「いちいだにななのじんじゃ」と読みます。
葵祭の斎王(代)行列発祥の地で、この地は平安時代から鎌倉時代にかけて賀茂社に奉仕する斎内親王、即ち斎王が身を清めて住まわれた御所(斎院)のあった場所であり、このあたりが紫野と呼ばれていたため、『紫野斎院」とも称された。とホームページにあります。
都名所図会の七野社では鳥居が木造のようで、現在は石造になっていて場所も図の右手に移動していますが、本社の前の石の階段とかはそのままのようです。
都名所図会では、上加茂社・下加茂社ともに天武天皇白鳳5年の造営とあって、時代的には加茂と天武天皇の結びつきを示しているようです。しかも、地図で見ると、賀茂斎院跡と下鴨神社が東西に位置し、京都盆地の中で良い場所にあるように思います。賀茂川に沿っては出雲の地名が残っており、出雲の影響を強く感じます。
賀茂祭(葵祭:あおいまつり、正式には賀茂祭)という賀茂氏と朝廷の行事では、賀茂祭の翌日、斎王 (いつきのみこ) が上社から紫野の斎院に帰ること・またはその行列を【祭の帰さ】というらしく、これも見物の対象であったとあります。地図で位置関係がわかると思います。
賀茂祭(葵祭:あおいまつり、正式には賀茂祭)という賀茂氏と朝廷の行事では、賀茂祭の翌日、斎王 (いつきのみこ) が上社から紫野の斎院に帰ること・またはその行列を【祭の帰さ】というらしく、これも見物の対象であったとあります。地図で位置関係がわかると思います。
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