2017年12月12日火曜日

石山古城図、地名:大阪

 インターネットで古地図が公開されていました。切り取っています。
左側が北、右が南方向です。


 図の中央に赤の長方形の小坂村の左に、蓮如杉があり、そのまた左に石山本願寺と思いますが、石山御堂という山のようなところがあり、当時籠城門徒四萬人余り の記述があります。さらに渡辺橋川幅二百六十間の川の北側に織田方鉄砲備えがあり、天満山に織田信長本陣とあります。
 中央下側には柴田勝家陣があり、包囲の布陣のようです。中央の赤の枠内の小坂村と書かれていてこれが、地名の大阪の元になったとの事のようです。
 図の端に、大阪旧薩摩藩邸出入、大工棟梁鮫島某所蔵
とあって、図そのものは石山本願寺攻めを示しているようですが、新しいものかもしれません。図ではカットしましたが、百姓一揆とかの場所があり、一揆はグループの意味のようです。忍びの者とかあり、忍者がいたのとか、酒人とかは酒造りの人だろうかとか、舩場は今の船場で、海の方につながっていたのかとか見てるとおもしろいです。

地名:大阪
http://yasudakasetu.blogspot.jp/2013/10/blog-post_9052.html


現時点の確認3

中世
 中世の始まりと武士の起源
  中世の始まりをいつからと考えるか、教科書では鎌倉幕府の成立から院政の開始へシフトしてきているようです。日本史研究の動向を示すものとして、岩波書店の日本史の講座を例に取ると、一九七〇年代の「岩波講座 日本歴史」までは古代としていた院政が、一九九〇年代の「岩波講座 日本通史」から中世として扱われるようになっている。これが教科書に反映されているようです。これには中世を、権門体制と荘園公領制としてとらえるように変わってきたとのことです。上皇は、公家権門・武家権門・寺社権門の頂点に立つ「国王」として君臨したということで、この辺は私には勉強不足で、ギャップが大きすぎます。古い時代からの発想の脱出は簡単にはできそうにないので、以下終了とします。思い込みから離れて冷静に考えることは難しそうです。
この本でのメモ
  北条政子という名は戦後出てきたらしく、「北条」は居住地・本拠地に由来する苗字《みょうじ》であるから、北条の地を家を離れた政子が「北条」の苗字を冠して呼ばれることはない。しかし定着してしまい、そのまま使われているということでした。
  近年では、室町時代の政治過程の分析が進み、若手研究者の研究成果が相次ぎ、今一番ホットでおもしろいのは、室町時代だと言って過言はないらしく、この時代がきちんとわかってそれよりも古い時代が見直しされるようにも思います。

2017年12月10日日曜日

現時点の確認2


 ・唐風化する天皇
 平安時代初期では、桓武天皇と嵯峨天皇が重要とのことです。桓武天皇では、勘解由使の設置と健児の採用とが出ています。坂上田村麻呂らを派遣した蝦夷の戦いなど勉強不足で良くわかっていません。
 ・終わらない日中交流
 八九四年、遣唐使の廃止であったのが、停止・中止と記述が変わってきているそうです。鎖国的な状況とは考えられず、民間レベルの交流は拡大したと考えられているそうです。今、手元にある本(a)で、最澄の後継者・円仁《えんにん》のところに遣唐使で密教を学ぶため、五台山巡礼をしていて、その旅行記をライシャワーが世界に紹介し(一九九五年)、その後、駐日大使となったそうです。その後、円珍が八五三年、唐の貿易商、欽良暉《きんりょうき》の船に乗り、途中、暴風雨で台湾に漂着したりがあったが、福州に着岸したそうです。円珍は、唐から多くの品(四四一部1千巻)を持ち帰り、五四歳の若さで天台座主(第五世)になったそうです。円珍没後に、円仁と円珍の弟子たちで派閥争いが起こり、山門と寺門(天台別院園城寺)に分裂したそうです。話がずれてきましたが、遣唐使だけが日中交流ではなかった例としてメモっておきます。
 ・貴族社会を支える受領《ずりょう》
 律令国家の地方行政は、都から派遣される国司によって運営されていた。九世紀後半には、国司の最上席の受領に権限が集中することになる。一〇世紀には、受領は任国内の田地を「名」と呼ばれる徴税単位に編成し、有力農民をそれぞれの名の納税責任者である「負名《ふみょう》」にして、租税の納入を請け負わせた。これを「負名体制」と称している。とのことです。負名体制の成立によって地方豪族の執務場所の郡家《ぐうけ》が衰退し、受領の執務場所である国衙《こくが》の重要性が増したとのことです。受領とか全く知りませんでした。負名というのは、「名」という文字を使っていて名字と関連してるはずです。完全に抜け落ちてました。勉強不足を痛感しています。今後の課題です。
 ・更新される摂関政治論
 「重視される母后《ぼごう》の力」というタイトルで、天皇の外戚《がいせき》が後見《うしろみ》として大きな発言力を持ったと一般に考えられているが、天皇の生母である母后の役割の大きさにも注意が向けられるようになってきている。とのことです。これに関して、図説日本史通覧には奈良時代に妻問婚《つまどいこん》のコラムがあります(六九頁)。奈良時代に女帝が多いのも婚姻形式に原因があるように思えます。どうして貴族社会で婿入婚《むこいりこん》になったのか、ややこしすぎる気がしてきました。
 「維持された太政官の機能」のところでは、摂関期においても、太政官は最高機関として機能しており、摂政・関白が好き勝手したというのは過去のイメージであるとのことです。
(a)近江から日本史を読み直す、今谷明 著、講談社現代新書1892

