2022年1月29日土曜日

『人はどのように鉄を作ってきたか』

 『出雲風土記』は、

出雲国の風土記。編纂が命じられたのは和銅6年(713年)5月、元明天皇によるが、天平5年(733年)2月30日に完成し、聖武天皇に奏上されたといわれている。(ウィキペディア)

とのことです。年号の「和銅」は銅の国産化にめどが立ったという意味のように思われます。当時の鉱産物に対する執着がわかるような気がします。しかし鉄も重要であったはずですが、「和鉄」という年号はありません。和銅の時代は鉄に関しては問題なく充足できてたのかもしれません。単なる想像ですが。

『人はどのように鉄を作ってきたか 4000年の歴史と製鉄の原理 (ブルーバックス) 新書 』、永田 和宏、講談社 (2017/5/17)が参考になります。

37ページに「銅精錬法から発見した製鉄法」のところに、

小アジアのアナトリア地方のアラジュホユックでは、・・・・。当時、アナトリア地方にはプロトヒッタイトと呼ばれる人たちが住んでおり、高度な鋼の加工技術を持っていたことがわかる。そして、彼らが製鉄法を発見したと言われている。 当時、この地方は青銅器文明の時代で、同精錬が行われていた。酸化銅の鉱石はシリカを多く含んでおり、シリカを除去するために鉄鉱石やマンガン鉱石を砕いて精錬炉に投入した。そしてシリカをファイアライト(2FeO・SiO2)組成に近い酸化鉄濃度の高い組成のスラグにして流出させ、銅は溶融状態で得た。酸化銅の鉱石が少なくなり、硫化鉄を含む硫化銅鉱石を用いるようになると、焙焼(ばいしょう)して酸化物にした後、酸化鉄を分離するために炉にシリカを投入して、ファイアライトに近い組成のスラグとして流出させた。この時、炉内の還元状態が少し強くなり、偶然に鉄が得られたと考えられている。

引用が長いですが、銅の精錬の過程で、鉄の製法が発見されたようです。ヒッタイトがこの地を征服し、引き継がれ、その後、世界に広まっていったとされます。この後、たたら製鉄の話が続き、その後に、

ヒッタイト帝国の中心部は、小アジアのアナトリア地方中部をU字型に流れるクズルマック川(「赤い川」という意味)に囲まれた山間部にある。製鉄遺跡のアラジュホユックもこの地域にある。秋には非常に強い季節風が吹き荒れる。また、この地域には原料の鉄鉱石、燃料の木炭を作る森および冷却の水がある。

川の名前ですが、出雲の斐伊川(ひいかわ)、古くは「肥河」「簸の川」(ひのかわ)がありますが、火の川だと思います。この地で製鉄が行われ、川の名前に残っていることになります。赤い川と似てます。

127ページ

我が国に製鉄技術が朝鮮半島を経由して伝えられたのは六世紀後半である。その形状は長方形箱形炉である。8世紀に入って半地下式縦型シャフト炉(筒型炉)が伝えられた。前者は中国・九州地方で多く発掘されており、後者は静岡以東で主に発掘されている。

129ページ

原料は日本でも当初は赤鉄鉱石(ヘマタイト)を砕いて用いていたが枯渇し、奈良時代の終わりの8世紀末頃から砂鉄を用いるようになった。その後、たたら製鉄法は砂鉄を原料とする独特な製鉄方法として発展を遂げた。・・・

話の展開が見えてきます。

  • 倭国は、古墳時代に朝鮮半島に鉄を求めて、入手先を確保した。それが百済などだと思います。
  • 唐の進出により、百済滅亡などで、鉄の権益を失うことになり、倭国の生命線が断ち切られるとのことから唐・新羅との争いとなり、白村江の戦いで大敗北してしまった。
  • 鉄が入手できなくなり、赤鉄鉱で作り始めたものの、枯渇して、やむなく効率が悪い砂鉄を利用する「たたら製鉄」のようなものを開発した。技術は青銅器の製造技術が活用できる、銅鐸などで進んでいた出雲が鉄の主要生産地になった。
  • 天武天皇の時代に、出雲がヤマトと結びついた。経緯はまったく不明。
  • 次の持統天皇の時代に、後継者争いの中、ヤマトと出雲が対立関係になった。その経緯が、『古事記』、『日本書紀』、『出雲風土記』などにあらわれている。
  • 奈良時代の出雲の不遇の時代を経て、平安時代になり出雲の回復が行われた。

どこまで合ってるかわかりませんが。

2022年1月28日金曜日

出雲とスサノオの神話

 出雲と天武天皇の関係は、以下の記事から続いています。

スサノオが出雲に降ったところ 

天武天皇の時代とするには、時系列的には難しいというところがあります。いかに時間的な整合性を考えるかということですが、あきらめた方がよさそうな気がしてきました。『出雲風土記』のこととかを考えると、『日本書紀』のスサノオの神話は空想物語と考えた方がすっきりします。もちろん、現実ではないものの、天武天皇のイメージはあります。出雲を支配下に置いたことを強調しているだけかもしれません。

今まで『出雲風土記』のことは頭にありませんでした。考え方を変えないといけないようです。時間的には、『古事記』→『日本書紀』→『出雲風土記』の順番で、しかも『出雲風土記』は

