2020年7月28日火曜日

感染症と古建築


最近は、新型コロナウイルスのことが頭にいつもあります。今まで、感染症のことを考えていませんでしたが、昔の人はそうではなく、毎日の生活の中でいつも注意をしていたのではと思うようになりました。日本の建築にも、感染症を恐れて、換気を重視してきたのではないかということが気になってきました。

例ですが、東本願寺の御影堂の配置を示します。
 

江戸時代の様式をもつものです。図の外陣に門徒が入ります。上方が宗教的な対象物があります。この外陣にmax3000人が収容されます(記憶違いで西本願寺でした)。この外陣の換気対策です。外陣には三方が広縁です。わかりにくいので、次の図の柱の配置をみます。


 
小さな黒丸が柱で、屋根などの荷重を支えます。外陣内部は柱がむき出しであり、広縁側には戸があって、広縁側は三面が開放することができます。図の青の3本の直線部分に外陣の開口部があります。換気に対してベストといえます。木造ではなく、レンガではこのような解放空間を作りにくそうに思います。まだ思い込みのレベルですが、日本の住居では、感染症対策の話は聞いておらず、意識してないように見えるのですが、開口部が多かった気がしています。

平等院鳳凰堂で、なぜ建物の両翼が中堂と繋がっていないのかという問題を思い出しました。
以下が平面図です。
単なる飾りとのことですが、そうだろうかと思っていました。両翼は隔離された区間であるということです。
この建築のもとになったのが寝殿造りと思います。
平面図を見ると池に面して東釣殿と西釣殿があります。中央部の建物から離れた位置にあります。これが鳳凰堂の両翼のイメージになります。釣殿は「離れ」的なイメージです。この場所が、感染症の疑いのある人の隔離部屋の気がしました。現在のコロナウイルスに感染した人がホテルに入り隔離されるように釣殿が隔離される部屋です。私は釣りに興味がないので、こんなところで釣りをして何が面白いのかと思いますが、隔離された人が暇つぶしに書物を読んだりしても、いつもいつもではたまりません。気晴らしに釣りをするなどあり、名前になったのではと想像します。このような隔離部屋を持つことは、当時の貴族のステータスシンボルになっていたかもしれません。寝殿造りが形式化し、それが平等院の両翼になったということです。両翼が部屋としての機能を持つ必要はありません。つまり元の寝殿造りに感染症対策の考えが反映されていたことがあったとすれば鳳凰堂もその痕跡を残していることになります。歴史を考えるときに、感染症のことを常に意識する必要があるかもしれません。
(天然痘に罹った藤原四兄弟も釣殿のようなところに常駐していたかもしれません。)

図の引用は下記からです。
東本願寺の図は
https://ameblo.jp/2214612/entry-12004446814.html
平等院は
http://www011.upp.so-net.ne.jp/kentikushi/butudo4.html
寝殿造りは
https://yahoo.jp/o9pz47

2020年7月26日日曜日

英語の語順から思うこと

なぜSVOの語順なのか?
引用元:なぜ英語はSVOの語順なのか?(前編)(後編)
にあります。
古い時代の英語では、格変化を示す語尾の変化がアクセントの弱い部分にあり、格変化がわかりにくくなり、語順に頼ることで主格と目的格を区別するようになった。その時に、SVOかSOVがあるが、SVOが主流であったとのことです。
私には、格変化がない場合に、SOVの形式が成立しにくい気がします。
今でも英語ではI-my-me-mineとか残っています。「I you love.」のような文章があったとき、「I love you.」のことかもしれないと想像できます。「Me you love」でも「You love me」と理解できそうな気がします。単数の場合は良いのですが、「A B C D love.」といった文章の場合「A B C love D」、「A B love C D」のどちらかというのがわかりません。andを使用すれば良いのですが、「A B love C D.」の方がはるかにわかりやすく表現できます。SとOが連なっていると区別が付きにくくなり、区別するためにはandを入れれば良いのですが、聞き取りにくければ、誤解が生じます。コミュニケーションをきちんとするにはSVOにならざるをえないような気がします。最初はわからなくても、時間をかけて段々と最適化されたのではということです。ドイツ語では文の二番目に動詞が来ます。格変化が弱くなればOVSは考えにくいのでSVOに確定するはずです。
元々の言語はSOVであって、格変化がなくなればSVOになっていくこと法則が考えられます。
英語の格変化の弱体化は、SVOの語順の後半にWhyで説明があります。
英文法の変化がイングランド北部で起こったのはバイキングが8世紀後半以降侵攻し、9世紀後半以降イングランド北部に定住したことがあるということです。ややこしい格変化を捨て、語順を固定化しなければならなかった。古英語話者と古ノルド語話者によって変化し、英語全体に広まったということです。
これは、中国語でも同じことが考えられそうに思います。中国語にも格変化がありません。つまり語順が大事になります。SOVを捨て、SVOになったことが考えられます。
中国の周辺国で、日本語・朝鮮語・モンゴル語など語順が似た国が多いです。つまりもともとアジアではどこもSOVであったのが、中国とその近辺が突然変異的にSVOになったのではと思います。中国語が特別で周辺の地域の言語は古い時代を残していると思います。
人類の歴史では、アフリカで生まれ、中東に渡り、さらに東に向かいモンゴロイドとなり、西に向かったのがコーカソイド。バイカル湖付近に至った北方モンゴロイドは寒冷地の季候に順応して短足胴長鼻ペチャの特等を持つようになったといわれています。1万年以上昔の話です。アジアに北方モンゴロイドの人たちが祖語的な言語と共に広まったと考えれば、大野晋氏の日本語タミル語起源説も、時代をさかのぼればありうる話です。直接日本にやってきたと考えにくいですが、共通祖語から分かれたとすればありえます。
あと、日本語で語順というのはかなり強固な感じがします。単語とかはどんどん輸入されたものが広がります。しかし、昔から中国から漢文が入り、今も英語が入ってきていますが、語順については、受け付けていないような気がします。ほかの中国周辺の地域も同様で、強固なSVOが残っていると思います。
参考:図がこちらにあります。今となってはちょっとあやしいですが。

