『続日本紀(下)』全現代語訳、宇治谷孟、講談社、2009年3月19日第19刷発行
この本の桓武天皇のところを見ていて、天応元年(七八一)に菅原の姓にしたいと申し出たとの記事があります。この年は光仁天皇の体調が悪くなって、四月に桓武天皇が即位しています。そして六月に遠江介・従五位下の土師宿禰古人と散位・外従五位下の土師宿禰道長ら十五人が改姓を申し出た。野見宿禰以来、葬儀と祭事を担当してきたが、今は葬儀のみになってしまった。土師という名前は本意では無いので、居住地の地名にちなんで、菅原にしたいということで認められたとのことです。
延暦元年(七八二)には、別の土師氏に秋篠とかになっています。他にも氏姓を賜る記事も時々出てきます。新興勢力の台頭があったのかもしれません。 桓武天皇の時代に、東北遠征が重要課題になっていたと思います。菅原氏も関与して東北に行ったのであろうと思います。それが東北地方に伝播したように思えてきました。菅原道真の時の話ではなかったことになります。
菅原の名字が東北地方に多いというのを投稿していたと思ってましたが見つかりません。分布図を探せたので以下に示します。十年前に作成した県別分布で記憶がうすれていますが、東北地方に集中しています。全国平均を1.0に基準化したはずです。
また名字だけでなく、地名も「岩手」は「岩出」から変化したのではないかといってました。以下です。これらは東方地方に残る痕跡かもしれません。
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和歌山県紀の川市で粉河祭というのがあり、 「祭りの中心行事の渡御式は、粉河寺を創始した大伴孔子古(おおとものくじこ)の子・船主が坂上田村麻呂将軍の奥州征伐に出陣し、賊徒を退治して凱旋(がいせん)した姿を伝えるものと言われている。渡御式は現在、隔年で開催している。」 引用はhttps://wakayama.keizai.biz/headline/678/
坂上田村麻呂の前は紀古佐美《き の こさみ》が征東大将軍だったそうです。粉河寺の横が岩出市です。岩出→いわで→いわて→岩手で、岩出の人が東北遠征で岩手県に常駐したのではと私は想像しています。岩出の話もつながってくるかもと思いました。 この部分、以下からのコピー。
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