2022年6月23日木曜日

ヨドコウ迎賓館と古墳

 現在はヨドコウとなってますが、元は、

旧山邑家住宅(きゅうやまむらけじゅうたく)は、兵庫県芦屋市にある、灘五郷の造り酒屋・櫻正宗の八代目当主山邑太左衛門の別邸としてアメリカ人建築家フランク・ロイド・ライト (Frank Lloyd Wright) が設計した個人住宅(山邑邸)である。国の重要文化財。(ウィキペディア)

原設計は1918年で、ライトは1922年にアメリカに帰国してしまったため、実際の建築はライトのもとで帝国ホテルライト館の建設にも携わっていた遠藤新と南信が行った。(同じくウィキペディア)

栃木県産の大谷石を内・外装に多用し、細かい装飾を至るところに施している。(同じくウィキペディア)

中の階段とかも石でできています。壁なども石の装飾が多くて、石造の建物のように勘違いします。

建物の特徴は、玄関からもうわかります。

玄関前の写真


左の方のアプローチから建物の入り口に来たところです。写真に人が写ってますが、ここが入り口です。人一人が通れるぐらいです。ここだけではありません。二階の応接室への入り口でも感じます。狭いです。

二階の入り口写真


次が応接室の内部です。広がりが感じられます。

応接室内


当たり前に思うかも知れませんが、入り口を振り返るとこんなです。

中から入り口を見る。


両側の出入り口が暖炉の脇に追いやられてるのがわかると思います。イメージとしては、古墳石室に羨道から入ったようです。多分、古墳でも同じく石室内で埋葬儀礼の一貫で祭祀が行われて、気分の高揚を感じさせる特別な場所になってたかもと思います。

三階はピラミッドの内部かと感じるところもありますが、飛ばして四階です。食堂と付設するバルコニーがあります。ここで、神戸の景色が眺望できます。

このバルコニーが考えられていて、二段になってます。階段でつながってますが、トンネルになってます。回遊式の日本庭園で出てくる、明→暗→明の場面転換と同じです。

平面図4F(パンフレットの図をコピーしてきました)


バルコニー先端から、パノラマの風景が広がります。イメージ写真です。

風景の写真


直線もひずんでいますが、私には前方後円墳の上から見た風景に思えます。おそらく前方後円墳の上に立って見る周りの風景もこんなではなかったかと思えます。高さが違うとまったく違った風景になるはずで、大王の勢力圏を、今風に言えば「見える化」していることになっています。

場面転換ですが、煙突部分が壁になっているのがわかると思います。

煙突


古墳ファン必見の建物では。 最後に、芦屋川駅からの風景です。


小山のところにヨドコウ迎賓館があり、古墳のように見えてきます。古墳時代から現代まで人の発想は変わってないのではとも思えます。

2022年6月21日火曜日

獣頭人身像とメソポタミア

 獣頭人身像の起源のようなことが、以下の本136頁にがありました。 『メソポタミアの神々と空想動物』(MUSAEA JAPONICA) アンソニー グリーン (監修), MIHO MUSEUM (編集), & 1 その他、山川出版社 (2012/7/10)

「神・精霊なのか、扮装した人間なのか」 浮彫や印章などに登場する、身体が人間で動物の顔をもつ姿は、神や精霊そのものをあらわしていることもあり、またはその姿に扮装した人間である場合もある。
前一万年紀末~前九千年紀初期のメソポタミア北部の集落址シャニダール遺跡から興味深い遺物が発見された。配石遺構の外側に、山羊の頭骨が少なくとも十五個、ハゲワシ、ワシ、野鷹などの大型猛禽類の翼の骨が少なくとも十七羽分、山積みになっていたのである。鳥の骨の切り口を見ると、丁寧に切り取られたものであることがわかった。考古学者たちは、翼は儀式用の衣装の一部であり、山羊の頭骨は儀式で使う用具だと推測した。
バビロニアの「ギルガメシュ叙事詩」では、エンキドゥの死を悼むギルガメシュは獅子の皮をまとって荒れ地を徘徊する。また、前九~八世紀のアッシリアの宮殿浮彫にも獅子の頭をもつ人物が登場する。獅子頭、獅子の毛皮、手に鞭をもつ姿はおそらくラ・タラーク神(41頁参照)を意識している。しかし、神官の行列にいる場合は、神そのものではなく、獅子の衣装を着ている人間だと考えられる。

41頁参照の図ですが、ルラルの図としてあります。ルラルとラ・タラークとして説明があり、

ルラルはシュメールの神で、ラ・タラークはそのアッカド語による別称である。または、これら両神は元来独立した神格であったが、次第に習合していったとも推測される。前二千年紀の後半には一対の神として登場する。新アッシリア時代には家屋を呪術的に守護する神々として二神をかたどった小像が戸口に埋められたらしい。ともに人間の形をした神で、拳を振り上げ獅子の頭をもち、その毛皮を着て鞭をもつ姿として描かれた。呪術文書では呪詛から守る神々として挙げられている。軍神でもあったほか、家畜との結びつきが認められる。ラ・タラークは「鞭打つ」という言葉と関連する。

