで、実際はこの時代のことを反映しているのではなかろうか。聖徳太子から続く時代の話では現実みがありません。また以前に唱えていましたが、推古天皇は持統天皇と考えることに対応して、時代が推移しています。かなりおおざっぱで、日本書紀が書かれている時代に崇仏派の意見が通ることを見越していたのか、後の時代に書き換えられたのか、時系列が厳しくなってきます。今は、ただただ妄想の世界で、クリアにしていかなければと思います。

2015年11月5日木曜日

第67回正倉院展

 今年も奈良国立博物館に出かけてきました。
国家珍宝帳のトップに記される七条褐色紬袈裟27[しちじょうかっしょくのつむぎのけさ]
を見ることが出来ました。透けるようなネットのような編み方で、日曜美術館で織り方の話
がありましたが、理解できませんでした。とにかく、聖武天皇にとってこの袈裟がいかに大切
なものか、仏教に対する信仰の強さを示すもののようです。
 伎楽面力士16の面内に「周防」との墨書も私にはわかりませんでした。このことから周防国か
らこの面が貢進されたらしいとのことです。この国名ですが、防の字が使われており、国名
が考えられた時代、山口県が防衛の拠点であったかもしれないと思います。
 続修正倉院古文書 第13巻43、隼人計帳で、南九州出身者の徴税基本台帳とのことです。
良く理解できていないのですが、男女比のバランスが悪く男子の比率が小さいので戸籍のよ
うなものでは無いように思われました。古い時代の戸籍の残っている可能性は小さそうです。


2015年10月24日土曜日

沢のつく名字

 沢のつく名字が記憶ですが山梨県に多いなと思っていました。名字の傾向が地方によって異なり、偶然では無く何らかの意味があると思っていました。常陸風土記のことから思い出しました。
 〇沢の形の名字が多い地域を2年ほど前に調べていました。今あらためてこの図を見ると沢のつく名字は長野県に始まり東北地方に広がっています。以前であれば、平安時代ぐらいに沢のつく名字がその後の東北進出とともに広がっていったと解釈しますが、常陸国のことを考えると、時代の前後関係が微妙で分けわからなくなります。沢のつく名字は同一時期に発生したことは確実ですが、奈良時代か平安時代か、今後の課題です。またこのようにクリアに分布が出ている名字はなかなかありません。他には〇根の名字は山陰地方に多いような結果があります。
元々、一文字の名字が、好字令で二文字にするときにこの地域では便宜的に沢をつけたという可能性があるのかこれも何とも言えません。地域としての統一されたものがあることは確かですが。

2015年10月18日日曜日

常陸国

 安田仮説では、大和政権は西日本までの統一であると言ってますが、常陸国風土記が問題と
なっていました。常陸国は今の茨城県です。飛び地であるとしていましたが、知識が増えて
きましたので、現時点のメモ書きとしてアップします。
 常陸風土記とは、ウィキペディアによれば、奈良時代初期の官選の地誌とされていて、その
写本が5つ残っていてその一つです。この風土記の編者は、当時常陸守であった藤原宇合が
有力とされています。出だしの常陸国総記の中に
・・難波長柄豊崎大宮臨軒天皇(注で孝徳天皇)の時代に、高向臣・中臣幡織田連らを遣わ
して、坂(前の方の相模の足柄岳の坂か?)より東の国を総領めしめき(注で東国の八国を
統治)。・・・
とあり、彼は後期難波宮造営の責任者で、孝徳天皇を意識していてそうかもしれないと私は
思いました(弱い理由ですが)。納得いく説明は
「常陸国風土記」の世界-古代史を読み解く101話-、井上辰雄著、雄山閣の第100話
にあります。
 常陸国は藤原氏とつながりが強いようで、藤原氏の氏神を祀る奈良の春日大社は、・・768年
(神護景雲2年)に藤原永手が鹿島の武甕槌命、香取の経津主命と、枚岡神社に祀られていた
天児屋根命・比売神を併せ、御蓋山の麓の四殿の社殿を造営したのをもって創祀としている
(ウィキペディア春日大社より)となっています。常陸国を藤原氏が注目していたのだと思います。
 さて鹿島神宮の武甕槌命が春日大社に白鹿に乗ってこられたとのことですが、どのような交
通手段であろうかと思います。もちろんイメージの話です。私は海上ルートではと想像します。鹿島神宮の位置は東が海で、名前の通りヒタチ(日立)を見ることができます。これはアマテラスを皇祖神とする伊勢神宮と同じパターンで伊勢神宮-熱田神宮-鹿島神宮が海上ルートでつながるような気がします。東海道というものがあります。今は電車が走っている地域を思ってしまいますが元々の意味は東の海の道のはずです。飛び地であっても船を使えば移動は問題無いように考えられます。
 あと、常陸風土記を詳しく見てないですが、侵略的な雰囲気を感じます。
古老の話のスタイルになっていますが、倭武天皇の話などそれほど古い話ではないのではな
いかとも思います。地名の話なども中央からの目線を感じます。
 藤原氏などの律令制を採用した中央集権的な体制の大和の勢力が、前方後円墳の文化を持つ
、地方分権的な共同体組織であった地域を制圧していく過程が風土記にあらわれているような気がします。防人も捕虜的な扱いであったことにつながるはずです。
 七世紀から八世紀にかけて劇的な変化が起こっていて、この前後の時間的な関係がシビアで
あることは認識しました。今は妄想段階で、どうなるかわかりませんが、現段階のメモとして残します。

参考:常陸国風土記 
   編著者:沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉

2015年9月13日日曜日

三茎蓮文

蓮の3本の茎を型どりしたもので、石造物の基礎に施される近江式文様のひとつとされています。このルーツを、奈良国立博物館の白鳳展で感じました。きちんとまとめられなかったのですがメモとして残します。
白鳳時代の仏像では個人のものでパブリックなものではない雰囲気の仏像があり小さめのものが展示されていました。いうなれば初期の仏像と考えられるものです。
衝撃的なものが
No.32 銅造阿弥陀如来及び両脇侍像 飛鳥時代後期(献納宝物144号)
 です。阿弥陀仏が蓮の花から生まれたイメージを感じるものです。背面に山田殿像とあり、山田寺の関係もありそうな仏像です。
No.84 伝橘夫人稔侍仏(阿弥陀三尊像)
 伝ということで白鳳時代ということです。
橘三千代ともいい、藤原不比等の後妻となり、光明子の母です。蓮の茎に注目です。

