2022年5月30日月曜日

7世紀の日食

 7世紀の日食の計算ができるようです。自分では知識がなくてできませんが、-1500年から3000年まで世界の各地で調べることができます。例えば大阪の601-700を見ると時間を指定することでリストアップされます。問題はわかりにくいことです。使い方がわかっていないので、あったかどうかぐらいの確認しかできません。 以下のところです。 NASAのページ 

7世紀の日食について、日食ナビというページに、推古天皇と天武天皇の時代の2個が示されています。

①628年4月10日、推古天皇の日食

計算と『日本書紀』とあってなくて、実際よくわからないとのことですが、推古天皇はそもそも存在しないと考えれば問題ありません。

②680年11月27日、天武天皇の日食


太い金環帯が北海道南部から北関東を横断 とあり、確かそうです。

また別のところに、

この時の日食(680/11/27)は飛鳥で食分0.85。深食では無い日食にもかかわらず数日後皇后(後の持統天皇)の体が不調になった時に皇后の回復祈願の為に薬師寺の建立まで決めている。 http://www.wagoyomi.info/suiko/suiko.html

地球の自転速度が違うことによるΔTの補正について詳しく調べられています。誤解してるかもしれませんが、推古天皇の日食は潤色であろうとのことだと思います。

先の図のリンク先のものを貼っておきます。推古天皇・天武天皇の時代のものです。


推古天皇の時の日食


天武天皇の時の日食


2022年5月27日金曜日

キトラ古墳の天体図の老人星

 天体図(ここでは天文図と区別してません)の南側の星に老人星と考えられている星があります。以下です。

天文図部分


元図はここ 

北緯38°の平壌では「老人星」は見えない (『キトラ天文図』に関する誤解

老人星ですが、中国の名前で、普通はカノープスと呼ばれる星です。

天津市天文学会の趙之コウ(王+行)理事によると、「老人星」とはりゅうこつ座のアルファ星・カノープスを指し、太陽を除くと全天で2番目に明るい恒星。この星は中国古代より、吉祥・長寿・健康を代表する吉星、福星、寿星とされてきた。ただしやや南寄りにあるため、北緯37度以南の地方でしか見ることはできない。(https://spc.jst.go.jp/news/121003/topic_2_03.html)

のようです。ほぼ地平線上にあり、見えたり、消えたり微妙で、存在してるのか消えてしまったかわからないので、死にかけの老人のイメージかと思っていました。

『ヴィジュアル版 星座図鑑』、藤井旭、河出書房、1999年2月10日の5頁に緯度の違いによるカノープスの見え方の図があり、那覇付近では見えるのが、東京付近でぎりぎり、札幌付近では見えないとあります。星座盤の使い方とか載っていますが、古い時代なので、今はこのようなものを使わないのではと思われます。星座盤を買おうかと思いましたが、パソコンとかで見ることができ、便利な時代になりました。

星座盤ソフトを探したところ、 「Mitaka バージョン1.7.2 (標準解像度版天の川、地形データ無し) (2022/01/18 Release)」 がありました。しかし、高級すぎて使いにくそうです。以下のソフトが簡便で、こちらで星の動きをシミュレーションしました。

Stella Theater Lite Ver3.02 (2010/02/05) 

このStella Theater Lite ver3.02で奈良県を観測地にしてカノープスを観測しました。楽なものです。奈良県、緯度は34.7°になってます。結果はほぼ地平線の付近に少し出るだけです。見えるときでも一晩見えるということはありません。しかも夏は見ることができません。見えたらラッキーであるというのもわかります。朝鮮半島では見えないように思います。キトラ天文図は朝鮮半島で観測したものではないことは確実です。中国でも北の地域は難しく、敦煌なども無理そうです。中国の南の方とか、インドとかは大丈夫です。メソポタミアも日本と同じような緯度で観測可能です。

ここからの妄想ですが、以前に「太陽の道」という北緯34度32分のラインがありました。ひょっとして、この道の延長で「メソポタミアへの道」かもしれないという気もしてきました。ササン朝ペルシャと天武天皇が結びつくかもしれません。

