2023年2月28日火曜日

七五調の起源

 七五調の起源

短歌の形式では、五七五七七と句を連ね、三十一字でつづります。 七音と五音が、どうして出来たかが謎でした。和歌というのが「やまとうた」と言われ、古来よりあったとされますが本当だろうかと思います。 音楽では二拍子は行進曲にあり、左右の足の動きと連動しています。三拍子はダンスで三角形のステップのようなイメージです。四拍子は四角形の移動のイメージです。多分、違うと思いますが、踊りに合わせた拍子は間違いないと思います。五と七ですが、3+2とか3+4とかの変拍子的なイメージになり、直感的ではありません。
謡曲では、一区切りを一六分割して、四拍の四倍にします。16分割の中で、7+5=12として使用し、残り4個は音を伸ばしたり、休止符的な使い方をするようです。仕方なくしてるようで変則的です。

五と七に結びつくものは何だろうと疑問に思っていました。

漢詩に五言絶句とか七言絶句とかあります。この数字と関係あるのかなと少し気になってましたが、そのことを書いている本を見つけました。 『カタカナの正体』山口謠司、河出書房新社 (2016/12/10)です。

52頁に、「漢詩はかっこいい!」として、

我が国で『古事記』や』『日本書紀』が書かれていた時代、東アジア世界の中心は中国であった。
国家としての独立性や威厳を誇示するには、中国に対してその力を見せつけねばならない。しかし、それを見せようとする時、まず必要なのは言語の力であった。当時すでに二千年以上の歴史を有して、非常に高度な文学理論などさえ生み出していた中国に対して、漢字を借りてようやく歴史や文字の表記方法を芽生えさせていた日本は、いまだ中国からの影響を逃れることができなかった。
奈良時代から「国風暗黒時代」と呼ばれる平安時代初期まで、我が国のエリートたちは、漢詩や漢文の素養を身につけ、そして中国人に評価される作品を書くことに熱中した。
そうすることが、日本の国力を中国に見せつけることになるからである。 ーーー以下、阿倍仲麻呂の例とか省略

和歌を書く伝統とは別に、漢詩を書くことは、当時、最も重要な才能であったのである。

続いて、「漢詩に見せかける技」として

さて、漢詩には、漢魏六朝の時代までに作られた古体詩と呼ばれるものと、唐代初期に完成された近体詩と呼ばれるものがある。
古体詩は、「四言古詩」「五言古詩」「七言古詩」に分類され、それぞれ一句の字数が四,五、七で書かれているというだけで、平仄《ひょうそく》や韻律に規則がない。
これに対して、近体詩は「五言絶句」「五言律詩」「五言排律」「七言絶句」「七言律詩」「七言排律」とあって、それぞれ一句を五字にするものと七字にするもの、また絶句は四句、律詩は八句、排律は十句以上の偶数句で構成され、句法や平仄、韻律には厳格なルールがある。
ーーー阿倍仲麻呂の漢詩については省略。

南朝宋の鮑照の古体詩の例があり、五七五七五七七七の形であって、これを速須佐之男命の歌と比較しています。こちらは五七五七七です。

このように並べてみると、一見、まるで漢詩のように見えるのではないだろうか。<ひらがな>も<カタカナ>もなかった奈良時代、日本語は漢字で書くより他に方法はなかった。しかし、五七の調べで書かれた和歌の音を一つずつ漢字で当てて書く万葉仮名の歌は、実は、まるで漢詩を書いているように見せかける技でもあったのだ。

中国語は、単音節のイメージです。漢詩とは親和性が高かったので漢詩に、日本語の音を当てはめ、取り込まれて和歌が成立したように思えます。

2023年2月23日木曜日

神功皇后と住吉大社

 住吉大社の祭神は、

現在の祭神は次の4柱で、4本宮に1柱ずつを祀る。
第一本宮:底筒男命(そこつつのおのみこと)
第二本宮:中筒男命(なかつつのおのみこと)
第三本宮:表筒男命(うわつつのおのみこと)
第四本宮:神功皇后(じんぐうこうごう) (ウィキペディア