塼仏-塼仏(せんぶつ)は、かつて中国の北魏から唐代に発展し、日本には7世紀に伝来し、発達したレリーフ形式の仏像。(ウィキペディアより)
NO.24 川原寺裏山遺跡出土 三尊塼仏
No.130 伝橘寺出土 三尊塼仏
No.131 南法華寺出土 三尊塼仏
  これらは蓮の茎まで表現されていて、三茎蓮を強く感じました。
No.117 長谷寺銅板法華説相図
  中段の左右五尊仏のところ。
No.27 山田寺跡出土品 金銅板五尊像
  
仏像の原則は蓮の上ということなのでしょうが、仏像が巨大化してくると強度的に茎でサポートすることは出来なくなり(仏像が2倍なら茎は2√2倍でバランス悪くなる)、個人的な仏像では可能であった三茎蓮が白鳳の時代以降消え去ってしまったのかもと思いました。塼仏などもおそらくこの時代のみの特徴であろうと思われますが、鎌倉時代からの近江式文様とはどういうつながりがあるのだろうと思います。関係ないと言えばそれで終わりになりますが。

2015年8月28日金曜日

白鳳展

 行ってきました。奈良国立博物館で開催されています。
歴史的には飛鳥時代→奈良時代となっているが、美術史的にはこの間に白鳳時代といわれる
時代をいれるようです。実在が疑わしく、孝徳天皇の時代の白雉の別称とされています。
 展示では、山田寺の創建のコーナーで国宝の仏頭(27日まで)や阿弥陀三尊像(伝橘夫人念
持仏)及び厨子、長谷寺の銅板法華説相図など見ることが出来て良かったと思いました。全
体として白鳳文化の雰囲気に浸れる感じです。
 図録を買ってきました。安田仮説にとって重要な時代ですので、展示を思い出しつつ読
んでいきたいと思います。ブログの更新なしのまま、夏休みが終わってしまいました。

2015年7月15日水曜日

名字:樋口


敷葉工法(しきはこうほう)が用いられているとのことで狭山池(さやまいけ)博物館に行ってきました。池ということですが、日本最古のダム式ため池だそうです。この博物館にはいろいろ展示されています。写真は館内に展示されている堤を切り出したものです。下の方に樋と呼ばれる木製の筒状の水路があります。年輪年代測定法から7世紀前半に作られたと想定されています。この樋の取り出し口が樋口ということで調べて見ました。
 
樋口の分布を示します。新潟県が多いようですが目立った特徴は感じません。

 
 
しかし他の名字との関係を見ると面白い結果がでています。
相関の高い順番に並べると、
風間、村山、小柳、青柳、小林、丸山、小池、羽田、笠原、桑原、米山、笹川、堤、坂井、橫尾、本間、中沢、片桐、早川、遠山、大矢、渡辺、内山、小宮、今井、依田、星野、保坂、浅川、五味と続きます。ぱっと見たところ水のものとかあり、堤とかは完全にダムに関係していそうです。柳なども堤の地盤を固めるような植物のイメージを持ちます。
ここで2番目の村山ですが、村の山ということで山形の堤を表しているように思えました。
後ろの方の順位の依田ですが、「田」は樋口に「依」存するの意味で、樋口を言い換えたのではと思います。また片桐というのは、江戸時代に片桐且元が改修工事を指揮したことによるのではと考えられます。古い時代だけで無く新しい時代の影響を受けている名字ですが、開発された年代がごっちゃに含まれている感じもあります。山も本当の山で無く堤の意味もあることをしりました。
狭山池は前期難波宮の時代につながるものですが、狭山池博物館では推古天皇の時代のように
説明されていました。私的には孝徳天皇の時代に関連するように思えます。
後の時代に、行基や重源が改修しており、東大寺の成立や再建となぜか関係しているようにも思いました。何かしらのgiveアンドtakeがあったかもしれません。写真は堤断面を切り出したもので、どんどん拡張されてきていますが、最初はこの二分の一くらいだったようです。それでも最初に川のバイパスを作り、そこで堤を作ってからダムを作るということなので7世紀前半ですごい工事をやっていたのだなと感心します。

追記:2015.07.16
ウィキペディアには、新潟市について
1950年代まで、信濃川左岸の新潟島中心部には堀が張り巡らされ、それに沿って柳が植えられていた。そのため、「水の都」「柳都(りゅうと)」などの異名を持つ。とあります。
潟が多く、排水処理が必要な地域だったのかもしれません。

追記2:2015.07.24
依田ですが、樋口に依存するではなくて、樋口が水源に関係しているので、田は水源に依存するぐらいの意味であろうと思います。言い過ぎでした。



2015年6月30日火曜日

楠葉(くずは)

 京阪電車で樟葉駅を通りました。窓から見ていると平坦な地域です。楠葉村と船橋村が合併して樟葉村となったようです(ウィキペデア)。楠葉とはクスノキの葉っぱということです。どいうことだろうと思っていましたが、平城京造営秋篠川埋め立ての地盤補強跡を発見
www.sankei.com/west/news/140704/wst1407040012-n1.html
の記事がありました。敷葉工法という木の枝葉を敷いて地盤を固める古代工法が使われたとのことです。楠葉の地域も水はけの悪い地域らしく、クスノキの葉を敷き詰めて地盤の改良をしていて、その場所を楠葉と呼ばれたのではと思いました。これが正しければ、継体天皇(存在したとして)の時代も下がるかもしれませんが、証拠はありません。

2015年6月9日火曜日

四天王寺



伽藍は四天王寺式と呼ばれる中門・塔・金堂・講堂が南北一直線に並び、回廊が塔と金堂を囲む形式とのことです。建物は再建されたものであるが、配置形式は百済からもたらされた古い形式のものと考えられています。古墳時代の前方後円墳が外国使節に海側から見て目立つ配置にあるのと同様に四天王寺も南北の配置が採用されたことがあるのかもしれません。実際に南大門の方から北を向いても見通しは悪いです。写真は右が北です。


 難波宮と関係がありそうですがわかりません。しかしこの四天王寺に聖徳太子が四箇院を建てられたのが日本での最初とする伝承があります。光明皇后が東大寺に「四箇院」(「施薬院」「療病院」「 悲田院」「敬田院」)を作ったという話があります。四天王寺に光明皇后の気配を感じました。
 後期難波宮が聖武天皇の時といわれており、四天王寺が光明皇后につながるなら後期難波宮の範囲とも考えられます。また聖徳太子伝説が聖武天皇の時代に出来たのかもしれません。
後期難波宮が前期難波宮を尊重しており、四天王寺も古い一直線の配置を残しているのも共通の意識があったようにも思います。