2017年12月9日土曜日

現時点の確認1

 このブログも投稿記事が二〇〇ほどになってきました。自分でもおかしなことを言ってるとは思います。しかし、今から見直すのも大変になってきました。私の感覚を確認するために、図書館で
 ここまで変わった 日本史教科書、高橋秀樹、三谷芳幸、村瀬真一著
   吉川弘文館、二〇一六年一二月一〇日第五刷発行
を、借りてきました。感想を時系列に並べていきます。
原始・古代
 ・時代区分をめぐる攻防
 稲作をめぐる認識の変化について、大陸から伝来した水田耕作は、完成された技術体系を持っていたとのことです。垂柳遺跡の水田遺構の写真がありますが、うねっているので、多分人力によって開発されたように見えます。これが、条里制にどうつながるのかが興味あるところです。
 ・邪馬台国論争のゆくえ
 畿内説と九州説があるとのことで、邪馬台国と古墳時代の連続性を考えなければどちらでも構わなくなりますが、基本は不連続と考えた方が良いので、九州説として考え、問題あれば、畿内説に宗旨替えしても良いように思います。
 ・見直される倭国と半島の関係
 「やまとせいけん」の表記の違いについて書かれています。朝廷という言葉は使われなくなってきているそうです。大和という地名表記が八世紀まで下るとのことで、ヤマト政権が良さそうに思いました。任那《みまな》の表記は消え、「加耶《かや》」、「伽耶《かや》」、「加羅《から》」と記すことが多いそうです。任那日本府が植民地のような支配・経営を行っていたという見方は否定されているそうです。「宋書《そうじょ》」倭国伝に、倭の五王が出てきて、倭王武が雄略天皇と呼ばれる人物にあたるとのことですが、現時点では誰でも良いように思われます。というか偏見を持ってしまうようで良くないです。稲荷山古墳の出土太刀名から、ヤマト王権のことまでは断定できないように思います。私自身まったくわかっていません。現時点ではパスです。
 ・変容する「聖徳太子」
 以前の教科書では、聖徳太子が主体で、冠位十二階を定め、憲法十七条を作り、遣隋使を派遣した、推古朝の主役であったのが、現在は、蘇我馬子や推古天皇など三人が、政治権力の中核をなしていたとする見方が強いとのことで、聖徳太子の業績も婉曲的な表現になってるそうです。私自身は、聖徳太子も推古天皇も蘇我馬子もいなかったと考えています。遣隋使も「隋書」の第一回の六〇〇年のものも重要視されるようになってきているそうです。
 ・天皇・日本・藤原京
 天皇は古いか新しいかということで、推古朝説と天武朝説があるそうです。日本書紀の遣隋使の国書の記事に天皇があるというのが、推古朝説の根拠のようです。日本書紀があてにならないので、推古朝説は成立しないと思います。天武天皇からということだということです。古墳時代から律令国家への体制は不連続なものと考えます。
 藤原京について、京城の規模が以前は東西約二キロ、南北約三キロというのが、一九九〇年代以降の発掘調査と研究によって、見直され、京城は約5.3キロ四方の正方形で宮が中央に置かれていたとする見方が有力になってきており、規模が平城京に引けをとらず、宮の位置関係が異なるなど、藤原京の位置づけを問い直す必要が出てきたと言うことです。これに関して、私は前期難波宮の位置づけが問題になると思います。
 ・律令国家の最盛期はいつか
 かっての教科書の内容が最初に示されています。七世紀までの王族や豪族は、屯倉《みやけ》や田荘《たどころ》と呼ばれる私有地を所有していたが、大化改新で公地公民制の方針が示され、大宝元年(七〇一年)大宝律令の制定で完成され、班田収受制が確立された。ところが、口分田不足から、開墾が奨励され、三世一身法で期間限定の所有が認められ、、墾田永年私財法の発布で、永久私有が認められ、公地公民制は崩れ、律令体制の動揺を招いた。このような見方は大幅に修正されている。とのことです。私自身はこの考え方でしたので、驚きの事件です。一九八六年からの長屋王邸宅跡から多数の木簡が出土し、その研究によるとのことです。長屋王家の私有地経営の様子が明らかになり、教科書に取り入れられたようです。父の高市皇子からのものが、奈良時代になっても所有し続けていたということで、公地公民制が実現していたのか、また大宝律令の制定で律令制が完成したとする考えに強い疑問が投げかけられたようです。墾田永年私財法を契機に、所有を認めるのであるが、税を納める輸租田《ゆそでん》とされ、国家の土地支配が強化され、律令国家の支配が深まったという認識らしいです。
 長屋王の変も、律令制を阻害する私有地経営が違反とされて起こったかもしれず、長屋王は特殊な例の可能性があり、教科書の通りかはわからないとは思います。
 ・皇位を揺るがす権力者
 奈良時代後半の政治家として、藤原仲麻呂と道鏡があげられています。仲麻呂は光明皇太后をバックに、政治の実権を掌握していくのであるが、孝謙太上天皇と対立し、恵美押勝の乱で敗死する。この後に、孝謙が重祚《ちょうそ》して称徳天皇となり、宇佐八幡神託事件が起こる。道鏡を天皇にすれば天下は太平になるという宇佐八幡神の託宣が伝えられる。これには道鏡主体説と称徳主体説があり、教科書も一定していないとのことです。奈良時代の皇位継承について、女帝が多く、また上皇の力が強いようでもあり、良くわからないところがあります。今後の問題です。
 だらだらと書いてきましたが、良く考えれば、日本書紀の扱いが問題で、大化改新までの神話部分を無視するか、配慮するかで全然話が違います。教科書では、古墳時代と律令の時代に断絶があることを明示していません。

