2021年2月26日金曜日

古代の度量衡

  度量衡とは度(長さ)量(体積)衡(重さ)のことです。 『経済瀬長の日本史』、高島正憲、名古屋大学出版会、2018年1月初版第2冊の付録に度量制の解説があります。

 文献にあるのは、646(大化2)年の改新の詔における・・・・の記述である。この規定が当時どの程度整備され実用化されていたかは不明ではあるが、『続日本紀』巻2・大宝2(702)年3月乙亥条に「初めて度・量(物差しと枡)を天下の諸国に頒布した」*(この部分は漢文で記述されているが勝手に現代語訳にあわして変更している)とあるように、8世紀初頭には度量制度の制定と施行が行なわれていた。この度量制度は半年後(10月)に施行される大宝律令に先立って施行されており、税制と密接にかかわる度量制度を整備しておくという現実的要求があった。・・・・  この大宝律令の度制は施行から10年後の713(和銅6)年2月に、量制とともに改訂されることになる。制定された度量をわずか10年ほどの運用で変更した背景としては、2月の条文中にある「別格」に関する説明が『令集解』の「田長条」に引用されている。少し長くなるが以下に掲げよう。ーーー長いので省略ーーー。  この条文を簡単に説明すれば、租税の基準となる田地の面積が、大宝令の施行前の単位(おそらく高麗尺と考えられる)で測量されており、それが習慣化されていたので、大宝令によって新しい単位を制定しても、以前のものからの変更が難しく混乱をきたしたため、単位は大宝令以前に戻すことにした。・・・  この尺の長さそのものについては、大宝律令がそうであったように、基本的には唐の制度にしたがったものであったので日本の令の大小尺そのままであったとするか、令の小尺は唐の大尺(曲尺)で、令の大尺は令前の常用尺であった高麗尺であったとするなど諸説があったが、現在では、後者の説が有力視されている(亀田2001、4-5頁;冨谷1992、274-280頁)。

 理解するところ、大宝律令において新体制を考えたものの、以前からの度量制で行くことになったということのようです。日本書紀は、持統朝から文武朝の正統性を述べますが、実際には苦しい状況にあったことを想像させます。  先の本ですが、その後に

 古代・中世をつうじてほぼ変化のなかった土地丈量の単位は、戦国時代を終了させ天下統一を果たした豊臣政権によって大きく変わることになる。

 これによれば、中世までは同一の経済体制が運用されていたと考えても大きな間違いにはならないように思えてきました。

 ついでですが、文武天皇の時代の大宝律令もパッとしないように感じますが、遣唐使の記述もさえません。慶雲元年の粟田朝臣真人が唐から太宰府に帰ったときの記述とかも成果があったような書き方ではありません。本当はどんなだったろうと思います。『続日本紀(上)』宇治谷孟、講談社、2008年12月第23刷発行を見ました。

2021年2月23日火曜日

藤原の名前に似た分布の名前

  藤原はランキング四十六位の名前です。藤原の県別分布に似た名前が参考になるかもしれないということで以前に計算していました。ベスト600まで計算していました。次の図は計算結果の抜粋です。


 横に似てるものから並んでいます。一段目が名前のランキング順位、二段目が名前、三段目が相関係数で、これで順番に並べています。数値的には飛び抜けて、妹尾が一位です。三位に難波、四位に三宅とあり、これらは岡山県に多い名前であり、藤原に関係ありそうな感じがします。七位の伊達も東北で奥州藤原氏との関係があり、まあそうかなという結果です。しかし一位の妹尾が昔は意味不明でおかしな結果かもしれないと多分思ったのでしょう。ほったらかしだったようです。妹尾についてネットで見ると無関係では無さそうです。妹尾は岡山県の地名で、ウィキペディアでは

