2018年5月30日水曜日

和歌山県と南海路

世界史とつながる日本史 ー紀伊半島からの視座ー
ミネルバ歴史・文化ライブラリー33
 この本では、紀伊半島の歴史を扱っています。南海路に関係しているところをみました。
.徐福伝説
 古いところでは徐福伝説について書いてあります。今から約二〇〇〇年前に方士(仙術をを扱える者)の徐福が秦の始皇帝の命を受け、不老不死の仙薬を求めて蓬莱の国へ赴くが、秦へ帰ってくることがなかったというものである。徐福伝説も黒潮という海流の存在が大きく、漂着伝説の一つとして、また熊野というところの常世信仰と紀伊半島が結びついたのであろうということです。
.大谷古墳に見る古墳文化の国際性
 これは朝鮮からの影響が強いということで、南海路と関係がなさそうです。しかし、この地域が朝鮮・中国・インドへのつながりがあるようなことも書いてあります。
.新・大航海時代
 話が飛びますが、この本では、百七頁から
日本史料のなかで、戦国時代には紀伊半島は「紀州惣国」という国家組織があり、一揆(団結)して、自立していたとのことです。一五八五年、秀吉の紀州攻めで、中野城合戦、大田城水攻めなどで使われた一六世紀の鉄砲玉の産地が、大半が外国製で、中でもタイのソントー鉱山の鉛鉱脈が多い。長篠合戦では、日本産が半数だったのに対し、和歌山平野のものは八〇パーセント強がアジア産である。と書いてあります。
 この地域では南海路から持ち込まれた弾(または弾の材料)が多かったのではと考えられます。
.鉄砲伝来
 真説 鉄砲伝来、宇田川武久著、平凡社新書では、鉄砲伝来も、天文一二年(一五四三)、種子島に漂着したポルトガル人が伝えたという説明が、どうなのかと言われているようです。しかし厳密には違うかもしれませんが、おおよそは南海ルートを介して素早く紀州の根来衆・堺に伝わり、結果として早い時期から堺が鉄砲の供給基地になったと考えても自然に思われます。
.鉄砲伝来に関して別の本
 同じく平凡社新書で、戦国鉄砲・傭兵隊 天下人に逆らった紀州雑賀衆、鈴木眞哉著という本があります。雑賀衆の末裔の方が書かれていておもしろいと思いました。
 雑賀の地は農地として良くなかったらしく、三十九頁から、「昔阿波物語」に言われている交易業である。そこでは湊の衆を指して「商売人」と形容していることは、すでに触れたが、「紀州の者は土佐前を船に乗り、さつまあきない計《ばかり》つかまつる。とも記されている。薩摩商《さつまあきない》いとは、土佐沖を突っ切って、当時、対明貿易の拠点だった薩摩の坊ノ津(鹿児島県川辺郡坊津町)辺りへ行って交易したことをいっているものと思われる。・・・薩摩へ往来した人たちは、そこで停止したわけではなく、中国本土へも向かったようである。明代に鄭若曾《ていじゃくそ》が著した『籌海図篇《ちゅうかいずへん》』*に「乞奴苦芸《きのくに》」*の人もしばしば入寇《にゅうこう》すると記されている。「入寇」などという穏やかならざる表現がされているのは、彼ら紀州人もいわゆる「倭寇」の一員とみなされていたからである。・・・とあります。
*はキーの打ち込みに自信がないところです。戦国時代には、南海航路があったということで、それがいつまでさかのぼれるかということだと思います。
 南海路とずれますが、この本では、第五章に、石山合戦と雑賀衆があります。
石山合戦とは、織田信長と本願寺が元亀元年(一五七〇)から天正八年(一五八〇)まで、戦ったものである。途中二回の講和。休戦があったとあります。巻末の年表を見ると、各地に一向一揆が起こっており、十年間も続いており、宗教戦争といってもよいぐらいなのに、軽く考えていました。

