2021年3月21日日曜日

酒船石とカナート

 ウィキペディでは

酒船石遺跡(さかふねいしいせき)は、奈良県明日香村岡にある、いくつかの石造物からなる遺跡。

ですが、以前から知られている酒船石のほうです。昔は何だかわかりませんでしたが、カナートを知ってこれだと思いました。もちろん、いろいろが説があり、その中に導水設備説があるようです。もっとはっきりとカナートのモデルというべきだと思いました。写真では分かりづらく、配置がわかる平面的図がありました。

石と水の都、面影が凝縮 「謎」の遺物 酒船石

 図の丸い部分が竪坑、筋の部分が横坑、方形の部分は貯水池と考えられます。カナートの配置図を示しています。記事では、傾斜の関係で池の部分は用をなさないとありますが、粘土とかでふさげば良いだけで大した問題にはならないと思われます。これは実際のカナートを地上から見ていても(写真で見てるだけですが)わかりません。おそらく実際のミニモデルで示さないと、画期的な技術は素人には理解できないので、モデルを作ったのではと思われます。

農林計画第55号、三野徹氏の基調講演 「現代科学から見た古代飛鳥京の水利基盤」のおわりに

地下水の利用に関しては、中東の乾燥地域を中心にきわめて古い時代からその利用技術が蓄積されてきている。シルクロードを経て中国に伝わり、さらに留学僧や大陸から移動してきたと見られる多量の技術者によって、わが国にその影響が伝わったことを想像することは難くない。正倉院の宝物が、西の古代文明の東にたどり着いた有形の物証であるならば、畿内に多く見られる古いため池や多くの地下水利用構造物は中近東の古代文明の影響を受けた技術と見るのは、言い過ぎであろうか。・・・

 サーサーン朝ペルシアの人たちは、復興を考えて日本に逃れてきたと思います。つまり、ペルシアに戻った場合に、インフラ整備をやり直す覚悟を持って技術者を引き連れていたと思います。その技術で多分、当時の劣悪な環境にあった飛鳥を水の都にしたと思います。おそらく百済からやってきた人と故郷に戻る意識は共通で結びついたと想像します。この辺は妄想になってきますが、天武天皇の飛鳥時代は、実際にあったことで、『日本書紀』の古い部分はフィクションだろうと思います。この後も、ペルシアの道路網建設の知識を用いて条里制や街道の整備で、日本を統一していったと考えるとスッキリしてきます。

イスラムから追われるように、宝物と技術を持ってサーサーン朝の人達が日本へやってきた。そのリーダーが天武天皇だったということです。

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