出雲国風土記の「古典への招待」 

にあるように、『日本書紀』の内容を理解していると思われます。「記・紀」神話の八岐大蛇退治伝説は「風土記」では出てきません。「記・紀」は伊弉諾尊と伊弉冉尊の国生み神話で、「風土記」では国引き神話で食い違いがあるようです。 『出雲神話の誕生 (講談社学術文庫) 』鳥越/憲三郎、講談社 (2006/10/10)を借りてきました。この本では、序に「出雲大国家の幻想」と述べていて、私もそうでしたが、「記・紀」を優先の立場のようです。結論はどうかと思われますが、参考になりそうなことが書いてあります。「風土記」は、出雲の東部、「記・紀」は出雲の西部を注力してるそうです。出雲の西部は新興の場所としているのが気になります。返却期限までに読めそうにないので、メモ書きとしておきます。

2022年1月24日月曜日

崇神天皇と大田田根子

 『三輪山の古代史』上野誠 [ほか]編、学生社、2003.3の「3大神神社と出雲」千田稔氏のところにありました。 「大田田根子」については深く考えていませんでした。このタイトルを見て、気がつきました。

崇神紀に、天照大神と倭大国魂の二神をお祀りしていたが、うまくいかなかった。大田田根子を呼んできてまるくおさまったという話があります。大田田根子はどのような人物だろうかということで、この本では詳しく述べられています。私は天照大神は持統天皇のモデルだとは思っていますが、軽く考えていました。崇神天皇と言う架空の時代で、持統天皇と倭大国魂の方が誰に相当するかわかりませんが対立があった。そこに大田何某かがおさめたということです。持統天皇の関係で「大田」と言えば、大田皇女(おおたのひめみこ)が思いつきます。『日本書紀』のいうところでは、持統天皇の姉にあたります。大田皇女がいたら、きちんとできているはずだったという書紀編纂者の願望です。『日本書紀』を読んできて、天照大神は持統天皇のことかなと、思っていますが、違うかもしれないと考える人もいると思います。この部分で「大田」を出すことで、天照大神=持統天皇が確定します。神様の話の中に急に人物名が出てきて、書紀はパロディが好きなのかと感じてしまいます。蘇我馬子と入鹿なども馬鹿馬鹿しいとはいえないです。 倭大国魂は天武天皇を表すのかはわかりません。

この本では、「大田田根子」の探索があります。つまり大田皇女の出自探索ということになります。 大田田根子は大物主の血を引く人物のようです。出雲系の人に思えてきます。大田皇女は以前、吉備の出身と妄想していましたが、違うように感じます。出雲とすれば、話がすっきりします。天武天皇の後継者争いで、大田皇女の子の大津皇子が脱落したことで、もし出雲の勢力と大津皇子が結びついていれば、影響力が減じられることになりますが、よくわかりません。大田皇女の子の大来皇女(おおくのひめみこ、大伯皇女とも)は、天武天皇の皇女が、伊勢斎宮であったのですが、大津皇子事件で退下していて、天武天皇の後継者問題と伊勢神宮問題が関連しているようには思われます。

大田田根子は、「茅渟県陶邑(ちぬのあがたすえのむら)」に住んでいます。現在の和泉地方陶邑です。陶は当時の須恵器の大生産工場があったところです。陶荒田神社があり、ここがかって大阪府泉北郡東陶器村大字大田といったところです。

多太神社の話もありますが、三輪山の麓、巻向のところにも大田というところがあります。かって纏向遺跡は大田遺跡と言ってたようです。

その大田遺跡(纏向遺跡)から出土する土器の年代が、遅く見積もっても四世紀までいくのです。・・・ さらに、大田という地名が大変重要な地名であることが、『播磨風土記』の揖保郡の条に出てくるのです。 「大田の郷。大田と稱ふ所以は、昔、呉の勝(すぐり)、韓国より渡り来て、始め、紀伊の国名草の郡の大田の村に到りき。その後、分かれ来て、摂津の国三嶋の賀美の郡の大田の村に移り至りき。其が又、揖保の郡の大田の村に遷り来けり。是は、本の紀伊の国 の大田を以ちて名と為すなり」。

これらは、和歌山市大田、茨木市大田、揖保郡太子町太田?(大田ではない)と各地にあります。「大田」の名字を追究する意欲のある人であればもっと調べることができるとは思います。しかし、大田皇女は、大阪府泉北郡東陶器村大字大田の出身であろうとは思います。

和泉 

泉州 

須恵器のルーツ 

2022年1月21日金曜日

「やすんば」と出雲

 『三輪山の古代史』上野誠 [ほか]編、学生社、2003.3の「1山辺の道をめぐって」和田 萃氏の文中に「やすんば」のことが書いてありました。なんだろうと思ったまま、ほったらかしでした。「7都祁の民俗」というところです。

大神神社との関係で、

一つはこの大神神社が、三輪山を神体山としてお祀りしている神社であるということです。神体山としてお祀りする形式は、三輪山の東に位置する高原地帯(東山中(ひがしさんちゅう))、都祁地域によく残っているのです。 三輪山に鎮まる大物主神は、ヲロチとも小さな紐蛇とも伝えられ、龍蛇神ですが、雄雅山に鎮まりますのも黒いヲロチとされており、しかも神体山です。雄神(おが)神社は、鳥居だけがあり、拝殿も本殿もありません。お山そのものを祀っています。野々神岳は、たしか三輪さんの奥の院という言い方もされており、全国的に強い信仰を持っています。・・・

