2020年2月29日土曜日

天智天皇の実在

 天智天皇の近江大津宮があります。大津市の錦織遺跡が大津宮の遺構と考えられていますが、狭小な地域にあって、発掘された部分も小さく、都とは考えられません。孝徳天皇の前期難波宮跡に較べて見劣りしています。孝徳天皇は実際に実在したと私は考えています。大津宮の規模では、本当に天智天皇がいたのかと疑われますが、そうでは無いであろうと今は思っています。
『古代寺院史の研究』を見てです。その根拠は白鳳寺院の遺跡数です。本の中の表1を抜粋しますが、
白鳳寺院の遺跡数が近江で圧倒的に多くあります。赤字の66のところ。寺院が多いということはその地域が経済的に発展していることを示し、近江大津宮がお粗末だったとしても、白鳳時代に天智天皇が近江にいたとして整合性は取れています。奈良時代になり寺院の数は減っていますが、天智朝が滅んだことと対応していると思います。

2020年2月27日木曜日

大宝という年号

 下記の本に面白いことが書いてあります。木簡では干支年で表記されていたのが、年号の「大宝」が使用されるようになるとのことです。発見された木簡では648年が最古で、干支は60年周期なので、大宝元年(701)にうまく収まっているので年代の特定に楽であると書いてあります。701-60=641。つまり偶然で楽になったように書いてましたが、そうだろうかという気もします。最近では2000年問題で、コンピュータの中の年代が下2桁で表したのが問題であったようですが、この時代も60年問題がおこっていたのかもしれません。
『古代地方木簡の世紀』(財)滋賀県文化財保護協会編、サンライズ出版、2008年12月、37ページ

 人生60年以下の時代では、それ以上の期間の歴史に興味がなかったのか、国の歴史とか考える人がいなかったのか。大宝律令ができるまで、必要とされなかったとすれば、古い時代の歴史はあやふやなものになります。

2020年2月25日火曜日

古代の都

戦国時代からのアナロジーです。
織田信長→豊臣秀吉→徳川家康に対応して
安土城→大阪城→江戸城
のイメージだと思います。徳川家康に注目して
安土城→大阪城→岡崎城→江戸城のように考えてはおかしくなると思います。
城から古代の都を想像しますが、孝徳天皇→天智天皇→天武天皇→持統天皇に対して
難波宮→近江大津宮→飛鳥浄御原宮→藤原京となります。
どう考えても飛鳥浄御原宮は無理があると思われます。
これが成立するためには、孝徳天皇・天智天皇・天武天皇が、織田・豊臣・徳川のように時代が少しずつずれた別の政権グループだと考えるしかないと思います。
難波宮と飛鳥浄御原宮に宮都がスケールダウンしたのは、初期の段階では、元々天武政権の初期段階であったということで、白村江の敗戦のあと、『日本書紀』は正確には記述していないと疑われます。難波宮と天武天皇の関係を隠しているように思われます。
難波宮→近江大津宮への変化は、これから考えていくつもりです。

2020年2月19日水曜日

『日本書紀』の考え方の追加

下記の本からの理解である。
3ページに『日本書紀』の史料的性格について述べられている。
『日本書紀』はこの世の始まりから持統朝までを記述する。全三〇巻。系図一巻が附属していたが失われた。舎人親王の下で編集が行なわれ、元正朝の養老四年(七二〇)に完成、奏上された。とある。また
記述が持統朝までで終わっていることの意味は何か。持統朝の次は文武朝で、文武朝の大宝元年(七〇一)に大宝律令が編纂・施行され、律令国家が名実ともにスタートした。つまり、『日本書紀』はこの世の始まりから律令国家の成立直前までの歴史を総括する、律令国家成立前史なのである。とある。
途中省略するが、
以上のように、『日本書紀』は各部分によって史料的な性格を大きく異にする。したがって、それぞれの扱い方、注意点も異なる。考えようによっては扱いが非常に厄介な史料である。神話は神話として扱わなければならないし、五世紀・六世紀の部分は歴史的事実を慎重に見極めなければならない。また、七世紀の部分は基本線はほぼ歴史的事実にもとづくとはいうものの、それらは国家側の主張。見解であり、中国の古典にもとづく粉飾も認められ、史料批判を厳密に行なう必要がある。
とある。
つまるところ、日本書紀の正統性を主張するのは文武朝であり、それ以前の、孝徳・天智・天武の時代であっても文武朝にとって都合が悪い部分が潤色されるということだと思う。逆に言えば、『日本書紀』と不一致であるところは、遺跡や史料を含めて徹底的に追求しなければいけない。天地開闢以来の歴史を主張する『日本書紀』は、七世紀の部分であっても、基本線は正しいということは言い切れない。
下記の本には、日本霊異記のところで七五ページに長屋王のことが述べられている。
例えば、中巻一縁は長屋王を主人公とする話であるが、そこには「太政大臣正二位長屋親王」と記されている。長屋王は天武天皇の孫であり、天皇の子ではないのでそもそも「親王」は誤りであり、神亀二年(七二四)に正二位左大臣となっているので「太政大臣」も誤りであるとされ、『日本霊異記』のこの説話の事実関係は疑問視されてきた。しかしその後平城京左京三条二坊の長屋王邸から「長屋親王宮鮑大贄十編」と記された木簡が出土したことから、令の規定とは異なり、当時の古代社会では長屋王は「親王」と認識されていたことが判明し、『日本霊異記』の記述が必ずしも誤りではなかったことを証明した。
と書いてある。高市皇子が天皇であれば子である長屋王が親王であることは全然問題ではなく、自然な流れである。『日本書紀』の目的に、持統天皇から文武天皇への正統性を強調することがあるためと思われるが、疑いを持っておかなければならない。

