2015年10月24日土曜日

沢のつく名字

 沢のつく名字が記憶ですが山梨県に多いなと思っていました。名字の傾向が地方によって異なり、偶然では無く何らかの意味があると思っていました。常陸風土記のことから思い出しました。
 〇沢の形の名字が多い地域を2年ほど前に調べていました。今あらためてこの図を見ると沢のつく名字は長野県に始まり東北地方に広がっています。以前であれば、平安時代ぐらいに沢のつく名字がその後の東北進出とともに広がっていったと解釈しますが、常陸国のことを考えると、時代の前後関係が微妙で分けわからなくなります。沢のつく名字は同一時期に発生したことは確実ですが、奈良時代か平安時代か、今後の課題です。またこのようにクリアに分布が出ている名字はなかなかありません。他には〇根の名字は山陰地方に多いような結果があります。
元々、一文字の名字が、好字令で二文字にするときにこの地域では便宜的に沢をつけたという可能性があるのかこれも何とも言えません。地域としての統一されたものがあることは確かですが。

2015年10月18日日曜日

常陸国

 安田仮説では、大和政権は西日本までの統一であると言ってますが、常陸国風土記が問題と
なっていました。常陸国は今の茨城県です。飛び地であるとしていましたが、知識が増えて
きましたので、現時点のメモ書きとしてアップします。
 常陸風土記とは、ウィキペディアによれば、奈良時代初期の官選の地誌とされていて、その
写本が5つ残っていてその一つです。この風土記の編者は、当時常陸守であった藤原宇合が
有力とされています。出だしの常陸国総記の中に
・・難波長柄豊崎大宮臨軒天皇(注で孝徳天皇)の時代に、高向臣・中臣幡織田連らを遣わ
して、坂(前の方の相模の足柄岳の坂か?)より東の国を総領めしめき(注で東国の八国を
統治)。・・・
とあり、彼は後期難波宮造営の責任者で、孝徳天皇を意識していてそうかもしれないと私は
思いました(弱い理由ですが)。納得いく説明は
「常陸国風土記」の世界-古代史を読み解く101話-、井上辰雄著、雄山閣の第100話
にあります。
 常陸国は藤原氏とつながりが強いようで、藤原氏の氏神を祀る奈良の春日大社は、・・768年
(神護景雲2年)に藤原永手が鹿島の武甕槌命、香取の経津主命と、枚岡神社に祀られていた
天児屋根命・比売神を併せ、御蓋山の麓の四殿の社殿を造営したのをもって創祀としている
(ウィキペディア春日大社より)となっています。常陸国を藤原氏が注目していたのだと思います。
 さて鹿島神宮の武甕槌命が春日大社に白鹿に乗ってこられたとのことですが、どのような交
通手段であろうかと思います。もちろんイメージの話です。私は海上ルートではと想像します。鹿島神宮の位置は東が海で、名前の通りヒタチ(日立)を見ることができます。これはアマテラスを皇祖神とする伊勢神宮と同じパターンで伊勢神宮-熱田神宮-鹿島神宮が海上ルートでつながるような気がします。東海道というものがあります。今は電車が走っている地域を思ってしまいますが元々の意味は東の海の道のはずです。飛び地であっても船を使えば移動は問題無いように考えられます。
 あと、常陸風土記を詳しく見てないですが、侵略的な雰囲気を感じます。
古老の話のスタイルになっていますが、倭武天皇の話などそれほど古い話ではないのではな
いかとも思います。地名の話なども中央からの目線を感じます。
 藤原氏などの律令制を採用した中央集権的な体制の大和の勢力が、前方後円墳の文化を持つ
、地方分権的な共同体組織であった地域を制圧していく過程が風土記にあらわれているような気がします。防人も捕虜的な扱いであったことにつながるはずです。
 七世紀から八世紀にかけて劇的な変化が起こっていて、この前後の時間的な関係がシビアで
あることは認識しました。今は妄想段階で、どうなるかわかりませんが、現段階のメモとして残します。

参考:常陸国風土記 
   編著者:沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