省略しましたが、雄雅山は都祁村に野々神岳の二つの山、雄雅山・雌雅山のひとつと書いてあります。

葛神(くずがみ)の信仰もよく残っていて、都祁では明治以降、葛神社の葛は国津と表記を改めたので、国津神社となってる事例が多く、葛神信仰は現在も盛んです。

そして葛神の信仰は、都祁の南に位置する宇陀郡にも、また吉野郡にも広がり、飛鳥川の上流地域にも色濃くあります。・・・

三輪山の西北の桜井市箸中に国津神社があるとのことで、葛神に結びついてくるのだろうともあり、

三輪山と同じ信仰が、奈良盆地の東南部と東の都祁、宇陀、吉野へと一帯に繋がっていく様子が見え。今後、三輪山の信仰を考えていく場合、一つの重要な視点としてあると思われます。

はしょりましたが、メモ書きです。
さて、「やすんば」ですが、

それから雄神神社の麓の駐車場に立ってみると、西北の方に白石の国津神社が見えます。その国津神社に至る途中に四カ所、田んぼの中に小さな灌木茂ってい茂っているところがあり、それを「休(やす)ん場(ば)」とよんでいます。この都祁の「休ん場」は、全国的に見ても非常に注目すべき民俗といえます。

これは、雄神神社の神様が、国津神社に行かれる時に、休まれる場所だと伝えられています。そしてそこは強いタブーがあり、田んぼの中のごく一画、クヌギなどが茂っているだけですが、絶対手を触れてはいけない、中へ入ってはいけないという場所であり、それが四カ所点在しています。これは、まことに珍しい景観です。

ここは神様がお休みになる場所とされているのですが、関連してすぐに思い出されるのが、『出雲風土記』の冒頭にある八束水臣津野(やつかみづおみつぬ)命が国引きをしたというくだりです。国引きを追えた終えた八束水臣津野命が意宇(おう)の杜(もり)に杖を衝き立てて、「意恵(おゑ)」と言った。「おゑ」とは、疲労困憊して体が動かなくなる、眠くなるという状況、それを「おゑ」と古代ではいいました。・・・

そして「おゑ」がなまって、「意宇(おう)」となったと記しています。出雲の意宇の杜は、意宇郡の郡家の東北の片隅の田の中にある小さな塚、小山で、現在も残っています。それは田の中のごく一画の狭い場所で、非常に強い禁忌があり、手を触れてはいけない場所と記述しているのも、都祁の「休ん場」と共通しています。都祁の「休ん場」は古代の意宇の杜と結びついてくる。

先頃、私は出雲へ行き、各地の遺跡を見学してきました。八雲立つ風土記の丘へも行き、そこで資料を見ていましたら、意宇の杜の所在地が書いてあったので、たずねて見ました。出雲国府の場所から東北へ、一・五キロぐらいの田の中にあります。

小さな森で、樹齢二百年ほどのタブの木が繁り、全体を注連縄っでかこってあります。近くの上竹矢(かみたけや)、中竹矢(なかたけや)の人たちが、十月一日にそこをお祀りをし、やはり現在も手をつけてはならない場所とされています。

この意宇の杜や、都祁の「休ん場」、葛神信仰などは、今後、三輪山の祭祀を考えて行く場合の一つの重要な分析視覚になるだろうと感じています。

やすんば」と「大神神社と出雲」が当ブログにあります。おかしなことを言ってるところは無視してください。

引用が長かったですが、ここから、妄想です。

大神神社が出雲と関係があると考えても、単独で出雲から大神神社にやってきたとしては成立しません。例えば、都祁の地域は食料生産、吉野とかは吉野川から紀ノ川に至るヤマトと出雲とのルート確保など、全体として機能しなければなりません。自給自足の時代なので、大神神社の近傍一帯が出雲の勢力と強いつながりが必要条件になるような気がします。この出雲の貢献が大であるという意識からから、奈良時代になり、出雲勢力の排除に対して、強く反発したこともありうると思います。
ヤマトの地域の開発とかに出雲が貢献した痕跡とか見つけられるかというところが今後の課題です。

2022年1月20日木曜日

山辺の道と能勢街道

 山辺の道(やまのべのみち、古代読み:やまのへのみち、古風な表記:山辺道、旧字表記:山邊道)は、日本の古道の代表的な一つ。大和の古道の一つ。古代大和の山辺(やまのへ。山辺郡の語源にあたる地域名)に通した道である。日本史上(記録上)最古の道[1][2]、日本現存最古の道として知られる。ウィキペディア

『三輪山の古代史』上野誠 [ほか]編、学生社、2003.3の「1山辺の道をめぐって」和田 萃氏の文中に

さて、山辺の道というのが、どこでもありそうな呼称でありながら、他にはほとんど例がないのはなぜか、おそらく山辺の道は、特別な呼び方であったと考えられます。

山辺の道は、どこの山の麓でもいいというわけではなく、じつは三輪山の山麓の道という意味が、古くから強く込められていた。だから三輪山の麓の山辺の道沿いに崇神陵と景行陵があり、そしてその道の延長に山辺郡という郡名がつけられた。また添上郡山辺郷の郷名も、今の奈良市の法華寺のあたりに相当しますが、山辺の道が通っていたことに基づくかと思います。

そしてこのことは、あまり強くいうとお叱りを受けると思いますが、邪馬台国の所在地論とも結びついてきます。邪馬台国は、元来「ヤマトの国」と読むべきだと思いますが、ヤマトの地名そのものも、実は三輪山の麓ということを強く意識していたと考えられます。