2018年5月28日月曜日

和歌山県の安田、南海航路

 和歌山県には安田の地名はないと思っていました。遣唐使の南海航路(紛らわしいので南島航路はやめます)のことで沖縄県と高知県が結びつくかもしれないと思い、ひょっとしたら和歌山県の方と関係あるかもと考えました。
 角川日本地名大辞典30和歌山県を見ました。安田ではなく保田が有田市にありました。保田のところ、古代から戦国期に見える庄園名・・・。また、保田荘《やすだのしょう》、江戸期の荘名。有田郡のうち、中世には保田荘が見えるが、近世で属した村々は「続風土記」によれば、辻堂・山田原・中島・星ノ尾・千田の5か村。とあります。明治二二年から5か村が合併して保田村となり、役場を辻堂に設置とのことです。現在は有田市辻堂のようです。学校の名前などに残っています。


 和歌山県は現在の和歌山市紀ノ川沿いが、古代より栄えたところです。保田(もちろん安田と考えています)は有田川沿いで、新興勢力の地域のためか、微妙に紀ノ川から離れています。
 和歌山県には、鳴滝遺跡があり、これが難波宮にあった倉庫群と似たようなものであるとのことで、遣唐使と関係があり、南海航路と関係あると思いましたが、遺跡は和歌山市で保田の有田市と紀ノ川・有田川と離れて距離があり、どうも違うようです。
 和歌山県の歴史散歩、山川出版に鳴滝遺跡の説明がありました。
 大谷古墳の北東約1kmにある近畿大学附属和歌山高校のテニス付近が鳴滝遺跡である。一九八二年に発見された、当時全国最大規模の古墳時代の巨大倉庫群遺跡で、その後発見された法円坂古墳(大阪市)と並んで貴重なものである。和泉山脈南麓の丘陵を削平したうえで、西側に5棟、東側に2棟の掘立柱建物が整然と配置され、一棟の規模はそれぞれ桁行四間・梁間四間で、最大のものは10.1m×8mであった。柱を抜き取った穴から楠見式土器が出土したことから、五世紀前半から中頃のきわめて短期間に存在し、その後人為的に廃されたようである。束柱とは別に上屋柱を設けて切妻屋根の荷重を支えるこの建物群については、紀氏集団の倉庫跡とする説とヤマト政権の倉庫跡とする説に分かれる。遺構は埋め戻され、建物の復元模型と遺物は、和歌山市、岩橋《いわせ》にある県立風土記の丘資料館に展示されている。・・・
 この鳴滝遺跡ですが、紀ノ川を上流に向かっていくと奈良県につながります。瀬戸内海航路が封鎖され、南海航路を使わなければ成らない時に、この集積地が必要とされたのではと考えたくなります。いろいろと南海航路の問題が出てきて、すぐに廃止されたと考えればつじつまが合います。
また参考になることとして、復元日本大観4船、世界文化社に、
 室町時代には、日明貿易が行われ、遣明船は兵庫を出帆後、博多に集結して準備をととのえながら、気長に季節風を待ち、機を得ると、春は五島列島の奈留島、秋は平戸北方の大島に進出し、東北の順風を得て、東シナ海に乗り出し、寧波《ミンポー》に到着した。・・・なお、のちに大内氏と敵対した細川氏は、堺を出帆して、四国の南を通り、南九州の坊ノ津を基地として渡海した。と書いています。(七十九頁)
 瀬戸内海の航路が使えないときに南海航路が採用された例になります。もちろんこの時は造船技術の発達や磁石の利用など違いはあるようなので、遣唐使の時代にそのまま当てはまるものではないとは思いますが。

2018年5月26日土曜日

通りゃんせの歌

 江戸時代の童歌のようです。
黒潮の流れを見ていて、「行きはよいよい 帰りはこわい」のところが、漁師の注意をうながす歌のように感じました。

黒潮の図があるページ

 この流れで黒潮反流があります。微妙な流れです。天気が良くても間違って黒潮の流れに乗ってしまい遭難する人もいたのだと思います。名もなきジョン万次郎が多くいたのかも知れません。西から東へは、黒潮の流れ、逆は沿岸を進めば東から西へは進めそうです。沿岸で漁をしていて、魚を追って、黒潮の流れに入り、黒潮の大蛇行とかにはまった人もいたのではと推測します。当時の人には黒潮の見えない細道に分けわからず、天神様におすがりするしかなかった状況の歌に思えてきました。知恵袋の回答などを見ると、黒潮は最速7km/hらしく、手漕ぎボートでは、4~9km/h位、11~13km/h位とかで逆らって進むのは大変と思います。
以下、歌詞です。