2015年5月27日水曜日

古代宮都と傾斜地

 鴨川の流れに沿って少し歩きました。川底が階段状になっていて勾配がきつく、京都が傾斜地であることを思い出しました。写真は北向きに見ています。3段ぐらいは見えます。

川の勾配を緩やかにするための床止工(川にある段差のことか)が施されているそうですが、傾斜の程度は東寺の五重塔の頂上と8km上流の北山通りが同じ標高とのことです。
www.pref.kyoto.jp/kamogawa/documents/1175491647483.pdf
京都の地名で「上る」「下る」というものがありますが、北向きに傾斜があることから出てきたそうです。
 古代宮都は排水のことがあり、傾斜地に造られているように思います。長岡京、平城京も傾斜地です。難波宮は台地ですが傾斜地のようなものだと思われます。藤原京は多分違い、失敗作と思います。

2015年5月17日日曜日

仁徳天皇

 NHKのBSプレミアムで
英雄たちの選択「聖武天皇 未完の遷都計画〜最新発掘が明かした大国家構想〜」
を見ました。内容は
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平城京を拠点に仏教に基づく政治を志した聖武天皇。その事跡に、大きな謎とされてきた出来事があった。天平12年(740)、突如平城京を出て、三つの都市を5年にわたって彷徨、これらを新たな都と定めたのだ。唐の「複都制」を目指したという壮大な構想の全貌とは・・・
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です。
 今、聖武天皇が造った都 難波宮・恭仁宮・紫香楽宮、小笠原好彦著、歴史文化ライブラリー、吉川弘文館 を読んでいたのでラッキーでした。NHKの番組では情緒的なところがありましたが、この本ではかなりきちんと書かれています。テレビを見てしまったので読む気が失せてしまってますが。
 この本の中で前期難波宮が天武朝か孝徳朝かの論争があり、孝徳朝の可能性が強くなったとかかれています。難波京の復元にあたって、1970年沢村仁氏は日本書紀の仁徳記と孝徳記の記事を対比し、仁徳朝の京に関する記事は孝徳朝のことをさかのぼって記した可能性が高いとして想定されていると書かれています。
 この部分を忘れてはいけないのでメモっときます。淡海三船の歴史観に従えば、仁と考は関連しそうで、仁徳天皇=孝徳天皇を暗示しているように思えました。

2015年5月10日日曜日

名字:杉山

 松平で思いついたのですが、松の反対:杉、平の反対で山ではないかということです。
松平の反対が杉山です。
 松平がお殿様の名前でおそれおおいということで杉山になったのかもしれません。
杉山の分布です。静岡県に杉が多いわけではないと思います。

2015年5月7日木曜日

松と竹

 昨日、NHKの知恵泉の徳川四天王の録画を見ていて、以前に感じていたことを思い出しました。四天王の一人、井伊直政が武田の家臣団を取り込み、武田の赤備えという朱色で装備を統一していたのを引き継ぎ、井伊の赤備えといわれるようになったとのことです。武田は竹、徳川は松平です。名字で松と竹の関係があるのも、松竹梅だけではなく、徳川に武田が取り込まれたことが影響して、融和の象徴として松と竹があったのかもしれません。鈴木の名字が広がったのも徳川の伸張によると考えられるので、大外れの話ではないように思いますが、名字の分布図を見ると関係がないかもしれません。
   
名字:松田、竹田
名字:松本、竹本、福本、福田

追記:H27.5.8
 松本の分布で他の本と比べて東の方に広がっています。松に徳川のイメージがあるのか、または他の本と比べて新しく出来た名前なのかと思います。奈良時代には松とかは意識されなかったのかもしれません。

2015年5月2日土曜日

孝徳天皇

 名前の立派な天皇です。ウィキペディアによれば、父が茅渟王(ちぬのおおきみ・ちぬのみこ、生没年不詳)、母は吉備姫王(きびひめのおおきみ・きびひめのみこ、生年不詳)となっています。
茅渟とはクロダイのことらしく、地名では和泉の国の古称のようです。親が地域を表す名称とすれば、大阪・岡山の連合を暗示する人物のように思えます。注目したのは、ウィキペディアの年譜のところに白雉3年(652年)4月 - 戸籍を造った。とあります。庚午年籍に先行して吉備の国で行われた痕跡が本のつく名字につながっているではと考えられれば、古墳時代まで名字の起源がさかのぼらなくても良いように思います。

 徳天皇には、別に都の問題があります。在位中は難波宮に宮廷があり、これが前期難波宮に考えられています。ネットで探せばいろいろ図が出てくると思います。「古代の都はどうつくられたか、吉田 歓著、吉川弘文館」にもあります。私は大阪歴史博物館で飛鳥浄御原宮と前期難波宮の両方の平面図を同一の尺度で見ることが出来ました。前期難波宮は天武天皇の飛鳥浄御原宮よりもスケールが大きな宮殿のように思われ、対外的な交渉なども飛鳥浄御原宮では不便で、どうして飛鳥へ引きこもり見劣りする状態なのか納得できる説明がほしくなります。
WIKIでは
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孝徳天皇は難波長柄豊碕宮(大阪市中央区)を造営し、そこを都と定めた。 が、白雉4年(653年)に、皇太子は天皇に倭京に遷ることを求めた。 天皇がこれを退けると、皇太子は皇祖母尊と皇后、皇弟(=大海人皇子)を連れて倭に赴いた。 臣下の大半が皇太子に随って去った。 天皇は気を落とし、翌年病気になって亡くなった。
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とあり、何なんだろうと思います。考えていたのですが、やはり日本書記に洗脳されているようです。

 唐突ですが、単純に孝徳天皇は西日本を統一した織田信長のような人、天智天皇はその後継者、豊臣秀吉みたいな人、天武天皇は壬申の乱で後を継いだ人で、関ヶ原の合戦を制した徳川家康のような人とイメージしないとだめなような気がしてきました。

庚午年籍
『日本書紀』には670年(天智9)二月条に「戸籍を造り、盗賊と浮浪とを断ず」とみえる。これが日本で最初の全国的な戸籍で「庚午年籍」とされる。畿内はもちろん、西は九州から東は常陸・上野まで造籍の実施されたことを示す。氏姓を確定する台帳の機能を果たしたものと思われる。


写真は後期難波宮跡、基壇が大極殿、その右の緑の原っぱが朝堂院、ビルのあたりが朱雀門のようです。前期もほぼ同じとのことです。

 
追記(H27.5.19)
前期難波宮は唐尺が使われているようです。唐の都をモデルにしていたようで、孝徳天皇は唐と友好的な関係を求めており、中大兄皇子はその後白村江で唐と戦うことになり、外交路線の対立があったのかもしれません。