2017年12月7日木曜日

現時点でのまとめ

 ブログを更新してきましたが、どんどん考え方が変わってきています。自分の考えを整理しておこうと思います。
 日本書紀の考え方ですが、古事記をベースに、バージョンアップされたものです。古事記と日本書紀の比較表です。

収録期間の違いがなぜ生じたか? 安田仮説では、推古天皇=持統天皇と考えています。古事記+追加分=日本書紀と考えます。それぞれの終わりをそろえたのが次の図です。
日本書紀では、推古天皇の時代はまだフィクションで、大化の改新ぐらいまで続きます。蘇我氏の滅亡で、そこにあった国書が消え、ここでリセットされます。唐突に孝徳天皇が出てきて、つながりの不自然さを皆が感じるとは思いますが、これで神話の世界は終わり、歴史の世界が始まると考えています。前期難波宮が遺跡としてあるので、孝徳天皇は実在の人と考えています。もちろん日本書紀の潤色は続きます。
 この図表は、「歴史エッ!声」のものです。ブログと本の連動ができてません。

2017年12月6日水曜日

【村がつく名字】、人名探究バラエティー 日本人のおなまえっ!

先週の番組です。十一月三十日の放送でした。
http://www4.nhk.or.jp/onamae/x/2017-11-30/21/13209/2291027/
この中で「木村」の「木」は何かと言うことでNHKの説が紹介されていました。番組では衝撃の事実が明らかに!ということですが、ここでの引用も許されると思います。紀貫之とかの「紀」氏の村の意味と言うことです。紀伊の国に地盤を持つ豪族が紀氏で、好字令により、木から紀伊に変わったので、元は木だったそうです。「木」氏の村です。木村の地名は「紀」氏の勢力範囲にあったとのことでした。
「紀」氏は東北にも進出していたようです。
 和歌山県紀の川市で粉河祭というのがあり、
「祭りの中心行事の渡御式は、粉河寺を創始した大伴孔子古(おおとものくじこ)の子・船主が坂上田村麻呂将軍の奥州征伐に出陣し、賊徒を退治して凱旋(がいせん)した姿を伝えるものと言われている。渡御式は現在、隔年で開催している。」
引用はhttps://wakayama.keizai.biz/headline/678/
 坂上田村麻呂の前は紀古佐美《き の こさみ》が征東大将軍だったそうです。粉河寺の横が岩出市です。岩出→いわで→いわて→岩手で、岩出の人が東北遠征で岩手県に常駐したのではと私は想像しています。岩出の話もつながってくるかもと思いました。