もとは島嶼であった早島丘陵の南東にあった、吉備穴海に面する古い海浜の漁業集落であった。

とあります。また妹尾氏がいて、

先祖は中臣鎌足と云われている。

とも「武家家伝_妹尾氏」にありました。多分、今まではそんなことないだろうというのがひょっとしてという感じになってます。

 漁業集落と藤原氏のつながりから妄想すると、藤原氏が吉備国に進出するときに、都との海上交通を妹尾氏が担ったのではと思えてきます。計算した時はパソコンの能力不足でかエラーが起こったりして挫折したのを思い出しました。何をやってたか思い出せないデータですが、意味不明のデータではなかったかもということです。

2021年2月22日月曜日

藤原氏の分布

  藤原の名字の県別分布を作っていたのを思い出しました。名字のランキングでは四十六番目に多い名字です。佐藤・伊藤・加藤などの元になった名字で、鎌足から始まり、藤原道長とか有名です。全国的に万遍なくあるように思えましたが、分布の偏りはありました。当てになるかわかりませんが、以下の図です。

 東北に多いのは奥州藤原氏の関係であろうと思われます。西日本では吉備や出雲に多いように見えます。奈良時代や平安時代の影響が何かしらあり、これらの地域を藤原氏が支配していたことがあるのかもしれません。


2021年2月21日日曜日

アリと人間の歴史

  又吉直樹のヘウレーカ!「アリの地下世界 深掘りスペシャル!」という番組で、「トゲオオハリアリ」が紹介されていました。女王アリと働きアリの違いは赤い羽根の痕跡器官ゲマがあるかないかということで、番組では、新入りのアリがゲマをかみ切られていました。うろ覚えですが、番組のことについては以下に文書化されています。 ながらtv.com

 よく似たことを、人で思い出しました。抜歯(ウィキペディア)です。

 縄文時代の頭骨に良く見られて、通過儀礼としての抜歯のタイトルがついています。この風習もゲマと共通する部分がありそうです。アリの生態から集団生活をする人間の歴史を想像できるのかもしれません。

2021年2月20日土曜日

桓武天皇と菅原氏

  『続日本紀(下)』全現代語訳、宇治谷孟、講談社、2009年3月19日第19刷発行

 この本の桓武天皇のところを見ていて、天応元年(七八一)に菅原の姓にしたいと申し出たとの記事があります。この年は光仁天皇の体調が悪くなって、四月に桓武天皇が即位しています。そして六月に遠江介・従五位下の土師宿禰古人と散位・外従五位下の土師宿禰道長ら十五人が改姓を申し出た。野見宿禰以来、葬儀と祭事を担当してきたが、今は葬儀のみになってしまった。土師という名前は本意では無いので、居住地の地名にちなんで、菅原にしたいということで認められたとのことです。
 延暦元年(七八二)には、別の土師氏に秋篠とかになっています。他にも氏姓を賜る記事も時々出てきます。新興勢力の台頭があったのかもしれません。 桓武天皇の時代に、東北遠征が重要課題になっていたと思います。菅原氏も関与して東北に行ったのであろうと思います。それが東北地方に伝播したように思えてきました。菅原道真の時の話ではなかったことになります。

 菅原の名字が東北地方に多いというのを投稿していたと思ってましたが見つかりません。分布図を探せたので以下に示します。十年前に作成した県別分布で記憶がうすれていますが、東北地方に集中しています。全国平均を1.0に基準化したはずです。

 また名字だけでなく、地名も「岩手」は「岩出」から変化したのではないかといってました。以下です。これらは東方地方に残る痕跡かもしれません。

ーーーー
和歌山県紀の川市で粉河祭というのがあり、 「祭りの中心行事の渡御式は、粉河寺を創始した大伴孔子古(おおとものくじこ)の子・船主が坂上田村麻呂将軍の奥州征伐に出陣し、賊徒を退治して凱旋(がいせん)した姿を伝えるものと言われている。渡御式は現在、隔年で開催している。」 引用はhttps://wakayama.keizai.biz/headline/678/
 坂上田村麻呂の前は紀古佐美《き の こさみ》が征東大将軍だったそうです。粉河寺の横が岩出市です。岩出→いわで→いわて→岩手で、岩出の人が東北遠征で岩手県に常駐したのではと私は想像しています。岩出の話もつながってくるかもと思いました。 この部分、以下からのコピー

