2021年6月20日日曜日

法隆寺金堂、薬師如来座像光背銘

 奈良国立博物館で開催の「聖徳太子と法隆寺展」で、国宝の薬師如来坐像が出陳され、念願の光背銘を直接目にすることができました。写真とかは、ウィキペディアにあります。 

写真ではわからなかったのですが、実際の銘文を見て、光背の表面を磨いて、そこに文字を刻印してるように見えました。中途半端さがあり、後から追記されたような気がしてきます。内容については、「推古天皇と聖徳太子が遺詔を奉じ、推古天皇15年(607年)に建立した」とのことですが、どうしてこの意味になるのかはよくわかりません。何かの資料があるのだとは思います。「大王天皇」と「大王」と「天皇」とダブっているので、「大王」から「天皇」への移行過程にあるのだとは思います。この像は「薬師像」といってるのですが、左手の上に薬壷が載っていないのでそうなのかなと思います。薬壷のない薬師像も多くあるようなので違うとはいえないようです。 この薬師信仰は天武天皇の時代で、 ウィキペディアでは

『日本書紀』天武天皇9年(680年)11月12日条には、天武天皇が後の持統天皇である鵜野讃良(うののさらら)皇后の病気平癒を祈願して薬師寺の建立を発願し、百僧を得度(出家)させたとある。

ということです。仏教が日本に伝来した時は、ほとけとは何かというレベルで薬師如来とかの認識されるのは、天武天皇の時代な気がします。で、法隆寺の薬師如来坐像と薬師寺は関連していると思います。 『日本書紀』では天智天皇9年(670年)に法隆寺が全焼しています。この年が正しいとすれば、法隆寺は再建を目指した時代と薬師寺の建立の時代とが重なっています。法隆寺は天武天皇の発願ではありません。旧伽藍(いわゆる若草伽藍)は四天王寺方式の建物が一直線上に並ぶ形式でした。これはおそらく孝徳天皇の時代の様式(前期難波宮と四天王寺に一体の関係があると思います)で、これを捨てて、あらたに天武天皇の時代に合わせ、法隆寺式に変えたと考えられます。薬師寺への対抗意識により、天武天皇に認めてもらうために、薬師如来坐像と銘文が作られたと妄想します。 会場で購入した図録には、薬師如来座像の台座の絵に弥勒如来の絵が描かれているとの三田覚之氏の解説があります(257ページ)。銘文では鏨(たがね)で刻んだ時の「めくれ」が処理されておらず、追刻されたと考えられる。とありました。無理矢理に薬師如来にされたこともありえます。

この図録には、東野治之氏が、確かな証拠は、同じ法隆寺金堂の釈迦三尊像光背銘にあると述べられているので、こちらも見てみたい気がします。

図録:聖徳太子1400年遠忌記念 特別展 聖徳太子と法隆寺 
   令和三年(二〇二一)四月二十七日発行

0 件のコメント:

コメントを投稿