2021年2月5日金曜日

「石棺の移動は何を物語るか」

  『新視点 日本の歴史2』*にある、九州から運ばれた石棺の図を切り取りしました。古い本で、当時の問題意識に基づいて編集されていると思います。タイトルはこの本の中にあり、高木恭二氏の図の部分が以下です。 *第2巻古代編1、白石太一郎・吉村武彦編、新人物往来社、平成5年3月1日発行



 九州で製作された石棺が瀬戸内海を経て各地に供給されている図です。古墳時代なので陸路ではなく海路を想定しています。図にマーカーを追加しました。菊池川流域から、地元だけでなく、愛媛・香川・岡山。大阪に、宇土半島でからは、岡山・大阪・奈良・滋賀の方で石棺が発見されています。搬送には40日以上要したということで、昼間のみの移動で各地に泊まっています。図からわかるように途中の経路がきちんと保証されていなければ目的地にたどり着けません。運ぶには瀬戸内海の制海権などの条件が必要で、地域連合体のようなものが出来ていることがわかります。図から吉備が重要であるように感じられます。吉備が単なる大阪への経由地ではないということです。
 菊池川流域近くに江田船山古墳があります。日本最古の本格的記録文書である75文字の銀象嵌(ぎんぞうがん)銘をもつ大刀(鉄刀)が出土したことで著名です。ウィキペディアでは「江田船山古墳」の説明の中で

銘文にある「獲□□□鹵大王」は、獲を「蝮(たじひ)」、鹵を「歯」と読んで、反正天皇 多遅比瑞歯別尊(たじひのみずはわけのみこと)(日本書紀)または水歯別命(古事記)と長い間推定されてきたが、埼玉県行田市稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣に、1978年に「獲加多支鹵大王」という文字が発見されたことから、この文言は「ワカタケル大王」と読むことが分かった。ワカタケル大王は、雄略天皇に比定されている。この東西日本の古墳から同じ王名を記した刀剣が出土したことは、ヤマト王権の支配が広域に及んでいたことを示す。

と書いてます。私は「雄略天皇=天武天皇」なので雄略天皇の存在を前提とした怪しい話ですが、単に「おおはつせわかたけるのみこと」の名で「ワカタケル」だけ合ってればOKと言えるのかと思います。
 それでも、石棺から見て、古墳時代に瀬戸内海をまたいだ大きな地域連合体のようなものがあったことは確かです。

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