2021年2月8日月曜日

新版歌祭文 野崎村の段から

  NHKのにっぽんの芸能で、2021年1月の放送で、文楽の名作「新版歌祭文 野崎村の段」が取上げられていました。

油屋の娘お染と丁稚の久松は身分違いの恋に落ちるものの、お染は他家と親同士の結納を交わしていた。奸計によって引き離された久松は、郷里の野崎村で養父母の実娘お光と祝言を上げることになった。そこへお染が現れて懐妊の事実を告げ、久松と別れなければならないなら死を選ぶと言い放つ。嫉妬しつつも二人の覚悟を察したお光は、身を引いて尼になる。

 大阪へ久松とお染は戻りますが、陸路と水路と分かれて帰ります。野崎村には慈眼寺(じげんじ)通称、野崎観音(のざきかんのん)があります。ウィキペディアの慈眼寺の「交通」には

かつて西側一帯には付近の川(大和川付け替え以降は寝屋川および支流の谷田川)につながる大きな池・深野池があり、大坂側のターミナルである天満橋の八軒家浜から深野池にかけて「野崎詣り」の参拝客向けの屋形船が行き来していた。船の搭乗客の間では、陸路を歩く参拝者と罵り合う風習があったといい、競り勝てば一年の幸を得られる、と信じられたと伝わっている。

とあります。野崎観音の場所は

生駒山地北部の中腹に位置し、境内からは大阪平野を望むことができる。境内から野崎城跡をへて吊り橋を通って飯盛山・飯盛山城跡などへ至る登山道があるため、休日は登山者の参詣も多い。

 野崎城は飯盛山城の支城で、三好長慶の居城です。阿波の出身でどうして飯盛山城かと思っていたのですが、水上交通によって、飯盛山の近くまでつながっていたのかもしれないと思うようになりました。  飯盛山の近くに堂山古墳群がありますが、近くまで河内湖が広がっていたようです。 大阪平野の変遷 http://agua.jpn.org/pre/pm.html

 大阪府讃良郡野崎村(現・大東市、町村制施行前に存在)の「讃良」ですが、

持統天皇の名「鸕野讃良」の「讃良」は讃良郡に由来するものであり、「うののさらら」と読まれる。

この地域と何らかの関係があったようです。

追記:R030208
 東海林太郎の野崎小唄 作詞:今中 楓溪 作曲:大村 能章
1935年(昭和10年)の歌です。

1.野崎参りは 屋形舟でまいろ   どこを向いても 菜の花ざかり   粋な日がさにゃ 蝶々もとまる   呼んで見ようか 土手の人
2.野崎参りは 屋形舟でまいろ   お染久松 せつない恋に   残る紅梅 久作屋敷   今もふらすか 春の雨
3.野崎参りは 屋形舟でまいろ   音に聞えた 観音ござる   お願かけよか 打たりょうか滝に   滝は白絹 法の水

昭和の初め頃のイメージで、屋形舟があったようです。

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