2021年2月19日金曜日

桓武天皇と肥後国

  『熊本県の歴史』、松本寿三郎・板楠和子・工藤敬一・猪飼/隆明、山川出版社、2012年第2版 の55頁です。

肥後国は、天武系から天智系に切りかわった光仁天皇即位にさいして、白亀瑞祥による宝亀改元という重要な役割をはたしている。また光仁のあと長岡京・平安京の遷都を敢行し、新皇統政権の出発を宣した桓武にとっても、国司百済王元信をとおして知らされた肥後国の政治・経済の実情は、今後地方政治の振興と律令政治再建を目標に掲げた立場からすれば、まさしくその中心モデルとなすべき国とうつっていたのではなかろうか。道君首名の「卒伝」が例外的に『続日本紀』に掲載され、また肥後国大国昇格が決定された背景に、肥後国と光仁・桓武新王朝成立をめぐるこのような関係が考えられるのではなかろうか。

 熊本県からの視点で書かれているとは思います。しかし、長岡京遷都に関して、藤原種継暗殺事件で頓挫してしまいます。この結果、肥後国でも大伴氏の排除が行なわれたようです。
 光仁天皇の即位の瑞祥については、

神護景雲二年に各地より祥瑞のものが献上され、同四年八月に、肥後国から白亀が献上され、同月の称徳女帝が五三歳で波乱の一生を閉じた。左大臣藤原永手らは天智天皇の孫にあたる白壁王を十月に即位させた。これが光仁天皇であり、・・・神護景雲四年から宝亀元年と改元されたが、これは肥後国葦北郡と益城郡から、大瑞にあたある白亀が献上されたことによるものであった。

また道君首名(みちのきみおびとな)については、36頁にあります。

わが国最初の漢詩集である『懐風藻』には、「正五位下肥後守道公首名 年五十六」の作として「秋宴」と題する五言詩がのせられている。いつの時代か明記されていないが、首名が肥後守となった和銅六(七一三)年八月から、死亡した養老二(七一八)年四月以前の作詞であろう。年五六を享年と解すると、首名の生年は六六三年となり、肥後守就任は五〇歳前後となる。道君首名は北陸地方の道君一族の出身といわれ、地方豪族出身でありながら学問を志し、大宝律令制定に参画して以来、正七位上より律令官人としての道を歩きはじめた。和銅五年新羅大使に任命され、翌六年八月に帰国すると、同月二十六日の人事で筑後守となった。霊亀元(七一五)年従五位上、養老二年正月正五位下に叙せられたが、同年四月十一日に亡くなった。『続日本紀』養老二年四月十一日条に道君首名の「卒伝」が掲載されており、筑後守兼肥後守時代の善政や人柄を知ることができる。・・・

 『続日本紀』養老二年四月の項は唐突に出てくる感じがしますが、特に道君首名の生年が、白村江の戦いの天智2年(663年)と同じで気になります。このことには触れられていませんが、渡来系の二世の時代になります。当時のもっと上位の人物でも薨卒伝がないのに異例中の異例であるとのことです。その理由として

『続日本紀』(文武から桓武天皇まで)の編纂過程において、首名の卒伝の編纂過程において、首名の卒伝が挿入されたのは延暦期(七八二~八〇六)であり、桓武天皇の政策と関係があったと考えられる。

 これは、律令制の再建を目指す桓武朝が地方重視の振興策で地方官の模範として述べられたもののようです。 38頁には

光仁天皇の父、桓武の祖父にあたる施基皇子(しきのみこ)は、天智天皇と「越道君伊羅都売(こしのみちのきみいらつめ)」とのあいだに生まれた皇子であった。後述するように天智系光仁朝の成立と肥後国は関係が深い。数ある国司の中で道君首名が例外的に顕彰された背景には、首名の人柄や治績だけでなく、光仁・桓武新王朝と肥後国の政治的な関係、また道君一族と光仁・桓武親子の血縁的関係があるようである。