この部分、確かに問題発言ではあろうと思います。邪馬台国とヤマトは関係ないとは思いますが、ヤマトの由来は可能性としてあると思います。

『日本書紀』崇神八年条に見える歌謡に、「倭(やまと)成す大物主(おおものぬし)・・・」の表現があります。三輪山で祀られているオオモノヌシ神(大物主神)がヤマト、これは後の奈良県全体の大和国ではなく、初瀬川流域の狭い意味のヤマト、その地を造った国造りの神であると歌っています。山辺の道もそうですし、ヤマトという地名、邪馬台国もすべて三輪山の麓ということが、強く意識された呼称であるということです。

どうかなと思うこともありますが、山辺の道は神聖な道であると理解しました。以前に能勢街道に古墳が点在しているということがありましたた。古墳の埋葬儀礼は一回だけでなく、継続して行われると思います。つまり古墳にアクセスするために古道が生まれ、墓参りが継続して行われたと思います。仏教では何回忌とかあります。子孫がキリスト教とかに変わったとして、古墳の横に教会を建てるかもしれません。古墳の場合も同様で、古墳のそばに神社を建てるのも継続的に宗教行事が行われたということになります。この本の中で長岳寺近くにかっての大和(おおやまと)神社があったとあります。そうすると古墳時代から仏教の時代まで宗教が異なっても信仰の地域であったということです。山辺の道は軍兵が通ったという話があり、違和感がありましたが、やっぱりだと思いました。 以下能勢街道の記事です。

能勢街道と古墳 

能勢街道と古墳の位置関係の図 

2022年1月18日火曜日

丹後と阿蘇の関係

 丹後王国 の話で阿蘇海という地名が出てきました。地名とはその地に移住してきた人の出自をあらわす大事なものです。阿蘇海も関連していると思いました。おそらく、阿蘇の地域が、稲作文化の日本でのスタート地点となり、地名も各地に残っていることが考えられます。邪馬台国の時代でも倭国の大乱という話があります。つまり、邪馬台国での争いから逃れ、各地に移住した人たちがいて、名前を残しているということを想像すると、地名を考えることは意味があります。

以前にいろいろ書いてました。

人の移動については、 林・小林仮説 

阿蘇については、 阿蘇の地名 

2022年1月16日日曜日

出雲国風土記の「古典への招待」

 『新編日本古典文学全集 (5) 風土記』小学館 (1997/10/20)の「古典への招待」に重要な指摘があります。 風土記の文は以下です。。

老細思枝葉。裁定詞源。亦山野濱浦之
處。鳥獸之棲。魚貝海菜之類。良繁多悉
不陳。然不獲止。粗擧梗槩。以成記趣

(訂正出雲風土記より)

太字の部分が重要で、 「亦山野濱浦之・・・以成記趣」のところを「古典への招待」では、

山・野・浜・海岸の所在、鳥・獣の棲息の場、魚・貝・海藻など水産物の種目などは、まことに多くて、あり過ぎるから、悉くは述べなかった。そうではあるが、止むを得ない事項だけは「粗(ほぼ)」あらましを挙げておいて「記趣」を成した。

とあって、自然地名や動植物については「粗」挙げたのみで、それは「記趣」を成すためにすぎない、本当に「主要なことは」はほかにあると、言いたげです。・・・

「粗擧梗槩」の部分は、「粗擧梗概」と「古典への招待」ではなっていて、『文選』では、

「微妙な道理がわかって」いない者の欠点を指摘する表現なのです。

なぜ、「止むを得ない事項」なのか、理由として3つあり、①和銅六年五月の詔で尋ねられているから、止むを得ないのではということのようです。

さて、「老細思枝葉。裁定詞源」の最初に戻ります。「古典への招待」では漢文です(漢文表記がわからないので仕方ないです、すみません)。

「老」は執筆者自身をさすでしょう。・・・自称の謙辞です。

次の八字は、『垂仁紀』二十五年三月、分注、一云にある次の一句と深い関係にあります。・・・

書いてきましたが、以下に「古典への招待」の文がありました。そちらを見てください。

『風土記』を書いた「彼」

要は

執筆者は『垂仁紀』を読んでいて、明らかにこの表現を意識して書いたと断定してよいでしょう。したがって『出雲国風土記』執筆者の意図は、『垂仁紀』の文章の意味と同じ意味に解釈されたいのだろうと思います。

当然、わたしの関心は『垂仁紀』のこの部分に向かいます。スペースの関係で簡単に書きますので、詳しくは上部に引いた『日本書紀』の前後の部分を読まれることを希望します。そこの頭注に「源根」は「大和の地主じしゆ神を祀ることに主眼を置かぬことをいうか」とあります。わたしの推定では、『出雲国風土記』の執筆者、神宅(みやけ)の臣金太理(おみかなたり)という人物を語る大切な部分なのであろうと思います。

それ以上はわかりません。最近になってやっとここまで気づいたところで、最初に掲げた多くの疑問はまだ解くに至りません。国つ神を尊重する立場をとっているようにも思えますが、だからといって、倭(やまと)の大国魂(おおくにみたま)の神を奉ずる一族か、そうでないかもわかりません。現時点ではここまでが学問の領域で、あとは想像の領域なのでしょう。

