国頭《くにがみ》郡国頭村の安田《あだ》
角川日本地名大辞典47沖縄県より
方言でもアダという。沖縄本島の北部の東海岸、国頭山地分水嶺の東斜面に位置し、太平洋に面する。・・・安田川が段丘上を東流し、下流部で小規模な沖積地をつくって海に注ぐ。海岸にはハラサキの環礁や伊部の干瀬が発達。東海上に安田ヶ島がある。集落は安田川河口左岸に立地。尚思紹王(1406~21在位)の頃に今帰仁《なきじん》城の落武者ウファ里之子が村を立てたと伝える。沖縄考古編年後期の安田遺跡がある。
とのことです。アダとのことでヤスダとは関係ないと考えましたが、そうではないかもしれません。安田組をアンダと読むので、最初はこのように言ってた古い形がそのまま残ったこともありえます。高知県の安田町も遣唐使の渡航経路と関係あるかもと考えていたので、この地も、四国の南側、九州の南、沖縄、中国へ向かう航路が考えられていた可能性はあります。律令制が確立していく段階での痕跡ということです。唐の高僧鑑真も何度も失敗の末に沖縄経由で来ています。もちろんこの時は太宰府経由のようで、太平洋側を海伝いにではなくなっていますが、最初は太平洋側の航路も考えられていて、その拠点として安田があったことになります。地名ですが、近くに大宜見《おおぎみ》というところがあります。大王《おおきみ》を思い浮かべます。角川の大辞典では、方言ではイギミといい、饒波《ぬうは》の小字ギミ(喜味)に関係するかとも言われる。とあるので、強くは言えませんが。またクニガミですが、国守ではなくて国上で、国の北の方の意味だそうです。中頭《なかがみ》は首里よりも近い北の意味中上とのこと。
また沖縄の考古編年ですが、後期というのは、四期あり、弥生時代前期・中期・後期・古墳時代から平安期となっています。最後が大雑把な気がします。それと、平凡社の日本歴史地名大系には、安田村の遺跡については何も記述ありません。
地図を見て、この場所に条里制の田とか、ちょっと想像できませんが、
宝亀10年(779年)、淡海三船により鑑真の伝記『唐大和上東征伝』が記され、鑑真の事績を知る貴重な史料となっている。(ウィキペディアより)
とのことです。詳しいことはわかりませんが、奈良時代には命がけの渡航なので、途中路の整備の話もありうると思います。ほかにもっと痕跡が残っていれば、確実になりますが。地図の拡大で安田の地を見てください。
(追記):H30.05.12
太平洋側を通って、中国に進むのは、黒潮の流れに逆らっているので難しいかもしれません。しかし復路の場合は流れに沿っているので可能性は高くなります。時間があれば検討したいと思います。
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