53頁には

『日本紀略』によると、平安京遷都が行なわれた翌延暦十四年九月二十一日、肥後国は国の等級が「上国」から「大国」へと昇格している。・・・その理由や基準などについてはまったくなにも記録がない。

55頁に

延暦九年三月に守粟田鷹守、同七月に介百済王元信(くだらのこにきし)と見えているが、延暦十三年に平安京に遷都され、翌年肥後国が大国に昇格する直前まで守は粟田鷹守、介は百済王元信であった。特に百済王元信は百済滅亡時にわが国へ亡命した百済王一族の子孫であり、桓武天皇にとっては生母高野新笠の父で、百済武寧王の太子からでたとされる和史乙継の一族に連なる人物であった。

 桓武天皇の成立基盤はいったいどんなものであったのかと思いますが、地方の歴史からわかってくることがありそうです。

2021年2月14日日曜日

『日本書紀』と藤原不比等、全集の月報47

  新編日本古典文学全集4、日本書紀③に月報47、一九九八年五月付のものがついてます。 その最初に、黒須紀一郎氏の上記タイトルの文章が載せられています。 私の考え方の整理が出来るので、メモ書きです。

私は『日本書紀』の背後に、一人の巨大な男の姿を垣間見る。藤原不比等である。・・・『古事記』は和銅五年(七一二)、そして『日本書紀』は養老四年(七二〇)に完成した。前者は元明、後者は元正、供に女帝の時代である。しかし、ここで注目ししなければならないのは、この両女帝の時代に政界の最高実力者の地位にいたのが、右大臣不比等であったということである。・・・(『古事記』が作られたが、不比等は不満を持ったという文脈で)・・・
 不比等の真意、それは、律令・都城・正史をもって、「倭国」から脱皮した新生「日本国」の建国宣言をすることにあった。特に不比等が意を用いたのは、対唐・対新羅であった。当時「倭国」と言われていた日本は、同盟国百済救援のために大軍を派遣して、唐・新羅連合軍に敗れた。この衝撃は『日本書紀』が伝える以上に、後の天智政権を揺るがしたに相違ない。放置すれば、「倭国」は沈没しかねない。この危機感が壬申の乱を生み、そして急ピッチでの日本国建国になったのだと私は考えている。だから『日本書紀』は歴史書であると同時に、極めて政治性の高い宣言書でもあるのだ。その意味からしても、日本の正史は唐や新羅とも互角に渡り合える史書でなければならないのに、『古事記』はそれに相応しくない。不比等は決断して、急遽、別の史書『日本書紀』作成へと方針を転換したのであろう。
『古事記』は、天地の初め、神代七代から始まって、推古朝で終わっている。ところが『日本書紀』となると、この推古朝の後からが俄然面白くなってくる。古代史の三大事件といえば、「乙巳の変」、「白村江の敗戦」、そして「壬申の乱」をあげる人が多いと思う。この3つは、共に推古朝以降の事件である。
・・・(「乙巳の変」について、余りにも巧く出来すぎていて、創作の匂いすらしてくる。・・「白村江の敗戦」の話があって)・・しかし、不比等はこの敗戦を次にくる壬申の乱のバネとする構成に切り替え、天武から持統・文武・元明・元正。へと続く政権を正統化した。・・・

 『日本書紀』は『古事記』に推古朝以降を追加したもので、聖徳太子などフィクションから始まるので面白くなっていて、事実はどこにあるのか、三大事件も物語として疑いをもって見ないといけませんが、『日本書紀』は対外向けであるので、史書ではなく、宣言書であると考えるべきであるところなど参考になります。
 『日本書紀』では『魏志倭人伝』や『宋書倭国伝』など『隋書倭国伝』などを無視しているとありますが、これも日本側の都合の良いように記載されているので、当然のことになります。邪馬台国の話など『日本書紀』にないのも仕方ありません。
 現時点では、七世紀の日本を如何に復元するかがまだまだですが重要課題です。
最後の部分で

