2020年2月7日金曜日

歴史認識

今までいろいろと書きなぐってきましたが、初心に戻って、考え直してみたいと思います。
前提となる歴史とは何かということについて共通の理解が必要と思われます。例としてファミリーヒストリーを考えてみます。先祖に強盗殺人犯がいたと仮定します。どのように記述されるかといえば、傍系の人であれば、記述されないということがあり得ます。また直系の人であればやむを得ずに強盗殺人犯になったという記述になる可能性があります。先祖に対して美化する方向に記述される可能性を否定できないということです。国の歴史ではどうかといえば、愛国主義的な意図があれば、同様に美化される可能性があります。2020年1月1日、NHKの100分でナショナリズムという番組が放送されました。気付かずに再放送5日にあり、それを見ての発想になります。4人の論客が出てきましたが、その中で大澤真幸氏の話に興味を持ちました。名著としてベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』が示されました。訳本があるので筆者は見ましたが、正直わかりにくい本です。解説本で『ベネディクト・アンダーソン グローバリぜーションを語る』が理解しやすく、筆者はこちらの影響を受けています。番組では、インドネシアが出来たのはオランダの植民地であったという話が出ていました。ベネディクトの本では確かに、インドネシアは多民族・多言語・他宗教であったと記されていて、普通は統一される可能性の低い国です。オランダからの独立運動によってインドネシアが生まれたということで、オランダという外的要因によって国が成立したことになります。さて日本はどうであろうかということです。ここで筆者の考えている日本とは『日本書紀』(以下は書紀)の出来た八世紀の日本をイメージしています。縄文時代の人に「あなたは日本人ですか?」と尋ねることができたとして、「違います。」と答えると思います。インドネシアのオランダに相当するのが、日本では中国の唐になります。唐に対する反発で日本が生まれたと考えます。書紀も、唐に対して、八世紀の日本の正統性を主張するものと理解できます。天地開闢以来の歴史も中国に負けない伝統のある日本を表したものです。しかし唐は日本の話を信じたとは思われません。旧唐書(日本国条)には疑問を持っている状況が記されています。
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日本国は倭国の別種である。その国は日の出るところに近いので、故に日本を以て名としている。あるいはいう、倭国みずからその名の雅(みやび)やかでないのをにくみ、改めて日本としたのである、と。あるいはいう、日本はもと小国だったが、倭国の地を併せたのだ、と。その国の人で入朝(にゅうちょう)する者は、多くみずから矜(きょう)大(だい)(ほこる)で、実を以て対(こた)えない。故に中国はこれを疑っている。
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上の点線部分は、旧唐書(日本国条)
石原道博、『旧唐書倭国日本伝、宋史日本伝・元史日本伝』岩波文庫、一九八六年、九四頁よりの引用
この文書は荒唐無稽のものではなく、意味のあるものとすれば、「日本は新興国家である」と唐は考えていたということです。日本はこれを否定しなければなりません。唐の考えを払拭することが書紀の目標になり、壮大な天地開闢から始まる歴史展開につながります。
一例ですが、日本書紀での大化の改新の時の「郡・評」のおかしな問題がありました。書紀では郡であるのに、木簡では評のものが発見され、食い違いはなぜ生じたのかということです。書紀の編纂者は当然、このことは分かっていても郡にせざるを得なかったということです。違いを記述すれば、評→郡から政権グループが変化したことを示すことになり、天地開闢以来の連続した歴史を持つ日本という書紀の構造が崩れてしまうことを恐れたと思います。逆に言えば、実際の歴史は連続していないことを示しています。
アナロジーになりますが、戦国時代を考えます。織田信長→豊臣秀吉→徳川家康と変化しました。これを織田大王→豊臣大王→徳川大王の3兄弟の政権委譲、関ヶ原の合戦を壬申の乱のようなものだと強引に記述することも可能です。逆に考えると、孝徳天皇、天智天皇、天武天皇、持統天皇、これらは別の政権グループとできます。日本書紀の連続した万世一系の天皇の歴史観を一度離れることが必要と思われます。以前に天智天皇と天武天皇の年齢問題とかありましたが、この議論など時間の無駄であったことになります。
書紀のでたらめに近い歴史観が許されたのも、強大な唐に対抗する手段としてやむなく認められたものと考えます。書紀の講義が日本紀講筵《にほんぎこうえん》として養老5年(721)に行なわれていますが、各個人の対唐との交渉で歴史認識がばらつかないように統一見解を学ぶもののように思われます。くどくなりますが、書紀の七世紀の部分は信頼できるのだろうかと言う問題です。筆者は疑問に思っています。書紀の歴史認識とは異なり、群雄割拠した時代をイメージしています。書紀の七世紀は腐っています。腐った食品の場合はすべて廃棄となりますが、書紀の七世紀を廃棄すれば日本の歴史を記述することができません。腐った部分を取り除いて、利用できる部分を探す作業が必要で、完全に出来るとは思えませんが、おいおい考えていこうということです。
参考
定本想像の共同体、ベネディクト・アンダーソン/白石隆、書籍工房早山、2009年11月
ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る、ベネディクト・アンダーソン/梅森直之、光文社、2007年05月20日

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