2018年5月22日火曜日

遣唐使の南島路

 高知県と沖縄県に安田の地名があることから、遣唐使の南島路があったのではないかと考えました。日本側から中国側に向かうのには遠回りで大変ですが、復路の場合は黒潮の流れに乗ればそれほどでもなく、行きと帰りが異なるコースも十分考えられます。
遣唐使全航海、上田雄著、草思社
 この本で、遣唐使船は季節風を利用したかという問題を取り上げています。二百八十六頁に表の形でまとめられています。それに拠れば、往路は七月一例、八月五例、十月一例で、明らかに夏の季節風を利用しての航海であったと見ることができる。それに対して、唐から日本への復路は九月に一例、十月に一例、十一月に一例、十二月に三例と、秋から冬にかけての季節風(大陸から大洋への風)を利用した例が多いとみることができる。ただし帰航の場合は、五月一例、六月二例、八月一例と例外が四件もあるので、「季節風利用の航海の方が*より*多かった」という表現しかできないようである。
とあります。復路では季節風を利用できない場合、南島路の可能性があったのではと思われます。季節のばらつきがあることからの想像です。
 また時代が下がりますが、
復元日本大観4船、責任編集ー石井謙治、世界文化社
には、延喜式に京都までの海路による年貢物の所要日数を規定していて、土佐(高知)から二十五日とあります。現実はこれより日数がかかり、例として、紀貫之の土佐日記をあげています。承平四年(九三四)、五十日かかっている。しかし実際の航海日数は十二日にすぎないとしています。遣唐使が唐から土佐までたどり着けばあとは何とかなるとは思われます。
 それと、遣唐使全航海の本では、天平七年(七三五)南島に小野朝臣老《おののあそんおゆ》らを派遣して島の名、船の宿泊所、水のある所、行き来する国までの行程、遙かな島の名など記した碑(立札)を建てさせた記事や、天平勝宝六年(七五四)にその碑を更新させているとの記録は、前年に遣唐使が漂着した結果の対応と見られる。としています。しかし、これも南島路がもともとあって、整備したように考えても良いように思われます。
 遣唐使船の具体的なことが不明であり、また沖縄(琉球)が唐の時代に交流していて、その仲介であったとの記録もないようです。わからないことだらけですのでこの話は休憩とします。

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