自らの存在と藤原家の位置付けを『日本書紀』の中に定着させている。『記紀』神代巻の主要な部分「国ゆずり」と「天孫降臨」がそれである。この二つの部分で大活躍するのがタケミカヅチノ神とアメノコヤネノ命である。・・・この二神はともに藤原氏の氏神として春日神社に祀られている。・・・タケミカヅチは不比等、アメノコヤネは不比等の同族である神祇伯中臣意美麻呂に見事に対応している。
 こう見てくると、『日本書紀』は「日本国」建国の宣言書であると同時に、不比等と藤原氏のための史書と言えなくもない。

 「国ゆずり」は天武天皇の時代と考えているので(私は)、不比等の時代とは思ってませんでした。神話部分は、歴史事実をほぼ表していると思い込んでいましたが、そうでもない部分もありそうです。一度思い込んだら、他の考えを受け入れるのはなかなか難しいですが、ワンパターンでなくいろいろな可能性を考えることが大事とは思います。私の抜書きでは、不比等の重要性が弱まってるとは思います。

2021年2月13日土曜日

熊本県の部民

  以前に『岡山県の歴史』を見ていて、気になったことがあります。部民制ですが、 『熊本県の歴史』、松本寿三郎・板楠和子・工藤敬一・猪飼/隆明、山川出版社、2012年第2版 にも同じく部民のことが書かれています。  この本には、二十二頁「ワカタケル大王と部民」のタイトルのところです。次の文から始まります。

雄略天皇(ワカタケル大王)は、五世紀代に仁徳王朝の姻戚として栄えた葛城氏を滅ぼして王位を獲得した。

雄略天皇→天武天皇、仁徳天皇→孝徳天皇、葛城氏(諱は葛城)→天智天皇と対応するので、驚きました。江田船山古墳出土太刀の話が出てきて、時代がいつの話か混乱しかけますが、とにかく地名に部のつくものがこの地域に残っていて、

白髪部は、雄略の子、清寧天皇(白髪大倭根子、白髪武広国押稚日本根子天皇)の名代部である。しかし延暦四(七八五)年桓武天皇の父光仁の諱「白壁王」に通じるのを避けて「真髪部」と改名された。

 雄略の子の清寧天皇も大津皇子と考えれば、部民も7世紀後半の話で、肥国がヤマトの勢力下におかれたことになります。磐井の乱のことも出てきますが、7世紀後半に実際になにかしらの争乱があり、この時代の影響で地名に残っていると考える方が理解しやすいです。地名の話を五世紀(の雄略紀)の話とするのは現実的ではないように思われます。
 ヤマトの勢力が7世紀後半に吉備や肥国を併合していった過程が表されていて、分配していったのが部民制で、それが反ヤマトの地域に残った痕跡で、その後、すぐに時系列で部民制から律令制に変わっていったと考えます。妥当な考えかどうか今後の課題です。これは長屋王の時代まで継続していた可能性もあります。

 部民について分かってなかったので、ウィキペディアを以下にコピペします。

部民制(べみんせい) 王権への従属・奉仕、朝廷の仕事分掌の体制である。名称は中国の部曲に由来するともいう[1]。その種類は極めて多く、大きく2つのグループに分けることが出来る。1つは何らかの仕事にかかわる一団で、もう1つは王宮や豪族に所属する一団である。

その中で

子代(こしろ)・御名代(みなしろ) 王(宮)名のついた部。舎人(とねり)・靫負(ゆげい)・膳夫(かしわで)などとして奉仕する。刑部(おさかべ)・額田部(ぬかたべ)などの例がある。御名代には在地の首長の子弟がなる。子弟たちはある期間、都に出仕して、大王の身の回りの世話(トネリ)や護衛(ユゲヒ)、食膳の用意(カシハデ)にあたった。

