2021年2月26日金曜日

古代の度量衡

  度量衡とは度(長さ)量(体積)衡(重さ)のことです。 『経済瀬長の日本史』、高島正憲、名古屋大学出版会、2018年1月初版第2冊の付録に度量制の解説があります。

 文献にあるのは、646(大化2)年の改新の詔における・・・・の記述である。この規定が当時どの程度整備され実用化されていたかは不明ではあるが、『続日本紀』巻2・大宝2(702)年3月乙亥条に「初めて度・量(物差しと枡)を天下の諸国に頒布した」*(この部分は漢文で記述されているが勝手に現代語訳にあわして変更している)とあるように、8世紀初頭には度量制度の制定と施行が行なわれていた。この度量制度は半年後(10月)に施行される大宝律令に先立って施行されており、税制と密接にかかわる度量制度を整備しておくという現実的要求があった。・・・・  この大宝律令の度制は施行から10年後の713(和銅6)年2月に、量制とともに改訂されることになる。制定された度量をわずか10年ほどの運用で変更した背景としては、2月の条文中にある「別格」に関する説明が『令集解』の「田長条」に引用されている。少し長くなるが以下に掲げよう。ーーー長いので省略ーーー。  この条文を簡単に説明すれば、租税の基準となる田地の面積が、大宝令の施行前の単位(おそらく高麗尺と考えられる)で測量されており、それが習慣化されていたので、大宝令によって新しい単位を制定しても、以前のものからの変更が難しく混乱をきたしたため、単位は大宝令以前に戻すことにした。・・・  この尺の長さそのものについては、大宝律令がそうであったように、基本的には唐の制度にしたがったものであったので日本の令の大小尺そのままであったとするか、令の小尺は唐の大尺(曲尺)で、令の大尺は令前の常用尺であった高麗尺であったとするなど諸説があったが、現在では、後者の説が有力視されている(亀田2001、4-5頁;冨谷1992、274-280頁)。

 理解するところ、大宝律令において新体制を考えたものの、以前からの度量制で行くことになったということのようです。日本書紀は、持統朝から文武朝の正統性を述べますが、実際には苦しい状況にあったことを想像させます。  先の本ですが、その後に

 古代・中世をつうじてほぼ変化のなかった土地丈量の単位は、戦国時代を終了させ天下統一を果たした豊臣政権によって大きく変わることになる。

 これによれば、中世までは同一の経済体制が運用されていたと考えても大きな間違いにはならないように思えてきました。

 ついでですが、文武天皇の時代の大宝律令もパッとしないように感じますが、遣唐使の記述もさえません。慶雲元年の粟田朝臣真人が唐から太宰府に帰ったときの記述とかも成果があったような書き方ではありません。本当はどんなだったろうと思います。『続日本紀(上)』宇治谷孟、講談社、2008年12月第23刷発行を見ました。

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