好字令
http://yasudakasetu.blogspot.jp/2013/12/blog-post_4.html




2017年12月5日火曜日

懐風藻

 奈良時代、天平勝宝三年、孝謙天皇の時代に作られた漢詩集です。編纂に淡海三船がかかわったというのが有力視されている。とのことで図書館から借りてきました。最初、林古渓 、懐風藻新註、昭和三十三年、明治書院を借りてきましたが、私にとって旧漢字はかなり読みにくく、また違う本を借りてきました。
懐風藻全注釈、辰巳正明著、笠間書院発行(1)です。また
懐風藻、江口孝夫著、講談社学術文庫(2)です。こちらは小型なので持ち運びできます。非常にマニアックな書物のようで、万葉集などと比べて注目されていないようです。           万葉集と同じく、東大寺大仏建立に触れていないようで、これは万葉集と呼応するところがあると、(1)では述べられています。本藻序文に、作者六十四名、詞の数一二〇首と記されていて、読まれた時代は、近江朝から奈良期末で、天皇・皇族以下官吏僧侶とのことです。当時の状況を高級官吏的な視線で記述されているような気がします。懐風藻序は、訳を見てですが、公式見解的な日本書紀の話をコンパクトにうまくまとめているようです。最初に天智天皇の第一子の大友皇子が取り上げられていて、なぜかと思いますが、淡海三船が大友皇子ー葛野王ー池辺王ー淡海三船とつながることを考えればそうかなと思われます。大友皇子には、伝記があります。その中で、
「皇子はある夜夢を見た。天の中心ががらりと抜けて穴があき、朱い衣を着た老人が太陽を捧げ持って、皇子に奉った。するとふとだれかが脇の下の方に現れて、すぐに太陽を横取りして行ってしまった。驚いて目をさまし、怪しさのあまりに内大臣の藤原鎌足公に事細かに、この旨お話になった。」との記述があります。天智天皇の天下を、天武天皇が武力で簒奪したということを言っているように思えます。「天」智天皇から「天」武天皇が壬申の乱で武力で横取りしたと言ってることになります。
http://yasudakasetu.blogspot.jp/2017/11/blog-post_16.html

次に河島皇子が出てきます。天智天皇の第二子です。持統天皇の時代になり、大津皇子の謀反の密告をしたことに対する弁明が述べられている。そして、次に大津皇子について、天武天皇の第一皇子で、新羅の僧に惑わされてしまったように書かれています。次が釈智蔵、僧侶です。唐に留学したときに、同僚からねたまれ狂人のふりをしたらしく、有間皇子を想像させます。
 次が葛野王で、天智天皇・天武天皇の孫で、淡海三船の祖父になります。太政大臣であった高市皇子(天武天皇の皇子、壬申の乱で活躍、長屋王の父)が薨去後に、持統天皇が次の皇太子について相談され、議論紛糾したときに、葛野王が、兄弟ではなく、子孫が相続するのが、古来よりの決まりであるとのべ、高市皇子の兄にあたる弓削皇子が何かを言おうとしたが、葛野王が叱り、決まったということです。皇位継承が確固としたものではないことから、天武系から天智系に変わっていったのかもしれません。懐風藻は漢詩なので、偏りがあるのか、長屋王宅で読まれたものが多くあります。藤原氏も不比等から始まり、藤原房前(総前)、藤原宇合、藤原万里が収められています。ただ、四兄弟でも藤原武智麿はないようです。藤原四兄弟でも温度差があるようです。その中で宇合が一番優遇されているようです。良い漢詩を作っているからかもしれませんが。懐風藻が淡海三船の編纂で、天皇の漢風諡号を考えたとして、漢詩から天武系の長屋王につながる部分があったことは確かであろうと思います。淡海三船や藤原宇合は、天智と天武の二つを融和できるものと認識していたことは宇合の漢詩の中に感じられます。漢詩が現代語訳でしか読めないので、確としたことは言えないのが残念なところです。しかし長屋王の変で、宇合が長屋王邸を六衛府を率いて包囲したことについて、長屋王宅の漢詩を作ったこととギャップがありすぎます。懐風藻が宇合に好意的な気はしますが、これは今後の課題としておきます。