2021年2月12日金曜日

天武朝の古代山城

  岩城山城から他の城もどうだろうと思い、 『よみがえる古代山城』、向井一雄、吉川弘文館、2017年 を図書館から借りてきました。171頁の図に分布があります。以下の図はコピーしたものです。

  同様の図は11頁にあり、分布の特徴が述べられています。 大陸からの侵攻ルートに沿う防衛ルートと考えられているが疑問が多いとし、疑問点が述べられています。

  • 王都のある近畿に高安城一城のみ。
  • 九州の防衛ラインが有明海側に偏っている。
  • 海沿いにないところもある。
    どこかに書いてあったか、個人的に感じたこととして
  • 淡路島にない。
  • 安芸国にない。
  • 日本海側や太平洋側の国にない。
    があります。山城の統一性が感じられず、それぞれの地域にまかせられているようで、統一的な防衛ラインとは思えません。

天武・持統朝には吉備・周芳(周防)・伊予・筑紫などに数カ国を管掌する大宰・総領が置かれた。

と書かれていますが、

大宰・総領は基本的には行政官だが、壬申の乱時の吉備国守への出兵要請にもみられるように、軍事的権能を合わせ持っていたと思われる。

ともあります。山城の築城に当たって、軍事面だけでなく、経済的な地域負担を考えると、これらの地域は地域国家的なものと考えるべきということだと思います。各地域がかってに防衛を考えていたいうことです。もう少し言えば、吉備国の周囲の国に山城がありません。周辺から包囲されていて、その防衛のために山城を備えた風に見えます。ヤマトと出雲の安芸側からの挟撃に備えています。この時点で淡路島もヤマトがわの拠点になっていたことが想像されます。図のグレーの国は、ヤマトに対抗する勢力を示しています。これらの国に共通するのは有明海や瀬戸内海などの海洋を基盤としています。孝徳朝の前期難波宮も水域がベースにあります。また天智朝の近江の琵琶湖がベースです。天武朝からの駅路建設の水路から陸路への転換前を示している図に思えます。

吉備大宰-鬼ノ城、周芳総領-石城山城(いわきさん)、伊予総領-永納山城(えいのうざん)のように対応関係が指摘できる。

瀬戸内海の古代山城を特徴づけるコの字型門礎石は上記の鬼ノ城、石城山城、播磨城山城、讃岐山城に分布しており、その分布は大宰・総領が敷かれた地域と重なる。コの字型門礎石には未製品や据え付け前の状態で放置されたものが多い。いつ頃、工事が中止となったのか、壬申の乱後の可能性もあるが、大宰・総領との関係を考えれば藤原京段階だろう。

 孝徳天皇の父が茅渟王、母が吉備姫王で、孝徳天皇が吉備と河内の連合政権として前期難波宮を造り、その後に天武天皇のヤマトの勢力(出雲との連合)に押されていったとすれば、
前期難波宮→飛鳥浄御原宮→藤原京の流れが理解できるようになります。

2021年2月8日月曜日

新版歌祭文 野崎村の段から

  NHKのにっぽんの芸能で、2021年1月の放送で、文楽の名作「新版歌祭文 野崎村の段」が取上げられていました。

油屋の娘お染と丁稚の久松は身分違いの恋に落ちるものの、お染は他家と親同士の結納を交わしていた。奸計によって引き離された久松は、郷里の野崎村で養父母の実娘お光と祝言を上げることになった。そこへお染が現れて懐妊の事実を告げ、久松と別れなければならないなら死を選ぶと言い放つ。嫉妬しつつも二人の覚悟を察したお光は、身を引いて尼になる。

 大阪へ久松とお染は戻りますが、陸路と水路と分かれて帰ります。野崎村には慈眼寺(じげんじ)通称、野崎観音(のざきかんのん)があります。ウィキペディアの慈眼寺の「交通」には