と書かれています。『垂仁紀』は、伊勢に天照大神が祀られることの経緯の話です。出雲の反発があったということです。
妄想の世界になりますが、古事記から日本書紀編纂にかけて、出雲の勢力は排除されていったと思われます。神宅臣金太理もその一人であったはずです。古事記。日本書紀・出雲風土記にヤマトとイズモの関係の推移が表されています。 「出雲国造神賀詞」については丹後王国 にありますが、倭の大国魂と出雲が結びついています。

参考: 『出雲国風土記』をネット検索したところです。

「出雲国風土記」の原文が載っている資料を探すと、  でいろいろと参照先がわかります。

出雲國風土記 - 国立国会図書館デジタルコレクション にもあります。これらは画像データで読み解くことができできる人にとっては有用なデータです。テキスト化されたデータが以下にありました。文頭のところは、

訂正出雲風土記テキストページへのリンク 

よりの引用です。

訂正出雲風土記
       出雲宿禰俊信謹校
國之大體。首震尾坤。東南山。西北屬海
東西一百卅七里一十九歩。
南北一百八十三里一百九十三歩。
一百歩。
七十三里卅二歩。
 得而難可誤。

老細思枝葉。裁定詞源。亦山野濱浦之
處。鳥獸之棲。魚貝海菜之類。良繁多悉
不陳。然不獲止。粗擧梗槩。以成記趣
所以號出雲者。八束水臣津野命。詔八雲
立語之。故云八雲立出雲。

合神社參佰玖拾玖所。
 壹佰捌拾肆所〈在神祇官。〉
 貳佰壹拾伍所〈不在神祇官。〉

玖郡。鄕陸拾壹。〈里一百七十九。〉
餘戸肆。驛家陸。神戸漆。〈里一十二。〉
 意宇郡。鄕壹拾壹〈里三十。〉餘戸壹。驛家參。
 神戸參〈里六。〉
 嶋根郡。鄕捌。〈里廾五。〉餘戸壹。驛家壹。
 秋鹿郡。鄕肆。〈里一十二。〉神戸壹〈里一。〉
 楯縫郡。鄕肆。〈里一十二。〉餘戸壹神戸壹。〈里二。〉
 出雲郡。鄕捌。〈里廾三。〉神戸壹。〈里二。〉

以下省略。

2022年1月15日土曜日

崇神紀・雄略紀からの感想

 丹波王国のことから、崇神紀・雄略紀を見ることになりました。特に雄略紀最後の方、22年の与謝の浦子伝説があります。この話は別巻にあるとしていますが、逸文『丹後風土記』に詳細に記されています。雄略紀の編纂にあたって、丹後関係の文書を見ていると思われます。雄略天皇は天武天皇ですので、神仙思想の神話が採用されています(と思う)。なぜ、浦島太郎の話が出てくるのかと感じますが、それほど唐突ではなく、丹後に好意的な流れで雄略紀が書かれています。雄略紀最後で、征新羅将軍に付き添った蝦夷が吉備国で、雄略天皇崩御で反乱を起こす話があります。吉備国から丹波国まで行って全滅させた話です。丹波国を好意的に記しているように感じました。 前にも記事にしてますが、 持統天皇の称制の時代を想像する など。

雄略天皇のあとの混乱の話から、天武天皇のあと、子だくさんだったので後継問題がややこしくなり、収拾がつかなくなってしまったことを妄想します。つまり邪馬台国と同じ状況です。卑弥呼=持統天皇です。その後、文武天皇が即位しますが、実際は混乱していたかもしれません。邪馬台国では、台与が後を継ぎます。これが、元明天皇(げんめいてんのう)、元正天皇(げんしょうてんのう)の二人の女帝に相当します。どうしてかはわかりませんが、あまりにも似ていています。カリスマ的な王の死後、偉大すぎたため、後継者が不在で、混乱が起こって当たり前というのかもしれません。

2022年1月12日水曜日

丹後王国

 ウィキペディアにあります。

門脇は、丹後王国は4世紀中頃ないし4世紀末頃から5世紀にかけてが最盛期で、6世紀中頃にヤマト王権による出雲征討に伴いヤマト王権の支配下に入っていったと推定している。

丹後王国


そうだろうかということです。天武天皇の時代、出雲の勢力は大きかったと思いますが、天武天皇亡き後の持統天皇以来、藤原京・平城京時代は、衰退気味であったと思います。その後、平安京遷都により復権したような印象を受けます。

出雲氏は,天穂日命(あめのほひのみこと)を始祖とする氏族です。平安京以前に,山陰道の出雲地方から丹波を経て京都(山背国愛宕(おたぎ)郡出雲郷)へ移住し,大きな勢力を築いていたといわれています。氏の名から出雲郷の地名が生まれ,現在でも出雲路(京都市北区)や出雲路橋という名が残っています。
京都と出雲氏の関わりについて知りたい。 

このブログでも京都と出雲のことを記事にしています。
遷都と宗教 

賀茂斎院跡(櫟谷七野神社) 

出雲から京都に出てくるときには、その通過点の確保が大事になります。つまり丹後というか丹波の地域が重要になります。 「丹後王国」に関連した『日本海域の古代史』門脇 禎二、東京大学出版会 (1986/11/29)を借りてきました。

252ページより、記紀の丹後関係記事の特色が書かれています。

丹波関係の記事の編年割付は、「日本書紀」では大きくは三期にわかれていて、ひとつは崇神紀・垂仁紀に集中しており、次は雄略紀から安閑紀にかけて、そして天武紀以後である。