以下に「太陽の道」のことがあります。 室生寺と天武天皇 

2022年5月25日水曜日

天皇の星座

『上下する天文―キトラ・高松塚古墳の謎』、来村/多加史、 教育評論社 (2019/6/3)の中に 敦煌星図甲本の図がありましたが、縮小されていて見にくく、ネットで探すと

Dunhuang Star Chart  がありました。その中に図があります。英語版です。 同様のものが「星座」で検索するとウィキペディアで日本語のものが出てきました。

画面キャプチャしたものを以下に示します。

北極の上の天皇の図

敦煌星図(英語版)[1]/唐代中国が中宗治世(705-710年)下にあった時代に作られた星図。敦煌文献の一つとして1900年に発見された。画像は北極区(北極星を中心とする北天の一区)の図。

と説明があります。

図を見ると、天皇の文字が北極の上のほうに見えます。おそらく、天文遁甲の天武天皇が「天皇」の始まりのように思えます。天武天皇はペルシャ人ではない可能性もあります。キトラ古墳の天文図では、細かく描かれてないので、「天皇」とかの星座はなさそうです。 

2022年5月24日火曜日

キトラ古墳と川原寺

 『上下する天文―キトラ・高松塚古墳の謎』、来村/多加史、 教育評論社 (2019/6/3)

この本では、現場を見ることが大事といういことから始まり、「谷を景観域とするキトラ・高松塚古墳」というところで、墓の立地について『風水と天皇陵』にある図を修正した図が載っています。以下コピーしました。要は、終末期古墳十基あまりの位置は谷の奥にあるということです。図のE型ではアルファベットのEに似た丘を利用するタイプで谷の中にあり、谷の中に景観としておさまっていれば、他の古墳があっても良いということのようです。

古墳の選地の図


イメージできにくいですが、この本に後の方に、葬儀風景の図があります。同じ物がネットにありました。「南朝葬儀風景の想像図
この図は「中国長江下流域の古代遺跡を訪れる」 からのものです。

葬儀風景の図を見ていると奥まったところにあるのはなぜかというのがわかってきます。行列が長いと後方では前のことがわかりにくくなります。谷底のような地形では音が拡散しいくくなるのではと思いました。谷底を音が伝わるのではとの想像です。E型の墓の立地でも背景が音の反射板の役目を持っているように思われます。読経のようなものも音が放散せず、効率的に伝わりそうです。葬儀のパフォーマンスを考えて墓の位置が決められているように思われてきます。葬儀の風景をイメージしてないので、遺跡では音の情報を見落としていたように思います。

さて、川原寺です。塼仏の意味が今までわかりませんでした。キトラ古墳からの類推です。 川原寺のモデルに玉虫厨子がそうではないかと思われます。厨子の扉に塼仏がはめられているように見えました。塼仏が堂内に張り巡らして、一種の宗教空間を作っているのですが、反響音でうるさいのではなかったかとか思ったりしていました。しかし、そうではなく扉を開け広げて、読経すれば塼仏の扉が反響板として働き、堂外にも拡散します。堂が一種のスピーカーになったようなものです。今まで寺院がどのように活用されてか気にしてなかったのですが、寺の回廊などは、読経を行って、祭祀儀礼の宗教的な音空間を作るのに絶対に必要であったと思います。

キトラ古墳と川原寺は同じように宗教的な音空間を必要としていたと思われてきます。

玉虫厨子

2022年5月23日月曜日

天文学の歴史的なこと

 『天文学の誕生――イスラーム文化の役割 (岩波科学ライブラリー)』、三村 太郎、岩波書店 (2010/8/26)