かつて西側一帯には付近の川(大和川付け替え以降は寝屋川および支流の谷田川)につながる大きな池・深野池があり、大坂側のターミナルである天満橋の八軒家浜から深野池にかけて「野崎詣り」の参拝客向けの屋形船が行き来していた。船の搭乗客の間では、陸路を歩く参拝者と罵り合う風習があったといい、競り勝てば一年の幸を得られる、と信じられたと伝わっている。

とあります。野崎観音の場所は

生駒山地北部の中腹に位置し、境内からは大阪平野を望むことができる。境内から野崎城跡をへて吊り橋を通って飯盛山・飯盛山城跡などへ至る登山道があるため、休日は登山者の参詣も多い。

 野崎城は飯盛山城の支城で、三好長慶の居城です。阿波の出身でどうして飯盛山城かと思っていたのですが、水上交通によって、飯盛山の近くまでつながっていたのかもしれないと思うようになりました。  飯盛山の近くに堂山古墳群がありますが、近くまで河内湖が広がっていたようです。 大阪平野の変遷 http://agua.jpn.org/pre/pm.html

 大阪府讃良郡野崎村(現・大東市、町村制施行前に存在)の「讃良」ですが、

持統天皇の名「鸕野讃良」の「讃良」は讃良郡に由来するものであり、「うののさらら」と読まれる。

この地域と何らかの関係があったようです。

追記:R030208
 東海林太郎の野崎小唄 作詞:今中 楓溪 作曲:大村 能章
1935年(昭和10年)の歌です。

1.野崎参りは 屋形舟でまいろ   どこを向いても 菜の花ざかり   粋な日がさにゃ 蝶々もとまる   呼んで見ようか 土手の人
2.野崎参りは 屋形舟でまいろ   お染久松 せつない恋に   残る紅梅 久作屋敷   今もふらすか 春の雨
3.野崎参りは 屋形舟でまいろ   音に聞えた 観音ござる   お願かけよか 打たりょうか滝に   滝は白絹 法の水

昭和の初め頃のイメージで、屋形舟があったようです。

2021年2月7日日曜日

周防国、出雲神社

  『式内社調査報告 第二十二巻』、式内社研究會編、皇學館大學出版部、昭和五十五年 に出雲神社がありました。他の地域でも存在するのでたまたま見つけたものです。 場所は山口県佐波郡徳地町となってます。現在、山口県山口市徳地堀3572 。詳しくはネットにあります。

 先の本では

【祭神・祭祀】大己貴命(おおなむちのみこと)、事代主命(ことしろぬしのみこと)。境内に宇佐八幡宮(祭神応神天皇・神功皇后)その相殿に若宮八幡宮(祭神誉田天皇・仁徳天皇)を祭っている。例祭は四月十九日、また神事に御神幸祭後、清農(細男か)出御すれば、参詣者われ先に跪坐し禮拝することが行なわれる。由来等不詳。 【由緒】・・・社記には太古出雲種族の山陽道への膨張発展に伴って其祖神を鎮齋したものであろうと記載するが、佐波川流域と山陰との交通路、流域の出雲系神々の奉齋を考へ合はせるとその推察指摘も興味深い。本社は奈良時代天平十年、周防國正税帳に春秋各十束の頴稻が祭料に奉納されてゐる。貞観九年八月、正五位下より従4位下に神階が加へられた。・・・

 出雲神社も少し奥まったところにあるので、出雲からの周防への出先機関的なイメージかなとは思います。奈良時代より古い時代に作られた気がします。

 関連して、周防という地域が軍事的に重要な地域であるという気がしてきました。 石城山神籠石というものがあります。古代山城ですが、下の地図をみると 本州・四国・九州を含んだ、海上ルートのポイントにあります。三地域を含む「周」辺の「防」衛の拠点の意味を持つ地名で、うまく名づけられたと感心します。




2021年2月5日金曜日

「石棺の移動は何を物語るか」

  『新視点 日本の歴史2』*にある、九州から運ばれた石棺の図を切り取りしました。古い本で、当時の問題意識に基づいて編集されていると思います。タイトルはこの本の中にあり、高木恭二氏の図の部分が以下です。 *第2巻古代編1、白石太一郎・吉村武彦編、新人物往来社、平成5年3月1日発行