ですが、もともとの主祭神の住吉三神に神功皇后が加わったようです。

社殿の配置からみると、神功皇后のみ別と感じます。 以下に配置図があります。

住吉大社 

住吉大社2 

第四本宮がいつのころか不明でしたが、神功皇后が藤原仲麻呂によって創世されたと考えれば、律令体制の初期に神社が整備されていき、仲麻呂の時代に追加されたことでつじつまが合ってきます。

住吉社は律令制下でも遣唐使との関わりが深く、『延喜式』祝詞[原 7]では遣唐使の奉幣時の祝詞に「住吉尓辞竟奉留皇神」と見えるほか[1][10]、『万葉集』天平5年(733年)の入唐使への贈歌[原 8]には遣唐使船を守る神として「住吉の我が大御神」と詠まれている(後掲)[1][10]。また、円仁は『入唐求法巡礼行記』において遣唐使船の船中で住吉大神を祀ったと記すほか、『日本後紀』[原 9]では大同元年(806年)に遣唐使の祈りをもって住吉大神に叙位のことがあったと見え、『日本三代実録』[原 10]では渡唐する遣唐使が住吉神社に神宝を奉ったと見える[10]。また、神職の津守氏からも遣唐使になった者があった。(ウィキペディア

住吉大社反り橋西詰め北万葉歌碑があり、藤原仲麻呂の歌があるように思いましたが、勘違いでした。丹治真人土作 巻十九でした。これは[歌番号]19/4243で、ひとつ前の[歌番号]19/4242が、藤原仲麻呂で、あとの[歌番号]19/4244が藤原清河となっていて、遣唐使、餞別の宴席での歌のようです。直接の関連はありませんが、藤原氏と遣唐使のつながりを感じます。

以前に栄山寺八角堂のことを書いてました。(興福寺と栄山寺の八角堂)ここは、藤原武智麻呂の没後、子の藤原仲麻呂が父の菩提を弔うために建立したと伝えるものですが、吉野川沿いにあります。変なところにあるなと思ってましたが、吉野川を下ると紀ノ川になり、海岸沿いを伝っていくと住吉社に至ります。藤原氏は遣唐使の道中に立ち寄る場所として便利なところに置いたのかもしれません。

2023年2月22日水曜日

藤原仲麻呂と神功皇后

 『日本書紀』に出てくる乙巳の変が、藤原氏の汚点である長屋王の変を正当化し、先祖の鎌足を貢献を強調したことになっています。大化の改新で評を郡にして、不比等の大宝律令の功績を示したのも藤原仲麻呂と考えると、ほかにも関与があると思われます。神功皇后にも疑いを持ちます。『日本書紀』は天皇の歴史を示しています。しかし、神功皇后は天皇ではありません。疑いの目で見ると、皇后の歴史を示すのは変です。つまり後から造作されたように思えてきます。今まで時系列で考えていて、持統天皇天皇がモデルととしてましたが、藤原仲麻呂の関与を考えると、光明皇后がモデルになります。当時では聖武天皇の摂政的な役割を光明皇后が果たしていたと考えて良い気がしてきます。

ウィキペディアでは

神功皇后(じんぐうこうごう、成務天皇40年 - 神功皇后69年4月17日)は、日本の第14代天皇・仲哀天皇の皇后。『日本書紀』での名は気長足姫尊で仲哀天皇死去から応神天皇即位まで初めての摂政として約70年間君臨したとされる(在位:神功皇后元年10月2日 - 神功皇后69年4月17日)。

以下に、実在したとすればと続きますが、まったく信用できません(八世紀の実在と考えると)。

神功皇后の事績として、三韓征伐があります。

三韓征伐(さんかんせいばつ)は、仲哀天皇の后で応神天皇の母である神功皇后が、仲哀天皇の没後新羅に出兵し、朝鮮半島の広い地域(三韓)を服属下においたとする日本における伝承である。経緯は『古事記』『日本書紀』に記載されているが、朝鮮や中国の歴史書や碑文にも関連するかと思われる記事がある。(ウィキペディア、三韓征伐より)