に書いてあることのメモ書きです。

コペルニクスの地動説に到った経緯として、プトレマイオスの天動説があります。コペルニクスの『天球回転論』にはイスラムの学者のことが言及されていて、プトレマイオスの『アルマゲスト』がアラビア語に翻訳され、天動説を研究されていたのをコペルニクスも参照したとのことです。イスラームのアッバース朝の時代のことです。イスラームは、予言者ムハンマドに始まり、最初にウマイヤ朝が成立したが、反発する勢力を利用してアッバース朝が生まれた。支持したのがシーア派イスラーム教徒で、ペルシャ人が多く、元はサーサーン朝ペルシャでゾロアスター教であったので、その伝統を無視することはできなかった。サーサーン朝ペルシャでは書物をプフラヴィー語(中世ペルシャ語)に翻訳したのを受け継いで、アッバース朝ではアラビア語に翻訳されていった。イスラームにはプトレマイオス天文学が展開されていった経緯があるとのことです。 プトレマイオスですが、バビロニア天文学を利用しています。なぜバビロニアで天文学がということですが、バビロニアは占星術の国家であり、国の将来を星占いで決定し、それで前兆を知ることが重要であったことから発展したようです。この発想は中国の天命思想につながり、日本にも「天皇」ということで天武天皇の時代に広まったと個人的に思います。

話が混乱しますが、イスラームの天文学ではインド式計算法を取り入れているようです。天文計算に数値処理が大事であったということで、いろんな地域が関係しています。しかし大元はバビロニア地域であろうとなります。

中国の天文学のところで、瞿曇悉達(くどんしった)という人が出てきました。

瞿曇悉達(くどんしった)、ウィキペディアでは

長安(現西安)に生まれたが、祖先はインド出身である。 玄宗の時代に太史監(国立天文台長)に任じられた。1977年に西安で発掘された墓碑によると、瞿曇家は唐朝成立以前に中国に住み始めており、以後代々中国で生活をしていたと推測されている。
開元年間に占星術書『開元占経(中国語版、英語版)』を編纂し、占星術や天文学の資料を整理した。『開元占経』にはインドの天文暦書(シッダーンタ)を漢訳した『九執暦』が含まれている。開元6年(718年)にはインド数字の〇(零)を中国にもたらし、計算方法に変化をもたらした[2][3]。

キトラ古墳も中国・朝鮮を見てるだけではだめだろうということでした。

2022年5月20日金曜日

キトラ古墳の星図

 キトラ古墳の石室内の天井にある天体図です。 『極彩色壁画の発見 高松塚古墳・キトラ古墳 (シリーズ「遺跡を学ぶ」155)』廣瀬 覚, 建石 徹、新泉社 (2022/3/21)を借りてきました。キトラ古墳の天文図との写真がありますが、わかりづらいです。

なぶんけんブログの”キトラ天文図の観測年代に関する「謎」”の中の図がわかりやすいです。 キトラ天文図復元トレース図 

あまり詳しくこの天文図について述べられていませんが、中国大陸の

中原から遣唐使により直接日本に将来したか、半島経由して遣新羅使を通じて招来したのかはわからないが、いずれにせよ、東アジア古代史のダイナミズムがこの天文図に凝縮され、いまに伝えられていることは間違いない。

と書いてます。星座の起源はオリエントにあります。直接に伝来した可能性はないのだろうかと思います。 天文学的な知識がないので、中国などに残された天文図との関係については不明ですが、

『星座の起源: 古代エジプト・メソポタミアにたどる星座の歴史』近藤 二郎 、誠文堂新光社 (2021/1/25)のなかに、|キトラ古墳の「弧矢」|として

さて、古代バビロニアの星座である弓と矢を見ていて、私は日本のキトラ古墳の天体図を思い起こしました。奈良県明日香村のキトラ古墳の再調査によって発見された、古墳の石槨天井部に描かれたみごとな天体図です。キトラ古墳の天体図では、二八宿を含む六八の星座と約三五〇の星が描かれていました。同様な天体図は、中国や朝鮮半島からも発見されており、日本には大陸経由で招来したものです。
キトラ古墳の天体図の詳しい解説やその問題点に関しては、これまでに多くの文献が発表されているので詳細についてはそれらに譲るとして、ここではキトラ古墳の天体図にも登場する「弧矢」と呼ばれる星座に注目してみましょう。
前頁 図4-4に示すように、キトラ古墳の天体図には、シリウス(天狼)とカノープス(老人)も描かれています。キトラ古墳に描かれている天狼と弧矢との位置関係は、まさに古代バビロニアの星座である弓と矢と一致しています。中国の星座の起源については諸説存在してますが、この弧矢に関しては古代メソポタミア起源の星座と深い関係があると想像できます。