2015年4月25日土曜日

名字:牧野

 馬から牧場を思い出し、関係ありそうな牧野の分布を探してみました。
残念ながら古墳時代の痕跡はわかりませんが、中部地方に多そうで、奈良時代より少し前から平安時代に出来た名字のように想像されます。

ウィキペディアには
平安時代の『延喜式』によれば、勅旨牧は信濃(16ヶ所)・甲斐(穂坂牧、真衣野牧、柏前牧の3ヶ所)・上野(9ヶ所)・武蔵(石川牧・小川牧・由比牧・立野牧の4ヶ所)の計4ヶ国に設置され、前2ヶ国は左馬寮、後2ヶ国は右馬寮の管轄下であった。なお、承平年間には武蔵国で2ヶ所(阿久原牧、小野牧)が増設されている。なお、追加された2牧は宇多院・陽成院の所持していた牧が勅旨牧に編入されたと言われている。特に宇多院は信濃・武蔵両国を分国として国司の任免権にも関与していたと言われているために、勅旨牧の経営に何らかの関与したとする見方もある。
勅旨牧(ちょくしまき)

平安時代には牧が東の方に広がっていくように見えます。

古墳の造営にかかる労働力

 大仙古墳について大林組が試算したものがあるようです。
ここでの前提条件として
牛馬は使用しないとあります。大仙古墳はわかりませんが、馬具が発掘された古墳もあるようです。大規模な工事では牛馬が使われていたような気がします。確証はないですが、現実的な数値にはなると思います。

ウィキペディア

2015年4月19日日曜日

「古墳時代を再考する」を読んで

広瀬和雄著、同成社、2013年9月20日発行です。2500円+税。
古墳についてなんだかわからない状態でしたが、最近出版された本で、だれそれのお墓とか書いていない本を図書館で探していて見つけました。この本は古墳について参考になると思います。
---理解したこと---
古墳時代とその後の律令国家体制は別物である。
日本書記にとらわれてはいけない。
-----------
 安田仮説では、奈良時代ではまだ西日本が統一された状態で、東日本は空白の状態であったとの理解でした。しかしこの本では、古墳時代は全国的に前方後円墳や、前方後方墳などがあり、対等ではなく階層性があり、中央と地方の関係があったとあります。同じような埋葬の文化があることで、日本が統一されていたとは思いませんが、強い結びつきがあるとは思われます。このあたり追っていけるかわかりませんが、今後の私の課題になります。
抜き書きですが、
34ページに平城京やその周辺京城の造営に際してたくさんの前方後円墳が破壊された事実があり、律令国家体制の貴族は古墳の価値を認めておらず、それまでの古墳に価値を持つ時代とはまったく異質であると考えられるとのことです。これは日本書紀における神武天皇からつながるという内容と相反するもので、天皇系統図が作為的なものであるということと整合性があります。

 この本で挙げられている問題として
1.前方後円墳とは何か
2.前方後円墳の成立と消滅
3.前方後円墳に媒介された政治秩序
について述べられています。このあたりはあんまり理解できていません。

 186ページで前方後円墳の終末について、隋・唐の統一と朝鮮半島への進出、それと政治連合を結んだ新羅の朝鮮統一といった緊迫した東アジア情勢が引き金になったとのことである。個人的に思うことは岡山県で鬼ノ城があります。土木的な知識が無いのですが、これも大工事だと想像します。巨大な前方後円墳を作ったエネルギーがこのような山城に換わっていったのかなと思います。時代的に合っていれば面白いのですが。後、高安城というのもあったなと思い出しました。西日本での前方後円墳の消滅に、このような山城を作るためと考えられればすっきりとします。

2015年4月4日土曜日

雑)百舌鳥古墳群巡り

 古墳はどんなものだろうということで堺市へ出かけました。市役所の21階からの展望です。
山のような形で場所はわかりますが、前方後円墳だとはわかりません。

 この写真で左の手前、南海高野線が見えます。緑のくぼみのところですが、低くなっているところを走っているように見えます。阪和線で大仙古墳(仁徳天皇陵)の近くで、天皇陵と同じ目線では不敬にあたるとのことで低くしたということらしいですが(ボランティアガイドの人の話)、南海もそうなのかなと思えます。両線は三国ヶ丘駅で交差し、高野線の方は上を通ります。下の写真、右下レールは阪和線。

古墳巡りコースで、反正天皇陵古墳→永山古墳→仁徳天皇陵古墳→履中天皇陵古墳→いたすけ古墳→御廟山古墳→ニサンザイ古墳と回りました。御廟山古墳くらいから前方後円墳の形がわかるようになってきました。
 
 
方墳の右角から見たところ、中央の方墳と右手の円墳のところはっきりとしています。
 次は、方墳の左端の方から見たところ。方墳と円墳の間の造りだしがわかります。この部分は左右非対称になっています。

 古墳巡りでは、道に迷ったりしてプラン通りには進めませんでした。レンタサイクルを利用して良かったです。

2015年3月31日火曜日

吉備の造山古墳に関して

 図書館で古墳の本を探していたら、歴史読本2015年1月号に古代王権と古墳の謎の特集が組まれているのを見つけました。その中に吉備の造山古墳の記事があります。大和王権の支配下の元に古墳が作られ、履中天皇陵(石津ミサンザイ古墳)のサイズに似ていておおむね96パーセントのスケールで作られている。畿内からの情報・技術的指導で作られていて吉備地域の在地性はないとしています。最初のところで前方後円墳は埴輪で荘厳されるが、そのおおもとは吉備で成立した特殊器台が発展したものと言っていて、吉備→大和との予見をもって読んでいたら、大和→吉備との話に転換してしまったように感じてしまいました。
 別の本ですが、【古墳が語る古代史の「虚」-呪縛された歴史学】に古墳の発生は「大和」でいいのかということで、特殊器台について説明があります。古墳時代に現れる円筒埴輪の大もとのものであろうといわれていて、弥生時代末期の吉備地方の地域性を持ったものですが、卑弥呼の墓といわれる箸墓古墳で確認されたそうです。そのことで箸墓古墳は日本で最古級に属する墓であるということになってるというロジックがおかしいと述べられています。そうなのかもしれないと思いました。歴史読本では吉備→大和→吉備といってるようです。とにかく吉備は古墳時代の重要な地域のようですが、簡単には理解できません。前方後円墳についてのすっきりとした理解まで時間がかかりそうです。