藤原仲麻呂も新羅と関係があります。新羅征討計画で、大がかりな新羅征伐の準備をはじめさせています。これなど、願望的なものとして、神功皇后の事績に取り込まれています。

神功皇后には近江の話が出てきます。仲麻呂も逃亡の最後は近江です。藤原氏とつながりがあるのも偶然ではなく、いろいろつながる話が多いように思えます。

2023年2月21日火曜日

候文

 謡曲で日本が文化的に統一されたと聞いたことがあります。たまたま、狂言で、ソーローと言ってるのを聞いたのですが、気のせいかもしれません。ウィキペディアでは

候文(そうろうぶん)は、日本の中世から近代、昭和戦前期にかけて用いられた、日本語の文語体の一型式である。文末に丁寧の補助動詞「候」(そうろう、そろ、歴史的仮名遣いではサウラフ)を置く。

歴史
「候」(古くはサモラフ、サブラフなど)は、元来、貴人の傍に仕える意の動詞であったが(「さむらい」もこれに由来)、平安時代に「居り」の謙譲語、さらに丁寧を表す助動詞に転じた。平安末期には現代語の「ですます体」のように口語で盛んに用いられたらしい(『平家物語』の語りの部分に多くの用例がある)。

鎌倉時代には文章としても書簡などに用いられ、文語文体として確立した。室町時代には謡曲(能)の語りの文体としても用いられた。この頃には、口語としては廃れたとされる(ただし「です」は「にて御座在り参らす」に由来するとされる)。 対照的に、文語としてはさらに普及し、江戸時代には、公文書・実用文などのほとんどをこの文体が占めた。

引用はここから


江戸時代には、文章で用いられたとのことですが、会話ではどうだったろうと思います。

狂言と候文で検索すると、以下が出てきました。

能と狂言の違い
能と狂言は、650年前に猿楽からはじまった兄弟のような関係であります。どちらかと言うと狂言が喜劇であれば、能は悲劇です。双方の異なる点というのは、狂言は「・・・でござる」というセリフ劇で、室町時代に主に庶民で使われていた口語の「ござる調」がベースとなり展開されていきます。能は、観阿弥・世阿弥のような作者がまず台本を作っているので、会話ではなく、文語の「候(そうろう)調」なのです。狂言は会話文が主なので演じられる時代によって少しづつ変化してきています。
一方、能は最初に書かれた台本通り変わらず伝えられてきています。(以下より

狂言では、「ござる」なので、違うようです。

しかし、徳川家康は大の能好きで、三代・家光、四代・家綱の時代に、能が幕府の公式行事で演じられる「式楽」として定着したようです。諸藩大名にも広まったとのことこと です。(以下より

江戸時代には、候文が、諸藩に能などによって伝達され、公式的な標準言語になっていったことはありえます。明治以降、幕藩体制からのバックアップがなくなって、それとともに、候文が使用されなくなったのとつじつまがあっています。狂言とかもヒアリングが苦しいですが、昔の人も必死に理解しようとしていたかもしれません。

2023年2月13日月曜日

「お」の発音

 昔に大阪の地名で小坂であったことを思い出しました。
 地名:大阪
小坂(おさか)→大阪の変化です。「を」から「お」になったような気がします。

以下に、上代特殊仮名遣いに関して「お」の変遷が書かれていました。 『知らなかった!日本語の歴史』浅川哲也、2011年8月12日、東京書籍の「上代特殊仮名遣いを発見したのは誰か」のなかで本居宣長の時代にすでに発音の違いは認識されていたとのことです。96頁、