通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの 細道じゃ
天神さまの 細道じゃ
ちっと通して 下しゃんせ
御用のないもの 通しゃせぬ
この子の七つの お祝いに
お札を納めに まいります
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも
通りゃんせ 通りゃんせ

黒潮の雰囲気があるようで、通りゃんせー黒潮説です。

2018年5月23日水曜日

ひらがなの「あ」

 平安時代初期にひらがなができたと言われます。「あ」の元は安と阿のようです。
五體字類の巻末に仮名変体があり、「あ」のところの小野道風のサンプル三種類抜粋しました。「安」から変化したことがよくわかると思います。



 これから感じることですが、平安時代初期には「安田」をアダと読んでいたのかもしれません。今はヤスダとかヤスタとかになっています。そうすると沖縄のアダは古風な読み方として今に残っているのかもしれません。遣唐使の時代と重なってきます。正倉院に残った安田組もその頃の読み方として共通するものと考えられ、整合性があります。
 このアダ→ヤスダにどうしてなったのかとかはまだわからず、可能性だけですが。

2018年5月22日火曜日

遣唐使の南島路

 高知県と沖縄県に安田の地名があることから、遣唐使の南島路があったのではないかと考えました。日本側から中国側に向かうのには遠回りで大変ですが、復路の場合は黒潮の流れに乗ればそれほどでもなく、行きと帰りが異なるコースも十分考えられます。
遣唐使全航海、上田雄著、草思社
 この本で、遣唐使船は季節風を利用したかという問題を取り上げています。二百八十六頁に表の形でまとめられています。それに拠れば、往路は七月一例、八月五例、十月一例で、明らかに夏の季節風を利用しての航海であったと見ることができる。それに対して、唐から日本への復路は九月に一例、十月に一例、十一月に一例、十二月に三例と、秋から冬にかけての季節風(大陸から大洋への風)を利用した例が多いとみることができる。ただし帰航の場合は、五月一例、六月二例、八月一例と例外が四件もあるので、「季節風利用の航海の方が*より*多かった」という表現しかできないようである。
とあります。復路では季節風を利用できない場合、南島路の可能性があったのではと思われます。季節のばらつきがあることからの想像です。
 また時代が下がりますが、
復元日本大観4船、責任編集ー石井謙治、世界文化社
には、延喜式に京都までの海路による年貢物の所要日数を規定していて、土佐(高知)から二十五日とあります。現実はこれより日数がかかり、例として、紀貫之の土佐日記をあげています。承平四年(九三四)、五十日かかっている。しかし実際の航海日数は十二日にすぎないとしています。遣唐使が唐から土佐までたどり着けばあとは何とかなるとは思われます。
 それと、遣唐使全航海の本では、天平七年(七三五)南島に小野朝臣老《おののあそんおゆ》らを派遣して島の名、船の宿泊所、水のある所、行き来する国までの行程、遙かな島の名など記した碑(立札)を建てさせた記事や、天平勝宝六年(七五四)にその碑を更新させているとの記録は、前年に遣唐使が漂着した結果の対応と見られる。としています。しかし、これも南島路がもともとあって、整備したように考えても良いように思われます。
 遣唐使船の具体的なことが不明であり、また沖縄(琉球)が唐の時代に交流していて、その仲介であったとの記録もないようです。わからないことだらけですのでこの話は休憩とします。