2020年7月21日火曜日

道切りと感染症

道切りですが、村(地域)の出入り口にあたる道や辻で行われる民俗習慣のひとつ。疫病などの災厄が村に入ることを防ぎための習俗。辻切り(つじぎり)とも称される。とのことです。
最近まで各地にあった習俗のようです。何をしてるのか良くわかりませんでしたが、今思えば、感染症を災いとして危機意識を持っていて、現在の国境か県境かで封鎖するイメージのものであったんだということです。いつからか不明ですが、現在では、感染症の恐れを忘れてしまっていて、長い歴史の中で、人々は常に感染症の恐れを持っていたはずですが、医学の進歩とかを過大評価してしまい、これが抜け落ちた気がしてきました。律令体制の崩壊から戦国時代の後の統一まで感染症の克服が出来なかったことがあったのかもしれません。遣唐使の廃止とか江戸時代の鎖国とか、感染症対策であったという話を聞いたことがなかったのですが、ありうるのではと思ってきました。
今は店に入るときに、入口で手の消毒をします。これも神社とかに手水舎があって浄めるのと同じような気がします。神社とかは奈良時代前後から形式が整えられてきているはずで天然痘とかの対策になっていたことが考えられます。方違え(かたたがえ、かたちがえ)とかも、外出や造作、宮中の政、戦の開始などの際、その方角の吉凶を占い、その方角が悪いといったん別の方向に出かけ、目的地の方角が悪い方角にならないようにした。とのことで、外国から入獄した場合にホテルとかで二週間ほど様子を見るというのと似ています。昔はおかしな事をしているなと思ってましたが、合理性のある行動であったかもしれません。

2020年7月11日土曜日

北国の春 ミャオ語

どうして現れたのかわかりませんが、YouTubeで出てきました。
まったく違和感がありません。古い時代の先祖が日本人と同じような気がしてきます。
感覚的なものですが。
北国の春 ミャオ語
中国の少数民族版とのことです。ミャオ語の歌のようです。歌っている人が上手なのか
歌詞が良いのかわかりませんが、まったく違和感を感じません。
文字化された言葉では通じなくても、実際に話されている言葉では通じそうな気が
あらためてしてきます。
他にもありましたが、ミャオ語が一番しっくりします。

北国の春(チベット語)
<北国の春>のモンゴル語版

2020年7月7日火曜日

賀茂斎院跡(櫟谷七野神社)


「いちいだにななのじんじゃ」と読みます。
葵祭の斎王(代)行列発祥の地で、この地は平安時代から鎌倉時代にかけて賀茂社に奉仕する斎内親王、即ち斎王が身を清めて住まわれた御所(斎院)のあった場所であり、このあたりが紫野と呼ばれていたため、『紫野斎院」とも称された。とホームページにあります。






 
 
都名所図会の七野社では鳥居が木造のようで、現在は石造になっていて場所も図の右手に移動していますが、本社の前の石の階段とかはそのままのようです。
 
都名所図会では、上加茂社・下加茂社ともに天武天皇白鳳5年の造営とあって、時代的には加茂と天武天皇の結びつきを示しているようです。しかも、地図で見ると、賀茂斎院跡と下鴨神社が東西に位置し、京都盆地の中で良い場所にあるように思います。賀茂川に沿っては出雲の地名が残っており、出雲の影響を強く感じます。
賀茂祭(葵祭:あおいまつり、正式には賀茂祭)という賀茂氏と朝廷の行事では、賀茂祭の翌日、斎王 (いつきのみこ) が上社から紫野の斎院に帰ること・またはその行列を【祭の帰さ】というらしく、これも見物の対象であったとあります。地図で位置関係がわかると思います。