2021年5月5日水曜日

神仏分離

 神仏分離に対して勘違いしていました。以下の本の抜き書きです。 『仏像破壊の日本史』 仏像破壊の日本史 神仏分離と廃仏毀釈の闇 著者:古川順弘 株式会社:宝島社 2020年11月5日第一冊発行

裏面に

1867年(慶応3)の明治天皇の「王政復古の大号令」に伴い、新政府が行った神仏分離によって、巻き起こった廃仏毀釈から150年。 神社と寺院を分離する政策が、なぜ僧侶自らが率先して神職への転職を申し出て、本尊を斧で叩き割ったとされるほどの仏教攻撃、文化財破壊にエスカレートしたのか? その時神社仏閣では何が起こったのか。・・・

この本のはじめにでは、 明治維新で見落とされがちな重大事件として、神仏分離のことについて述べられています。  「神仏分離」は日本史上の一大宗教改革で、そもそも王政復古とは「神武天皇の時代に戻る」ということで、五箇条の御誓文とかは誰に誓うかといえば神様に誓うということです。 祭祀と政治が融合した 祭政一致の体制を目指しました。 それまでの神仏習合した時代を神仏分離の元の状態に戻すということになっていますが、本当にそうであろうかという気がしてきました。 もともと神道があったのかという気もします。神仏という字の順番からして神があって仏が出てきたことになっていますがそうだろうかということです。仏神集合ではなかったなかったのか。本では、神仏習合と言っても神と仏をぐちゃぐちゃに考えていたのではなくて、神仏習合の本質は、神は仏の化身である、 仏が神となって現れたという本地垂迹説です。「仏は神の本地(本体)であり、神は仏の足跡(迹)を垂れたもの」という意味だそうです。つまり、「神よりも仏の方が優位にある」という捉え方です。

このことは、現実の寺社の運営の在り方にもストレートに反映された。神宮寺や別当寺に所属して神社のために仏事を行った僧侶は車窓と呼ばれたが社僧と呼ばれたが、神仏習合下の神社はそうした社僧を中心に運営され、検校や別当などと呼ばれる社僧の長が大きな権力を握って神社を管理した。そして、神職は社僧よりも下位におかれ、概ね神社が寺院に従属する形を取った。  そんな神仏習合というゆがんだ信仰形態を見直し、原点に立ち返って、神と仏、神社と寺院、神道と仏教を明確に弁別し、両者に本来の姿を取り戻させよう。ーーそれが、明治維新で実施された「神仏分離」なのである。  明治以前には異なる世界があり、現在を古い時代にそのまま戻していけないということになります。  大神神社にあった、今は聖林寺にある国宝の十二面観音像が、神仏分離でうつされたことが有名ですが、軽く考えていました。 この本には色々な例があります。  石清水八幡宮では本社本殿に阿弥陀如来像が置かれていたとあります。本殿は寛永11年1634年に幕府の後援により修造されたものだが、内陣には本地仏として阿弥陀如来像が置かれ、さらに七社宮殿、藍染明王曼荼羅、行教影像、そして八幡大菩薩像として僧形御影(軸画)も暗示されていた。七社宮殿は、八幡大菩薩、神功皇后、姫大神など八幡宮に関連する七か神の本地仏の御影を中に納めた、大きめな厨子のようなものであったらしい。そして本社では、社僧たちによって勤行が行われていたのである。(70ページぐらいの所)  昔に訪れた石清水八幡宮は、草木に覆われているところがありましたが、今まで意識したことはありませんでした。これが廃仏毀釈によって堂宇が無くなった跡ということなのでしょう。石清水八幡宮の創建にあたって、宇佐八幡宮から勧請したのが奈良大安寺の僧、行教であったこととか気にしてませんでした。

明治維新まで太宰府天満宮の御神体は、道真の木像ではなくて道真自筆の法華経8巻で、左遷先の太宰府で道真が心血を注いで3年かけて書写したものと伝えられていた。 神仏分離によって法華経を御神体としているのはもってのほかということで焼き捨ててしまったということです。多分そうなのでしょう。  琵琶湖に浮かぶ竹生島には、竹生島弁財天社があった。しかし都久夫須麻神社というのがあるはずだということで、大津県庁の指示で、都久夫須麻神社と宝厳寺の二つに分かれたと書いてあります。  神仏分離と廃仏毀釈は著名な神社だけではなくて村落の鎮守氏神として庶民の素朴な信仰を集めてきた全国の小社・神祠の類も著しい変容を余儀なくされたとあります。神仏分離令を受けて「神社改め」が行われて、 記紀神話によって権威づけられる神々に改められていった 。(180ページあたり)

ほかにも例があげあげられていますが、神社の由緒も当てにならないということです。明治維新で始まった神道の国教化は頓挫しますが、影響は現在にも大きくて、注意しないと判断をあやまる可能性大です。というか大間違いしてるかもしれません。

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