2021年6月21日月曜日

玉虫厨子

 奈良国立博物館で開催の「聖徳太子と法隆寺展」での感想です。

玉虫厨子は以前に法隆寺で見ていたはずですが、よくわかってませんでした。今回の展示では明るくてかなり見ることができました。
玉虫の羽根(図録では翅の字)ですが、後世に差し込まれたもののようです。昔からのものと思ってしまいました。
軒裏の雲形肘木は確認できました。この厨子では扇状に広がってるのに対し、法隆寺金堂では壁に直角で違いがあるようです。実際の法隆寺のモデルとして作られたとしても納得がいきます。

手抜きですが、ウィキペディアに玉虫厨子の詳細があります。

須弥座の絵画での「捨身飼虎図」と「施身聞偈図」など、これらの実物も見ることができました。内容は、自分の身を捧げるといったもので、衝撃的な話ですが、のちの理想化された聖徳太子の伝説につながっていくように思います。展示は最初のほうゆっくりと見ていて、最後の方で時間ぎれになってペース配分をミスったのが残念なところです。

しかし、今回よかったのは、展示されている玉虫厨子の扉が開かれていて、中の方まで部分的に見ることができました。『法隆寺資財帳』に、金堂に「宮殿像二具」があり、そのうちの「一具金埿押出千仏像」と記載されているものが玉虫厨子にあたるとのことで、扉の内面に多数の押出仏があることから、確認できます。時代的には八世紀半ばには法隆寺にすでにあったということになるようです。押出千仏像ですが、扉の内側片面に9×16体数えられ、内部の一部も同様に押出仏が見えるので、千体以上の仏様に囲まれているのかとも思います。想像で確かめることはできませんが。この部分は、塼仏(せん仏)の寺院のモデルとなっていると考えられ、川原寺とか夏見廃寺とか塼仏があった寺院が思い出され、話がつながってきて、これら寺院が天武天皇と関連しているということ、法隆寺の再建時に天武天皇の関与があったことに結びつくのではと思います。実際には玉虫厨子のような内部のプランは法隆寺には採用されなかったのですが、天武天皇崩御とかの状勢の変化があったため(後継者争いなど)だろうかとか妄想は広がります。

塼仏の寺院は短期間で消滅するので、玉虫厨子の時代もかなり限定されてくると思います。

押出千仏像の写真、塼仏のミニチュアモデルと考えます。

過去の塼仏の記事ですが、話が違ってることあると思いますが、メモです。

川原寺から思うこと
せん仏(塼仏)と和歌山県の古代寺院
夏見廃寺



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