 前方後円墳で関東地方と近畿地方で傾向が違うとのレポートがあります。
関東地方の前方後円墳の盛衰は、近畿地方とは大きく異なる。近畿地方では巨大化が進む前期では、関東では豪族の墓に採用し、近畿で作らなくなる6世紀後半になり、盛んに大型前方後円墳を築造している。千葉県では全国一多い。と書かれています。名字が西日本に偏っているという安田仮説との整合性はあります。時代的に合ってないのが大問題ですが。
 前方後円墳の理解-規模・地域展開-、白井久美子氏
 pdfファイル
http://mitizane.ll.chiba-u.jp/metadb/up/BA31027730/2014no.276_123_132.pdf

2015年3月24日火曜日

吉備国の戸籍

 前の投稿より
1.前方後円墳に見られるように、吉備には強大な勢力があった。
2.吉備を中心に本のつく名字が広がっている。
1と2より、吉備国で戸籍が作られ、その痕跡が本のつく名字に残っていると想像されます。
多分、庚午年籍・庚寅年籍などよりも古い時代のように思えます。
 関係ないですが、吉備真備(キビノマキビ)という人がいます。ウィキペディアでは、695年-775年の人ですが,King of Kingsみたいで、吉備国のホープのような名前のように思います。
 時代的には合ってませんが、吉備国のことを頭においておかないとダメだという気がします。

2015年3月23日月曜日

巨大古墳、岡山

 前方後円墳の順位です。大阪・岡山・奈良に大きいものが残っています。
ウィキペディアからコピーしました。大阪・岡山・奈良に多いですが、上位にある大阪と岡山が同じ文化圏として何かあるなと思いました。
 安田仮説では名字は7世紀前半の話と考えていますが、難波の名前が岡山県に多いのは古墳の時代からの影響なのかとも思います。

 
順位 古墳名       所在地             旧国 墳丘長(m)  
1   大仙古墳           大阪府堺市           和泉  486  
2   誉田御廟山古墳    大阪府羽曳野市           河内  425
3   上石津ミサンザイ古墳(石塚丘)  大阪府堺市       和泉  365 
4   造山古墳       岡山県岡山市              備前  360   
5   河内大塚山古墳    大阪府松原市・羽曳野市     河内  335  
6   見瀬丸山古墳      奈良県橿原市            大和  318  
7   渋谷向山古墳      奈良県天理市            大和  302 

参考
岡山県に多い名字:三宅・難波・守屋
「本」グループ、三宅

2015年3月17日火曜日

天皇の名前

 前稿で、淡海三船を実直そうな人だと言いましたが、反骨の人のように思えてきました。
天智天皇は智力で天下を取り、天武天皇は武力で天下を取り、持統天皇は天武天皇の統一した日本を維持したの意味であろうと思います。孝徳天皇はそれほど良くは思われていないのですが、立派な天皇であるとのメッセージだろうと思います。文武天皇はちょっとわかりませんが、その後に元明天皇、元正天皇がおられます。以下は私の想像です。元明とは元が明らかということです。元正とは元が正しいということです。元とは何かというと、天皇の系統のことだと思います。元明天皇、元正天皇はこの系統がしっかりしているということを言ってます。とするとその前はしっかりしていないということを暗に示しています。それが推古天皇にさかのぼるということです。
 以下のリンク参考にしてください。

天皇の系図

東大寺

2015年3月15日日曜日

推古天皇の名前

 推古ですが古きを推し量るの意味だろうと思います。
ウィキペディアによれば、淡海 三船(おうみ の みふね)が神武天皇から元正天皇までの全天皇(弘文天皇と文武天皇を除く)の漢風諡号を一括撰進したとされています。何か実直そうな人のように感じられ、古き時代を推測するのは推古天皇が手がかりになるとのメッセージに思えます。
 さて推古天皇の和風諡号は豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと、『日本書紀』による。『古事記』では豊御食炊屋比売命という)です。前稿の「食いもの」の神語りによれば、飯は甑(こしき)という蒸し器で「炊しき」調理されていたらしく、「かしきや」は神事に関わる調理場のことのようです。
 私は豊御食炊屋姫尊から伊勢神宮の外宮の豊受大神を勘違いしてしまいました。
内宮がアマテラス(持統天皇)、外宮が推古天皇(持統天皇)と思ってしまいダブってしまい混乱しました。しかしウィキペディアの豊受大神について
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トヨウケビメは、日本神話に登場する神である[1]。
豊受大神宮(伊勢神宮外宮)に奉祀される豊受大神として知られている[1]。『古事記』では豊宇気毘売神[1]と表記される。『日本書紀』には登場しない。別称、豊受気媛神[2]、登由宇気神[1]、大物忌神、豊岡姫[1]、等由気太神[1]、止与宇[3]可乃売神[1]、とよひるめ、等々。
------
と書かれています。日本書紀に登場しないことに引っかかるものがあります。

これもメモ書きとして公開します。

2015年3月14日土曜日

古い国名

角川選書551「食い物」の神語り 木村紀子著
を読んでいて、目からウロコでした。その中で理解したことに
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瀬戸内海を廻る周辺の国には、粟の国、黍の国など穀物の名のついた国がある。淡路島も粟への道の島の意味であり、その近くにはアズキ島もある。・・
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があります。安田仮説では天武・持統朝それより前くらいから大規模水田稲作が今の岐阜県に広がったのではとの想像しています。愛知県が終わりの国なので、日本書記が成立する前に大和政権が西日本を統一し、国名を定めたと考えて整合性はあります。好字令により、黍→吉備、粟→阿波、終わり→尾張となったのではないでしょうか。地名の成立は粟・黍が主体の地域(大和より西の地域)がある中で、フロンティアの大和の東から、稲作を主体にするという国の方針が定まったのではと想像します。壬申の乱で天武天皇が移動した地域がおそらくフロンティアの地域に対応しています。

上記の本にも記述されていますが、日本書紀に
-------
天照大御神は天熊人(あまのくまひと)を遣わして、保食神の様子を見に行かせた。保食神は本当に死んでいたが、その頭からは牛馬が、額の上には粟が、眉には蚕、目には稗、腹の中には稲が、さらに陰部に麦と大豆と小豆が生まれていた。天熊人は、それをすべて持ち帰って天照大御神に献上した。それを見た天照大御神は、大変喜んだ。そこで粟、稗、麦、豆を畑の種として、稲を水田の種とした。さらに天の邑君(あまのむらきみ)を定めた。その稲種を天狭田(あまのさなだ)と長田に植えた。その年の垂穂は、八握りもあるほどしなって、たいそう満足するものであった。
この部分引用です。
-------引用

天照大御神を持統天皇と考えると、水田稲作を重要視していることがわかります。また具体的に天の邑君(農民の長)など当時の雰囲気を神話形式ですが、におわせています。アマテラスを通じて日本の国の基本方針を語っていると思います。

