新編日本古典文学全集4、日本書紀③に月報47、一九九八年五月付のものがついてます。 その最初に、黒須紀一郎氏の上記タイトルの文章が載せられています。 私の考え方の整理が出来るので、メモ書きです。
私は『日本書紀』の背後に、一人の巨大な男の姿を垣間見る。藤原不比等である。・・・『古事記』は和銅五年(七一二)、そして『日本書紀』は養老四年(七二〇)に完成した。前者は元明、後者は元正、供に女帝の時代である。しかし、ここで注目ししなければならないのは、この両女帝の時代に政界の最高実力者の地位にいたのが、右大臣不比等であったということである。・・・(『古事記』が作られたが、不比等は不満を持ったという文脈で)・・・
不比等の真意、それは、律令・都城・正史をもって、「倭国」から脱皮した新生「日本国」の建国宣言をすることにあった。特に不比等が意を用いたのは、対唐・対新羅であった。当時「倭国」と言われていた日本は、同盟国百済救援のために大軍を派遣して、唐・新羅連合軍に敗れた。この衝撃は『日本書紀』が伝える以上に、後の天智政権を揺るがしたに相違ない。放置すれば、「倭国」は沈没しかねない。この危機感が壬申の乱を生み、そして急ピッチでの日本国建国になったのだと私は考えている。だから『日本書紀』は歴史書であると同時に、極めて政治性の高い宣言書でもあるのだ。その意味からしても、日本の正史は唐や新羅とも互角に渡り合える史書でなければならないのに、『古事記』はそれに相応しくない。不比等は決断して、急遽、別の史書『日本書紀』作成へと方針を転換したのであろう。
『古事記』は、天地の初め、神代七代から始まって、推古朝で終わっている。ところが『日本書紀』となると、この推古朝の後からが俄然面白くなってくる。古代史の三大事件といえば、「乙巳の変」、「白村江の敗戦」、そして「壬申の乱」をあげる人が多いと思う。この3つは、共に推古朝以降の事件である。
・・・(「乙巳の変」について、余りにも巧く出来すぎていて、創作の匂いすらしてくる。・・「白村江の敗戦」の話があって)・・しかし、不比等はこの敗戦を次にくる壬申の乱のバネとする構成に切り替え、天武から持統・文武・元明・元正。へと続く政権を正統化した。・・・
『日本書紀』は『古事記』に推古朝以降を追加したもので、聖徳太子などフィクションから始まるので面白くなっていて、事実はどこにあるのか、三大事件も物語として疑いをもって見ないといけませんが、『日本書紀』は対外向けであるので、史書ではなく、宣言書であると考えるべきであるところなど参考になります。
『日本書紀』では『魏志倭人伝』や『宋書倭国伝』など『隋書倭国伝』などを無視しているとありますが、これも日本側の都合の良いように記載されているので、当然のことになります。邪馬台国の話など『日本書紀』にないのも仕方ありません。
現時点では、七世紀の日本を如何に復元するかがまだまだですが重要課題です。
最後の部分で
自らの存在と藤原家の位置付けを『日本書紀』の中に定着させている。『記紀』神代巻の主要な部分「国ゆずり」と「天孫降臨」がそれである。この二つの部分で大活躍するのがタケミカヅチノ神とアメノコヤネノ命である。・・・この二神はともに藤原氏の氏神として春日神社に祀られている。・・・タケミカヅチは不比等、アメノコヤネは不比等の同族である神祇伯中臣意美麻呂に見事に対応している。
こう見てくると、『日本書紀』は「日本国」建国の宣言書であると同時に、不比等と藤原氏のための史書と言えなくもない。
「国ゆずり」は天武天皇の時代と考えているので(私は)、不比等の時代とは思ってませんでした。神話部分は、歴史事実をほぼ表していると思い込んでいましたが、そうでもない部分もありそうです。一度思い込んだら、他の考えを受け入れるのはなかなか難しいですが、ワンパターンでなくいろいろな可能性を考えることが大事とは思います。私の抜書きでは、不比等の重要性が弱まってるとは思います。
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