雄略天皇は天武天皇と考えるので、崇神天皇もそう考えられます。「神」の天皇は、天武天皇のイメージを持っているとして良さそうです。先の門脇本、254ページに、丹波関係記事の配置の表があります。一元/六〇年の区切りで見ています。書紀は60年を基本に記述されているとの理解があるのだと思いました。表の崇神紀10年「四道将軍の派遣」とあります。北陸・東海・西道・丹波ということで、丹波が重要視されているように思われます。また表の崇神紀60年に、「出雲振根の告訴・丹波氷上の氷香戸辺の言上」とあります。出雲の神宝を献上させたところ、出雲の対応で内紛が起こり、ヤマトが介入したが、丹波の氷香戸辺が話をおさめたというようなことのようです。崇神紀には宗教がらみの記事が6年にあって、天照大神と倭大国魂の二神の折り合いが悪い話が出てきます。これで思うのが、丹波の元伊勢伝承です。『丹後王国物語-丹後は日本のふるさと-』せせらぎ出版 (2013/11/30)の引用です。

伊勢神宮(三重県)の内宮に天照大神、外宮に豊受大神が祀られています。神宮関係の資料である『止由気宮儀式帳』(804年成立)によると、雄略天皇の時代に天照大神が天皇の夢に現れ、「高天原からこの地に鎮まったが、朝夕の大御饌(食事)を安らかにとることができない。そこで丹後国の比治の眞奈井にいる大御食津神である豊受大神(等由気大神)を自分の元に呼び寄せてほしい」とお告げしたとあります。そこで天皇は丹後から豊受大神を伊勢に遷したとしています。 現在、伊勢で祀られている豊受大神が、もともとは丹後の神であることを伝えているのが元伊勢伝承です。

丹後には、各地に豊受大神が祀られているそうです。書紀では雄略天皇のところには書かれていないようです。天照大神も問題有りの神様で、仲裁的に丹後国が関与した話に思います。 『丹後王国物語』の漫画に

丹後は古代「タニハの国」と呼ばれていました。この地でたわわに実る稲補を見たトヨウケ大神様が、「あなにえし、たには」と喜ばれ「たには」と名づけられたのです。場所は京都府の北の部分、有名なものに日本三景のひとつ天橋立があります。

潟湖があり、古代文明が発達しそうな場所です。しかも、

『丹後国風土記』逸文には、天橋立の東の海を「与謝海」、西の海を「阿蘇海」というとあり、「二面海雑魚貝など住むが、蛤は少ない。」と記述されています。

「阿蘇」がつく地名が出てきました。稲作文明が九州から伝わった痕跡のように思いたいですが、無理っぽいとは思います。どの程度遡れるかわかりませんが、阿蘇からこの地にやってきた人がいる可能性はあります。

タイトルの王国の話とずれてますが、もう少し。『日本海域の古代史』の後半部分324ページの「出雲の王から出雲の国造へ」で

「出雲国造神賀詞」というのが残っていますが、それによると、出雲国造として出雲の神々一八六社すべてのッ祭祀権をとりまとめ、天皇を守るむねの賀詞を奏上し、そして、出雲のオオモナチ神の和魂(にぎたま)を「皇孫の命の近き守神と貢(たてまつ)り」大和の三輪山の神奈備、葛城山の神奈備、雲梯(うなで)神社の地(高市郡)、飛鳥の神奈備のそれぞれに鎮座させた、というのです。
つまり、この範囲にはいっているのは飛鳥と藤原京ですから、その周りに出雲の祭祀権を差しあげ服属を誓ったのはいつかというと、飛鳥か藤原に都があった時期ということになると思われます。こういうことから私は、出雲は「蝦夷」や「隼人」などの世界を除けば、日本列島でヤマト朝廷の支配下にはいるのが一番遅かった地域であって、早くみて六世紀のおわり、おそらく七世紀はじめころではないか、というふうに考えております。

「出雲国造神賀詞」のことから、都があった時期を考えると七世紀後半と考えるのが妥当と思えます。出雲と天武天皇の宗教的な一致があったのは確かそうで、持統天皇の代になり、ズレが目立ってきた想像します。

2022年1月10日月曜日

『これでも言語学』

 『これでも言語学 ―中国の中の「日本語」』牧秀樹、開拓社 (2021/5/25) の最後の方だけ見ています。 17章に中国語の仮説が述べられています。

Zhangらによる2019年のNatureというジャーナルに掲載された Phylogenetic evidence for Sino-Tibetan origin in northan China in the Late Neolithic(シナ・チベット語の起源が後期新石器時代の北部中国にあるとする系統発生的証拠)という論文の中でも、シナ・チベット語は約5900年前に出現し、後に、西方のチベットと南方のミャンマーに移動した集団と、東方と南方に移動して中国語となった集団に分岐した可能性が高く、シナ・チベット語族の発祥地と時期について提案されている二つの仮説(北方起源仮説と南西起源仮説)のうち、北方起源仮説では、約4000~6000年前に中国北部の黄河流域に出現したとされ、南西起源説では、9000年以上前に東アジアの南西部に出現したとされています。

つまり、中国語とチベット語は、もともとは、同じ祖先に属しており、6000年ほど前から、二つに分かれ始めたということです。これらのいくつかの要素を考えると、中国語も、もともとは、SOV言語で、何らかの理由で、SVOに変わったのではないかと仮説を立てることができそうです。それが、、中国語動詞・前置詞移動仮説の中身です。実際、Li(1990)は、現代中国語の基本語順は、現代日本語同様、SOVだと提唱しています。

