2021年5月30日日曜日

SIR感染症モデル

 コロナウイルスについていろいろな感染症モデルがあるようです。以前から言語伝搬モデルに似てるかもと思ってました。一番単純とされるSIRモデルについてですが、

『パンデミックを阻止せよ!』、浦島充佳、DOJIN選書084、株式会社化学同人
という本をまねしてやってみました。

まずS:Susceptibleで免疫を持たず感染発症する可能性のある人
I:Infectiousで感染性を有する人、次の段階でRになる。
R:Resistantで感染から回復し免疫を持つ。再度感染しない人。
単純化しているので、いろいろな仮定があります。

初期状態はS=N(全体人数)で1000人とします。感染者I=1、回復した人R=0です。
感染はIとRの接触で起こり、I*Rに比例すると考えます。たとえばS=3で、I=2ならば接触回数は3*2=6となり回数に比例して感染すると考えています(と思う)。勘違いしてるかもしれませんので信用しないでください。

本では微分方程式で表されていますが、要はSは感染者が出た分減り、感染者は次の段階で、Rに変化し、どんどん増えていくというモデルです。どれだけ感染者が出るかは、その一つ前の段階のSとRによります。

サンプルの計算では、その人数Iは、keisuu*S*R/1000です。keisuuは本では1.8でしたが、2.0に変えてみました。この分がSから減っていきます。

後のS=前のSー前のI、後のI=前の段階のSとRで計算、後のR=前のR+前のI

これで作ったエクセルの表を示します。縦に時間の経緯を示します。


これをグラフにしました。横軸が時間の経過です。


全員が感染するかと、最初予想しましたが、そうではなく、Sの人数は一定の値から減らず、130人ぐらいの下限があります。つまりこの段階で集団免疫を持ったということだろうと思います。これは感染していない人も周りの免疫を持った人に守られ感染が抑えられたということを示しているようです(多分)。

言語伝搬のモデルにどうあてはまるかわかりませんが、いろいろ応用が利きそうなモデルには思います。流行語もある程度の広がりで落ち着くのかもとかこのモデルでいけるかもとか思います。高齢者でデジタル機器を使いこなせないので講習をするとかのニュースがありましたが、これなどもデジタル感染症に影響を受けない人がある程度存在するということなのかもしれません。


2021年5月27日木曜日

(雑記)ウイルスの増殖

 Windows10の電卓で数式のグラフが描けました。

 体内にウイルスが入ってきて増殖し、それに対して抗体などが働き駆逐する様子をグラフ化しました。もちろん事実に合ったものではありません。縦軸が体内のウイルス数、横軸が体内に入ってからの時間になります。単位はいい加減です。
 ウイルスが体内に入り、eˣ が増殖したウイルス数で、ウイルスに対して抗体が発生し、ウイルスを消しさります。それが、0.5e¹¹ˣです。この差が体内のウイルス数と考えます。グラフの青の曲線f₁(3つあるうちの真ん中の曲線)です。最初は体内でウイルスは増殖しますが、抗体の発生が追いついて体内のウイルスは減少し、ピークを乗り越えれば回復です。
 次に緑のf₂ですが、これはウイルスが最初f₁より1.1倍多く体内に入った場合です。体内でのウイルス数のピーク値は大きくなり、横軸は時間なので収まるのに長引いています。初期段階でウイルスが多量に入った場合は抗体がウイルスにてこずっていることを示しています。ピーク値が高いということは、ウイルスに対抗するために体温が上がったり、抗体を体内で運ぶための血流を増加するため、血圧があがったりの負担が増えるということを意味します。人間側でピークに耐えられないならば、そこで力尽きることにつながります。当たり前の結論ですが、ウイルスにはできるだけ軽微に感染すること、ピークに耐えうる体力を持つことだろうということです。
 追加ですが、f₃はウイルスに感染レベルがさらにアップしても、抗体がワクチンとかで効いてきた場合のイメージです。早めに回復できるということになります。




2021年5月22日土曜日

延喜式の神宮

 ブラタモリのちばらぎの特集で、

 鹿島神宮は、伊勢神宮、香取神宮と並び、平安時代の延喜式(法令)が定めた、全国に3つしかない神宮の1つです。ちばらきには、鹿島神宮、香取神宮の2つがそろいます。
とのことでした。

3か所を国土地理院のマップにとってみました。




 鹿島神宮・香取神宮は東北進出の拠点です。図の赤丸を見ると、半島をくるっと回ったところに位置します。伊勢神宮はその先が尾張(おわり=END)です。東北も奥州で、奥の地域(みちのく)です。第1段階、第2段階の東方向の進出を示しているようです。時間を戻して考えると、仮に九州の高千穂神社のポイントをとってみると似たように見えてきます。第0段階の神話的な状況を日本書紀で考えていたのかもしれません。八世紀前半の共通認識であったかもしれません。

