天武紀には朱鳥元年九月九日、天武天皇の崩御、二十四日に大津皇子の皇太子に謀反を起こす事件が書かれています。 一方、持統天皇称制前紀では、
朱鳥元年九月の戊戌朔の丙午(九日)に、天武天皇が崩御された。皇后は臨時に政務をお執りになった。 冬十月の戊辰朔の己巳(二日)に皇太子の謀反が発覚した。皇子大津を逮捕し、併せて皇子大津に欺かれた・・・ら三十人余りを捕らえた。庚午(三日)に、皇子大津は長田の訳語田(おさだ)の家で死を賜った。時に年二十四であった。・・・
この大津皇子の謀反事件ですが、日にちが微妙に違います。大したことはないのかもしれません。持統天皇の方では、大津皇子は犯罪人であるのに、少し褒めすぎのような記述になっています。また、捕らえられた人たちも軽い処分になっています。何らかの圧力があったように思われます。このあと、持統天皇は喪に服して、政務的な話は不明です。その後は、持統三年正月・八月に吉野行幸の話。その間の四月に皇太子草壁皇子尊が薨去。視察などの行事が目につきました。持統天皇四年にようやく即位の記事が出現します。 『日本書紀』の記述では、平穏に過ぎて行くように表されていますが、そうでは無かったのではとの推測です。その根拠は、雄略天皇の記述にあります。天武天皇のイメージがあるとの信念で見ないといけないのですが、頭が回ってませんでした。天武紀で最後の様子はわかりませんが、雄略天皇のところでは想像をまじえて具体的に描かれています。
天武亡き後、邪悪な星川王が継げば害が及ぶあろうが、立派な皇太子が志を継いでくれるであろう
と最後の言葉で雄略天皇は述べています。
天皇崩御の今が時期だとして、征新羅将軍に付き従った蝦夷が吉備の国で、周辺の郡を侵攻し、これを防いだ
とあります。騒乱的なことが起こったようなことが書いてあります。次の天皇である清寧天皇(イメージは大津皇子)の代で、
吉備稚媛(きびのわかひめ)は、ひそかに幼子の星川皇子に語って、「天位に登ろうと思うなら、まず大蔵の官を取りなさい」と言った。長子の磐城皇子は、母の夫人(おおとじ)がその幼子に教えた言葉を聞いて、「皇太子は我が弟とはいえ、どうして欺いてよいものか。欺いてはならない」と言った。星川皇子は聞き入れず、母の夫人の意に従って、ついに大蔵の宮を取り、外門を閉鎖して難局に備え、権勢を意のままにして、官物を費した。そこで、大伴室屋大連は、・・・(雄略天皇の遺詔の通りだとして)・・・軍兵を起こして大蔵を囲み、外から封じ込めて、火を放って焼き殺した。・・・ この月に、吉備上道臣らは、朝廷で乱が起きたことを聞いて、吉備稚媛の生んだ星川皇子を救おうと思い、軍船四十艘率いて、やってきて海に浮んだ。しかし焼き殺されたと聞いて海路を引き返した。天皇は使者を遣って、上道臣らを詰責して、その所領の山部を奪われた。
とあります。吉備国がやたら出てきて、これがどこまで本当かはわかりませんが、星川皇子は吉備の勢力と結びついていて、反乱になりそうであったということです。軍船四十艘まではわかりませんが、軍事的圧力で大津皇子関係者の処分が緩められ、大津皇子も名誉回復が行なわれたということです。天武天皇の子は実際は各地の勢力の娘が妃になっていて、政略結婚的なイメージをもちます。『書紀』では一括して天智天皇の皇女としていますが、そうではないだろうと思います。大田姫皇女の子の大伯姫皇女は備前で生まれており、大津皇子は九州の那大津で誕生(とあるが出処不明)なので、大田姫皇女は吉備と関係あると考えれば、雄略紀の吉備が頻出する創作になったのかと思います。ついでになりますが、草壁皇子の死もその原因が良くわからず、政争に巻き込まれたことが考えられます。天武天皇がキーパーソン過ぎて、その後継者は多くいたが、決定的な人物がおらず、混乱を生じ、妥協の産物として持統天皇が四年目にして即位となったような気がしてきました。『日本書紀』史観では、万世一系の天皇を主張するので、皇位継承の混乱を隠しているように思います。この混乱のから、律令政治を目標とすることになったと考えるとスッキリしてきます。
『日本書紀①』、新編日本古典文学全集2,一九九四年四月
『日本書紀③』、新編日本古典文学全集4,一九九九年三月
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