アマテラス=持統天皇は、日本書記の一部では成立していますが、この部分も大丈夫のようです。

追記:H27.3.16
東の方の国名では、信濃←科野、美濃←三野、三河←三川など地形的なものが多いような気がします。開発されていく地域のイメージがあります。

2015年3月12日木曜日

長谷寺

 奈良県桜井市にあるお寺です。大和と伊勢をつなぐ初瀬街道沿いにあります。
ウィキペディアによれば長谷川の名字で初瀬が起源になったと説明しています。
桜井の地に流れる川が「初瀬川(はつせがわ)」や「泊瀬川(はせがわ)」と呼ばれていたが、この場所が長い谷の地形であったことから長谷と漢字で表され発音のハセと一体化したとのことです。
長谷=初瀬=ハツセ=ハセ
グーグルマップを画面切り取りしたものを示します。
(リンクの仕方を忘れてしまいました。)
赤のA点が長谷寺です。165号線を見れば谷になっていることがわかり、多分そうであろうと思います。

 長谷寺の創建については、国宝の銅板法華説相図(どうばん ほっけせっそうず)があり、その中に「飛鳥清御原大宮治天下天皇」のために造立したとみえ、天武・持統天皇にあたることから年代が想定されているようにも思えます。ただし、現在、本銅板銘は長谷寺(三重塔)の建立銘ではなく、銅板そのものの造像銘であることがですでに確認されており、長谷寺の創建と銅板とは切り離して考えることが通説となっているようです。天武・持統朝の創建とは考えられていないようです。

 雄略天皇は、第21代天皇。大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)、大長谷若建命、大長谷王(古事記)、大悪天皇、有徳天皇とも呼ばれ、この地と関係があるかもしれません。

2015年3月8日日曜日

曽我・物部の争い

 日本書記では崇仏派・蘇我氏と廃仏派・物部氏の争いとされます。宗教対立がそれほどの問題とは感じませんが、おそらく書紀の書かれた時代が反映して取り込まれたと思います。天武天皇・持統天皇の時代は国家神道を目指していたはずです。しかしその後の聖武天皇の時代には国家仏教に転換していきます。東大寺や国分寺など大きな財政負担になったはずで、政治の大問題になり、対立のもとになると思います。日本書紀の書かれた時代には神仏問題が重要問題と認識されていたとの想像です。書紀の内容については蘇我氏が優位になりますが最終的には乙巳の変で滅んでしまい、神道派におさまる展開になります。昨晩の思いつきですが、メモしておきます。

2015年3月7日土曜日

倭の五王

山川の日本史によれば、
中国の宋書に5世紀に讃、珍、済、興、武と呼ばれる倭の五王が中国南朝の宋にに使いをおくったという。これは大和の王であろう。・・・5人の王のうち最後の倭王武は「古事記」「日本書紀」に伝えられる雄略天皇であると考えられるが、・・・
とあります。
安田仮説ではどうなるか考えてみましたが、大和の王であることは微妙で今のところなんとも言えません。
天皇の系図が作為的であることから、武は雄略天皇と考えることは無意味であろうと思います。

次のページに「鉄剣は語る」として
埼玉県行田市の稲荷山古墳でワカタケル(本当は漢字文)の文字のある鉄剣が見つかったとして大和王権がこの地を支配したことが明らかになったとしています。
この部分も飛躍しすぎのように感じます。鉄剣があるだけで支配することになるとは思えません。
邪馬台国大和説、大和王権が日本を統一したことを暗黙の前提としているようで、安田仮説とは相容れません。

「もう一度読む山川日本史」より



豊葦原中国

(旧字体:豐葦原中國、とよあしはらのなかつくに)
古事記で天孫降臨の時にに出てきて、日本の国土を表しているそうです。
ここで葦原という言葉からの想像です。
葦原は日本の原風景のイメージですが、葦原から新たに水田などを造成していくという国土建設の意気込みを示しているように感じました。瑞穂の国とか大嘗祭(だいじょうさい)など稲作に関する儀式などから、当時の意識では稲作を国の基本と考えていると思います。

大君は 神にしませば 赤駒の 腹這(はらばう)田居を 都となしつ

という歌がありますが、大規模な土木工事などが行われ、稲作も大規模化がはかられていく中で国の統一がなされていったのではと思います。天武天皇から新しい時代が始まることをアピールしていますが、実際にもそうだったかもしれません。話が飛びますが、安田も都のたんぼだということを確信します。

2015年3月5日木曜日

イザナキとイザナミの国生み神話

古事記では、イザナキとイザナミはオノゴロ島に降り立ち、子を産みます。
それがヒルコと淡島です。このあたりは不明ですが、その後に
八つの島「大八島」と六つの島々を生みます。
「大八島」とは本州・佐渡島・淡路島・四国・隠岐の島・対馬・九州だそうです。
本州は全体に広がっていますが、佐渡島を除いて他の地域は西日本です。
古事記の世界(8世紀前半)では当時の支配地域を示していると思います。

歴史がおもしろいシリーズ
図解 古事記・日本書紀 33ページの図

安田仮説の図
参考

2015年3月2日月曜日

(メモ)宇治平等院

雨の中、宇治に出かけました。
ここでは、平等院鳳凰堂のメモです。
鳳凰堂の手前が池になっていて、礼拝するところからの写真です。中央に丈六の阿弥陀様がおられ、頼通の小御所があった場所らしく、ベストポイントのようです。

 
 
都名所図会(江戸時代)ではかなり違っていてびっくりします。灯籠が2個とか両側の翼のところとか違います。中堂の前が広場のようですが、今は平安時代の州浜に戻されています。



両側の翼廊の部分は中堂とはつながってなく、完全な飾りになっています。下のチケットにあった図でわかりやすいです。


中堂の奥の尾廊と呼ばれているところは、鳳凰のイメージで必要かもしれませんが、無用のものです。この後の時代の中尊寺金堂では、奥の方に扉があるだけで、鳳凰堂で本当にあったのかと思います。単に感じているだけですが。

---宇治のメモ---
宇治上神社での祭神は、
菟道稚郎子命・応神天皇・仁徳天皇
ですが、どう考えるのだろうかと思います。
単純に菟道稚郎子命の時代に合わせているだけなのか?
本殿は平安時代後期の建立で、神社建築としては現存最古とされる。
宇治川対岸にある平等院も平安時代後期とされる。