2021年5月21日金曜日

神仏習合はあったのか

  神仏分離の前提として神仏習合があったということだと思います。 八坂神社のことを考えると、薬師如来の薬師堂を除いて疫神社とかをもってくるのは納得いきますが、疫病退散の午頭天王は主祭神で本殿です。今は素戔嗚尊が主祭神になってますが、無理があったように思います。明治に神仏分離を行うために、神仏習合をもちだしたのではという気がしてきました。

 神仏習合の歴史ですが

仏教は六世紀なかばまでに朝鮮半島から日本に伝来し、在来の神祇信仰(原始神道)との間で摩擦を生じさせながらも、日本各地に徐々に伝播していった。ところが奈良時代の八世紀になると、それまで対等的だった仏と神の間に異変が起こる。神社の境内やその近辺にあえて寺院が建立されるようになったのだ。このように、神社に併設されるようにして建てられた寺院を神宮寺、あるいは別当寺、宮寺などと呼ぶ。そして、伊勢神宮や出雲大社のような、現在では神道の一大聖地のように受け止められている著名な神社にまで神宮寺が設けられたのである。ーー理由が述べられているが省略ーー(『仏教破壊の日本史』古川順弘、株式会社宝島社、22ページ)

 日本では、仏教伝来は確かですが、そもそも神道があって、その後に仏教が入ってきて、蘇我・物部の神仏争いがあったことは確かなことではありません。大宝律令などでは神祇官の制度があり、神道を中心としようとしたのは確かであろうと思います。しかし八世紀中には、律令制に基づく「神仏が対等」であることは不可能になったということです。明治の王政復古では古代の律令制に戻そうとのことで、神仏分離を目指すため、神仏習合があったことにした明治時代の神道派の論理のように思います。大まかに言えば、神仏習合というより、仏教の土着化のようなもので、いろいろな神様と仏が合体して、限定的な神様ではなかったということです。神仏習合→神仏分離とはいえなくて、八坂神社の牛頭天王の話だけでなく、修験道とかも明治の神仏分離では無視したということで納得しました。

2021年5月20日木曜日

八坂神社の神仏分離

 八坂神社は神仏分離によって改名され、もともとは「祇園神社」「祇園社」「祇園感神院」などと呼ばれていたようです。本殿が2020年国宝に指定されました。「新美の巨人たち」 2021年5月15日(土)放送『祇園『八坂神社』×本仮屋ユイカ…初夏の古都・京の美(3)』が見ましたが、神仏分離のことについて出てきてないようでした。それで、ネットとかでどうであったのか探してみました。 八坂神社の現在の境内マップがあります。 

 図の本殿が国宝です。南側に舞殿、南楼門がほぼ一直線上にあります。仏教に関した建物とかは見当たりません。 都名所図会に江戸時代の図があります。

都名所図会での建物の説明図


現在のマップの疫神社、太田社かもう少し右の大国主社あたりが薬師堂です。

図を見ると薄青の直線で示していますが、現在と江戸時代の違いを図で見ると西楼門が南北方向にずれています。図がいい加減かと思いましたが、大正2年の四条通の拡幅に合わせて移動しているようです。名所図会はきちんとした図のように思われてきました。そうすると現在の本殿と薬師堂の屋根の形が似ているので、お寺も神社も似たような建物だったかもしれません。薬師堂の屋根は瓦のように思えるので、本殿を縮小したものとは違うとは思いますが。

図会にある大日塔(多宝塔か)は神仏分離前にすでに焼失していて神仏分離でなくなったのではないようです。

主祭神であった牛頭天王の立像が、今も預かっておられる家があるそうです。詳しいことは山城祇園社にまとめられています。ほかにも自分の参考にしたいと思うことがあります。ありがたいです。 

2021年5月11日火曜日

枚方市の山田神社の名前

 山田神社 (枚方市山之上)で、大阪府枚方市山之上にある神社です。名前の由来ですが、 ウィキペディアでは

弘安2年(1279年)2月8日、片埜神社から分霊を勧請し山之上神社と称した。明治6年(1873年)2月10日、田宮村の田宮神社の祭神であった素盞嗚尊を合祀。山之上村と田宮村の頭文字を取って山田神社と改称した。

