2021年2月19日金曜日

桓武天皇と肥後国

  『熊本県の歴史』、松本寿三郎・板楠和子・工藤敬一・猪飼/隆明、山川出版社、2012年第2版 の55頁です。

肥後国は、天武系から天智系に切りかわった光仁天皇即位にさいして、白亀瑞祥による宝亀改元という重要な役割をはたしている。また光仁のあと長岡京・平安京の遷都を敢行し、新皇統政権の出発を宣した桓武にとっても、国司百済王元信をとおして知らされた肥後国の政治・経済の実情は、今後地方政治の振興と律令政治再建を目標に掲げた立場からすれば、まさしくその中心モデルとなすべき国とうつっていたのではなかろうか。道君首名の「卒伝」が例外的に『続日本紀』に掲載され、また肥後国大国昇格が決定された背景に、肥後国と光仁・桓武新王朝成立をめぐるこのような関係が考えられるのではなかろうか。

 熊本県からの視点で書かれているとは思います。しかし、長岡京遷都に関して、藤原種継暗殺事件で頓挫してしまいます。この結果、肥後国でも大伴氏の排除が行なわれたようです。
 光仁天皇の即位の瑞祥については、

神護景雲二年に各地より祥瑞のものが献上され、同四年八月に、肥後国から白亀が献上され、同月の称徳女帝が五三歳で波乱の一生を閉じた。左大臣藤原永手らは天智天皇の孫にあたる白壁王を十月に即位させた。これが光仁天皇であり、・・・神護景雲四年から宝亀元年と改元されたが、これは肥後国葦北郡と益城郡から、大瑞にあたある白亀が献上されたことによるものであった。

また道君首名(みちのきみおびとな)については、36頁にあります。

わが国最初の漢詩集である『懐風藻』には、「正五位下肥後守道公首名 年五十六」の作として「秋宴」と題する五言詩がのせられている。いつの時代か明記されていないが、首名が肥後守となった和銅六(七一三)年八月から、死亡した養老二(七一八)年四月以前の作詞であろう。年五六を享年と解すると、首名の生年は六六三年となり、肥後守就任は五〇歳前後となる。道君首名は北陸地方の道君一族の出身といわれ、地方豪族出身でありながら学問を志し、大宝律令制定に参画して以来、正七位上より律令官人としての道を歩きはじめた。和銅五年新羅大使に任命され、翌六年八月に帰国すると、同月二十六日の人事で筑後守となった。霊亀元(七一五)年従五位上、養老二年正月正五位下に叙せられたが、同年四月十一日に亡くなった。『続日本紀』養老二年四月十一日条に道君首名の「卒伝」が掲載されており、筑後守兼肥後守時代の善政や人柄を知ることができる。・・・

 『続日本紀』養老二年四月の項は唐突に出てくる感じがしますが、特に道君首名の生年が、白村江の戦いの天智2年(663年)と同じで気になります。このことには触れられていませんが、渡来系の二世の時代になります。当時のもっと上位の人物でも薨卒伝がないのに異例中の異例であるとのことです。その理由として

『続日本紀』(文武から桓武天皇まで)の編纂過程において、首名の卒伝の編纂過程において、首名の卒伝が挿入されたのは延暦期(七八二~八〇六)であり、桓武天皇の政策と関係があったと考えられる。

 これは、律令制の再建を目指す桓武朝が地方重視の振興策で地方官の模範として述べられたもののようです。 38頁には

光仁天皇の父、桓武の祖父にあたる施基皇子(しきのみこ)は、天智天皇と「越道君伊羅都売(こしのみちのきみいらつめ)」とのあいだに生まれた皇子であった。後述するように天智系光仁朝の成立と肥後国は関係が深い。数ある国司の中で道君首名が例外的に顕彰された背景には、首名の人柄や治績だけでなく、光仁・桓武新王朝と肥後国の政治的な関係、また道君一族と光仁・桓武親子の血縁的関係があるようである。

53頁には

『日本紀略』によると、平安京遷都が行なわれた翌延暦十四年九月二十一日、肥後国は国の等級が「上国」から「大国」へと昇格している。・・・その理由や基準などについてはまったくなにも記録がない。

55頁に

延暦九年三月に守粟田鷹守、同七月に介百済王元信(くだらのこにきし)と見えているが、延暦十三年に平安京に遷都され、翌年肥後国が大国に昇格する直前まで守は粟田鷹守、介は百済王元信であった。特に百済王元信は百済滅亡時にわが国へ亡命した百済王一族の子孫であり、桓武天皇にとっては生母高野新笠の父で、百済武寧王の太子からでたとされる和史乙継の一族に連なる人物であった。

 桓武天皇の成立基盤はいったいどんなものであったのかと思いますが、地方の歴史からわかってくることがありそうです。

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