図4-4は省略してますが、ネットで探せば以下のようなものがあります。『キトラ天文図』に関する誤解の天文図の下の方にあります。 

キトラ古墳の天体図で、ペルシャとの関係が述べられているわけではないですが、天武天皇がペルシャ人につながる話になるかとの、妄想です。

2022年5月19日木曜日

天照大神は天武天皇?

 天照大神は持統天皇と考えていて、その後の女帝の影響もあるだろうということでした。ところが、ネットで天照大神は元は男神だったというのを見ました。とすれば、持統天皇の前は天武天皇なので、天照大神は天武天皇だったということになってきます。『日本書紀』では持統天皇のイメージですが、元々は天武天皇であったのが、書き換えられたとなります。室生寺では天武天皇の勅願であったということです。室生寺だけで無く、伊勢路につながる室生寺の地域で、天武天皇の名前がよく出てくる気がします。偶然ではなく、何かしら、伊勢神宮と天武天皇を結びつけるものがあったかもしれません。昔、吉野は後醍醐天皇の南北朝の時代の拠点です。室生寺に、伝北畠親房墓とされる五輪塔らしきものがありました。近傍の地域を含めて、南朝復興を天武天皇の壬申の乱のイメージと結びつけようとする力が働いていたかもしれません。水分神社の上社と下社が男女神であるというのは自然ですが、伊勢神宮では内宮・外宮とも女神ということで不自然さは感じます。天照大神は天武天皇だった可能性はあるように思います。

2022年5月15日日曜日

水分神社2

 『社寺縁起・伝説辞典』- 戎光祥出版 (平成21/12/20)をまた見ると、宇太水分神社を見落としていました。

宇太水分神社

【祭神】速秋津比古神《はやあきつひこのかみ》・天水分神《あめのみくまりのかみ》・国水分神《くにのみくまりのかみ》(上宮)、天水分神・国水分神・天児屋根命《あめのこやね」のみこと》・品陀別命《ほんだわけのみこと》(下宮)
【縁起・伝説】『水分宮由来集(みくまりぐうゆらいしゅう)』冒頭の縁起によると、当社は、伊勢大神宮社司の末裔玉造村尾の汲んだ御裳濯川《みもすそがわ》の水が、高見山に至って、白龍に化成したことに始まり、水分大明神は天照大神の分身であるという。また、崇神天皇の御代も、水分神が高見山から芳野中山《ほうのなかやま》、西殿玉岳《にしどのたまおか》、井谷田山《いだにたやま》へと遷座したのが、それぞれ惣社水分神社《そうしゃみくまり》、宇太水分神社上宮、下宮であると伝える。・・・
なお、上・下宮に祀られた水分神は男女一対の神で、陽成天皇の元慶二年(八七八)より前には、水分神を上宮から下宮へ、下宮から上宮へ遷す儀式が行われており、これは古代における上・下宮の関係を窺う上で注目される。・・・

本殿は国宝に指定されてるようです。

国宝 宇太水分神社 奈良県宇陀市 うだのみくまりじんじゃ 

上・下宮について、追加の話ですが、奈良県には丹生川上神社が掲載されています。天武天皇白鳳4年に創始と伝えられている。とあります。 丹生川上神社・丹生川上神社上社・丹生川上神社下社とわかれて記載あります。それぞれの社地の所在不明であったようですが、高龗神社が上社に認定されたようです。 この旧社地は