『古代資料を読む 上 律令国家編』
佐藤 信、小口雅史編、(株)同成社、2018年3月発行

2020年2月15日土曜日

白村江の戦いと天智天皇

『日本書紀』は、中国の唐に対して日本の由緒を示すために書かれたものであると考えている。従って、天智2年に朝鮮半島の白村江での戦いで、日本・百済復興軍が唐・新羅の連合軍に負けており、如何に記述するかが重要となってくる。つまり無視することは出来ないし、また日本側に都合良く記述することも許されない。当たり障りの無い扱いで、後の壬申の乱とは扱いが全く異なっている。この戦いの記述は少なく、戦争責任について述べていないように感じるところである。後の時代に、朝鮮での戦いとして、文禄・慶長の役がある。これは秀吉の朝鮮出兵であったが、大失敗であった。秀吉の死後、すぐに撤退が始まっている。結局、戦争責任の追及問題から、五大老・五奉行体制が崩れ、関ヶ原の合戦が起こり、それだけで終わらず、秀吉の子の秀頼の時代に豊臣家が滅亡することで決着がついている。これと同様で、天智天皇にも戦争責任があり、壬申の乱がおこり、最終的に天智天皇の子の大友皇子の近江朝廷が滅亡することで決着がついたとのアナロジーが考えられる。『日本書紀』では、天皇と戦争の関係であるが、斉明天皇が筑紫の朝倉宮で崩御され、この時は天智天皇は、皇太子で称制して、そのままの状態が続き、ようやく天智7年に即位され、形式的には戦争時には天皇はいないことになっていて責任者不在になっている。実質的には白村江の戦いの指揮を天智天皇がとっていると考えられるので、壬申の乱で子の時代に責任をとった形である。天智天皇の時代は多くが隠されて過小評価されているように感じ、実質的にはそうではないように思えてきた。以前のこのブログ記事では、単に皇太子で、戦争担当者にすぎないと考えていた。これは、近江朝廷の都の規模が小さく見え、それほどの勢力ではなく、仮の都のイメージを持ってしまったための間違いである。そうではないであろう。孝徳天皇→天智天皇→天武天皇と続く中で、革新性を引き続いて持っていたはずである。