とあります。平凡な名前と思いましたが、合わさってできた名前です。神社では名前が合体することがよくあるのかもしれません。 以前に 

藤 × ( 岡 + 本 ) = 藤岡 + 藤本 

といってましたが、神社が二つに分祀される場合に、このような名前の別れ方があった可能性があります。 元の岡本神社が、天下の藤原氏の藤を一字いただいて、藤岡神社と藤本神社に分かれ、これが人の名字につながったと考えれば不自然さはありません。 ブログのどこかに詳しくあると思いましたが、勝手に思い込んでいただけかもしれません。

第68回正倉院展 

名字:藤田のもと 

しかし、近くに山田神社 (枚方市田口)があります。ウィキペディアでは

創建年代は不詳であるが、延宝9年(1681年)4月の社寺改に『田口村氏神 天神社』とあり、江戸時代初期には存在している。天明6年(1786年)の社殿再建にあたり、奈良の春日社の社家・大中臣時春より春日社旧殿を譲り受けた。その社殿は現在は末社・春日社となっており、本殿と並んで建っている。明治5年(1872年)、同時の村名の山田村から取った現在名に改称、村内の字南山の春日社(天児屋根命)を合祀し、村社に列格した。明治42年(1909年)、神饌幣帛料供進神社に指定された。

両方の神社も山田にこだわっています。どうしてなのだろうかと思います。

2021年5月6日木曜日

虎塚古墳と阿蘇山噴火

 5月4日の「ミステリアス古墳スペシャル(3)」という番組で、虎塚古墳が取り上げられていました。 

壁画の文様が注目されていて、その元は有明海付近の古墳にあるとのことです。ヤマトの勢力の指示のもとに 九州からこの地にやってきた人が埋葬されたという話ですが、どうなんだろうと思いました。 有明地方の古墳で検索すると

白石太一郎 - 国立歴史民俗博物館学術情報リポジトリ

一方,全羅南道地域の前方後円墳にみられる倭系横穴式石 室は,北部九州でも有明海沿岸の肥前東南部や筑後地域の横穴式石室の影響により成立したもので あることは疑いない。また複数の彩色を施した本格的な装飾古墳が成立したのが有明海沿岸の肥後 の地であることも重要である。その成立に,朝鮮半島の古墳壁画からの何らか刺激を受けたことが 考えられるからである。熊本県菊水町の江田船山古墳の豪華な金銅製装身具類などの副葬品もま た,5世紀後半から6世紀前半のこの地域の人びとの活発な対朝鮮半島交渉を示すものである。

がありました。朝鮮半島からの有明海地域への影響について述べられていました。大元は朝鮮半島として、直接に朝鮮半島から茨城県にやってきたのではないと思いますが、なぜ、はるばる九州から茨城県までやってきたか、単なる命令で移動するのだろうかということです。それで思いつくことがあります。阿蘇山の噴火です。岡山県総社市西阿曽(吉備国)がありますが、この地は阿蘇山から逃れてきた人が住んだところと私は思ってます。虎塚古墳に埋葬された人物も同時期に噴火で逃れてきた人のように思われました。問題は阿蘇山の噴火がいつのころかということです。

阿蘇山 有史以降の火山活動 

日本書紀全文検索で見ると

十四年春正月甲子朔乙亥、百濟遣上部德率科野次酒・杆率禮塞敦等、乞軍兵。戊寅、百濟使人中部杆率木刕今敦・河內部阿斯比多等、罷歸。夏五月戊辰朔、河內國言「泉郡茅渟海中有梵音、震響若雷聲、光彩晃曜如日色。」天皇心異之、遣溝邊直此但曰直、不書名字、蓋是傳寫誤失矣入海求訪。

とあり、海中に梵音があったということのようです。よくわかりませんが、ありがたいことに、がありました。 

夏五月の戊辰の朔(05.01)に、河内國言す、「泉郡の茅渟海の中に、梵音す。震響雷の聲の若し。光彩しく晃り曜くこと日の色の如し」。天皇、心に異しびたまひて、溝邊直【此に但に直とのみ曰ひて、名字を書かざることは、蓋し是傳へ寫して誤り失へるか。】を遣して、海に入りて求訪めしむ。 是の時に、溝邊直、海に入りて、果して樟木の、海に浮びて玲瓏くを見つ。遂に取りて天皇に獻る。畫工に命して、佛像二躯を造らしめたまふ。今の吉野寺に、光を放ちます樟の像なり。