2015年2月25日水曜日

夏見廃寺

 近鉄大阪線で名張付近で窓から風景を見ていると古い時代に開発された地域の雰囲気が残っているように感じます。さて夏見廃寺ですが、伊勢と奈良の間にある名張市で昭和12年古瓦発見から調査されたものです。
 金堂と塔を中心とした伽藍配置が確認され、金堂の建立は7世紀末とされています。
 (大形多尊塼仏の須弥壇部分に「甲午年□□中」(694年)の表記があることから)
 説明文の写真は発掘当時のもののようです。

 金堂の礎石配置から、桁行3間、梁行2間で内側の身舎(モヤ)と呼ばれる部分と外側の廂(ヒサシ)と
呼ばれる部分も同じ柱間数です。これは奈良県飛鳥山田寺の金堂跡などがあるが珍しいものらしいです。下の写真の青と赤のラインです。写真の上が南側でそちらが正面になります。

 壬申の乱の時に吉野からの移動の時に名張が出てきますが、藤原京ー伊勢神宮が持統天皇の時代に関連していて、そのときにその間にある夏見廃寺があったことから、この地域の強い結びつきを感じます。見学した時は私だけでしたが、伊勢と藤原京をつなぐ重要なルートでもっと注目されて良いところだと思います。

 追記(H27.2.26)
 
 
 
 
  多分、理解不足のところがあります。せん仏が御所市の二光寺廃寺のものと似ているものがあり、時代的に共通するものがあるとのことですが、あちこちに似たようなところがあるのかもしれません。この投稿を削除すべきかもしれませんが、このままにしておきます。


2015年2月20日金曜日

住吉大社2

 高槻市立しろあと歴史館の企画展「郷土玩具と出会う場所 ~神社・お寺・名所おみやげ市~」を見に行ったら摂津名所図会などが展示されていました。神社などの名所図会の中に住吉大社もありました。写真を撮らしてもらいましたが、図の左上の神宮寺は明治の廃仏毀釈運動でなくなっています。右中が住吉大社です。第1宮と第2宮は塀のようなもので囲まれています。今はありません。明治のその時に大社の塀が取り除かれたのかもしれません。その古い時代のものがそのまま残っているとは限らないということです。図は寛政10年・1798年となっています。


最近、名所図会をゆっくり見てませんでした。
  

2015年2月19日木曜日

天皇の系図について

 宮内庁のホームページの天皇系図を見ていてエクセルでグラフにしてみました。
横軸が神武天皇からの在位の順番に対し、縦軸は神武天皇から何世代目かを示したものです。
神武天皇は1の1です。第99代の後亀山天皇は52世代なので、横99の縦52です。
兄弟は同じ世代とカウントしています。
 系図では気がつかなっかたのですが、グラフを見ると
段階Ⅰ、段階Ⅱ、段階Ⅲとパターンが違うように思えます。
段階Ⅰ・・・日本書紀で考えている理想の状態で、親から子へ皇位が継承されるパターンで、
      直線的に変化しています。
段階Ⅱ・・・階段状になっています。皇位が兄弟に継承され、その後次世代に継承されています。
      天智天皇から天武天皇への継承の伏線となっていると思います。
段階Ⅲ・・・継承が乱れている段階です。
      推古天応→一世代飛ばし→舒明天皇とか持統天皇→一世代飛ばし→文武天皇など
      持統天皇からの皇位継承を過去にもあったという実績作りのように思えます。
   

追記(H27.2.21)
天智天皇->天武天皇と思い込んでいましたが、
系図では、天智天皇->弘文天皇->天武天皇となっています。ウィキペディアで見たら、弘文天皇は明治になってから諡号を贈られたそうです。
日本書紀では天智天皇->天武天皇を主張したがっています。そのために段階Ⅱがあるということだと思います。

2015年2月14日土曜日

日本書紀の考え方

 前の投稿で言ってますが、国の理念的なことを聖徳太子を通して記しています。
後、考えることとして、天皇の系統性を強調しています。
それが日本書紀作成の時代の理想とする考え方だと思います。
 これは実際には、当時においては天皇の継続性はなかったからではと想像させます。私のイメージとしては戦国時代の政略結婚のように天智天皇の娘が天武天皇に嫁に行ったということではと想像します。安田仮説では西日本が統一されたとしていますが、西日本の地域が連合していく段階であったのではということです。おそらく東アジアの不安定な中で外圧的に日本の中がまとまらなくてはいけない状況に追い込まれ、その連合政権の中での主導権争いのようなものが壬申の乱とかいろいろな粛清のような事件があったということが考えられます。単なる想像ですが、成立するのかどうか考えていきたいと思います。

2015年2月12日木曜日

聖徳太子の考え方

 聖徳太子は作られた人だということですが、理由についてはわかっていませんでした。
ただ単純に推古天皇の時代に「和を以て貴しと為す」というのに違和感を持っただけでした。
しかし奈良時代の政治的な抗争などを見ると、日本書紀の書かれた時代に、対立だけの歴史書では情けないと当時の人は感じて、国家の理念を含まない歴史書では価値がないと考えたのではと想像します。そのために推古天皇と聖徳太子を作り上げたということです。当時においても遣隋使が男王であったことは多分認識していたとは思いますが、理念が大事で些末なことは気にしなかったのでしょう。天皇の系図でも推古天皇のあたりから、皇位継承が横広がりになっていて操作されている雰囲気があります(個人的主観です)。
 強い意志を持って国家としての理念を盛り込んだもので、単なる辻褄合わせでは無いですが、日本書紀を単なる歴史書として見てはいけないのだということでしよう。至極当然な考え方だと一人納得しています。

2015年2月9日月曜日

東大寺

743年、聖武天皇、紫香楽宮において、大仏造立の詔を発する。
752年、東大寺大仏の開眼供養が催される。孝謙天皇参列、聖武太上天皇と光明皇太后も臨席。
とあります。
 持統天皇の時には国家神道と思っていましたが、聖武天皇の時代には大きく変化しています。
山川日本史では、東大寺大仏を中心に国ごとに国分寺を配して、天皇に統合される平安国土を祈ったからであろうと記述されています。国家仏教になったようです。政治的には不安定で都を平城京から、山城の恭仁、摂津の難波、近江の紫香楽と移していて、社会不安が深刻になり仏教に頼ることになったとのことです。昨年の正倉院展で聖武天皇の御杖刀(仕込み杖)が展示されていました。一見すると杖に見える刀で、身を守るためのもので、乙巳の変などが想定されていたのかもしれません。切羽詰まった状況を想像させます。
 またこの時代の皇位継承も素人目にはわかりにくいもので、道鏡が皇位につくような話など本当かなと思います。系図を示しますが、重祚で孝謙天皇・称徳天皇と皇極天皇・斉明天皇と推古天皇・持統天皇の関係、似ているように感じます。思い込みかもしれません。奈良時代というのは混
乱の時代であったということは確かであろうとは思います。

