『日本書紀①』、新日本古典文学全集2、小学館、一九九四年四月 の孝霊天皇のところを見ています。誰それの祖である記事が多いです。次の孝元天皇も同様に誰かの祖である記事が多いです。次の開化天皇もこれが続きます。誰かの祖であることを示すためだけの天皇に思えてきます。『日本書紀』はオールジャパンを示すために祖先は同一であると示したいようです。第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8人の天皇は欠史八代(けっしはちだい)と言われますが(この部分ウィキペディア(以下ウィキ)を見ました)、この時代だけでなく、その後も血縁関係は適当に示しているように思われて来ました。天智天皇と天武天皇は兄弟ではないと考えるべきですが、その後の話に大田皇女は本当に天智天皇の皇女なのかと思います。天武天皇との子に大来皇女、大津皇子がいます。 大来皇女(おおくのひめみこ)ですが、ウィキでは、
天武天皇の皇女。大伯皇女とも書く。母は天智天皇皇女の大田皇女(持統天皇の同母姉にあたる)で、同母弟に大津皇子がいる。伊勢斎宮。
とあります。斎宮ですが、これもウィキでは
斎宮(さいぐう/さいくう[1]/いつきのみや/いわいのみや)は、古代から南北朝時代にかけて、伊勢神宮に奉仕した斎王の御所(現在の斎宮跡)であるが、・・・
です。またウィキですが、伊勢神宮の神話と創祀に
崇神天皇6年、疫病を鎮めるべく、従来宮中に祀られていた天照大御神と倭大国魂神(大和大国魂神)を皇居の外に移した。
この倭大国魂神をウィキで見ると
『日本書紀』のみに登場し、他に日本大国魂神とも表記する。大和神社(奈良県天理市)の祭神として有名。
『日本書紀』の崇神天皇6年の条に登場する。宮中に天照大神と倭大国魂の二神を祭っていたが、天皇は二神の神威の強さを畏れ、宮の外で祀ることにした。天照大神は豊鍬入姫命に託して大和の笠縫邑に祭った。倭大国魂は渟名城入姫命に預けて祭らせたが、髪が落ち、体が痩せて祀ることができなかった。 その後、大物主神を祭ることになる件が書かれている。
このあとに、
同年8月7日、倭迹迹日百襲姫命・大水口宿禰・伊勢麻績君の夢の中に大物主神が現れ、「大田田根子命を大物主神を祀る祭主とし、倭国造の市磯長尾市(いちしのながおち)を倭大国魂神を祀る祭主とすれば、天下は平らぐ」と言った。同年11月13日、大田田根子を大物主神を祀る祭主に、長尾市を大国魂神を祀る祭主にした。
とやっと、「大田」が出てきます。この大田田根子が大田皇女につながると考えます。大田皇女の子の大来皇女は伊勢斎宮ですが、天武天皇亡き後に解任されています。このあたりがどうだかという話ですが、大田田根子が大田皇女のイメージで『日本書紀』では語られ、大田皇女も斎宮的な人であったことが考えられます。伊勢神宮の変質も持統天皇即位とともにあった可能性があります。天武天皇周りの近親結婚は、『日本書紀』史観によるもので、実際どうだかという気がしてきました。大田田根子の話からは、大田皇女と鸕野讃良皇女(持統天皇)も姉妹にこだわる必要はないかもしれません。
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