2018年5月19日土曜日

将棋史研究

 藤井七段の活躍で、昔の将棋に少し関心を持っています。戦国時代の将棋に関連するかと思っての投稿です。
 将棋のことで、滋賀県文化財保護協会の編集・発行の紀要に三宅弘氏が
将棋について調べられています。現在は今年に出された将棋史研究ノート9まで進んでいます。本当に偶然に知りました。
 紀要30の研究ノート8では、歩兵の特集です。
歩兵駒の出土した遺跡の項で、全国で35遺跡を数え、出土枚数は132枚にのぼる。・・・一覧表では、平安時代の駒は16枚であるが、それらは全て近畿地方か東北地方に偏っている。遺跡の性格も寺院か宮跡・国府などの公的な機関に限られていることがわかる。
とあります。平安時代には庶民の手の届かない場所で行われていたことを類推する手がかりになることは間違いない。ともあります。
鎌倉・室町時代の歩兵駒出土地域を見ても多くが寺社関係のもののようです。
 ある程度、限られた人たちの間での将棋の普及を考えれば、後奈良天皇の時の話も十分ありうると思われます。この研究ノートでは現在の駒についての連載で、醉象(すいぞう)とかについてはなかったように思われますので、その点が残念です(きちんと見ていないので違ったらすみません)。
 紀要を購入すれば良いのですが、ケチってます。以下に、私のメモ書きです。
1.紀要31、将棋史研究ノート9-飛車と角行の登場-(三宅弘)
2.紀要30、将棋史研究ノート8-歩兵の存在感(三宅弘)
3.紀要29、将棋史研究ノート7-桂馬と香車の動きと性格-(三宅 弘)
4.紀要26、将棋史研究ノート6-銀将の存在-
以下はダウンロード可能です。
5.紀要24、ノート5
6.滋賀文化財だより、No.200、ノート4
7.紀要6、ノート3
8.滋賀文化財だより、No.181、ノート2
9.滋賀文化財だより、No.180、ノート1
ダウンロード先がややこしくなっています。
ノート8の文献の所を見ると、
増川宏一(2013)「将棋の歴史」(平凡社新書670)
があげられています。
また
清水康二(2014)「古式象棋と将棋の伝承」「月刊考古学ジャーナル」3月号 No.428、ニューサイエンス社
などもあるようです。

2018年5月18日金曜日

遣隋使と推古天皇

 図書館で遣唐使の本を探していたら、遣隋使の本があり、借りてきました。
   遣隋使が見た風景 ー東アジアからの新視点ー 氣賀澤保規 編、八木書店
です。四百頁を越える労作です。
 付録の人物略伝2(倭国編)の最初に推古天皇があげられています。
推古天皇(五五四~六二八、在位五九三~六二八)実在が確実な日本史最初の女性君主。和風諡号はトヨミケカシキヤヒメ。「推古」は八世紀後半に淡海三船が撰上した漢風諡号である。・・・
となっていて、実在が前提とされています。私は、持統天皇のイメージとしては存在していますが実際にはフィクションであったと考えています。この本では、実在したとして話が進められています。おそらく遣隋使を派遣したことで、その記録が隋書倭国伝と日本書紀の記述で合致するからであろうと思われます。しかしながら、私には合致しているようでしていないように感じます。皇国史観によれば合致してくれなければ困るという立場になると思いますが、冷静に日本書紀を疑う立場で考えれば、実在しているのは確実ではありません。
二十七頁に
史料の信頼性・作為性の問題がある。とりわけ「隋書」よりも半世紀以上も後に編纂された「書紀」にあっては、「倭国伝」を見ての作為・装飾を施した可能性は当然想定できる。
とあります。書紀の中で隋を一貫して唐(大東)」と表すのは、書紀が唐向けに書かれたものだからと思われます。律令を推進する勢力が過去の勢力との継続性を強調する意味で遣隋使が取り込まれていると考えられます。六〇〇年の遣隋使については入れる必要性はないと判断したと思われます。整合性は完全には取れていませんが、その逃げ道として、小野妹子の国書紛失事件を作ったと思います。乙巳の変の時にも、蘇我蝦夷が自害して、「天皇記」とかが失われたとかありました。これらの部分は間接的に書紀が作為の可能性をほのめかしているところと現在は考えています。推古天皇(聖徳太子も含む)と遣隋使を結びつけなくても良いということです。