平面的に見ると拝殿・本殿・吉野川・磐座・神奈備が一直線に並ぶ配置となっている。そのことから、当社は古式の信仰形態を有する神社であると指摘されている。・・・

祭神の高龗神は伊弉諾尊《いざなぎのみこと》が軻遇突智《かぐつち》を斬った時に出生した神である。下社の祭神である闇龗神《くらおかみのかみ》と同様に水を司る神であり、祈雨・止雨に霊験があるという。高龗神は山峰の龍神、闇龗神は谷底を支配する龍神とされる。・・・

奈良県には古い神社が多くて、古い形の神社が残ってるのかと思います。

2022年5月14日土曜日

室生寺と天武天皇

 室生寺のサイトに

天武天皇の勅願により、修験道の祖である役(えん)の行者・小角(おづぬ)がこの地に初めて寺を建立したと伝えられています。奈良時代末に至り、後に桓武天皇となられた山部親王の延寿祈祷をきっかけに、興福寺の高僧・賢璟(けんけい)が勅命を受け、平安遷都まもなく弟子の修圓が堂塔伽藍を建立しました。後に空海の弟子で修圓とも親交の深い真泰が真言密教を携えて入山し、灌頂堂や御影堂等が整えられました。

とあります。国宝の木造五重塔には、水瓶があり、

日本の他の仏塔では、最上部の九輪の上に「水煙(すいえん)」という飾りが付くが、この塔では水煙の代わりに宝瓶(ほうびょう)と称する壺状のものがあり、その上に八角形の宝蓋(ほうがい)という傘状のものが乗っている珍しい形式である。寺伝では、創建にかかわった僧侶修円がこの宝瓶に室生の竜神を封じ込めたとされる。(ウィキペディア、室生寺、五重塔)

ということです。高野山金剛峯寺にもあるそうですがよくわかりません。

弘法大師と修円(守敏)が祈雨の法力を競い、修円は天を降らせる諸龍を自分の水瓶に封じ込めて弘法大師の祈祷の邪魔をした。その時の水瓶が室生寺の五重塔に秘蔵されていりるという。(社寺縁起伝説辞典、室生寺の項)

ともあり、弘法大師の肖像画には水瓶が描かれるらしく、祈雨が重視された時代で、高野山とのつながりを感じさせるものかもしれません。

役の行者をイメージする石段を登っていくと奥の院があります。御影堂があり、弘法大師像を安置しています。

御影堂(大師堂、重要文化財) - 各地にある大師堂の中でも最古の堂の一つである。(ウィキペディア、室生寺)

御影堂の横に七重の石塔があります。『社寺縁起伝説辞典』、室生寺の項を見ると驚きます。

項大師の入定地は高野山の奥の院とされているが、室生寺には異伝もある。室生寺の御影堂の左に「ツクネ岩」があり、その岩上に七重の塔が建立されている。弘法大師が高野山で入定した時に弟子たちが大師の遺体を室生寺に運び、ツクネ岩に埋葬し、高野山の奥の院には代わりに弥勒菩薩が埋められているという。

この話はあまりにも馬鹿馬鹿しいと思われているのか、今は消え去っているようです。

御影堂の方ですが、室生寺のパンフレットには

方三間の単層宝形造りで、厚板段葺き、頂上に石造りの露盤が置かれている。他に例を見ない珍しい建物でる。

とあります。御影堂は鎌倉時代とパンフレットにあります。石造りの露盤がいつの時代にさかのぼるかわかってませんが、以前に滋賀県の花摘寺廃寺跡で見たことがあります。

写真2 花摘寺廃寺の塔露盤 

花摘寺廃寺については以下。

新近江名所圖会第201回 草津市北西部に集中する古代寺院群 ―花摘寺廃寺・観音堂廃寺等― 

御影堂のものも白鳳時代の痕跡のように思えます。古い時代の雰囲気を出すために、露盤に石造品を用いたのかもしれませんが、天武天皇以来の歴史を主張しているように感じます。

室生寺は雨乞いの地で、渓谷にあり、祈祷の効果が大きかったような気がします。天武天皇も祈祷に長けていたように思えます。室生寺は天武天皇の勅願というのも全くのデタラメではないということです。