系図は宮内庁ホームページより抜粋してます。

追記:H27.2.28
「物部・蘇我氏の神仏争い」について
事実ではないと思いますが、日本書紀の書かれた時代に
神仏が重要な問題となっていて、反映されたのかもしれません。

2015年1月31日土曜日

邪馬台国の場所

 近畿地方説、九州説などがあるようです。意識していませんでしたが、安田仮説からどうなるか考えてみました。
1.漢委奴國王の金印が福岡県で見つかった。後漢書により建武中元2年(57年)とされる。
  1世紀に九州に存在した。
2.「魏志倭人伝」により2~3世紀に日本列島に邪馬台国が存在したとされる。
3.7世紀には畿内で統一された。ただし安田仮説では支配地域は近畿以西である。
4.12世紀になり鎌倉幕府で関東地方まで領域が広がったこと。
という4項目です。

 安田仮説では、首都がおおよそ西から東へ移っていると考えています。
 ここで邪馬台国が近畿地方にあるとすれば、7世紀にはもう少し東に拡大しているはずで、七世紀の支配領域から考えにくいです。移動する時間を考えれば、九州に存在する方が常識的です。早く東進したとして吉備にも行かないぐらいではないかと思えます。そして奈良時代、平安時代から鎌倉時代まで400年くらい西から東への移動に時間がかかっています。

 3.ですが、百済滅亡で来た渡来人により、日本語の文字化が進み、その結果としての名字が影響下のある地域、西日本で共通化したこと。その後、中部地方・関東地方へ軍事的な進出とともに文化的な政策として万葉仮名などの文字の強制があったのでは。それが、万葉集の東歌などでわかるように、大伴氏が軍事・文化の両方で役割を果たしたのではとの想像です。

 暗黙の了解的な話ですが、九州→近畿→関東と西から東へ移動していくのが日本の歴史だと考えているので近畿地方説はとりにくいです。

参考にブログ最初の頃の記事にリンクしておきます。この中の日本地図が安田仮説の原点です。

三関(2)

2015年1月25日日曜日

伊勢神宮3

伊勢神宮と出雲大社 「日本」と「天皇」の誕生
新谷 尚紀 著
講談社

上記の本を図書館から借りてきて読みました。というか最初の方だけです。
天照大神とモデルが持統天皇と考えられ、理由を三つあげられています。
1.諡号が日本書紀で「高天原広野姫天皇」となり、高天の原神話が形成された。
2.天照大神と皇孫瓊瓊杵尊(ニニギ)が持統天皇と文武天皇の関係に投影されている。
3.拍手の作法が持統天天皇以来の即位儀式と伊勢神宮の神職の作法に通じている。(理解できていません)
 知りませんでしたが、天照大神=持統天皇というのは一般的な認識のようです。
さてこの本で、天照大神の伊勢鎮座伝承ということで、近江国から美濃をへて伊勢へのコースが壬申の乱が反映されていると書かれています(p.64)。これも私は当時の国境を表したものだと思いました。日本書紀により作られた伝承と考えられます。

2015年1月19日月曜日

住吉大社

 ご祭神は底筒男命 (そこつつのおのみこと) 、中筒男命 (なかつつのおのみこと) 、表筒男命 (うわつつのおのみこと) 、神功皇后 (じんぐうこうごう) です。境内の奥(東側)から、順に第一・第二・第三宮が並び、第三宮の南に第四宮ということになっています。
 これらの建物は住吉造ですが、第一から第三は千木の先端が縦に切っているのに対し、第四宮は水平に切っています。写真は見にくいですが第三宮と第四宮を見たところです。ウィキペディアでは男神と女神の違いといっていますが、本当だろうかと思います。伊勢神宮の内宮と外宮のことを考えれば、天皇家に近い方が水平で遠い方が縦の形式のような気がします(他の例は未確認)。第四宮に神功皇后が祀られているのではとのことです。
 配置から言えば、最初に第一から第三宮が西向きで並んでいるところへ後から第四宮が割り込んできた感じです。いつの時代かということですが、伊勢神宮のことを考えると国家神道を推し進めていく持統朝での可能性は高いと思います。持統天皇のモデルが伊勢神宮では天照大神、住吉大社では神功皇后です。

住吉大社の配置図を示します。南海住吉大社駅の案内板コピーです。左が北ですので注意。
図の下の方向が西です。第一宮ではなく、第一本宮となっています。こちらが正式名称かもしれません。


2015年1月6日火曜日

日本語の方言

 昨年、一時的に方言に興味を持ちましたが、ほったらかしになっています。
忘れてしまわないように現時点の妄想をまとめておきます。
方言の考え方ですが、a)によれば代表的には2つあり、
1)周圏型
 かって都のあった近畿地方を中心として、周辺に同心円状に分布していく型である。
2)東西対立型
 日本列島のほぼ中央にあたる長野県西側の付近に、種々の言語的な東西対立の境界線が走っている。
 地理的な要因によって生じた結果だと考えられている。とのことです。
 1)は日本が統一された状態を仮定していて、鎌倉時代以降の話のように思われます。
 2)地理的な要因としているがそうだろうか?
 仮説ですが、ある時代に日本語に劇的な変化が起こり、その結果として東西対立の境界線が起こったと考えられないかということです。
 時代的には、アイヌ語のようにもともと文字を持たない状態であったのが、万葉仮名のようなもので書き言葉が取り入れられたことが影響しているかもしれないと思います。万葉仮名的な文化的侵略があった可能性があります。ロジックがジャンプしすぎですが、考えていかねばと思っています。


a)図解、日本語の語彙、沖森卓也・木村義之・田中牧郎・陳力衛・前田直子 著、三省堂

2015年1月5日月曜日

伊勢神宮2

 伊勢神宮の内宮・下宮の位置関係について考えていましたが、もともと下宮があるところに内宮が割り込んできたような雰囲気があります。最近ネットで検索するときに学習効果か?偏向してきているような気がしますが、太陽の道というのが出てきます。北緯34度32分のラインにアマテラスに関連した遺跡が数多くあるそうです。内宮・下宮の位置関係を解決できるものではないように思いましたが、藤原京というのが出てきました。ウィキペディアによれば、690年(持統4年)に着工され、飛鳥浄御原宮から694年(持統8年)に遷都した。とのことです。同じく伊勢神宮の式年遷宮が始まったのが持統天皇4年(690年)です。国家体制が整えられる中で出てきたもので、伊勢神宮が藤原京のおおよそ東にあるのは偶然ではないように思います。