 阿蘇山噴火とは結びつきません。ネットでは欽明天皇の項では不要な記述のようにされていて、なかなか出てきませんでした。仏教伝来の記事とかに注目がいき、意味のない事件のように考えられているように見えます。日本書紀は対唐向けに書かれているので、推古天皇や聖徳太子の話はでたらめでも、遣隋使の年代とかは中国側とは合っています。書記編纂者は、中国側が阿蘇山の噴火を気にしていると考えて、整合性を持たすためにこの部分を入れ込んだ可能性があります。欽明天皇の実在は怪しくても、阿蘇山の噴火の年代の欽明天皇十四年(553)は正しいのではと思えてきます。そうすれば阿蘇山の噴火によって茨城県に避難してきた首長の墓が虎塚古墳との可能性がでてきます。強引なところがあって、噴火は六世紀後半に対し、虎塚古墳は七世紀前半で少し時間的にあいていて、埋葬された人が長生きでないと話が苦しいです。しかし、古墳が七世紀初めであればぴったりです。調査が厳密に進められ、妥当な話になってほしいと思います。

2021年5月5日水曜日

神仏分離

 神仏分離に対して勘違いしていました。以下の本の抜き書きです。 『仏像破壊の日本史』 仏像破壊の日本史 神仏分離と廃仏毀釈の闇 著者:古川順弘 株式会社:宝島社 2020年11月5日第一冊発行

裏面に

1867年(慶応3)の明治天皇の「王政復古の大号令」に伴い、新政府が行った神仏分離によって、巻き起こった廃仏毀釈から150年。 神社と寺院を分離する政策が、なぜ僧侶自らが率先して神職への転職を申し出て、本尊を斧で叩き割ったとされるほどの仏教攻撃、文化財破壊にエスカレートしたのか? その時神社仏閣では何が起こったのか。・・・

この本のはじめにでは、 明治維新で見落とされがちな重大事件として、神仏分離のことについて述べられています。  「神仏分離」は日本史上の一大宗教改革で、そもそも王政復古とは「神武天皇の時代に戻る」ということで、五箇条の御誓文とかは誰に誓うかといえば神様に誓うということです。 祭祀と政治が融合した 祭政一致の体制を目指しました。 それまでの神仏習合した時代を神仏分離の元の状態に戻すということになっていますが、本当にそうであろうかという気がしてきました。 もともと神道があったのかという気もします。神仏という字の順番からして神があって仏が出てきたことになっていますがそうだろうかということです。仏神集合ではなかったなかったのか。本では、神仏習合と言っても神と仏をぐちゃぐちゃに考えていたのではなくて、神仏習合の本質は、神は仏の化身である、 仏が神となって現れたという本地垂迹説です。「仏は神の本地(本体)であり、神は仏の足跡(迹)を垂れたもの」という意味だそうです。つまり、「神よりも仏の方が優位にある」という捉え方です。

このことは、現実の寺社の運営の在り方にもストレートに反映された。神宮寺や別当寺に所属して神社のために仏事を行った僧侶は車窓と呼ばれたが社僧と呼ばれたが、神仏習合下の神社はそうした社僧を中心に運営され、検校や別当などと呼ばれる社僧の長が大きな権力を握って神社を管理した。そして、神職は社僧よりも下位におかれ、概ね神社が寺院に従属する形を取った。  そんな神仏習合というゆがんだ信仰形態を見直し、原点に立ち返って、神と仏、神社と寺院、神道と仏教を明確に弁別し、両者に本来の姿を取り戻させよう。ーーそれが、明治維新で実施された「神仏分離」なのである。  明治以前には異なる世界があり、現在を古い時代にそのまま戻していけないということになります。  大神神社にあった、今は聖林寺にある国宝の十二面観音像が、神仏分離でうつされたことが有名ですが、軽く考えていました。 この本には色々な例があります。  石清水八幡宮では本社本殿に阿弥陀如来像が置かれていたとあります。本殿は寛永11年1634年に幕府の後援により修造されたものだが、内陣には本地仏として阿弥陀如来像が置かれ、さらに七社宮殿、藍染明王曼荼羅、行教影像、そして八幡大菩薩像として僧形御影(軸画)も暗示されていた。七社宮殿は、八幡大菩薩、神功皇后、姫大神など八幡宮に関連する七か神の本地仏の御影を中に納めた、大きめな厨子のようなものであったらしい。そして本社では、社僧たちによって勤行が行われていたのである。(70ページぐらいの所)  昔に訪れた石清水八幡宮は、草木に覆われているところがありましたが、今まで意識したことはありませんでした。これが廃仏毀釈によって堂宇が無くなった跡ということなのでしょう。石清水八幡宮の創建にあたって、宇佐八幡宮から勧請したのが奈良大安寺の僧、行教であったこととか気にしてませんでした。