ルラルの図


キトラ古墳の獣頭人身像が、衣服をまとった像で、メソポタミアの像とつながりがあるかわかりませんが、無いとはいえないと思います。 それと、タラークですが、虚空蔵菩薩の種子にあります。何か関係あるのかもしれません。

先の本ですが、70頁に鳥の説明の中に、「神のシンボルを掲げる軍旗」がとりあげてあり、

神殿ごとの軍隊がそれぞれ異なったシンボルを軍旗にあらわしていたとも考えられ、新アッシリア浮彫彫刻に描かれている戦闘場面の軍旗に見られる。・・・

とあります。



これが、神武天皇東征の八咫烏か金鵄のイメージに重なります。このようなものはどこでもあるものかもしれませんので、思い込みになってるのかもしれませんが。

こうして見ると、キトラ古墳と高松塚古墳の違いですが、獣頭人身像は戦のイメージを持ちます。高松塚古墳の人物像は平和のイメージです。金庚信が武人のイメージなので、キトラ古墳の埋葬者も同様に思えます。天武天皇に近い武人のイメージを持ちます。

2022年6月19日日曜日

キトラ古墳壁画の獣頭人身十二支像

 今回、「キトラ古墳壁画の十二支像」です。解説があります。 

その中の以下の文章をもとにネット検索しました。

キ トラ古墳壁画は、天丼に天文図、四周の壁面 に四神と十二支を配す。それらが示す悠久の時空 世界の中心に死者を安置し、その魂を鎮めるため のものなのだろう。こうした中でのキ トラ古墳の 十二支像のありかたは、中国のものと共通する。 その一方、武器を取る姿は、新羅の十二支像と類 似する。ただし、新羅のものは、墳丘の周囲に設 置される外護列石に浮彫され、外向きに立つもの が多 く、より守護神的な要素が強い。 このように、キトラの十二支像は、唐・新羅両 国のものとも異同点を指摘でき、壁画古墳に関す る諸問題を考える上で重要な手がかりを与えてく れる。また、 6世紀後半に中国長江中流域で出現 し、その後、広範囲に流行した獣頭人身十二支像 の伝播と変容を考える上でも貴重な事例といえる。

十二支像ですが、すべてがキトラ古墳でそろって見られるので無く、朝鮮や中国のものから想像されています。

前記のPDfの図で、「金庚信墓外護列石浮彫」が紹介されています。この像はキトラ古墳とは違い墓の外側で役割がちがいますが、同じ宗教観によるものだと思います。

ここで、「金庚信」とはどのような人物なのかと思われます。以下のコピペです。 

「生涯」は

647年、毗曇の反乱が起こる中で死んだ善徳女王の死後、金春秋と共に真徳女王を立ててこれを補佐し、女王が死ぬと金春秋を武烈王として即位させた。新羅は648年に高句麗と百済の麗済同盟に対抗するために唐に救援を求める。660年、唐と共同で百済へ進軍し(唐・新羅の同盟)、黄山伐の戦い(英語版)で百済の将軍階伯を激戦の末に破り、同年、百済を滅ぼした。その戦中、何度か蘇定方とトラブルを起こす。663年に白村江の戦いで倭と百済の残党勢力を排除した後、668年に高句麗に出兵し(唐の高句麗出兵)、高句麗も滅ぼした。(ウィキペディアより)

「家系」は

『三国史記』金庾信列伝には、金庾信は首露王の後裔であり、その祖先は中国黄帝の子・少昊金天氏であり、それ故、金姓を名乗っていたとある[2]。

とあり、さらに「首露王」は

首露王(しゅろおう、수로왕)は、金官加羅国の始祖と伝えられている古代朝鮮半島の王で、金海金氏の始祖。首露王は158年間国を治めたとも伝えられている。妃は阿踰陀(あゆだ)国の王女と伝わる許黄玉[1]。阿踰陀国についてはインド、タイ、中国、日本などの説あるが、インドのアヨーディヤーが最有力である[2]。伝説ではクジボン(クジの岳)に降臨したという。(ウィキペディアより)

インドのアヨーディヤーが有力とのことです。そうすると、金庾信(きん ゆしん)の名前ですが、「きん」は平凡なので無視して、ゆしんの「シン」から、プロレスラーの「タイガー・ジェット・シン」を思い浮かびます。「シン」はインド系の名前で、金庾信はインドからやってきた人物のように思えてきます。