2020年2月11日火曜日

原始日本語

日本語は、いつ発生したのであろうか。現代の日本語の元になった原始日本語のようなものであろうが。今の日本語についての解説が以下の本に書いてある。
『ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る』、梅森直之編、2007年5月、光文社新書からの発想である。特に第2部は梅森氏が理解しやすいように書かれていてありがたい。
出版資本主義(一四〇頁から)
日本語とは何であろう。日本人が話す言葉が日本語であると信じているが、人によって異なっている。アンダーソンは、雑多な日常の言葉を「俗語」としている。正式な言葉が「標準語」であり、「出版後」であるというのがアンダーソンの考えで、出版が産業として成立するためには市場が必要でそのために作られたものが「国語」であるとのこと。日本人が日本語を話すのではなく、日本語を使うことで日本人になると主張している。毎日、新聞を見る行為は、見知らぬ多くの人との間の繋がりを作り出す儀式だと言っているとのことが書いてあると思う。
これに対して、そうであろうかという気がする(違うかもしれないという気がする)が、この考えは古代の日本において適用できるように思われる。出版というものが古代にあったかは不明であるが、文字の導入が日本語に大きく影響を与えたことは確実と思われる。七世紀ぐらいからの日本をイメージしている。文字を利用しない場合には、コミュニケーションの範囲は小さく、日帰りできるぐらいの領域が国の限界であったような気がする。中央の意思が地方に伝わるためには文字がなければ、人の移動で意思を伝えなければならず、制限されてしまう。古墳時代に国があったとして、文字がなければ、日本全体をまとめるような大きさになるとは考えられない。漢字は表意文字であるが、表音的に利用する万葉仮名のようなものが取り入れられて初めて、国としての管理システムの体裁が整ったと考えられる。それまでは共通化された日本語はなく、七世紀ぐらいから漢字を借りてきた表音文字が使える人が日本人となった(日本の指導者層か?)ということである。従って原始的な日本語でコミュニケーションがうまくとれない状況の中で、冗長性を持たせるために枕詞などが出来たのではないかと想像している。日本語の起源をこの時代に求めたい気持ちがある。
先の著の一四四頁から引用する。
アンダーソンは「クレオール」から国民へということで、一八世紀後半から一九世紀初頭に誕生した新興アメリカ諸国家が、もとはといえばヨーロッパの宗主国によって線引きされた行政上の単位に過ぎなかったことに注意を促す。これらの植民地に生まれ育った人々は、クレオールと呼ばれ、本国出身の人々に対し一段低い立場におかれていた。・・・彼らは本国の役人になるまで出世することはできなかった。・・・
多分、違うとは思われるが、似ているところがあると思われる。本国と植民地の間の接着剤の役目をクレオールが担い、言語も両方が混ざったものになるが、これが万葉仮名などの文字の導入により文字化された日本語がうまれたことに相当したと考えていた。実はこの時代には、上代特殊仮名遣いの問題がある。これは『古事記』、『日本書紀』、『万葉集』などには仮名の使い分けがあり、同じ仮名に例えばキにはキ甲類、キ乙類と二通りのかき分けがある。この時代の大きな変化があり、生じた可能性がある。白村江の戦いのあと、百済人が大量に日本に亡命してきており、大混乱によって日本語が生まれたことを考えていたが、違うかもしれない。「上代特殊仮名遣い(記紀万葉)朝鮮帰化人記述説」があり、単に書き手が理解した風に、百済人のヒアリングで記述しただけで、日本語そのものは変わらず、世代が進めば、渡来人の子も日本化していき、結局上代特殊仮名遣いは消え去ってしまったと言う説がある(下記の本)。同時に述べている「倭王朝渡来王朝説」はどうかと思われるが、百済人が日本に文化大革命を起こしたという部分はそうかと思われる。従って上代特殊仮名遣いの問題は、理解不足で誤解があるだろうが、単なる記述上の問題と当面は考えることとする。
藤井游惟、『白村江敗戦と上代特殊仮名遣い』、2007年10月、株式会社リフレ出版