Liの文献は、参考文献で挙げられている Li,Y.-H.Audrey(1990)Order and Constituency in Mandarin Chinese,Kluwer,Dordrecht. と思います。中国語動詞・前置詞移動仮説については省略。

18章で、日本語が通って来たかもしれない道として

・対馬ルート:朝鮮半島から対馬経由で西日本に入るルート
・北海道ルート:シベリアからサハリン経由で北海道に南下したルート
・沖縄ルート:台湾付近から琉球列島に入るルート

が挙げられています。私個人の曲解かもしれませんが、中国語がSOVの時代に、中国からダイレクトに日本にやってきたと考えてもおかしくはありません。

基本的な知識がないのだろうと思います。何を行ってるのか意味不明のところがあります。sovからsvoに変化したのは甲骨文字から漢字の文字の使用によるということのようです。この辺はうれしいところです。消化不良ですが、今後の課題で、メモ書きとします。 このブログでもSVOでだいぶ書いてました。

日本語の起源 

アジアの言語の起源 

英語の語順から思うこと 

中国語のSOV 

言語とコミュニケーション 

「中国語は英語に似ている?」 

中国語の膠着語としての痕跡? 

アイヌ語の印象 

有声音・無声音とか有気音・無気音とかも書いてます。 2021年9月から10月にかけてです。『これでも言語学』では注目されていないのが残念です。本とか出てても知らないだけかもしれませんが。

2022年1月9日日曜日

はだしの歴史

 タイトルは大げさすぎる気がします。『魏志倭人伝』では風俗として「皆徒跣」とあり、「みな、裸足である」と理解されています(ウィキペディアより)。古い時代だからそうかもしれないと思っていました。ところが、『NHK 8K 国宝へようこそ 洛中洛外図屛風』NHK出版 (2021/10/30)を見ていたら、どう見ても裸足のようです。裏書きでは、上杉本といわれるもので、作者は狩野永徳(1543~1590)、制作年は室町~桃山時代、1565年(永禄8)頃となっています。絵の部分的な解説で

・・・描かれている人たちは、みな、はだし。一説には、草履を描く姿が省略されているのではないか、という見方もあるようですが、そうとは言えないような気もします。実際、みな、はだしだったのではないか。

私もそうかもしれないと思います。草鞋または鞋(わらじ)であれば、ひもの部分があるので、図では線であらわされると思います。
わらじの図 

『洛中洛外図屏風(舟木本)』というのが、e国宝で見ることができます。 国立文化財機構所蔵 国宝・重要文化財 洛中洛外図屏風(舟木本)

草履のようなものを皆が履いています。

景観の情況から元和初年(1615)頃の作とされている。

急激に履き物が普及したのかもしれません。

上杉本の図では、目につきにくい履き物の可能性もあるかもしれません。足半(あしなか)とよばれる半分のサイズのものもあるようです。鎌倉・室町時代の武士階級が大いに利用とのことです。しかしこれでも厚みがあり見えると思います。
足半(あしなか) 

e国宝に『一遍上人伝絵巻 巻第七』があったので、こちらを見ると、何かしら履いている人と履いていない人のかき分けがあるようです。履いている人が多いようですが、乞食風の人は素足で、そうでなさそうな人にもはだしの人がいるように見えます。この図だけで判断するのは難しいですが。
『一遍上人伝絵巻 巻第七』 

鎌倉時代・正安元年(1299)

とあります。履いている人と履いていない人が混在していたことも考えられます。

しかし、根本的には

『100年前の写真で見る 世界の民族衣装』日経ナショナルジオグラフィック社 (2013/7/29)

の本では、気候が温暖そうなところでは、裸足の人が多く出てきています。百年前のことですが、多様な世界があったということです。現在からでは想像がつかないこともあると思いました。室町時代でははだしの人がいておかしくはないと思いました。

話が飛びますが、殿上人という、天皇の日常生活の場である清涼殿の殿上間に昇ること(昇殿)を許された者をあらわす言葉があります。想像ですが、これも元々は裸足で昇殿することを禁じたことから、履き物の有無がら階層化したのかとも思えてきます。ゴイサギ(五位鷺)とかも、人間とかに限らず、動物とかにも適用されてるのも関係あるのかもしれません。
殿上人


2022年1月6日木曜日

満洲の地図

 満州のことを知りませんでしたが、『南滿洲鐵道旅行案内』大正六年一月十八日発行、南満州鐵道株式會社がありました。古いガイドブックですが、行きたくなります。 国立国会図書館デジタルアーカイブ

『南滿洲鐵道旅行案内』
書誌ID(国立国会図書館オンラインへのリンク) 000008035268

大連駅P.7から 地図は29-34/192
長春駅P.103から地図は114-115/192
の地図を以下に示します。

大連付近図 


長春市街図



長春市(ちょうしゅん-し/チャンチュン-し、中国語: 长春市、拼音: Chángchūn、英語: Changchun)は、中華人民共和国吉林省に位置する副省級市で同省の省都。総人口約749万人(2017年)。吉林省政府が所在し、省内の政治、経済、文化の中心地となっている。1932年から1945年までは満洲国の首都とされ、新京と呼ばれた。 市内には長春第一自動車製造工場と長春映画製作所が所在し、中国における自動車工業と映画製作の拠点となっている。住民は漢族、満族、朝鮮族、回族、モンゴル族、シベ族など38の民族から構成される。(ウィキペディア「長春市」より)

