『発掘された日本列島2020』を見ていたら、発掘された古代官衙で、若宮ノ東遺跡とかありました。記事の後の方で他の遺跡も書いてあり、奈良県吉野町の史跡宮滝遺跡でも発掘されこちらは吉野宮の可能性もあるようです。 若宮ノ東遺跡の方ですが、高知県での7世紀後半の特別な施設とのことです。飛鳥時代と言うことで、天武天皇との関連がありそうです。
『日本書紀』では、多禰島が天武天皇の時代に出てきます。つまり南海路との関連で土佐が経由地としてあったことが考えられます。吉野→紀ノ川→土佐→多禰嶋の水上交通のラインで、天武初期に重要視されていたことが考えられます。
以下、ウィキペディアのメモです。
多禰国(たねのくに)
多禰の初見は『日本書紀』の天武6年(677年)2月条の「是の月、多禰嶋人等に飛鳥寺の西の槻の下に饗へたまう」である(記録上の種子島による初の朝貢)。又、『日本書紀』の天武10年8月20日の条に「多禰嶋に遣わした使節が、多禰国の地図を(天武天皇に)たてまつる」とあり、使者は一年以上多禰嶋に滞在して南島の調査等を行い報告の為の地図を作製した。これは信濃国の地図作成に先立つものであった。
土佐国
「土佐」(土左)の記述は『日本書紀』に見え、天武4年3月(675年)の条項に「土左大神以神刀一口、進于天皇」とある。また天武13年(684年)には「土左国田苑五十余万頃、没為海」、「土左国司言、大潮高騰、海水飄蕩、由是運調船多放失焉」と白鳳地震における地変や津波により調を運ぶ船が流失したことを国司が報告する記事があり、律令制が敷かれ国司が派遣されていたことを示すものである[2]。
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