2020年2月7日金曜日

歴史認識

今までいろいろと書きなぐってきましたが、初心に戻って、考え直してみたいと思います。
前提となる歴史とは何かということについて共通の理解が必要と思われます。例としてファミリーヒストリーを考えてみます。先祖に強盗殺人犯がいたと仮定します。どのように記述されるかといえば、傍系の人であれば、記述されないということがあり得ます。また直系の人であればやむを得ずに強盗殺人犯になったという記述になる可能性があります。先祖に対して美化する方向に記述される可能性を否定できないということです。国の歴史ではどうかといえば、愛国主義的な意図があれば、同様に美化される可能性があります。2020年1月1日、NHKの100分でナショナリズムという番組が放送されました。気付かずに再放送5日にあり、それを見ての発想になります。4人の論客が出てきましたが、その中で大澤真幸氏の話に興味を持ちました。名著としてベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』が示されました。訳本があるので筆者は見ましたが、正直わかりにくい本です。解説本で『ベネディクト・アンダーソン グローバリぜーションを語る』が理解しやすく、筆者はこちらの影響を受けています。番組では、インドネシアが出来たのはオランダの植民地であったという話が出ていました。ベネディクトの本では確かに、インドネシアは多民族・多言語・他宗教であったと記されていて、普通は統一される可能性の低い国です。オランダからの独立運動によってインドネシアが生まれたということで、オランダという外的要因によって国が成立したことになります。さて日本はどうであろうかということです。ここで筆者の考えている日本とは『日本書紀』(以下は書紀)の出来た八世紀の日本をイメージしています。縄文時代の人に「あなたは日本人ですか?」と尋ねることができたとして、「違います。」と答えると思います。インドネシアのオランダに相当するのが、日本では中国の唐になります。唐に対する反発で日本が生まれたと考えます。書紀も、唐に対して、八世紀の日本の正統性を主張するものと理解できます。天地開闢以来の歴史も中国に負けない伝統のある日本を表したものです。しかし唐は日本の話を信じたとは思われません。旧唐書(日本国条)には疑問を持っている状況が記されています。
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日本国は倭国の別種である。その国は日の出るところに近いので、故に日本を以て名としている。あるいはいう、倭国みずからその名の雅(みやび)やかでないのをにくみ、改めて日本としたのである、と。あるいはいう、日本はもと小国だったが、倭国の地を併せたのだ、と。その国の人で入朝(にゅうちょう)する者は、多くみずから矜(きょう)大(だい)(ほこる)で、実を以て対(こた)えない。故に中国はこれを疑っている。
ーーー
上の点線部分は、旧唐書(日本国条)
石原道博、『旧唐書倭国日本伝、宋史日本伝・元史日本伝』岩波文庫、一九八六年、九四頁よりの引用
この文書は荒唐無稽のものではなく、意味のあるものとすれば、「日本は新興国家である」と唐は考えていたということです。日本はこれを否定しなければなりません。唐の考えを払拭することが書紀の目標になり、壮大な天地開闢から始まる歴史展開につながります。
一例ですが、日本書紀での大化の改新の時の「郡・評」のおかしな問題がありました。書紀では郡であるのに、木簡では評のものが発見され、食い違いはなぜ生じたのかということです。書紀の編纂者は当然、このことは分かっていても郡にせざるを得なかったということです。違いを記述すれば、評→郡から政権グループが変化したことを示すことになり、天地開闢以来の連続した歴史を持つ日本という書紀の構造が崩れてしまうことを恐れたと思います。逆に言えば、実際の歴史は連続していないことを示しています。
アナロジーになりますが、戦国時代を考えます。織田信長→豊臣秀吉→徳川家康と変化しました。これを織田大王→豊臣大王→徳川大王の3兄弟の政権委譲、関ヶ原の合戦を壬申の乱のようなものだと強引に記述することも可能です。逆に考えると、孝徳天皇、天智天皇、天武天皇、持統天皇、これらは別の政権グループとできます。日本書紀の連続した万世一系の天皇の歴史観を一度離れることが必要と思われます。以前に天智天皇と天武天皇の年齢問題とかありましたが、この議論など時間の無駄であったことになります。
書紀のでたらめに近い歴史観が許されたのも、強大な唐に対抗する手段としてやむなく認められたものと考えます。書紀の講義が日本紀講筵《にほんぎこうえん》として養老5年(721)に行なわれていますが、各個人の対唐との交渉で歴史認識がばらつかないように統一見解を学ぶもののように思われます。くどくなりますが、書紀の七世紀の部分は信頼できるのだろうかと言う問題です。筆者は疑問に思っています。書紀の歴史認識とは異なり、群雄割拠した時代をイメージしています。書紀の七世紀は腐っています。腐った食品の場合はすべて廃棄となりますが、書紀の七世紀を廃棄すれば日本の歴史を記述することができません。腐った部分を取り除いて、利用できる部分を探す作業が必要で、完全に出来るとは思えませんが、おいおい考えていこうということです。
参考
定本想像の共同体、ベネディクト・アンダーソン/白石隆、書籍工房早山、2009年11月
ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る、ベネディクト・アンダーソン/梅森直之、光文社、2007年05月20日

2020年2月4日火曜日

酒の強さの遺伝子から日本の起源がわかる?

NHKスペシャル、食の起源 第4集「酒」を見ました。
その中で、人類は酒に強くなる遺伝子を獲得したのだが、
その後、突然変異で、モンゴロイド人種の中で酒に弱い人が現れ、
それが中国人、朝鮮人、日本人に多いということでした。
番組では、酒に弱い人の比率が
中国:52%、日本:44%、韓国:30%
となっていたが、資料の出所がわかりません。ネットで見ると
酒の強さは遺伝子で決まる」 に図がありました。

アジアの一部の地域に酒に弱い人がいるのがわかります。
日本の中でも図がありましたが、わかりにくかったので、ちがう表を示します。地域の差は
それぞれの地域が成立した状況を示していると思います。
酒に弱い県の表では、7世紀に百済などから渡来人がやってきた地域に多いように感じます。
縄文人・弥生人の違いにまでさかのぼらなくてよいのではと思います。


この表の出所は「飲酒と健康-アルコール体質検査と飲酒の功罪-
です。この中には国別の比率の表があります。

地域の取り方によって変わってくるとは
思いますが、中国→朝鮮→日本の前提があるようですが、中国→日本の可能性もあります。