本居宣長の師である賀茂真淵(一六九七〜一七六九)は『語意』(明和六年成・一七六九年)で、古代ではア行の「お」とワ行の「を」の発音が異なっていたとはっきり述べています。・・例文のところ省略・・ 同母兄弟であって、同居もされていた仁賢天皇(意計王《オケオウ》)と顕宗天皇(弘計王《ヲケオウ》)の兄弟の実名が「オケ」・「ヲケ」であるので、ア行の「オ」とワ行の「ヲ」の発音が同じであったはずがないという重要な指摘です。ちなみに「お」は接頭語「おほ(大・多)」、「を」は接頭語「を(小・少)」に通じるので、「お・を」の違いで兄弟の長幼を表すことができます。

あとの方では、117頁に、

ア行の「お」とワ行の「を」は、万葉仮名においては当然のことながら区別されていますし、平仮名・片仮名においても明確な書き分けがあります。ア行「あ・い・う・え・お」が母音の[ a i u e o ]であるのに対して、ワ行「わ・ゐ・う・ゑ・を」は頭音に半母音[w]のある[ wa wi u we wo ]が奈良時代以前からの本来の発音です。 しかし、一〇世紀後半になるとア行の「お」とワ行の「を」の発音上の区別がなくなりはじめ、一一世紀初めにア行の[ o ]はワ行の[ wo ]に合流しました。発音上で一音になってしまうと「お」と「を」の仮名遣いの混乱が生じます。・・・例文省略・・・・ また、一二世紀末〜一三世紀頃にワ行の「ゑ」([ we ])がヤ行の「え([ je ])」に合流し、ワ行の「ゐ」([ wi ])は[ w ]が脱落して母音の「い」([ i ])に合流しました。

『天草版伊曽保物語』の例があって、

室町時代の「え・ゑ・へ(語中五語尾)」は[ je ]と発音されていましたが、現代日本語では「え・へ(語中五語尾)」は母音の[ e ]で発音していますので、江戸時代の間に[ je ]が消滅し、母音の[ e ]がそれに交代したと推定されます。

室町時代の「お・を」はともに[ wo ]と発音されていましたが、現代日本語では「お」は母音の[ o ]であり、「を」も会話文中では[ o ]となっていますので、江戸時代の間に[ wo ]から両唇音の半母音[ w ]が脱落したと考えられます。

2023年2月9日木曜日

長屋王の変もろもろ

 長屋王の変は、今ではめちゃめちゃだと思いますが、当時の人も大事件と思っていたかもしれないということです。この事件の首謀者は藤原氏であったと考えられますが、最終的には聖武天皇の決断であったと思われます。そうでなければ藤原氏の処分とかすれば良いわけで、聖武天皇の意思であったと理解されます。とにかく、この事件は大きい影響をもたらしたような気がしてきました。聖武天皇の大失敗とするといろいろの事が説明できます。変に関わった藤原武智麻呂の子の仲麻呂は、藤原氏が主導したという汚名返上に、父の鞭麻呂にも聖徳太子の法隆寺の夢殿につながる不比等の八角の興福寺北円堂と同じタイプの八角堂を建立し、正統性を強調します。また『日本書紀』を改竄し、乙巳の変を作り出し、過去にも政変があったとします(今のところ、私の個人的な見解です)。 聖武天皇も危機感を持ったと思います。天武天皇が亡くなった後の後継者争いで大津皇子が排除されます。そして対抗馬の草壁皇子も若くして亡くなります。死因は不明ですが、大津皇子支持の勢力によって仕返しを受け暗殺されたのではとおもいます(これも個人的見解)。このことがあって、聖武天皇の東国彷徨につながります。東国と言っても、そのコースは壬申の乱の大海人皇子(天武天皇)のコースに似ています。聖武天皇や光明皇后の東大寺など仏教にのめり込むのも贖罪の意識があったためとも思われます。 正倉院展(第66回)で展示された仕込杖も暗殺をおそれていた遺品と思います(当時は儀礼的な刀を身につけていたのかもしれませんが)。 長屋王の変に対して、藤原氏の中でも、とらえ方に温度差があったと思います。長屋王の変に関与した藤原宇合も、そこまでとは思ってなかった可能性があります。宇合の子の藤原広嗣も、乱も起こし玄坊と吉備真備の排斥を求めています。これも、結局は聖武天皇に異を唱えていることになっています。