近くの室生山上公園芸術の森があります。棚田や弘法の井戸とか残されています。モニュメントは太陽の道を視覚化しているとありました。太陽の道も意味があると考えていきたいと思います。

奈良・大和盆地に「太陽の道」 一直線上に遺跡・社寺 

2022年5月12日木曜日

水分神社

 奈良県にこの名前の神社が多いように感じました。水分とは「みくまり」と読み、水を配る(みずをくばる→み・くまる)の意味のようです。 これで思い出すのが、酒船石遺跡(さかふねいしいせき)です。配水システムを具体化したように見えます。水分神社と酒船石は時代が近いような気がしてきます。以前にも 酒船石とカナート
とか言ってました。 『社寺縁起伝説辞典』戎光祥出版 (平成21年/12/20)を見ると、二社しかありません。 惣社水分神社と都祁水分神社です。 惣社水分神社の項には、

【祭神】天水分神《あめのみくまりのかみ》・国水分神《くにのみくまりのかみ》・天児屋根命《あめのこやねのみこと》
【縁起・伝説】惣社水分神社の正式な呼称は、芳野鎮座式内総社宇陀水分神社《ほうのにますしきないそうじゃうだみくまりじんじゃ》である。「延喜式」新年祭祝詞に載る、吉野水分神社(吉野郡)、宇陀水分神社(宇陀郡)、都祁水分神社(山辺郡)、葛城水分神社(葛城郡)の四水分神社の中の宇陀水分神社を指すのであろう。上に挙げた、大宇陀町、菟田野町、榛原町一帯の水分神社の惣社として信仰の中心であった。 「水分」は水の分配を掌る意で、淀川の源流部である芳野川流域の水の守り神として崇められている。水分神社の祭神は『古事記』に登場する天之水分神(山頂の水を分配する神)と国之水分神(地上の水を分配する神)である。灌漑用水と飲料水の分配源を掌っていて、必然的に水分信仰は農業と深い関わりを持っていた。・・・

都祁水分神社の項では、

「延喜式」神名帳山辺郡の「都祁水分神社」に比定される旧県社。
【祭神】速秋津彦命《はやあきつひこのみこと》・天水分神《あめのみくまりのかみ》・国水分神《くにのみくまりのかみ》
【縁起・伝説】創始は詳かではないが、「延喜式」新年祭祝詞に、「水分に座す皇神等の前に白さく、吉野・宇陀・都祁・葛木と御名は白して」とあり、「文徳実録」「三代実録」にも記載される由緒ある神社である。・・・

「白さく」は「まうさく」と読むようです(多分)。【参考文献】「水分神社縁起」(神道大系)とか「都祁水分神社縁起」(神道大系)があるので見てみたいとは思います(忘れなければの話です)。

2022年5月8日日曜日

川原寺は瓦寺か?

 「かわら」と読めば、似ています。 瓦の読み方ですが、瓦は梵語(Kapara)のようです。 国語に入った梵語

仏教が朝鮮半島から渡来したと言われますが、瓦も同時にやっってきたはずです。グーグル翻訳で見ると瓦は 韓国語では、기와(giwa)のようです。似てますが、梵語からは少し変化してるように感じます。日本語と梵語の関係よりは似ていなくて、瓦は朝鮮半島経由ではないとした方が良いと思います。 ちなみに中国語では瓦(Wǎ)です。これが音読みの「が」になっているようです。『日本書紀』の仏教の百済渡来の話はあやしいと思います。

「川原寺は瓦寺」に戻りますが、川原寺では塼仏が発見されています。 この塼仏も粘土板から作ったと考えれば瓦のようなものです。川原寺は日本の寺院の原型のような気がします(仏教寺院の原型ではないです)。 塼仏がレリーフのように見えることもあります。 以前にも、「川原寺から思うこと」の記事があります。反復学習をしてるようですが、 また『謎の大寺 飛鳥川原寺』、網干善教/NHK取材班、日本放送出版協会 (1982/6/20)を借りてきました。

