2021年5月6日木曜日

虎塚古墳と阿蘇山噴火

 5月4日の「ミステリアス古墳スペシャル(3)」という番組で、虎塚古墳が取り上げられていました。 

壁画の文様が注目されていて、その元は有明海付近の古墳にあるとのことです。ヤマトの勢力の指示のもとに 九州からこの地にやってきた人が埋葬されたという話ですが、どうなんだろうと思いました。 有明地方の古墳で検索すると

白石太一郎 - 国立歴史民俗博物館学術情報リポジトリ

一方,全羅南道地域の前方後円墳にみられる倭系横穴式石 室は,北部九州でも有明海沿岸の肥前東南部や筑後地域の横穴式石室の影響により成立したもので あることは疑いない。また複数の彩色を施した本格的な装飾古墳が成立したのが有明海沿岸の肥後 の地であることも重要である。その成立に,朝鮮半島の古墳壁画からの何らか刺激を受けたことが 考えられるからである。熊本県菊水町の江田船山古墳の豪華な金銅製装身具類などの副葬品もま た,5世紀後半から6世紀前半のこの地域の人びとの活発な対朝鮮半島交渉を示すものである。

がありました。朝鮮半島からの有明海地域への影響について述べられていました。大元は朝鮮半島として、直接に朝鮮半島から茨城県にやってきたのではないと思いますが、なぜ、はるばる九州から茨城県までやってきたか、単なる命令で移動するのだろうかということです。それで思いつくことがあります。阿蘇山の噴火です。岡山県総社市西阿曽(吉備国)がありますが、この地は阿蘇山から逃れてきた人が住んだところと私は思ってます。虎塚古墳に埋葬された人物も同時期に噴火で逃れてきた人のように思われました。問題は阿蘇山の噴火がいつのころかということです。

阿蘇山 有史以降の火山活動 

日本書紀全文検索で見ると

十四年春正月甲子朔乙亥、百濟遣上部德率科野次酒・杆率禮塞敦等、乞軍兵。戊寅、百濟使人中部杆率木刕今敦・河內部阿斯比多等、罷歸。夏五月戊辰朔、河內國言「泉郡茅渟海中有梵音、震響若雷聲、光彩晃曜如日色。」天皇心異之、遣溝邊直此但曰直、不書名字、蓋是傳寫誤失矣入海求訪。

とあり、海中に梵音があったということのようです。よくわかりませんが、ありがたいことに、がありました。 

夏五月の戊辰の朔(05.01)に、河内國言す、「泉郡の茅渟海の中に、梵音す。震響雷の聲の若し。光彩しく晃り曜くこと日の色の如し」。天皇、心に異しびたまひて、溝邊直【此に但に直とのみ曰ひて、名字を書かざることは、蓋し是傳へ寫して誤り失へるか。】を遣して、海に入りて求訪めしむ。 是の時に、溝邊直、海に入りて、果して樟木の、海に浮びて玲瓏くを見つ。遂に取りて天皇に獻る。畫工に命して、佛像二躯を造らしめたまふ。今の吉野寺に、光を放ちます樟の像なり。

 阿蘇山噴火とは結びつきません。ネットでは欽明天皇の項では不要な記述のようにされていて、なかなか出てきませんでした。仏教伝来の記事とかに注目がいき、意味のない事件のように考えられているように見えます。日本書紀は対唐向けに書かれているので、推古天皇や聖徳太子の話はでたらめでも、遣隋使の年代とかは中国側とは合っています。書記編纂者は、中国側が阿蘇山の噴火を気にしていると考えて、整合性を持たすためにこの部分を入れ込んだ可能性があります。欽明天皇の実在は怪しくても、阿蘇山の噴火の年代の欽明天皇十四年(553)は正しいのではと思えてきます。そうすれば阿蘇山の噴火によって茨城県に避難してきた首長の墓が虎塚古墳との可能性がでてきます。強引なところがあって、噴火は六世紀後半に対し、虎塚古墳は七世紀前半で少し時間的にあいていて、埋葬された人が長生きでないと話が苦しいです。しかし、古墳が七世紀初めであればぴったりです。調査が厳密に進められ、妥当な話になってほしいと思います。

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