 九州で製作された石棺が瀬戸内海を経て各地に供給されている図です。古墳時代なので陸路ではなく海路を想定しています。図にマーカーを追加しました。菊池川流域から、地元だけでなく、愛媛・香川・岡山。大阪に、宇土半島でからは、岡山・大阪・奈良・滋賀の方で石棺が発見されています。搬送には40日以上要したということで、昼間のみの移動で各地に泊まっています。図からわかるように途中の経路がきちんと保証されていなければ目的地にたどり着けません。運ぶには瀬戸内海の制海権などの条件が必要で、地域連合体のようなものが出来ていることがわかります。図から吉備が重要であるように感じられます。吉備が単なる大阪への経由地ではないということです。
 菊池川流域近くに江田船山古墳があります。日本最古の本格的記録文書である75文字の銀象嵌(ぎんぞうがん)銘をもつ大刀(鉄刀)が出土したことで著名です。ウィキペディアでは「江田船山古墳」の説明の中で

銘文にある「獲□□□鹵大王」は、獲を「蝮(たじひ)」、鹵を「歯」と読んで、反正天皇 多遅比瑞歯別尊(たじひのみずはわけのみこと)(日本書紀)または水歯別命(古事記)と長い間推定されてきたが、埼玉県行田市稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣に、1978年に「獲加多支鹵大王」という文字が発見されたことから、この文言は「ワカタケル大王」と読むことが分かった。ワカタケル大王は、雄略天皇に比定されている。この東西日本の古墳から同じ王名を記した刀剣が出土したことは、ヤマト王権の支配が広域に及んでいたことを示す。

と書いてます。私は「雄略天皇=天武天皇」なので雄略天皇の存在を前提とした怪しい話ですが、単に「おおはつせわかたけるのみこと」の名で「ワカタケル」だけ合ってればOKと言えるのかと思います。
 それでも、石棺から見て、古墳時代に瀬戸内海をまたいだ大きな地域連合体のようなものがあったことは確かです。

2021年2月4日木曜日

若宮ノ東遺跡(南国市篠原)

  『発掘された日本列島2020』を見ていたら、発掘された古代官衙で、若宮ノ東遺跡とかありました。記事の後の方で他の遺跡も書いてあり、奈良県吉野町の史跡宮滝遺跡でも発掘されこちらは吉野宮の可能性もあるようです。  若宮ノ東遺跡の方ですが、高知県での7世紀後半の特別な施設とのことです。飛鳥時代と言うことで、天武天皇との関連がありそうです。

若宮ノ東遺跡

 『日本書紀』では、多禰島が天武天皇の時代に出てきます。つまり南海路との関連で土佐が経由地としてあったことが考えられます。吉野→紀ノ川→土佐→多禰嶋の水上交通のラインで、天武初期に重要視されていたことが考えられます。

以下、ウィキペディアのメモです。 

多禰国(たねのくに)

多禰の初見は『日本書紀』の天武6年(677年)2月条の「是の月、多禰嶋人等に飛鳥寺の西の槻の下に饗へたまう」である(記録上の種子島による初の朝貢)。又、『日本書紀』の天武10年8月20日の条に「多禰嶋に遣わした使節が、多禰国の地図を(天武天皇に)たてまつる」とあり、使者は一年以上多禰嶋に滞在して南島の調査等を行い報告の為の地図を作製した。これは信濃国の地図作成に先立つものであった。

土佐国

「土佐」(土左)の記述は『日本書紀』に見え、天武4年3月(675年)の条項に「土左大神以神刀一口、進于天皇」とある。また天武13年(684年)には「土左国田苑五十余万頃、没為海」、「土左国司言、大潮高騰、海水飄蕩、由是運調船多放失焉」と白鳳地震における地変や津波により調を運ぶ船が流失したことを国司が報告する記事があり、律令制が敷かれ国司が派遣されていたことを示すものである[2]。