2018年5月15日火曜日

島根県の安田

 郵便番号からの検索では出てこなかったのですが、地図で島根県を見て安田があるのに気がつきました。いくつかあるようです。今回は角川の地名辞典から見ます。
 まず良くわからないところから。
安田村(益田市)
明治二二年~昭和二七年の村名。明治二二年に津田・遠田二村の合併によって成立。大字は旧村名を継承、2大字を編成。村役場を大字遠田に置く。村名は最初、多並《たなみ》村といったという。とあります。なぜに安田となったか不明です。現在も安田小学校などがあるようです。
安田村(浜田市)
中世にあったようです。よくわからなかったのですが、平凡社の日本歴史地名大系には浜田市の熱田村のところに、中世には安田・阿田とも記された。とあります。沖縄県でのアダの読み方と通ずるものがあります。
 一番本命らしきところです。
安田(伯太町)
安田山西麓の地で伯耆国に接し、伯太《はくた》川の中流域に位置する。古くは屋代《やしろ》郷のうち、「風土記」に「通路《かよいじ》。国の東の堺なる手間剗《てまのせき》に通うは四十一里一百八十歩なり」と記されている。手間剗は安田関付近に置かれていた。郷庁も同様安田関付近にあったものと推定される。地内には古代に創建されたと伝えられる坊床《ぼうどこ》、岡ノ原、古御堂の廃寺跡がある。十二世紀の初頭には石清水八幡宮の安田別宮が置かれていた。とあります。安田村は伯太町に含まれ、現在は安来市伯方町安田ということです。安田のつく地名が多く残っており、古代からの遺跡も多そうで、出雲国にいたる戦略ポイントであったように思われます。
 地図では中央が伯方町安田です。左に出雲があります。出雲空港のマークが見えるかも知れません。


 島根県の安田の分布(よくわからない所を含めて)を見ていると、どうも出雲を包囲しているように見えてきます。出雲の地域が律令制を推進グループと対立関係にあり、律令推進グループが圧力をかけているように思えます。出雲国の国譲り神話をもたらす状態を作っているように見えてきます。つまり、出雲国を併合したのが七世紀の話となってきます。
 広島県の安田の分布を見ていると、こちらも吉備の国の西側にあり、近畿地方側と吉備を挟んでいるようにも思われます。これらの地域が、律令制を推進する勢力と対立していた可能性もあるように思われます。神話的な話で、吉備の国の反乱がありますが、これも実際は七世紀の話ではないかと考えたくなります。
 七世紀が聖徳太子の時代ではなく、ヤマトタケルの時代であり、日本の統一を目指していた時代で、安田の地名はその痕跡の可能性があります。
 妄想的な話はおいといても、七世紀には、安田の地名のところが、瀬戸内海側と日本海側を結ぶ交通路を確保するという戦略的な意味があったのは確実と思われます。

2018年5月12日土曜日

観心寺の出来た理由

 観心寺は、河内長野市にある古刹。古義真言宗・高野派の寺、大宝年間、役小角が開創し雲心寺と称したが、弘仁年間、弘法大師空海が再興して寺号を観心寺と改めたといわれます。実質的には一番弟子の実恵大徳で、工事はその弟子真紹ということのようです。観心寺が定められたのは、その位置が、高野山と京都の東寺の道中にあることにあり、この寺が真言宗にとって重要な寺との証明であり、以後の寺の隆盛の原因で、後世、摂津・和泉が開かれてからも観心寺が高野山から下りて諸国に広がる、いわば扇の芯のところとなったようである。高野山と観心寺の間は約四十五キロ、一日の行程である。観心寺で一泊、次の宿泊は大和飛鳥の川原寺(弘福寺)、そして奈良東大寺、四日目に東寺に入った。
このようなことが、古寺巡礼 西国2観心寺、淡交社発行に書かれています。
 平安時代には、寺のネットワークで、移動が確立されていたということだと思います。直接に高野山から東寺に移動するのは大変ですが、泊まる地点を確保すればかなり容易になると思います。戦国時代に各地を僧侶が自由に移動できたという話がありましたが、寺の経路が、律令制度の崩壊の後も残っていたのかもしれません。