キトラ古墳に埋葬された人物ですが、金庾信が白村江の戦いに関与したことから、同じく倭国側について唐や新羅と戦ったことが妄想されます。 関ヶ原合戦のとき、真田家では昌幸・信繁(幸村)と信之(信幸)がそれぞれ西軍・東軍に分かれて戦ったということがあります。両者が白村江で戦ったこともあり得ます。

高松塚古墳では、男女群像であるのに対し、キトラ古墳では獣頭人身像でした。考え方が大きく変化しています。多分、埋葬された人物、一代限りの特殊な墓であったと思います。オリエントまではつながりません。

2022年6月16日木曜日

檜隈寺跡の「呉」と書かれた瓦

檜隈寺跡で「呉」が入った瓦が出土しているというのを、四神の館の展示でちらっと見ました。その写真は以下にありました。

飛鳥資料館では4月23日(金)より、ミニ展示「新収蔵品紹介 ―「呉」と書かれた瓦―」を開催の資料に瓦の写真がありました。

飛鳥資料館では4月23日(金)より、ミニ展示「新収蔵品紹介 ―「呉」と書かれた瓦―」を開催の瓦の写真

説明は以下にありました。(引用元:http://hdl.handle.net/11177/9740 )

瓦ですが、

文様や製作技法の特徴から7世紀後半の年代が想定できます

とあり、また

明日香村大字檜前や大字栗原は『古事記』や『日本書紀』に伝わる「呉原」 の地と考えられ、渡来人がこの地に多く住んでいたとされます。

とあります。

呉原は名字では「くれはら」さんのようです。
全国の分布図は

キャプチャー図


名字由来ネットからです。 

比率が多い地域は、 広島県、大阪府、熊本県、兵庫県、東京都となっています。広島県は、呉市があるので当然ですが、熊本県とか古代に「呉」の国と何らかの関係があったかもしれません。 

2022年6月15日水曜日

檜隈寺の伽藍配置

 キトラ古墳の近くに、於美阿志神社があります。ここには檜隈寺と呼ばれる古代寺院があったとされ、現在も阿知使主を祀ったとされる於美阿志神社や、重要文化財である平安時代に造られた十三重石塔があります。現存は十一重になっていて、十重目は角が丸くなり、一番上の十一重は屋根の形をとどめていません。相輪も欠損。高さは4.3メートル。凝灰岩製。木造塔基壇跡に建てられていて、石塔の解体修理の際、基礎下の旧塔心礎より、平安時代末の納入品が発見され、石塔がこの時代と見られています。倒れてきたら危ないのか大きめの柵に囲まれ、近づくことはできません。塔身の梵字には、顕教え四仏の種子を刻んでるようですが、実力無く解読できません(ここは日本石造物辞典を参考にしています)。 塔がなくなったあと、石塔で代替されたようです。

於美阿志神社の入り口付近の解説版に伽藍配置があります。



写りが悪いですが伽藍配置図

写真の図では左上の方角が北です。図の中央下の中門を入ってすぐに塔があり、左右に金堂と講堂が配置されています。門と塔が直接に並ぶのは川原寺と同じに見えます。 川原寺伽藍配置 

檜隈寺の伽藍配置は、中軸線が西方に振れ、塔を挟んで南に金堂、北に講堂が位置し、中門は西側に位置する特異なものであったことがわかった。塔跡の南方に位置する土壇は、発掘調査前には中門跡と考えられていたが、実際には三間四面の仏堂の跡であり、塔の西側に位置する礎石建物が、その位置や規模からみて中門であるとみられる。伽藍主要部は回廊で囲まれ、回廊の西辺に中門、南辺に金堂、北辺に講堂が位置し、回廊内の東寄りに塔が位置していた。こうした特異な伽藍配置の意味については丘陵地に位置する地形上の制約によるものと考えられている。(ウィキペディア「檜隈寺」より)

『日本書紀』の朱鳥元年(686年)8月条に「檜隈寺、軽寺、大窪寺に各百戸を封ず。三十年を限る」と見えるのが文献上の初出である[1]。『書紀』のこの記事から、当時檜隈寺が存在したことがわかるが、この寺名が正史にみえるのはこの時のみである[2]。(ウィキペディア「檜隈寺」より)

檜隈との関連で、キトラ古墳の四神の館の展示で、「飛鳥への最初の渡来人」として、檜隈民使博徳の名前が出ていました。

檜隈民使博徳
『日本書紀』巻第十四によると、雄略天皇は自分の自分の心だけで決断し、「誤りて人を殺したまふこと衆(おお)し」と言われた。世の中という。天下の人たちは天皇をそしって、とても悪い天皇である、というふうに評された。そのような中で天皇が寵愛したのは、身狭村主青と、檜隈民使博徳らのみだったという[1]。
上記のように、博徳は身狭青(むさ の あお)とともに雄略天皇の側近として重用され、史部(ふひとべ)としてつかえた。雄略天皇8年(西暦に直すと464年)と12年に青とともに呉国(くれのくに、華南)に派遣され、漢織(あやはとり)、呉織(くれはとり)らをつれて帰国したという[2]。(ウィキペディア「檜隈民使博徳」より)