51頁に

和銅二年(七〇九)十月二十五日といえば、都が藤原京から平城へ遷都される前年であるが、先にもあげたこの時の『弘福寺田畠流記帳』によると、弘福寺は田が一五八町四段百二十一歩、陸田四十九町七段三歩、大和国はもちろん河内、山背、尾張、近江、美濃、讃岐国に寺領をもっていた。

とあります。弘福寺は川原寺の法号のようです。尾張とか美濃の寺領は、天武天皇との関係で意味がありそうです。

この本には写経のことが述べられています。72頁の「写経と川原寺」に

『日本書紀』天武天皇二年(六七三)三月の条に
 この月に、書生を衆へて、始めて一切経を川原寺に写したまふ。
という記事が見える。意味は天武天皇二年三月、川原寺において書生(写経をする人)を集め、はじめて一切経を写経させたということである。恐らくこれがわが国において一切経の写経であろう。

とあります。孝徳天皇の時代に一切経を読ましむとして存在したとのことですが、74頁には

ところでッわが国での写経は、いわゆる「天平写経」と称されるように奈良時代に盛んになった。

とあります。日本書紀が編纂された時代の影響があるように思われます。この時代に写経はあったのか。もちろん、川原寺で行われた一切経の書写は現存しないようです。天武天皇の時代の仏教的な話は信用できるのかということになります。

また、76頁の「伎楽と川原寺」の項で

『日本書紀』天武天皇朱鳥元年(六八八)四月庚午(十三日)の条に
新羅の客等を饗たまはむが為に、川原寺の伎楽を筑紫に運べり。仍りて皇后宮の私稲五千束を以て、川原寺に納む。
という記事がある。これによると川原寺に伎楽団が置かれていたことが知れる。
伎楽は妓楽とも書かれ、これを「ぎがく」と読んでいる。しかし本来は呉楽と書いて「くれのうたまい」と読んでいたようである。「呉」というのは現在の中国、さらにはもっと広く「西域」の地域を含めての総称である。それでは、なぜわが国では呉楽を伎(妓)楽としたのだろうか。理由は簡単である。伎(妓)楽を必要とするのは仏教行事であり、具体的には仏教儀式のなかでの供養の一種であった。・・・・
さて、このような伎楽は、いつわが国に伝来したのであろうか。『日本書紀』推古天皇二十年(六一二)是歳の条に
又百済の人味摩之《みまし》、帰化けり。曰く、「呉に学びて、伎楽の儛を得たり」といふ。即ち桜井に安置らしめて、少年を集へて、伎楽の儛を習わしむ。・・・

この呉がどこかということでいろいろな説があるようです。百済の人味摩之というのもあやしい感じです。百済の地が日本の支配下にあったという『日本書紀』の文脈で語られているような気がします。 この本では川原寺の塼仏は三尊仏であることから、源流はガンダーラに繋がるという展開になります。塼仏は中国では瓦仏というようです。梵語からきてるようです。源流はインドであることは間違いなさそうです。

2022年5月4日水曜日

川原寺 伽藍配置

 唐突ですが、川原寺の伽藍配置です。 「川原寺 跡」を見ての想像になります。 

伽藍配置の図がありますが、90度回転しました。以下です。

図 四天王寺と同じ軸線に合わせる



講堂とかの部分を無視すれば 塔、金堂、東大門がほぼ直線上にあります。ピンクの線を手書きしました。これを見て思うのは、前期難波宮と四天王寺の南北の位置関係です。この図の下に飛鳥川を越えて板葺宮があります。宮城と寺の関係は東西と南北で違いますが、軸線の関係は似ています。

遷都により他の寺は移っていったのに、川原寺はなぜ残ったかといわれますが、寺と宮城が一体のものであったと考えられたことがあったかもしれません。天武天皇と飛鳥浄御原宮・川原寺が一体のものであったので残ったのではと思われます。

ついでですが、川原寺の「寺」は仏教の寺ではないと思います。現時点では無理があると思いますが、ゾロアスター教の施設と考えていきたいと思います。