2018年5月5日土曜日

沖縄県の安田

国頭《くにがみ》郡国頭村の安田《あだ》
 角川日本地名大辞典47沖縄県より
方言でもアダという。沖縄本島の北部の東海岸、国頭山地分水嶺の東斜面に位置し、太平洋に面する。・・・安田川が段丘上を東流し、下流部で小規模な沖積地をつくって海に注ぐ。海岸にはハラサキの環礁や伊部の干瀬が発達。東海上に安田ヶ島がある。集落は安田川河口左岸に立地。尚思紹王(1406~21在位)の頃に今帰仁《なきじん》城の落武者ウファ里之子が村を立てたと伝える。沖縄考古編年後期の安田遺跡がある。
とのことです。アダとのことでヤスダとは関係ないと考えましたが、そうではないかもしれません。安田組をアンダと読むので、最初はこのように言ってた古い形がそのまま残ったこともありえます。高知県の安田町も遣唐使の渡航経路と関係あるかもと考えていたので、この地も、四国の南側、九州の南、沖縄、中国へ向かう航路が考えられていた可能性はあります。律令制が確立していく段階での痕跡ということです。唐の高僧鑑真も何度も失敗の末に沖縄経由で来ています。もちろんこの時は太宰府経由のようで、太平洋側を海伝いにではなくなっていますが、最初は太平洋側の航路も考えられていて、その拠点として安田があったことになります。地名ですが、近くに大宜見《おおぎみ》というところがあります。大王《おおきみ》を思い浮かべます。角川の大辞典では、方言ではイギミといい、饒波《ぬうは》の小字ギミ(喜味)に関係するかとも言われる。とあるので、強くは言えませんが。またクニガミですが、国守ではなくて国上で、国の北の方の意味だそうです。中頭《なかがみ》は首里よりも近い北の意味中上とのこと。
 また沖縄の考古編年ですが、後期というのは、四期あり、弥生時代前期・中期・後期・古墳時代から平安期となっています。最後が大雑把な気がします。それと、平凡社の日本歴史地名大系には、安田村の遺跡については何も記述ありません。
 地図を見て、この場所に条里制の田とか、ちょっと想像できませんが、
宝亀10年(779年)、淡海三船により鑑真の伝記『唐大和上東征伝』が記され、鑑真の事績を知る貴重な史料となっている。(ウィキペディアより)
とのことです。詳しいことはわかりませんが、奈良時代には命がけの渡航なので、途中路の整備の話もありうると思います。ほかにもっと痕跡が残っていれば、確実になりますが。地図の拡大で安田の地を見てください。


(追記):H30.05.12 太平洋側を通って、中国に進むのは、黒潮の流れに逆らっているので難しいかもしれません。しかし復路の場合は流れに沿っているので可能性は高くなります。時間があれば検討したいと思います。

2018年5月4日金曜日

高知県の安田

高知県安芸郡安田町です。古くは安田村。
 安田川河口に位置し、東は田野村(現田野町)、西は唐浜《とうのはま》村。集落の中心は安田川西岸に発達した浦町で安田浜・安田浦ともよばれた。東岸の大野大地南縁には不動などの集落があり、海岸沿いには土佐街道(東街道)がある。「和名抄」所載の安田郷の中心と思われ、安田八幡宮境内から弥生式土器なども出土、古くから発達した地と考えられる。中世には港としても発達していたらしく、文安二年(一四四五)一年間に兵庫津に入港した廻船を記した「兵庫北関入舩納帳」に、安田浦に船籍を持つ一〇〇-二〇〇石積の廻船一艘が記される。積荷は木材である。・・・
 安田村の横に唐浜村があります。高知市に唐人町があり、ここは豊臣秀吉の朝鮮出兵の折、長宗我部元親が朝鮮から連れてきた朝鮮慶尚道秋月の城主ら三〇人を移住させたことによる。とあります。この唐浜村は天正一五年の安田庄検地帳で唐浜村とあるので、朝鮮出兵の前からあったことになります。
 角川日本地名大辞典には、唐浜の地名由来について、昔、家一軒に必ず一〇本以上の橙の木を植え、それから取った酢を貢物として藩に納めることになっていたため、「橙の浜」、「橙《とう》の浜」とよばれたという伝承がある。と書いています。
 私は素直に、遣唐使の航路にこの安田の場所が考えられており、その結果の地名と考えたいです。律令制を推し進めるグループにとって、瀬戸内海ルートが使えなくなった場合、太平洋側の航路の一つの戦略的なポイントと考えていたと想像します。これぐらいしか思いつきません。
 この地には、鎌倉時代末期から戦国時代にかけての安田城跡があり、麓には大木戸古墳群とよばれる七世紀の横穴式石室を有する円墳があったということです(高知県の歴史散歩)。