雄略天皇には天武天皇の事績が多く取り入れられているので、檜隈の地は天武天皇と密接につながっていたと想像されます(どこまでが事実かわかりませんが)。

2022年6月14日火曜日

古墳の写真(キトラ古墳、高松塚古墳、野口王墓古墳(天武・持統合葬墓))

 野口王墓古墳(天武・持統合葬墓)の立地、藤原京」ですが、 

立地について、実際のところどうなのか見てきました。

キトラ古墳には以下の模型がありました。

写真1


この写真で頂上ではなく、充分に傾斜面に位置することがわかります。 ただモデルは高さ方向が強調されてるように見えます。 実際、以下のような感じです。

写真2


どの程度、元の姿が残ってるか不明です。

次に高松塚古墳です。

写真3


こちらはもう少しわかりやすく、古墳の左手が谷のようになっています。

最後が野口王墓古墳です。

写真4


ピンぼけです。しかし、矢印のところに鳥居が見えます。木々に覆われてわかりにくいですが、頂上にあることはわかります。キトラ古墳、高松塚古墳が奥まったところにあるのとは位置するところが全然違います。

参考:キトラ古墳と川原寺 

2022年6月12日日曜日

野口王墓古墳(天武・持統合葬墓)の立地、藤原京

 『キトラ・高松塚古墳の星宿図 (ものが語る歴史シリーズ)』泉 武 、同成社 (2018/1/25)の第5章に野口王墓古墳(天武・持統合葬墓)のことが書いてあります。 その前に、野口王墓についてはここ 

以下、先の本の引用です、214頁。

1 特異な古墳立地 当古墳が立地するのは、今城谷の東西方向の丘陵に、西から梅山古墳(前方後円墳・六世紀後半)、金塚古墳(方墳・七世紀中)、鬼の俎・雪隠古墳(長方形墳・七世紀後半)と続く東端に位置する。これらの三基は、古墳背後の丘陵頂部(標高約一一一から一一七メートル)には築かれず、南斜面をコ字形に造成して築造されている。梅山古墳は後期古墳の範疇であるが、金塚古墳と鬼の俎・雪隠古墳は終末期古墳に通有の立地である。

ところが、このなかで最後の古墳といえる野口王墓古墳は、標高一〇九・八メートル(古墳裾部)の独立丘陵頂部に築かれている。これは、終末期古墳の立地のセオリーを無視した占地であり、明日香南西部の丘陵地のなかで高い位置である。

コ字形の話ですが、以前のブログ記事で「キトラ古墳と川原寺」が、関連していると思います。野口王墓については埋葬儀礼の反響音などを無視していることになります。この場所でなければという別の強い理由があるということです。

219頁に、分布上の特徴として

岸が(一九七二)、その中軸線(※藤原京の中軸線)を南に延長すると、その線上に天武・持統を合葬した檜隈大内陵が正しく位置することを指摘した。野口王墓古墳からは、藤原京を目視することはできないが、現在の測量技術でも、この古墳は藤原京中軸線の延長線上に正しく位置するという(小澤・入倉二〇〇九)。

野口王墓古墳ですが、ジッグラッド のように見えてきます。占星台です。ここで天文観測を行った象徴的なポイントに思えます。書紀によれば、天武天皇は天武4年に日本で始めての占星台を作ってる可能性があります。

野口王墓がたまたま藤原京の南にあったのではなく、一連の流れの中で、このポイントがあって藤原京が造営されたことが考えられます。天武4年には都の計画が動いていたかもしれません。藤原京が残っておれば、宮都の基準点として大事にされ、都の計画・造営に主体となった天武天皇と持統天皇の記念碑になっていたはずです。

藤原京造営の基準点がここで、天武天皇は完成を見ることがなかったのですが、守護のポイントの占星台に王墓が作られたと考えるとすっきりします。天文遁甲の天皇としてふさわしいお墓であると思います。持統天皇が合葬されたのも当然な気がします。

参考

  • 岸俊男 一九七二 「文献史料と高松塚古墳」奈良県教育委員会・奈良県明日香村『壁画古墳高松塚』調査中間報告

  • 小澤毅・入倉徳裕 二〇〇九 「藤原京中軸線と古墳の占地」(財)飛鳥保存財団『飛鳥』一一一

大和名所図会に野口王墓が描かれているとのことですが、どこにあるのかわかりませんでした。どうも「倭彦命の窟(いわや)」がそうらしいです。メモっときます。自由に見学できた様子が描かれています。 大和名所図会の野口王墓?