2021年5月1日土曜日

鳥居

 安満遺跡は弥生集落の遺跡で、居住域とされる環濠の入り口に門柱が建てられています。 上に鳥がいる門柱は鳥居の原型という説ということかことからか、鳥が居ます。



 これが鳥居の語源になったということです。これを見て本当かもしれないと思いました。実際に鳥が居て、それに漢字を当てはめ、読みは日本の言葉、文字は漢字で作られたと考えられます。今は鳥居は神社の入り口になりますが、狛犬のような感じで、実際に鳥が居たのではと思います。門番的なイメージです。したがって雀が電線にとまっているのではなくて、鷹か鷲とかのような権威的な威圧させるものでないと意味がありません。 金鵄勲章(きんしくんしょう)という、かつて制定されていた日本の勲章の一つ。武功のあった陸海軍(陸軍・海軍)の軍人および軍属に与えられたものがあります。「金鵄」は、日本神話において、神武東征の際に、神武天皇の弓の弭にとまった黄金色のトビ(鵄)が光り輝き、長髄彦の軍兵の目を眩ませたという伝説に基づくものです(Wikipediaより)。

 この話から鷹狩を思います。徳川家康の鷹狩は有名で、軍事演習的な意味もあったようです。 神武天皇すなわち天武天皇ですが、当時も軍事的な意味をもっていたと想像されます。

『鷹狩りと王朝文学』 三保忠夫著 吉川弘文館、2018年3月10日第1刷発行 からの引用です。鷹狩とは何かということで借りてきました。この本の序の所で、

「鷹狩(放鷹)」とは、鷹を飼いならし、その習性を利用して野禽や小獣を捕獲する狩猟方法である。主たる対象は鳥類で、その成果は、あみや弓矢などの及ぶところではない。ユーラシア大陸、その他に行われていたとされ、これは東漸し、あるいは、南下して日本にも及んで及んだようである。我が国最初の正史である『日本書紀』(養老四年<720年>舎人親王ら編集)によれば、この技術は、 仁徳天皇の四三年、百済から伝えられたと言う。次がその条である。

日本書紀巻の十一は省略します。 参考:鷹狩りの始まり 

日本放鷹文化史上、重要な記録である。だが、窺うに、この記事に見る鷹狩りは、諸点において、すでに、かなり整った状況にあるようである。このままでは、これが日本における”当初”の状況であるとは認めにくい。外来の猟法であればなおのこと、もっと素朴な段階、あるいは、試行錯誤の段階などがあったはずである。「百済」「酒君」と言った国名・人名等も目立つ。「百済俗・・倶知」という言葉も問題である。日本書紀の編集の目的、編集資料などにも関わるが、ここには、天皇家ー「鷹狩」ー百済(酒君)の3点をつなぐ種々の問題が横たわっているようである。

 古い時代を述べているのではなくて、仁徳天皇=孝徳天皇として、このころに鷹狩が確立していたということのように思います。

『類聚国史』、巻三二、「帝王十二 天皇遊獵(猟か)」の条がある。見えるところは 

応神天皇22年9月、淡路島、    

履中天皇5年9月同じく淡路島、  

允恭天皇8年2月と14年9月これらは日根野と淡路島です。  

雄略天皇は多くて2年10月御馬瀬、四年2月葛城山、同じく四年8月河上小野、5年2月葛城山。 

続いて天智天皇7年5月5日蒲生野、8年5月山科野、 天武天皇10年10月広瀬野、12年10月倉梯、 聖武天皇天平12年11月は和遅野

となっています。猟の場所が軍事演習の場と考えれば、七世紀の政治状況を示しているようにも思えてきます。

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