明治維新まで太宰府天満宮の御神体は、道真の木像ではなくて道真自筆の法華経8巻で、左遷先の太宰府で道真が心血を注いで3年かけて書写したものと伝えられていた。 神仏分離によって法華経を御神体としているのはもってのほかということで焼き捨ててしまったということです。多分そうなのでしょう。  琵琶湖に浮かぶ竹生島には、竹生島弁財天社があった。しかし都久夫須麻神社というのがあるはずだということで、大津県庁の指示で、都久夫須麻神社と宝厳寺の二つに分かれたと書いてあります。  神仏分離と廃仏毀釈は著名な神社だけではなくて村落の鎮守氏神として庶民の素朴な信仰を集めてきた全国の小社・神祠の類も著しい変容を余儀なくされたとあります。神仏分離令を受けて「神社改め」が行われて、 記紀神話によって権威づけられる神々に改められていった 。(180ページあたり)

ほかにも例があげあげられていますが、神社の由緒も当てにならないということです。明治維新で始まった神道の国教化は頓挫しますが、影響は現在にも大きくて、注意しないと判断をあやまる可能性大です。というか大間違いしてるかもしれません。

2021年5月1日土曜日

鳥居

 安満遺跡は弥生集落の遺跡で、居住域とされる環濠の入り口に門柱が建てられています。 上に鳥がいる門柱は鳥居の原型という説ということかことからか、鳥が居ます。



 これが鳥居の語源になったということです。これを見て本当かもしれないと思いました。実際に鳥が居て、それに漢字を当てはめ、読みは日本の言葉、文字は漢字で作られたと考えられます。今は鳥居は神社の入り口になりますが、狛犬のような感じで、実際に鳥が居たのではと思います。門番的なイメージです。したがって雀が電線にとまっているのではなくて、鷹か鷲とかのような権威的な威圧させるものでないと意味がありません。 金鵄勲章(きんしくんしょう)という、かつて制定されていた日本の勲章の一つ。武功のあった陸海軍(陸軍・海軍)の軍人および軍属に与えられたものがあります。「金鵄」は、日本神話において、神武東征の際に、神武天皇の弓の弭にとまった黄金色のトビ(鵄)が光り輝き、長髄彦の軍兵の目を眩ませたという伝説に基づくものです(Wikipediaより)。

 この話から鷹狩を思います。徳川家康の鷹狩は有名で、軍事演習的な意味もあったようです。 神武天皇すなわち天武天皇ですが、当時も軍事的な意味をもっていたと想像されます。

『鷹狩りと王朝文学』 三保忠夫著 吉川弘文館、2018年3月10日第1刷発行 からの引用です。鷹狩とは何かということで借りてきました。この本の序の所で、

「鷹狩(放鷹)」とは、鷹を飼いならし、その習性を利用して野禽や小獣を捕獲する狩猟方法である。主たる対象は鳥類で、その成果は、あみや弓矢などの及ぶところではない。ユーラシア大陸、その他に行われていたとされ、これは東漸し、あるいは、南下して日本にも及んで及んだようである。我が国最初の正史である『日本書紀』(養老四年<720年>舎人親王ら編集)によれば、この技術は、 仁徳天皇の四三年、百済から伝えられたと言う。次がその条である。

日本書紀巻の十一は省略します。 参考:鷹狩りの始まり 

日本放鷹文化史上、重要な記録である。だが、窺うに、この記事に見る鷹狩りは、諸点において、すでに、かなり整った状況にあるようである。このままでは、これが日本における”当初”の状況であるとは認めにくい。外来の猟法であればなおのこと、もっと素朴な段階、あるいは、試行錯誤の段階などがあったはずである。「百済」「酒君」と言った国名・人名等も目立つ。「百済俗・・倶知」という言葉も問題である。日本書紀の編集の目的、編集資料などにも関わるが、ここには、天皇家ー「鷹狩」ー百済(酒君)の3点をつなぐ種々の問題が横たわっているようである。

 古い時代を述べているのではなくて、仁徳天皇=孝徳天皇として、このころに鷹狩が確立していたということのように思います。

『類聚国史』、巻三二、「帝王十二 天皇遊獵(猟か)」の条がある。見えるところは 

応神天皇22年9月、淡路島、    

履中天皇5年9月同じく淡路島、  

允恭天皇8年2月と14年9月これらは日根野と淡路島です。  

雄略天皇は多くて2年10月御馬瀬、四年2月葛城山、同じく四年8月河上小野、5年2月葛城山。 

続いて天智天皇7年5月5日蒲生野、8年5月山科野、 天武天皇10年10月広瀬野、12年10月倉梯、 聖武天皇天平12年11月は和遅野

となっています。猟の場所が軍事演習の場と考えれば、七世紀の政治状況を示しているようにも思えてきます。