長春を新京という名前に変えたのは、いかにも満州国は日本のものだという感覚の地名ですが、整然とした都市計画の町に驚きました。円形の広場を直線の道路でつなく形に当時の最先端を目指している気迫があります。日本が満州から撤退するというのは無理な状態であったと感じてしまいます。この地図を見てると、白村江の戦いでもやはり朝鮮半島に、撤退できないほどの権益があっって起こるべくして起こったのかもしれないと、あらためて思われます。

2022年1月4日火曜日

銅鼓の鳥

 銅鼓に鳥の紋様がメインで出てきます。どうしてかわかりませんでしたが、古い時代の水田稲作の風景があったのかもしれません。

NHK Eテレ・東京 1月1日(土) 06:05〜06:25で、舞楽が放送されていました。

古来より宮廷で育成され、1400年の歴史を誇り日本の芸能の原点とも言える舞楽。その伝統を今に守り伝える宮内庁式部職楽部の出演で、新春にふさわしい悠久の時の流れを感じる雅(みやび)な音楽と、あでやかな舞を堪能する。舞楽は左方の舞(おもに中国から伝わったもの)と右方の舞(おもに朝鮮半島から伝わったもの)に大別される。今回は左方の舞「承和楽」(しょうわらく)、右方の舞「新靺鞨」(しんまか)をお送りする。 https://tver.jp/episode/94213786

「承和楽」の方ですが、紅い衣装でかぶり物が鳥のようでした。イメージとして鳥の「トキ」の舞のように見えました。古い時代には、「トキ」が水田に関係していて、これが舞に、五穀豊穣のシンボル的な意味を持って取り入れられたと思えます。個人的な感想です。タイトルの「承和」は平安時代の年号で古代とはいえないので銅鼓と直接の結びつきはありませんが、一瞬これはと思いました。以下の説明があるので鳥と感じても良さそうです。

舞楽では、目も覚めるような明るい色・柄の装束に、鶏のとさかのような被り物である「鳥甲(とりかぶと)」、足首で紐を結んで着用するスニーカーのような履物「絲鞋(しかい)」など、いわゆる「和服」とは全く違うデザインのものが使用されるほか、高い鼻に大きな目など外国人の顔の特徴を強調した面も登場します。 https://www.nhk.jp/p/nippongeinou/ts/5K1GW1XVN4/blog/bl/pNAbVv6VMl/bp/pPljdb4nrL/

銅鼓の鳥も「トキ」のような鳥に思えます。銅鼓では鳥がメインのようにありますが、銅鐸では皆無ではないようですが、それほどではないようです。 農耕祭祀儀礼にくちばしの長い鳥が出てきてもおかしくはないとはいえると思います。

「トキ」と水田 

追記:銅鼓の鳥のタイトルで、鳥の図がありませんでした。『ベトナム銅鼓図録』六興出版 (1990/4/10) A-1-1の部分図です。 下の方のくちばしの長い飛んでいる鳥が円周上に配置されています。その上に鹿、多分祭祀儀礼の様子が表されているようです。


追記2:NHKの放送の「承和楽」ですが、見直したら、くちばしのついた被り物ではありませんでした。しかし、緑色の絨毯の上で舞っています。稲穂がみのる前の田んぼのイメージがあるように思えなくもありません。

2022年1月1日土曜日

銅鼓と銅鐸の紋様

 『歴史発掘⑧祭りのカネ銅鐸』佐原 真、講談社 (1996/7/29) に銅鐸の写真が多く掲載されています。 のこぎりの歯のようなギザギザ紋様が出てきます。これは銅鼓でもあります。似ているのも偶然のようにも思えます。しかし、上記の本で53ページに[紋様の方が絵よりも大切]として、

銅鐸は、これまでにおよそ四三〇個みつかっています。そのうち、絵のある銅鐸は五〇個ほどですから、一〇個の銅鐸のうち、絵のある銅鐸は一個強にすぎません。銅鐸に絵を描くことが、それほど大切では無いからでしょう。絶対多数の銅鐸には紋様があります。しかも、それには重要な事実があるのです。  鋳造が失敗し、紋様が見えない場合、鉄の刃物で紋様の線を補っているのです(図87)。一方、鋳造がうまくいかず、絵が見えなくても補刻しません。途中で絵が消えていても、そのままなのです。この違いもまた、弥生人にとっては、銅鐸の紋様こそが大切で、絵はそう大切ではなかったことを示しています。

このあと、紋様については意味がわからないが、絵は理解できるので私たちにとっては重要という話に展開します。しかし、紋様の意味はわかりませんが重要であるということは、銅鼓で重要と思われていたのが銅鐸にもあるということは、農耕祭祀の考えも中国から日本に伝わったということになります。 銅鐸には、連続渦巻き紋という蚊取り線香をつないだ紋様がありますが、この基本形の円を接線でつないだ形が銅鼓にあります。見にくいですが、

銅鼓と古墳壁画の下の図です。 

特徴的な紋様で似ていると思います。 しかし銅鐸にはある流水紋と呼ばれる線の折り返しのようなものはありません。銅鼓には、櫛を使うという発想がなく、日本で新しく生まれた紋様かもしれません。

銅鼓と銅鐸というのも書いてます。