2018年5月3日木曜日

香川県の安田

小豆郡小豆島町安田
 地名辞典では内海町安田村となっています。内海町《うちのみちょう》は名前の通り内湾の所です。今回は角川日本地名大辞典37香川県からの引用です。
小豆島《しょうどしま》の東部に位置し、南方は内海湾に臨む。北にそびえる小豆島最高峰星ヶ城山に発して内海湾に注ぐ安田大川流域一帯を占める。地名の由来は不詳だが、小豆島では肥沃な土地に恵まれており、「日本書紀」の「天安田は良田なり」から引用されたとする説(安田村誌)もあるように、恵まれた水田に関連して名づけられたものと思われる。村の北部山麓に三五郎池がある。その北西方向に極ヶ谷牛飼場、粟地などの弥生遺跡があり、牛飼場遺跡は島内で銅鐸・銅剣が出土した唯一の遺跡である。
とあります。安田城跡という南北朝期の佐々木三郎左衛門信胤の居城跡があります。
 小豆島について、日本歴史地名大系38香川県の地名では
古事記の大八島生成の項に吉備児島《きびこじま》についで、「小豆島」と見える。日本書紀応神天皇二二年四月条には「阿豆枳辞摩」と表記しており、古代には「あずきしま」とよばれていた。・・・・ただ一五八六年のイエズス会士日本通信(イエズス会日本年報)にはXodoximaと表記されている。
とあります。鎌倉期には「せうつしま」とよばれていたようです。
 安田が条里制の田というだけでなく、戦略的にポイントとなる地域であることが示されているように思われます。小さな島ですが、瀬戸内海の中で、日本書紀の書かれた時代には軍事的に重要な位置にあり、定常的に維持するため、食料などの確保が必要になり、その地に安田の名がつけられたということかもしれません。
 地図中央が小豆島町安田です。瀬戸内海の重要ポイントにあるように見えます。拡大してみてください。安田の地名が出てきます。

2018年5月2日水曜日

山口県の安田

 周南市安田というところです。地名辞典では熊毛町大字安田に安田村があります。中世には国衙領安田保の地であったと思われる。とあります。
説明のうしろに、安田保《やすだほ》について、
 現熊毛町大字安田付近と思われる国衙領、のち東大寺領。建久四年(一一九三)の将軍(源頼朝)家政所下文(現長門毛利家文書)に、
将軍家政所下 周防国安田保住人
   補任下司職事
    ・・・・
とあるようです。
東大寺の再建にあたって、この地が組み込まれたように思われます。
 この地域には、天王遺跡という弥生時代のものがあり、D地区に古墳時代後期の遺物包含層があると書いてあります。また岡山遺跡というところもあり、同じく弥生時代の遺跡のようです。古い時代から続いた地名と考えたいところです。
 以上、平凡社の日本歴史地名大系36山口県の地名より。

 角川日本地名辞典大辞典35山口県の、安田の項には
 島田川中流右岸と同支流石光川・中村川の沿岸低地と丘陵地帯に位置する。地名の由来は未詳だが、「注進案」によると往古は桜田村と称し、いつの頃か安田村と呼ぶようになったという。また永正年間清尾村の高水大権現をこの地に勧請し、桜田大権現と呼ぶようになったため、村名を安田村と改めたという。・・・
とあります。しかし、永正年間は(一五〇四-一五二一)とあり、すでに安田保があるので、この解説もどうかとは思われます。
 また、条里制はについては広い領域のものだけでなく、小さいところもあり、平野でなくても良さそうです。角川の条里遺構分布図(1439頁)には、島田川下流の島田というところに一〇町程度の印があり、離れていますが安田村のところも条里制の場所であっても良さそうです。
 「山口県の歴史散歩」には島田川流域の高地性集落のコラムがあり、1950年から52年に島田川遺跡学術調査が行われたようです。島田川上流の岩国市玖珂町清水には巨大な環濠のある遺跡があったそうです。弥生時代の遺跡の近くに安田の地名があることは、律令体制のグループが、弥生時代から続く地域の近くに条里制の田を作っていき発展させたのか、それも何かしらの戦略的に重要な地域と古い時代から認識されていたことがあったのか、謎ではあります。青森県の三内丸山遺跡も近くに安田があります(遺跡と地名など、関係あるかと言ってしまえばそれまでですが)。